第1話 空から来た少女
白い息を細く吐きながら、少女が小さな手で靴紐を結んでいた。
雪の上でも滑らない、底の分厚い靴だった。
少女は神聖とされている青い服の上に、もう一枚白っぽい上着を羽織り、さらに魔力を帯びた白い鳥の羽根でつくった防寒着を羽織る。
薄暗い倉庫に安置されている本物の王冠は、装飾用の偽物とは違ってずっしりと重い。デザインは質素そのもので、みすぼらしくさえある。
「これと、あとは……」
呟きながら自分が翻訳した古文書の紙束を詰め、続いて十分な保存食を詰め込んだ。丈夫な革で作った鞄がいっぱいになった後で、質素な王冠を滑らかな青い布にくるんで、丁寧な手つきで一番上に置いた。
膨れ上がった鞄の口をしっかりと縛ったあと、両手で自分の頬を叩く。
「よし」
小声とともに歩き出そうとしたところで、白い毛並みをした生き物が倉庫に入って来た。ゆったりと歩み寄ってきたのは、オオカミと呼ばれる犬型の獣だ。かなり大きく、人間を乗せて走ることもできる。
立ち止まって中腰になり、彼女はオオカミに静かに語り掛ける。
「嗅ぎつけられちゃったか。あなたには、隠し事はできないみたいね」
優しく撫でる細い指に、気持ちよさそうに目を細めていた。
「ねえ、リールフェン。私のことが心配?」
オオカミは返事をしなかった。けれども、彼女はオオカミの仕草を見て、その気持ちを感じ取った。
「それなら、一緒に来る?」
石造りの建物から出て、しばらく歩くと城壁がある。雪や風から町を守ってくれている偉大な壁だ。そこに近づいた時、冷たい風が彼女の長い耳を襲い、暖かい耳あてを慌てて装備した。
城壁の地下に掘った無人のトンネルを抜ければ、視界は真っ白。
白銀の髪に、まつ毛に、分厚い白い服に、あっという間に氷雪が積もっていく。
打ちつける吹雪はあまりにも過酷で、自分が小さくて弱いことを痛いほどに教えてくれる。
「それでも、私は行かなくちゃ。もう私がやるしかないんだから」
深く深くフードをかぶり、オオカミとともに歩き出す。
一度振り返り、壁の向こう、丸い屋根の上にある鳥の装飾を見つめながら、
「お父さん、お母さん、ごめんなさい」
そして生まれ育った場所に再び背を向けて歩いていく。
雪に深い足跡がつけられ、吹きすさぶ雪と暴風ですぐに消されていった。
★
「最近は、晴れの日が増えたな」
ふと感じたことを口にした時、俺は水汲みをしていた。
森の中には神聖とされる滝がある。滝である以上、まったくの無音というわけではないが、滝にしては、とても静かな滝である。外の世界にある滝は、もっと大袈裟な音を立てているらしい。
静かに落ちていく水がどこに辿り着くのかというと、地下深くの地底湖だという言い伝えがある。水が地面を叩く音を聞いた者はいないだとか、その音を聞いた者は命を奪われるとか、悪魔の洞窟だとか、色々言われるけども、とにかく控えめな音を立てて穴の底に落ちていくことから、音無しの滝と呼ばれている。
俺の役目は、この滝から桶に水を汲むことだ。自宅にある大きな樽に水を溜めるために、毎日欠かさず往復している。毎日新しい水に入れ替えないといけないのだ。
ここは、かなり危険な場所で、苔むした足場を踏み外したりしたら地の裂け目に真っ逆さま。運よく地底湖に落ちたとしても、二度と上がって来られないという言い伝えもあるほどだ。
だから、何度も水を汲んでいるとはいえ、慣れた気になってはいけない。慎重に動くべき場所だ。
何せ、滝の裏に回って桶を差し出すという原始的な方法でしか水を汲めないのだ。
たとえば、もっと安全で楽な方法で水を手に入れようとするなら、滝になる前の、村の外を流れる川から水を引けば良いんじゃないかと思う。
でも、言い伝えがある。この滝は神聖なのだ。この滝から水をくむことに意味があるのだ。
そもそも雨の多いこの村では、外に桶を置いておけば自然に溜まるので、生活のために水を汲む必要は無いしな。
それに、川から水を引くということは、村の外に出るということを意味する。村は質素な柵に囲われていて、村人はその先に足を踏み出してはいけないのだ。これも言い伝えだ。
理由なんて、よくわからないけれど、破る理由もないから、特別な理由がない限り、多くの民がこの伝統を守り続けていた。
外の世界への興味ってのは、もちろんある。幼い頃に聞かされた旅する勇者だとか、世界を救った英雄の話なんかには、人並みに……いや人並み以上に憧れている。
いつか自分も外に出てみたいと思いながらも、柵の中での水汲みを毎日毎日繰り返していた。
単純なようだけど、この村じゃ、誰にでもできる事ではないしな。
さて、その朝、何度目かに水を汲みに来た時に、それは来た。
歩み寄ってきたわけではない。駆け寄ってきたわけでもない。暗い地の裂け目から顔を出したわけでもない。
空から降ってきたのだ。
白っぽいものが、猛スピードで落下してきている。
「鳥? いや、え、あれは――」
人だ。
どうやら人間のようだった。
俺は桶を投げ出した。落ちて来た人を受け止めるためだ。
生きているのか死んでいるのかなんて、そんなことを気にしている暇なんてなかった。ただ人が落ちてくる光景を目の当たりにして、自然に身体が動いた。
ジャンプして、裂け目の上で抱きしめることに成功した。
次の瞬間には後悔した。
「――ッ」
まず痛い。すごい衝撃だ。全身が千切れそうだ。それから重たい。そしてどう頑張っても二人で仲良く落ちてしまう。
助かるための行動は、もう何も出来ない。
ただ危険な場所だと伝わる地の裂け目へと落ちるしかない。
目を閉じたくなる。手放してしまいたくなる。
違う。それは、勇気のないことだ。
勇者や英雄に憧れている人間のすることじゃない。
流れていく視界。近づいてくる地底の闇。
黒くて暗くて、おそろしい。
英雄だったら諦めるか? 勇者だったら目を閉じるのか?
そうじゃないだろ。
最後の瞬間まで、なにか希望を探すんだ。
俺が抱きしめているのは、どうやら女の子のようだ。季節はずれの厚着をしている。
衝撃に強そうなモコモコの服だったから、姿勢を入れ替えてこの女の子をクッション代わりにすれば自分は助かるんじゃないか……などという邪悪な思いが頭をよぎる。
「だめだろ、そんなの!」
自分の弱さを吐き出すように声をあげ、どんどん迫ってくる闇の中を見つめる。
ほんのすこしの光が見えた。
まったくの闇ってわけじゃない。やはり希望はあるんだと思った。
「水?」
そこにあったのは、水面だった。水面に光が反射して揺れていた。
なるほど、滝の水の終着点。
地底湖があるらしいという話は聞いたことがあった。
ちゃんと実在していたのか。言い伝えは無意味ではなかったようだ。
でも、この言い伝えには、たしか、滝が水に落ちる音を聞いた者は死ぬだとか、悪魔が住み着いているだとか、地底湖に落ちた者は二度と地上に戻れないだとか、そういう話もあった。
滝の水がもはや水滴になり、霧になり、形を失うほどの距離を落ちてきた。このスピードで岩場に落ちたら助からないだろう。湖面に叩きつけられたとしても、どうなるか。
せめて、転生者という種族だったら、スキルが使えたり、身体が丈夫だったりするから無事に済むんだろう。
よく見たら、この少女は、何か大きな荷物を背負っているようだから、その中に不思議な力を持った秘宝とかが入っていて、謎の力が働いて無事で済んだりしないだろうか。
そんな甘い話は無いんだろうな。
知ってる。人生はそんなに甘くない。同じ村に生きた人々から、色々な話を聞いてきた。普通の人の人生は悲しみの連続だ。あと、どんな英雄の人生もそれなりに試練だらけなのは、本で読んだから知っているんだ。
もう、祈るだけ。
――運よくいい角度で湖に突っ込めますように。
――この湖が毒とか呪いの無いキレイなものでありますように。
――この勢いで突っ込んでも平気なほどの深さがありますように。
祈った後で、後悔した。
三つぐらい願い事を並べ立てたら、それが全て叶えられるのは奇跡のようなものなんじゃないか。
一つだけにしておけばよかった。
ああ、やり直すにはもう遅い。
「うわあああああああ!」
俺だけの叫び声の中で、勢いよく水に突っ込んだ。
小さな彼女を抱えながら。