第5話 ロウタス
カノレキシ・シラベール博士によれば、この世界全体の構造は、ワイングラスと言ったらいいのか、漏斗状と言ったらいいのか、そういう先端がふくらんだ形状の大地がいくつも伸びていて、それらは根っこのところでは全て繋がっているのだという。
まっすぐ伸びた茎は、今この瞬間も上に向かって伸び続けていて、マリーノーツという大地は、その茎の一つにすぎない。
このひとつひとつの茎の上に広がった大地を、博士は「ロウタス」と名付けたのだという。
地図の端に描かれたワイングラスが並んだような図を説明したとき、グレースは感心するように頷いていた。
「古文書で使われてるロウタスっていう言葉と、全く同じ使い方なんだね」
偶然の一致とは思えない。
俺の世界とグレースの世界、どちらのことも知ることのできる人間が書き残したのだろう。
「グレースの持って来た古文書っていうのは、何なんだ?」
「簡単に言うと、予言書よ。タイトルは、『マリーズノート』っていうんだけど」
「そんな書名は聞いたことないな」
グレースは分厚い紙束を取り出して、地図の上にどんと置いた。
「古代語を私が訳したわ」
「ほほう」
ところどころ茶色く汚れた紙束をめくってみる。湿った紙の上に、丁寧な文字がぎっしり並んでいた。
これをグレース一人でやってのけたのだとしたら、どれだけの歳月をかけて、この翻訳を作ったのだろう。
気の遠くなるような努力の姿が目に浮かぶようで、それだけで鳥肌が立った。
「私の世界はね、滅びかけているの。それが、私がこの世界に降りて来た理由」
「さっきも言ってたな。空が白くなるってやつか」
「ええ、みんなが気付かないなかで、私一人が知った滅びの兆候」
その言葉の後、続けて放った言葉がだんだん震え出した。
「本当はね、私ひとりで来るはずじゃなかったの。私の世界の皆と一緒に来るはずで……でも、誰もついてきてくれなかった……」
ついには目に溜まった涙が、ぼろぼろと流れ始めた。止めどなく。
「お父様も、お母様も、誰もマトモに取り合ってくれなかった。世界が滅ぶかもしれないのに、私の事を変な人あつかいして、他のみんなにも『別の世界なんてあるはずがない』なんて笑われた。本当に腹立たしくて悔しかった。ちゃんと古文書は本当だって証明してやるつもりで、ここまで来たのよ。……ざまあみろ、ちゃんとマリーノーツはあったじゃん」
自分の正しさが証明された。誰にも信じてもらえなかった。そんな世界でも救いたいと思った。
湧きあがった安心の気持ち、思い出して悔しい気持ち。
さまざまな感情が彼女のなかで渦巻いているようだった。
それが涙という形となって、次々に流れ出し、そのままにしておいたら川にでもなってしまいそうだ。
彼女の澄んだ瞳が好きだった、笑いながら緑の中を転げまわる姿が好きだった。
泣き顔も悪くはないけれど、どうかその涙を止めたいと思った。
だけど、ツノシカ村から出たこともない俺が、彼女の涙を止める手助けができるんだろうか。
何とかしてやりたいと思うんだよ。どうにかして助けてやりたいと思うんだよ。
でも、考えるほどに俺は何にもできなくて、今までただ世界に……見も知らぬ他人に生かされていただけのちっちゃな存在だったことにさえ、つい最近まで気付けずにいた。
ひとりで世界を救おうとしている彼女が、呪いみたいに重たい使命を背負いきれずに傷ついたり苦しんだりすることにも、このまま見て見ぬフリを決めていくつもりなのだろうか。
なお、おい、待てよ。
それはあまりにも、情けない。
かつて、この世界の危機を救ったオリヴァーという英雄は、仲間とともに強大な呪いに立ち向かい、ついには全ての魔王を滅ぼしたという。
彼女は今、伝説のオリヴァーのように世界を救おうとしている。だったら俺は、オリヴァーの仲間たちのようになるべきなんじゃないのか。
時に彼女を守り、時に彼女を導き、時に彼女に助けられ、どうにもならないときには、消滅の運命をともにするような……。
これから沢山できるであろう、彼女の仲間の第一号になるべきなんじゃあないのか。
――世界を救おう。
俺の十五の誕生日に、近所のおばちゃんが言った「世の中のためになる男になりなさい」と。続けて、「人知れず世界を救った伝説のオリヴァーのようになってくれたら素敵だけど、それは荷が重いかも」などと笑った。その人はかつて冒険者だった。
俺を育ててくれたじいちゃんは、「誰か一人を助けられたら、笑っていなくなれるもんだ」と言った。それから、「全力で生きろ」と笑った。
今にも折れそうな彼女を見つめ、手を重ねた。
まずは二人で呪いを引き受けよう。
彼女とともに、彼女の世界を救えたなら、それはきっと、このマリーノーツという世界を守ることにも繋がることだろう。なんとなく、そう思う。
二人で、俺たちの明日を守るんだ。
「行こう」
木の扉を押し開ける。
果てがあるかもわからない旅路に、俺たちは踏み出して行く。