第2話 悪魔の地底湖
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一瞬、意識が飛んでいた。
いや、それが一瞬だったのか、数秒だったのか、あるいは数十秒だったのかわからない。水を飲んでいないところからすると、そんなに長いこと気を失っていたわけではないと思う。
俺はうつ伏せに水に浮いていた。彼女の手を握りながら。
運よくパニックにならず、立ち泳ぎで体勢を立て直して水面に顔を出すと、曇った視界に女の子もうつ伏せに冷たい水に浮いているのが見えた。背中に背負った革製の大きな鞄が水に浮いていて、それに引っ張られる形だろうか。
見上げれば、はるか遠くの小さな穴から青い空が見える。
あの高さから水面に落ちて無事で済んだのは奇跡的だった。浮き上がる要因は何だったのだろうか。
「おっと、考え事をしてる場合か」
うつぶせに水に浮いているということは、息が出来ない状態だ。水を飲んだら危険だし、一刻も早く助けないと。
落ち着けと自分に言い聞かせながら、彼女を仰向けにひっくり返し、岸まで引っ張っていく。
水を吸った服のせいだろうか、ものすごく重たい彼女を何とか引っ張り上げて、額のしずくを拭った。
顔にかかる白銀の髪をどかして、濡れた頬に手を触れる。
呼吸はあるようで、起伏の少ない胸が上下しているのが、もこもこした服の上からでもわかった。
「生きてる。よかった」
幸運だったかもしれない。彼女は水に叩きつけられたあとしばらく、無意識に呼吸を止めていたようで、水を飲んだりもしていないようだ。ベッドがわりの平たい岩の上に寝かせて、しばらく眺めてみる。
「それにしても、ずいぶん厚着だな。この暑い季節に」
背負ったものを外し、濡れた肩を叩いてみたが、返事は無い。怪我は無いようだし呼吸はあるから、大丈夫だと判断できる。
「あと、この尖った耳は、どう見たってエルフだよな……」
興味をもって耳に触ってみたところ、不快そうに身をよじったので、慌てて手を離した。
「エルフさーん、大丈夫ですかー?」
返事は無い。
もこもこの防寒具を脱がせてやる。しっとり冷たい防寒具の下には、白っぽい上着があり、それをさらに脱がすと、青い服があらわれた。
「白銀の髪に青い服か。ハーフエルフかな」
混血のエルフは青い服を好んで着るらしい。村の外に行ったことはないけれど、本で読んだから知ってるんだ。
「にしても、これからどうすれば良いんだろうなぁ」
深い穴をひたすた落ちてきたこの状況ってのは、かなりピンチなんじゃないのか。村の人も水汲み場までは探しに来ても、この呪われた悪魔の洞窟には近付きたがらないだろう。
俺がいなくなったところで、大騒ぎになることは期待できない。いつも「いつか時が来たら村の外に出たい」みたいなことを周囲に漏らしていたからな。唯一の家族である、じいちゃんも「ついに旅立ちよったか」とか呟いて遠い目をするに違いない。
仮に、死んだことにされたとしても、あっさり葬儀っぽい儀式があげられ、すぐに解散で終わりだ。
むかし異世界からこの世界に来ていた転生者という種族は、命を落とした者への祈りをささげ、その者が生きた証として墓というものを建てたらしい。でも、この世界では英雄や大勇者にでもならない限り、墓なんてものを建ててもらえないのだ。
いや、だめだ。弱気だな。死んだ後のことなんか考えるべきじゃあない。
なんとか遠くに光る豆粒みたいな穴の向こうまで行かなくては。生まれ育ったツノシカ村に帰るんだ。
「空飛ぶスキルでもあればいいんだけど……」
あいにく、俺には何のスキルもない。天空から降ってきたエルフの女の子ひとり助けられない。
ひどく情けない話だ。英雄や勇者には程遠い、ただの弱い男で、嫌になる。
何で俺にはスキルが無いんだろうか。ツノシカ村に暮らす人には、スキルを持った人間も多いというのに。
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遠い穴から見える青い空。生き物のいない洞窟。清浄な地底湖。岩ばかりの風景にも飽きて来たところで、彼女が声を上げた。
「んぅ……」
ゆっくりと目を開き、また閉じた。
「大丈夫か?」
彼女の頭の横に座り込み、声をかけると、彼女は水晶のように輝く瞳を見開いた。
「ここは?」
言葉は通じるようだ。
俺は彼女を安心させるべく、深く頷いてから答える。
「ここは、ツノシカ……の地下にある湖だ。湖と言うには、少し小さい気もするけどな」
「そう……死後の世界というわけではないのね……ツノシカ……たしか、古文書にあった隠し村……よかった。ちゃんとマリーノーツのある世界に来られたのね」
「確かに、この世界はマリーノーツっていう名前だな」
「あなたは? 私の上着が脱がされているけれど、私に何もしてないわよね」
「いやいや、俺は怪しいもんじゃない。君が空から降ってきたから、助けようとして一緒に落ちた。どうしてくれるんだ」
「あ……」
彼女は勢いよく立ち上がり、座る俺を青空のように澄んだ瞳で見下ろしてから、頭を下げた。
「ありがとう。助けてくれたのね」
「助けられるかどうかは、まだわからないからな。地上に戻ってからもう一度礼を言ってくれ」
「どういうこと?」
「この地下深くに来るのは初めてでね、帰り方がわからないんだ。遭難ってやつだ」
「王都マリーノーツに行くには、どうすればいいの?」
「ん?」
今の質問には、おかしな点が二つくらいある。
急ぐ事情があるのかもしれない。けれども、生きて帰られないことにはどうしようもないだろう。だから、この地底湖から地上に戻ることを目的にすべきだ。これが一つ目。
それから、王都マリーノーツってのは、かなり昔に栄えていた都市で、魔王によって焼け野原にされてしまったと記録されている。今では再建された祭壇があるだけの場所のはずだ。実際に見たことはないけれど、本にはそう書いてあった。これが二つ目だ。
なんとなく見下されているような感じがするのは三つ目だが、これは気のせいだと思いたい。
とにかく、慌てて行動したら、助かるものも助からないんじゃないかと思う。
「まずは落ち着いてくれ。俺はオリヴァンっていうんだ。君の名前は?」
「……グレース。私はグレース。私たちの世界を救うために、違う世界から来ました」
毅然とした声で彼女は言い放った。本気で言っている。強い覚悟が読み取れた。
「えっと、何を……救うって……?」
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しばらくの間、彼女はずぶ濡れになった大きな荷物から次々に中身を取り出し、びっしりと文字が書かれた紙束を抱きしめたり、くすんだ輝きを放つ王冠のようなものに感謝の言葉をささげたりしていた。
荷物の無事を確かめているようだ。
俺はその光景を、さっきまでグレースが寝ていた岩場に座りながら眺めていた。
すべてをチェックし終えた時、感謝のしるしだろうか、俺にパンのような食べ物を手渡してくる。
「なんだ、くれるのか?」
「こんなこともあろうかと、防水の鞄にしていたのよ。水に濡れてはいないわ。口に合うといいのだけれど」
遠慮なくもらっておこう。
パンのような味がする。でも、パンにしては、ふわふわしすぎている。焼き方が違うのかもしれない。
「でも、うまいな」
よかった、と彼女は笑った。
屈託のない素直な笑顔。薄暗いはずの地下洞窟なのに、純粋な明るさを感じた。今は絶賛遭難中でものすごくピンチだけど、これから先は全てが上手くいくような、そんな気分にさせられた。
やはり食事とは偉大である。
さて、荷物の整理を終えた彼女は、俺の前に腕組をして立った。
「そういえば、オリヴァン」
やっぱり、なんだか偉そうだ。ついさっき自己紹介を交わしたばかりだというのに、いきなり呼び捨てとは。
「なんだよグレース」
負けたくないので、呼び捨てで返すと、彼女は一瞬だけ表情を曇らせた。
すぐに気を取り直して彼女は言う。
「私と一緒に可愛い動物が落ちて来なかった? 私を乗せられるくらいの、大きなオオカミというか……イヌなのだけれど」
「イヌ型の獣は見てないな。落ちて来たのはグレースだけだった」
「そう……」
「心配そうだな。友達なのか?」
彼女は頷き、
「あの子がいてくれたら、氷の魔法で簡単に上に行けるのに」
「氷魔法……ね。そういえば、エルフの中には魔法が得意な人が多いらしいな。英雄オリヴァーの仲間にも、最強の氷使いがいたっていうし……」
と、そう言った時、グレースは暗い顔をした。なんだか申し訳なさそうだ。もしかして、言われたくないことを言ってしまったのだろうか。
「私、ほとんど魔法つかえないの……ごめんなさいね」
「い、いや、大丈夫だ、期待してたわけじゃない」
「その言い方も、少し腹が立つわね」
「どうしろっての」
「全く使えないわけじゃないのよ。指先に小さな炎を灯すことだけは出来るわ」
「それだってスゴイじゃないか。実は俺、魔法って見たことないんだよ。見せてもらっていいか?」
すると彼女は頷いて、人差し指で、虫でもとまりそうなくらいに、ゆっくりと三角形を描きながら、
「――掠め取られた炎に非ず、地底に叫ぶ業火に非ず、清き我が煌きを以って、層雲を散らし、澄み渡る殻に見えん」
呪文詠唱というものだろうか。本でしか読んだことはないが、かなりの迫力がある。
心なしか、周囲を熱気が包み込んでいる気がする。
「……マクシマムフラム!」
技の名を言い放った時、ぽっ、と小さな炎が彼女の手のひらに灯った。
長い呪文のわりには、かなり地味な気がする。調子が悪いのだろうか。
「今日は調子がいいみたい。というか、私の魔力上がってる? すごくない?」
すごいと言えばすごいけれど、あんな長い呪文を唱えたんだから、もう少し強い炎が出てくるものだと思った。
「しかも、見て。こんなに長く持続できるなんて。風に吹かれても消えてないなんて!」
「そうだな、すごいな」
思ってもみない言葉を返した。だって、ここで彼女を傷つける理由もないだろう。
「うれしい。火力も持続時間も、最高記録だわ。ああ、マリーノーツに来てよかった」
涙ぐんで言うほどのことなのだろうか。
と、そこで俺はハッと閃いた。
「風に吹かれても消えない……ってことは、風がある?」
地下深い洞窟に風が吹いていて、しかもその風は頭上の穴に向かって吹いているわけではなかった。炎は横向きに揺れている。
風の行方を追えば、そこに道があるかもしれない。
人が通れる道ならば、その先に、ツノシカへ戻るための出口があるはずだ。
「グレース、君は最高だ」
「この短時間でよくわかったわね。褒めてあげるわ」
かなり調子に乗っていた。小さな炎が消えないでいることが、よほど嬉しいようだ。