第56話 魔神の飛翔
闇の紅炎龍の炎ブレスでできたトンネル。そこを進んだ果てに見えたのは崖だった。
赤みがかった岩でできた巨大な茎の途中に横穴ができた形になるため、紺色の空は見えるし、ある程度の明るさは感じるけれども、大して景色はよくはない。
見上げれば、キノコの傘のような根のロウタスの裏側が見えるのみ。見下ろした風景に至っては、霧がかかっていてよく見えない。下は水たまりか、砂地か、もしくは岩場だろうか……。いずれにせよ、落ちたら命は無いだろう。
「――さあ、おぬしら、龍の背に乗れ」
闇の紅炎龍は頭に響く声で語り掛けてきて、俺たちは次々に飛び乗った。翼は熱を帯びているようだったけれど、思ったより広い背中は、意外と冷たい。グレースが最後に飛び乗るときに、
「龍っていうか、あなた、どっちかっていうと鳥よね」
「――おぬし、途中で振り落としてやろうか」
「あら、最高に褒めてるのよ。私は鳥が一番好きなの。憧れよ。私も、鳥のように、どこにでも自由に飛んでいけたらいいなって……なんて、これも現実逃避なのかしらね」
「――おぬしならば、鳥にもなれよう。その前に、やるべきことがあるじゃろうがな」
「あなた、不思議よね。まるで、私の過去も未来も視えているみたい。魔神の力ってやつなの?」
「――そうじゃな。どうも儂らは、『境目の管理者』の力の一部を使えるらしい。未来予知も過去視も、この世界すべてを見守っていた存在が持っていた、力の残滓みたいなものじゃろ」
「あなたは、この世界の秘密を知っていそうね」
「――全てではないが、おぬしらよりかはな」
「じゃあ、一つ教えて。私たちが祭壇に火を灯したことで、本当に世界を救うことができたのかしら」
たしかにそれは、俺も気になることだ。
「――然り。あと少し遅ければ、『境目の管理者』の意志は死を迎え、この世界が一瞬のうちに消滅していただろう」
俺たちの旅には、確かに意味があったのだ。地味な奇跡は、ちゃんと起きていた。
「なんだか実感が湧かないのよね。『境目の管理者』って誰なの? 私の世界に古文書を残してくれた予言者のひと?」
「――そうではないな。強いて言うなら、誰でもないし、誰でもある」
「どういうこと?」
「――儂も確かなことは言えぬ。少なくとも、予言者として全てのロウタスをめぐり書物を残していったのは、別の世界からの転生者であって、『境目の管理者』とは別じゃ。もっとも、その予言さえ本人のものではなく、旅の同行者の者の能力だったようたがな」
「よくわからないのだけれど、世界を救った私たちの行動っていうのは、予言によって先に決められていて、私たちはその運命みたいなものをなぞっていただけということかしら」
「――そうかもしれんが、そうではないかもしれん。ただ、儂は、あらかじめ決定されただとか、操られていただとか、そんな風には絶対に思わぬ。儂がグレースを気に入ったのは、予言されたからでは無い。
おぬし自身が、儂の問いに答えるため、恐怖をのりこえ、真剣に自分と向き合ったからじゃ。たかだか命をかけて世界を救いに来た愚か者というだけでは、力を貸したりはせぬわ。自分の力で勝ち取った結果に誇りを持つがよい」
「そうね……。ありがとう」
話が一段落したところで、巨大な怪鳥、じゃなかった。巨大な闇のドラゴンの背中から、ふわふわとした毛が急に伸びてきた。その柔らかくしなやかな毛が、俺たちの手足や胴体に絡まっていく。やがて落ちないようにしっかりと固定された。
「――では、飛ぶぞ」
魔神は一度羽ばたいただけで、上空高くに飛翔した。
身体が仰向けに傾いた。強い空気抵抗で、押しつぶされそうになる。流れてゆく視界。途中までは、これまで俺たちがいた根のロウタスの茎が見えていたが、すぐにそれも見えなくなった。
前に座るタマサの髪が目の前に広がり、五つの耳飾りがぶつかり合って、かちかちと音を立てている。
ザミスが恐怖を紛らわそうと悲鳴を上げているのを耳にして、タマサがザミスの手を握ってやっていた。
それを見た俺も、隣に座るグレースの手を握ってやった。白銀の髪を逆立たせた彼女は、長い耳を下に垂れ下げて、辛そうではあったけれど、安心した表情で微笑んでくれた。
ついさっきまでいた赤土の地表が見えた。壁画師たちの作業場では、丈夫そうな大きな籠で、宝石だろうか、掘り出した綺麗な石を運んでいる姿があった。俺たちの乗って来た舟に石たちを次々に入れているようだが、何か新しい掟でもできたのだろうか。
魔神の飛翔は加速度を増していく。
しばらく息をするのもキツい時間が続いたが、やがて身体の向きがまっすぐに戻り、押し付けてくるような風圧が、そよ風に変わって、ザミスの悲鳴もなくなった。
これまで直上に向かって急上昇していたのが、横向きに飛行しながら高度を上げていく段階に変化したのだ。
「すごい。高いわ」
嬉しそうなグレースの声。景色に感動できる余裕が出てきたようだった。
グレースの言う通り、経験したことのない優雅な飛行であり、その風景は、息をのむような美しさだった。
青い空に、いくつもの柱が伸びている。上から見えるロウタスもいくつかあり、それらは、さまざまな形に花開いている。
振り返れば、俺たちの灯した細長い火が、相当高くまで伸びていて、天の果てまでも貫いているかのようだった。
あらためて、自分たちの達成した大仕事をみると、感慨深いものがある。
しかし、そのまましばらく昇っていくと、ただ美しいだけの景色ではなくなった。
枯れて乾いた向日葵のように、頭を垂れた形になり、明らかに生命力を失っているものが幾つか見えた。
成長を続けた茎が、いずれ辿り着く滅びの姿だ。
五つか、六つか、世界の残骸を見下ろしながら飛龍は大きく旋回し、やがて、一つの崩れかけたロウタスに降り立った。
かくっと直角に近い角度で折れた首の部分に着地した。
俺たちに絡みついていた長い毛も、しなやかさを失い、消滅していった。全て解かれたので、俺は先に降りて、タマサ、ザミス、グレースが安全に着地できるよう、順番に手を差し伸べてやった。
ふわりと降り立ち、グレースはしゃがみ込んだ。鳥の飛行に乗り物酔いしたとか、そういうわけではない。俺がみてもわかるほどに生命力のかけらもない地に手を触れるためだ。
硬質化した色あせた地面から魔力を感じ取ろうとした後に、グレースは、はっとして言う。
「まさかッ、ここが私のロウタス……もう滅びてしまったというの?」
すかさず闇の紅炎龍が、
「――落ち着け愚か者よ。軽き者が多いとはいえ、大人数を乗せて飛ぶのは、思いのほか疲れるものじゃ。ここは、ただ休憩で寄っただけじゃよ」
「そう……よかった。けれど、いずれ私の世界も、こうなってしまうのね」
「――避けられぬことじゃ。古文書は正しく、予言も正しい。おぬしらの炎のおかげで、束の間の青空が見えたことじゃろうが、それは吉兆でも凶兆でもない。ひとつひとつの世界に、滅びはいずれ起きる。そのことを人々に伝えるのが、グレース。おぬしの次の試練じゃ」
「ええ」
グレースが力強く頷くのを見て、俺は嬉しくなった。
魔法の特訓では、心が折れそうになっていたけれど、前を向いて突き進む姿は、やっぱり輝いて見える。
けれど、ふと思う。俺は彼女の本当の笑顔を見たことがないのではないか、と。
闇の紅炎龍の、いくつも声色を変えて放った彼女を責める言葉たち。
時に両親、時に学友、時に魔法の先生。グレースの生まれ育った吹雪に覆われたロウタスでは、いつも責められるばかりだったのかもしれない。獣であるリールフェンしか友達がいなかったとも言っていた。
いつも柔らかく微笑むグレースは、とても美しく、でも思い返してみると、どこか寂しそうだった気がした。
もしもグレースが本当に心から笑う日がくるなら、それはきっと、最後の試練を乗り越えた後なのだろう。
これまでのグレースの人生を想像すると、次々に試練ばかりが襲っている過酷な旅のように思えるけれど、最後には、みんなで嬉し泣きをして、本気の笑顔で終わりたい。
俺はそんな風に思い、空を見上げた。
スキルが発動した。
淡い水色の空に映し出されていたのは、グレースの過去……ではなかった。ザミスの過去でもタマサの過去でもない。リールフェンや闇の紅炎龍の過去でもない。
グレースのことばかり心配していたが、その映像は、他でもない、俺が乗り越えなければならない試練かもしれなかった。