第6話 消えていた結界
ツノシカ村には出入口となる門がない。
かわりに、ツノシカ村には結界がある。
村の周囲を取り囲む木の柵がそれだ。
昔の話だが、この結界の外に出ると、最悪の場合、全ての記憶を失うか、よくても村の中であったことを忘れてしまうという呪いが掛けられていると言われる。
俺の親も、この柵を乗り越えたがために記憶を失い、俺のことを忘れてどこかで新たな生活をしているらしい。村人からそう聞いただけだから、本当かどうかは知らない。たぶん嘘なんだろうと思っている。
転生者の大量消滅事件というのもあったり、魔王に大勢の村人が同時に挑んで大量消滅させられた事件もあったりしたから、そのどちらかに絡んでいると俺は考えているけれど、生きていてくれるんなら、そっちのほうがいいな。
おっと、やや話が逸れたが、俺の言いたいのこういうことだ。
――もし村の中での記憶を失うのなら、村の中で生まれ育った俺が柵を越えたら、やはり全ての記憶を失うことになるのだろうか。
それはもう、死みたいなものだろう。
世界を救う旅に出るというのなら、これは解決しなければならない問題である。
そもそも、何故、そんな迷惑な柵があるのかというと、かつて見破る系のスキルを持つ転生者は権力者から疎まれ、迫害されて閉じ込められていたからだ。柵は、その名残である。
村の中で安い小船を買い取った俺たちは、舟を先に村の外に流してから、水路脇の柵の前で立ち止まる。
「俺が幼かった時に、村に久々の客が来たんだ。この隠された村に、数年ぶりの客だったそうだ。村の大人たちは、久しぶりだと言って再会を喜んでいたけれど、その香水くさい女性は、以前に村に来た時のことを忘れていたようだった。そのひとは酒が入ると非常に陽気になる人で、毎日のように村の大人たちと酒を飲んで盛り上がってた」
グレースは頷いて、静かに長い耳を傾けてくれている。
「夜になると、香水の人が、俺を寝付かせるためにベッドの中で色んな話をしてくれた。オリヴァーという英雄の話とか、大勇者たちの冒険の話とかが面白くて、すごく興味を持った。あんなにわくわくしたことは無かったな。
俺は眠るどころか、いろんな話をドキドキして聞いてたんだけど、その女の人はいつも先に寝てしまって、日によって話の結末とかが曖昧なまま終わってしまうこともあって、しかも次の日に続きを求めても、忘れてたり、全く違う内容になったりすることもあった」
長い話になっても、グレースは興味深そうに相槌を繰り返している。
「俺は、英雄オリヴァーのことや、たくさんの大勇者たちのことを、もっともっと知りたいと思った。
ずいぶん後になってからだな。機械仕掛けの伝言鳥を手に入れて、外の世界から本とか地図を集めて勉強したんだ。そしたら、酔っ払い女の話ってのがいかにいい加減なものかを知ることになったよ。
だけど、あの人は、読み漁った書物には書いていない細かいこともリアルに語ってくれていたから、きっといくらかは、本当のことを教えてくれてたんだと思う。根拠は薄いけど、何となくそう思うんだ」
「それが、オリヴァンが急に冒険の旅に出ようと思った理由?」
「急にっていうと、少し違うのかな……。ずっと思ってた。この柵をこえたら、どんな世界があるのかって。その世界を知ったら、オトナになれるんじゃないかって」
「ふぅん。その考え方でいくと、私のほうがちょっとだけオトナなのね」
そう言いながら、グレースは一切のためらいも無く柵をあっさり乗り越えて、手を伸ばしてきた。
記憶を失っている様子はなかった。
呪いは子供を外に出さないための嘘だったのだろうか。それとも、呪いはあったけれど、すでに効力を失っているのだろうか。あるいはグレースのような別世界の人間には発動しない術式なのか。
まあ、考えてみれば、村人の中には、外の町で商売をしている者も何人かいるのだから、もう呪いなんてものは無いってことなのだろう。
それでも、俺にだけ発動したらどうしよう、なんていう悪いイメージが脳内に広がってしまう。
そんな想像を溶かしてくれたのは、やはりグレースの優しい声だった。
「私のロウタスにもね、都市を守る城壁があった。吹き荒れる氷や吹雪から守ってくれる頼もしい壁だった。私はそこをくぐり抜けて旅に出たの。だから、少し先を行っているオトナな私が、あなたを外に連れて行ってあげる」
平気なふりをしていて、声色には強さがあったけれど、ほんの少しだけ、言葉の行間から不安や恐れの感情が見て取れた。
ああそうか。俺が彼女を外に連れて行くつもりになっていたけれど、そんなに頑張る必要はないのかもしれない。
ここから先の大地は、二人とも初めて踏みしめるのだから。
そんな風に考えて、とても気が楽になった。
勇気をもらった俺は、グレースよりも力強くジャンプし、柵を軽々と飛び越えた。それから彼女の手を深く握った。
「行こう」
なんだか恥ずかしいような嬉しいような気持ちに襲われて彼女の顔を見れなかったから、その時グレースがどんな顔をしていたのかわからない。けれども、きっと彼女は柔らかく笑いながら頷いてくれていただろう。何となくそう思うんだ。
出会ったばかりだけど、グレースとは深く通じ合えているような、そんな感覚があった。
四人くらいが乗れそうな小舟に乗り込んで、二人で川を下っていく。