「腐球」
この物語が非現実なのか、それと現実になって行くのか。宇宙の意志とは何か。それが解き明かされてゆく。そして、生と言う時間を与えられた意味を知る。
「腐球」(ふきゅう)
西暦20X1 秋
モントリオール大学、フレスキー教授研究室にショウは在籍していた。
ショウはいつものように誰も居ない学食で遅いランチを食べていた。プレートの上にはベーコンと野菜のサンドイッチ、そしてホットコーヒー。これは食の細い彼にとって、ほとんど1日分の量であり夕食を食べる事は少なかった。
すでに秋の季節を迎えたモントリオール大学の構内はどこもかしこも落ち葉で覆い尽くされている。そんな窓の外の風景をぼんやり眺めながらサンドイッチを少しづつ口にする。ゆっくりと何度も口の中でそれを噛みながら、時折コーヒーをすすっていた。カップから湯気が上がるコーヒーを両手で持ってショウは言った。「暖かいな」
だだっ広い食堂は暖房が効いているハズだが、少し肌寒い。ショウは食堂のドアでも開いているのかと扉へ目を向けた。ドアは確かに閉まっていた。すると、そのドアがゆっくりと動き始めた。音も無く開いたドアの向こうにはショウのただ1人の親友が立っていた。
「なんだ、ショウはここに居たのか。随分探して歩き回ったんだぜ。」彼はカナダに留学して出来た唯一の友達のジョージ。唯一と言っても、もちろん他にも話ぐらいはする人間は数人居る。ただショウはかなりの人見知りで、本当の自分の気持ちを話せる相手はなかなか作れない。日本でもそうだった。ほとんど一人で時間を過ごす事が多かった。その時のショウの親友はPCと本だったかも知れない。京都大学で細菌学を学んでいたが、卒業論文の出来が認められて留学のチャンスを得た。そして自分から志願してここモントリオール大学へと研究室の助手として留学した。その研究者の一人がジョージだった。ジョージはとても変わり者でショウとは気が合った。おそらくジョージにも親友なんてものは居なかったのかも知れない。ショウの親友が本であるように、ジョージの親友は自然界だった。
ジョージは長いブロンドの髪を後ろでポニーテールにまとめている。いつも同じアウトドアの服装で、頑丈そうな登山靴だった。肩に背負ったリュックを下ろすとショウの食べかけのサンドをひょいと口に放り込んで言った。「美味いなこれ。久しぶりに人間の食べ物を食った気がするよ。あっちではろくな物を食べなかったからさ。」ショウは残りのサンドが載っているプレートをジョージの方へ差し出しながら「お前、たしか、、、」そう言うと。
「そうUSSR!行ってきた。」
「USSR?それってソ連でしょ?」
「うん、ロシアのモスクワ大学のユーリ先生をウチのフレスキー教授から紹介してもらってね。それでユーリ先生のツンドラ(永久凍土)の探査隊に参加させてもらってだんだよ。」
「あのさ、USSRとかロシアじゃなくソ連でしょ?」
「そうだった。俺ってアナログ人間だから時代の変化についていけない。」ジョージは楽しそうに笑う。
「モスクワ大学へ行ったらさ、知らない女の子達から毎日のように手紙をもらって参ったよ。」
「ハイハイハイ」ショウも笑う。
確かにジョージはスタイルも抜群だし、性格も良く、しかも正直な奴なのでモテる。ただ、彼にとってはそんな事には全く興味が無い。参ったよとの言葉も本心だろう。
「俺もショウみたいにちょっと地味だったら良かったんだけど。そしたら女の子も騒がないだろ。」
「ジョージ、それは余計なお世話だ。」ショウが首を横に振るとジョージは笑った。
プレートの上の最後のサンドを手に取りながらジョージは言った。「これもいただくよ。」ショウが黙ってコクリとうなづくとジョージは続けた。周りを見回して、誰も居ないのを確かめる。
「実は、ショウに聞いて欲しい事があるんだ。自分の頭の中だけでは消化出来ない事なんだよ。だから話を聞いて、感想を教えて欲しい。」
「ツンドラの事か?」それを聞くとジョージは瞼を閉じて合図をした。
「今夜ショウのアパートに行くから待っててくれ。」
ショウはその後研究室での仕事を終えて帰路につく。彼のアパートはモントリオール郊外の小高い丘陵地にあった。大学からは車で30分ほどで、とても閑静な場所である。緩やかな斜面に点在する住宅は数十年前は洒落た別荘地だった。今はもう人影も少なく、ほとんどの家屋は築40〜50年程経っている。陽が落ちた後も、明かりのつく家は少なかった。ショウの借りているのもそのような一軒で、平家作りの小さいデッキの付いている物件。ガレージも車一台がやっとのささやかな家屋だった。ショウは車をガレージに停めると、手荷物を持って枯れ葉の上をサクサクと歩きながらドアへ向かう。ポケットから鍵を出してドアを開ける。するとドアの向こうに1通の封筒が届いていた。ショウはどうしてポストに入れてくれなかったのかと一瞬だが不思議になった。その封筒を拾い上げ、そのままリビングに行って暖炉に火を入れた。リビングのテーブルに封筒を置き、移動したダイニングでお湯を沸かす。それからコートを脱ぎ暖炉の前のソファに腰掛けた。暖炉には火が燃え始めてチリチリと薪の火の音がする。
テーブルに置いた先程の封筒が気になるが、ショウは何故か開けるのに躊躇した。壁の時計を見上げてジョージが来るのには、まだ時間があるのを確かめた。封筒に手を伸ばし、裏書を見る。
Annaと書いてあった。
彼女はフレスキー教授の研究者のひとりで、ショウとは時々会話を交わすぐらいのそれほど親密な関係では無い。「何故?」ショウは独り言を呟きながら封筒を開けた。
『ショウへ。
驚かせてしまった?ごめんなさい。本当なら直接会って話した方が良いのは分かってるんだけど、たぶん上手く伝えることが出来ないし、その自信も無いから手紙に書く事にしたの。
私はフレスキー先生の研究室に入ってもう5年になる。その間、いろいろな研究者とも会ってきたし、その方々の考え方も聞いてきた。ショウ、誤解して欲しくはないけど、あなたは私の言う事を真面目に聞いてくれると思ったの。そう信じてる。
ショウも私の事をちょっと変な人間だなとは薄々感じてるでしょう?
私にはシックスセンスがあるの。もちろんこんな事は科学者が言う事じゃないのは分かってるし、誰にも言って来なかった。子供の頃からそうだったの。いろいろ怖い思いもした。
友達が病気になるのが分かってしまったり。大きな事故が夢に出て来たりすると、ほとんどそれは現実になってしまう。
幼い頃から人に言えずに悩んでた。教会に行って懺悔もした。子供の頃は、それは自分に与えられた罪だと感じていたから。罪を許して欲しかった。だから、この事は私の秘密にしていたの。それでも思い切って母にだけは言ってみたけど、他人には言うなと言われたわ。そんな事を言っていると精神病院へ入れられるとね。
母以外にこの事を言うのは、ショウあなたが二人目よ。
ショウあなたを見ていて感じたの。あなたは真実を探求する人だって。そして、それを捻じ曲げない人だって事がね。世の中には得な真実と、損な真実があるのよ。知らんぷりしたり、見て見ぬふりをしている。まるで自分を見ているようだわ。恐ろしい事が見えるのに、それを見ないふり。
ただ今回だけは自分の中には仕舞っておく事が出来ない。真実に目を向けて真剣に生きている人に知って欲しい。それが私の願い。
ショウ、地球はもう少しで死んでしまう。
見えたの。私には。
この手紙を読んで、もしも私の言葉を信じてくれるなら、二人きりで会ってくれる?信じられないなら、それは諦める。
会ってくれるなら研究室で明日声をかけて。
アンナ』
ショウは読み終わり、フゥーっと息を吐いた。すでに暗くなっている窓の外に目をやると濃霧の中にぼんやりと赤く光る三日月が見えた。10年ほど前から月は時に赤く、時にはオレンジ色になっていた。
玄関の方でドアを開ける音がしてジョージが入って来た。ショウは急いで手紙を懐へ仕舞い込み、立ち上がってジョージを迎える。「コーヒー?それともビール?」
「先ずはビールだな、酒でも飲まなきゃやってられん。」ジョージはバックをソファに放り投げて、どかりと座り込んだ。ショウは開けたビールを2本持って向かいの椅子に腰掛けた。その1本をジョージに手渡すとジョージはいつになく神妙な顔付きで話し出した。
「なぁ、どう思う?どうなると思う、この地球がさ。俺は相当な楽天主義者だけど、今はもう恐ろしい。あれを見ちまったから。
ツンドラだよ。あれはツンドラじゃなかった。あれは沼地だ。しかも腐った沼地。信じられるか?ツンドラが腐ってるんだぜ。酷いとは聞いていたし、ある程度は覚悟はしていた。しかし、あれほど酷いことになってるとは。
確かに世界は温暖化対策に躍起になってるけど、それは本当の意味で言うと間違いかも知れない。そう感じたよ。意味が無いとは言えないけど、全然足りないんだ。幾ら研究者達が声を上げても、奴等は経済発展と森林伐採をやめられない。人口増加も止めやしない。
ツンドラが沼地になって、メタンガスが噴き出して、しかも地下では地中火災だろ。北極のデータも見たけど、もうほとんど氷河は無い。でもそこまでなら、なんとかなるのかも知れない。なんとかね。
ただ、気になるのは今回見て来たツンドラの沼地なんだ。あれは、あのままじゃ済まないぞ。」
ジョージはビールを飲んで溜息をついた。
「あのままじゃ済まない?」
「そうさ。済まない。ツンドラは溶け出して、壊れ始める。おそらく南極大陸でも同じになるだろう。崩れてしまう。崩れて、溶けて、そして海に流れ出す。もう手の付けようが無い。」
ショウは言った。「海に流れ出すか。でも、今それを言っても誰も信じないだろうな。明日フレスキー教授に話してみないか?先生なら分かってくれる。それに相談してみたい事がある、ツンドラの事でね。」
ジョージはビールを飲み干して、自分で冷蔵庫に入れてあるのを取りに行った。「で、何をどう相談するのさ?」
ショウは答えた。
「いや、永久凍土が溶けるのは分かってる。ただ、その中身なんだよ。あの中に埋まってるモノだ。過去に地球上に存在していた様々な動植物、恐竜の凍結体やシダ類などの植物体。それはおそらく化石にはなっていないだろう。タンパク質やミネラル類はそのまま保存されている確率が高い。冷凍庫にしまわれていたんだからね。ツンドラ地帯でメタンガスが噴き出しているのも、それが腐敗しているから。
問題はそこだ。その腐敗をさせている微生物が問題なんだよ。その微生物は長い時間凍土の中でタンパク質とミネラルを餌にして生きながら閉じ込められて来た。この2051年には確認出来て居ない生物が居る可能性がある。
ジョージに言われて気が付いたけれども、今の永久凍土の腐敗のスピードはどう考えても速過ぎる。現状確認されている微生物では、考えられないスピードでメタンガスを発生している。温暖化だけでは説明出来ないレベルだ。何かヤバい奴が居るような気がする。」
ジョージはそれを聞くと頷きながら答えた。「やっぱりな。しかし、これはマズイな。」
この夜二人は夜更けまで語り合ったが、疲れ果てて寝てしまった。テーブルの上には空いたビール瓶が所在無く立っている。暖炉の火も穏やかになり、薪が紅い炭へと変わっていた。
次の朝ガレージの中のオンボロ車に乗って大学へ向かう。研究室に2人で入るとアンナがいつものように自分のデスクに向かっているのが見えた。ショウはジョージに言った。「教授が来ていたら、ジョージが先に会ってくれるか?ツンドラの様子を言っておいて欲しい。自分はちょっと後で行くよ。」
ショウはアンナの所へゆっくり進み、彼女の後ろから声を掛けた。「手紙読んだよ。」彼女は黙って振り返った。ショウの目を見ている。ショウは続ける。「話がしたい。いや、話を聞かせてくれないか?」彼女はパソコンに目を向けて答えた。「時間と場所はメールしておく。」
分かったと言ってショウはその場を離れた。その後自分のデスクのパソコンでメールを確認して、彼女へ指でOKサインを送った。指定された場所は郊外にある工場労働者向けのパブだった。アンナが出入りするような店ではないとショウは思った。おそらく街中のインテリ層が来るような所は避けたのだろう。お互いに自宅に招くような関係でも無いので、それも仕方ない。
アンナはフレスキー研究室ではショウの先輩にあたり、とてもシャイな大人しい女性だった。独身で異性関係の噂などは聞いた事が無い。根っからの研究者タイプの、いわゆる人付き合いの苦手なオタクで彼女にとっては研究室が一番心休まる場所なのだろうと周りからは思われていた。ショウにとってはそんな彼女は研究室の中で、ジョージと並んで警戒心を抱く事が無い相手でもある。ショウもまた同じような人間だったからだ。アンナは小柄だがとてもメンタルが強く、彼女の口から愚痴や不平不満を聞いた事が無い。感情を冷静にコントロール出来るのは、どうしてなのかとショウは常々思っていた。しかし、昨晩の手紙を読んでその謎が少しだけ分かった気がする。彼女は幼少の頃から誰にも言えない心の中の葛藤と闘って来た人間なのだ。それを思うとショウは彼女の辛さが身に染みるように思えて来る。誰にも理解されない辛さは計り知れないのだから。ショウはパソコンのメールボックスを閉じるとジョージが待つフレスキー教授の部屋へ向かった。
そこではジョージがツンドラの状態を教授に説明している。そして彼の思う事や感じたままを述べていた。教授はそれを黙って聞いていたが、時折メモを取っている。ジョージの話が一通り終わると教授は言った。
「この30年の間、地球の温暖化は加速している。先進国が脱炭素に向けた政策を進めているが、それは結果としては焼け石に水のように。確かにある程度の効果はある。それはデータも示している。今までの努力がもし無ければ、現状はより悲惨な状況だっただろう。お前達の危惧することは、各国からの報告にも現れているし、実際ハーバード大やオックスフォード大の研究者達がこれからの対策を練っている。実は私もその研究グループのひとりとして意見を述べている。ただ、この研究者達の意見が世界の主要な政府に理解されているのかと言うと、それは別問題だ。そこが一番難しい。もちろん、主要各国の政府要人にはデータも示してある。が、彼等はそれを見ても素早く動けない訳があるのだろう。」
ジョージが言った。「先生、ツンドラの溶解と言う所の解釈はどうなってるのですか?ハーバードとオックスフォードの見解は?」
「それに関してはデータ解析が進んでいる。現時点での最高峰のAIと彼等の頭脳を総動員している。それによると、ツンドラの溶解はもはや止める事は不可能だろうと言う結論だ。つまりメタンガスは日増しに増加し、温暖化も止められない。後に残された手立ては限られて来たのが事実だ。ただ、その手立てによりメタンガスの発生と量的な抑制はある程度は抑えられるとの見解だ。もはやこれに期待するしか無い。しかし、難題なのは場所がソ連だという事だ。」
ショウは聞いた。「場所が問題なのですか?」
「そうだ。ソ連は自分の領土を勝手にはさせないだろう。人間が入るにしても、何かを現地で対策するにしてもソ連は黙ってはいない。利権が絡んで来るのは必死だ。」
「なるほど、、しかし先生、そのような事を言ってる場合なのでしょうか?そんな感じですと、間に合うものも間に合わなくなってしまいます。もしも溶解した腐敗土が海洋流出してしまったら?」ジョージは声を上げる。
「お前達の着眼点は素晴らしいと思う。ただ、海洋流出に関してはまだデータ不足だが、現時点での答えはNOだと思える。モスクワ大学のユーリ助教授にも改めてその事は相談しておくが、ツンドラ大陸が崩壊する事は考え難い。南極大陸でも同じだろう。大陸が壊れる事は無い。それが研究者達とAIの答えだろうと思う。」
ジョージはそれを聞いて、納得出来ない顔をしていた。彼にとっては自分の目で見たことだけが真実であり、その目に焼き付いた光景への不安と恐れ、そして言葉では表す事の出来ないモノが全てだった。その言葉で表せないモノとは、彼には自然からのアピール。つまり地球からのメッセージのような気がしていた。
ショウは一旦自宅に戻り、アンナに指定されたパブへ車で向かう。自宅から30分程の街外れの工場群にある店だった。店の名は「Fool on the Hill」。これはおそらく80年ほど前に流行ったビートルズと言うグループの曲からもらったのだろう。ショウの父親もファンだったと記憶している。アナログ人間の自分は、最近の音楽界は全く分からないので懐かしい。そんな事を考えながら入り口に向かう。ショウはそこでタブレットを開いてワクチン済みの証明マークを見せた。数十年前からの習わしだ。店員がそれを手持ちの末端で読み取ると入店出来る。もっと上級の店舗だと、タブレットを開かなくともゲートを通るだけで済むのだが。
店内には結構人が居てざわついている。仕事がひけての楽しい時間なのだろう。これは昔も今も変わる事のない情景。アルコールを友と楽しんでいる雰囲気は、悪くはない。ほとんど全員が軽装だ。以前はこの季節のモントリオールは極感で、とてもじゃないがシャツ一枚では居られなかった。それが今は上着はシャツだけで、中には半袖のTシャツだけの者達も居た。工場からの直行組はオイルの色が染み込んだ作業服を着ている。ひと通り見回してみたがアンナの姿は無かった。ショウは空いているボックスを見つけて地元産のクラフトビールを頼んだ。
ショウはアルコールは嫌いでは無いが、ほとんど飲まない。外で飲むことなどは、誘われる以外は無い。そして飲むのもビールだけと決めている。それには訳がある。ショウの家族にアルコール中毒者が居たのだ。彼の母はショウが物心付いた頃からアルコールに嵌り、最後は首を吊って自殺した。ショウは子供ながら思っていた。アルコールは危険だと。
母が悪いのでは無い。アルコールが悪いのだと自分の中で消化していた。子供は母を責める事など出来はしない。母は被害者なのだ。そう思っていた。
ビールを口に運びながら周りの人達を見る。楽しそうに歓談している。酒が人と人の間の隙間を埋めるように。そんな程度が丁度良いのかも知れない。隙間を埋める程度の量が一番良いのかも知れない。ずっと昔からの人々の営みと、ささやかな楽しみ。人間らしい幸せを感じる。
「お待たせしました。ごめんなさい。」アンナが横に来ていた。普段通りの地味な服装だ。ショウは座るように席をすすめる。目の前に近距離でアンナと対話した事などなかった。アンナが座席の横にジャケットとバックを置いて、それを整える仕草をショウは見ていた。心の中で何か自分でも理解出来ない心理が湧く。質素な美しさに見惚れてしまったのだ。アンナが目を上げてショウと目線が合うと、彼は多少頬が赤くなった。彼女もビールを頼んだ。その後、アンナは何か言いにくそうにしている。
ショウが話し始める。
「あの手紙ありがとう。君の事を正直に話してくれて嬉しかった。今までいろいろあって大変だったね。何か僕が力になれる事があるのかな?」
アンナは黙っている。テーブルの上にあるビールを両手で握りしめていた。アンナの見開いた瞳から涙が溺れ落ちる。ただ幾筋も静かに流れ落ちた。
ショウはそれを見て驚いたが、その涙はアンナの心を象徴しているように思える。ショウはそっと手を出してアンナの手に触れて言った。「大丈夫?」
アンナは目を上げてショウを見た。「私の心の中に居る地球を知って、涙をこぼさない人は居ないわ。人間だったらね。あまりにも悲し過ぎる。」その後彼女は淡々と語り出した。
「私は悩んだわ。これをショウに話そうか。何故ならショウが苦しむのが分かっていたから。でもね、この事を真実だと思ってくれる人に伝えることが私の今世の使命だと思ったの。ショウ、もしかしたらあなたの使命は真実を知る事。誰も信じない真実をね。今から話す事はたぶん誰も信じない。どんなに頑張っても無理。それも知っているの。それが私には分かる。私達は芸能人でも無ければ、著名な学者でも無い。資産家でも無ければ、天才でも無い。そんな人間の言う事を誰が信じてくれる?そんな人間が地球の未来を語っても、誰が信じる?私のシックスセンスを誰が信じてくれる?
無理なのよ。不可能なの。」
ショウは涙も拭かないアンナを見つめていた。
「ショウ、今から話す事を聞いて私の事をノイローゼだと思っても仕方ない。ママが言うように精神病だと思われても仕方がない。その覚悟はある。」アンナはやっとバックからハンカチを出して涙を拭いた。そして言った。
「数年以内に人類は滅びるわ。」
それを聞いてショウは思わず拳を握り締めた。
「海が腐りだす。あの蒼い海が腐りだす。茶色い濁った光景が見える。そしてそれを見ても人間は争いをやめない。お互いに罵り合い、奪い合う。人間も腐敗してしまう。何故海が腐りだすのか、何故人間が争うのか?それは分からない。ただ、そうして地球が死にかける姿が見えたの。誰にもどうにもならない。」
アンナは目を閉じて何かを感じているようだった。
「ショウ。たぶんそれがルールなの。地球の。これは倫理でも宗教でも無く、ルールなの。命ある者達を見てみなさい。植物も動物も全てそうやって生きてる。自然の摂理に従って生きてる。これは綺麗事や善悪ではなくて、当たり前の事なの。人間だけが特別にはなれない。」
ショウは言った。
「実はジョージともいろいろ話をしていたんだ。この先の地球の事をね。今アンナから聞いた話は自分は信じるよ。たぶんそうなる時が来るとは思っていたんだ。ただ、最後の最後まで自分もジョージも必死になってやってみるつもりなんだ。自分達に何が出来るのか?それは分からないけれど。地球を、そして人を守りたいんだ。だから、、、、」
「だから?」
「だから、アンナにも手伝って欲しい。諦めるのはまだ早い。」
「でもね、きっと誰も信じない。」
「そうかも知れない。でも、黙って見ているのは嫌なんだ。死ぬ最後の日まで、やり切って死にたい。アンナ、この気持ちを信じて欲しい。」
アンナは暫く黙っていた。あたかも、そんな事は無駄だと思っているように。そして口を開いた。
「分かったわ。ショウあなたが私を信じてくれたように、私もあなたを信じる。」
その後二人は今後の事について話し合った。とにかく時間が無い。毎日お互いにメールで確認し、情報交換をする事になった。そして週末にはジョージを含めた三人でのミーティングをする事を決めた。主に動くのはショウとジョージ。フレスキー教授に頼んでモスクワ大学のユーリ助教授とのコンタクトをお願いする事になる。ユーリ助教授は、女性ながら質実剛健な方で金や名声には一切惑わされることが無い。先を見抜く慧眼も持ち合わせている天才肌だった。役職は助教授に甘んじているが、その実力と真実を追求する姿勢、そして何よりもソ連の旧い体制に忖度しない精神は世界の科学者達から一目置かれていた。彼女の専門は地質学分野だった。
翌日、ショウはジョージと共にフレスキー教授へユーリ助教授との面談を取り繋いでもらうように頼みに行った。教授室へ二人で入るとフレスキーは言った。
「ユーリ助教授には先日の件は相談してある。彼女の見解だが、君達の心配するツンドラの溶解に於いての大陸崩壊は可能性はほとんど無いだろうとの事だった。確かに、ツンドラは死にかけている。これは止める手立てが無いのも事実だ。ただ、その融解深度についてはまだ予測の範囲でしか無い。その融解深度の測定と今後のシュミレーションをケンブリッジ大学で検証すると言う事だ。そして何より彼女の一番の心配は、ソ連政府そのもののようだ。今回のケンブリッジ大学との共同だが、それを反対されている。ここだけの話だが、今回は学術講演だと言ったらしい。ツンドラ地帯のデータを持ち出す事は許さないとの事だ。彼女が言うには、どうもソ連政府はそのデータを各国の政府に売却し利益を得ることが目的らしく、そしてその結果を踏まえて更にツンドラ溶解対策費として請求をも考えている。いやはや、奴等の欲には限りが無い。自国の危険性さえも金に換えるとはね。」
ジョージは呆れ顔でため息をついた。それを見て教授は続ける。
「実はこの話も内々だか、ユーリ助教授が心配している事は他にもある。ちょっと信じられない話なんだが、、、、」
ショウは聞いた。「先生が信じられない話ですか、、、それはいったい何ですか?」教授は困惑したような顔付きだ。こんな表情の教授は見た事がない。
「南極大陸だ。」
ショウとジョージは顔を見合わせて驚いた。「まさか。」
「そのまさかなんだ。今度は中国政府だ。彼等は密かに南極大陸を自国に組み入れようと画策している。お前達も知っているように過去から現在まで南極大陸は何処の国にも属してはいない。それは余りにも過酷な環境下にあって開発が不可能だった事も大きな理由だ。だか2045年を最後に氷棚は消え去り、今は極点の一部を除いては地層が現れている。冬季間のみ雪が降るだけになってしまった。中国はその大陸を手に入れようとしている。莫大なる軍事力によるチカラづくだ。しかも、それに協力しているのがソ連らしい。」
それを聞いたジョージは机を叩いて悔しがった。「なんて事を考えてるんだ!」
フレスキー教授は落ち着いた表情でショウとジョージを見た。
「今日の二人への話はまだ終わらない。これからが本題だ。」
「え?こ、れ、か、ら、本題?」ジョージは開いた口から絞り出した。ポカンとしている。
それを見て教授は言った。
「二人ともこれから先の話を聞いて、よく考えてくれ。これは決して命令などでは無く、あくまでもお願いなんだ。」
ショウは、これはユーリ助教授からの頼みだなと感じた。フレスキー教授の言葉を待つ。
「ショウ、ジョージ、君達ふたりでモスクワ大学からデータを持ち出して欲しい。データはユーリ助教授がマイクロチップにしてあるが、彼女との接触は避けてくれ。と言うより、おそらく合わせてもらえないだろう。
これだけだ。ただ、もしマイクロチップ持ち出しが失敗したら投獄は免れない。どうだ?」
ジョージが「いやぁ〜」と言うのと同時にショウは言った。
「やってみます。」
ジョージはショウの肩を掴んで言う。「お前本気かよ?捕まったらシベリア刑務所だぜ!」
「シベリアはお前が好きな場所じゃないか!ジョージが嫌なら自分一人でやるよ。」
「マジかよ?捕まったら殺されるぜ!」
「死ぬか?何もやらなくても死ぬんだよ。どうせ死ぬなら、やる。後悔なんてしたくない。」
フレスキー教授が間に入った。
「今決めなくても構わない。しかし時間が無い。今夜中に決めてくれ。もしお前達が行かなければアンナに頼むしか無い。彼女なら誰も疑う事は無いし、私が最も信頼している部下のひとりだ。私が行ければ良いんだが、私はソ連政府にマークされている。」
教授室を出る。
「なぁジョージ、フレスキー教授がおっしゃる通り、時間が無い。先生は今夜中に決めろと言うが、自分の気持ちはもう決まっている。今回の件はいくら考えても意味が無いんだ。どうするかではなくて、やるかやらないか。それだけなんだ。危険がどのくらいなのかは自分には分からない。50%かも知れないし、80%かも知れない。ただ、自分はフレスキー先生とユーリ助教授がどんな思いで自分達に頼んだのか、それが大切な事だと思っている。今回の件がどのくらい危険なのか、それを一番知ってるのがユーリ助教授だろ。その上で、決断される程の重要な事だ。
このデータをケンブリッジとハーバードのスタッフで解析する事は未来を左右する程に重要な事なんだよ。」
「ショウはサムライだな。さすが、武士の国産まれだと思う。しかしな、俺の先祖だって負けちゃいないぞ。アメリカ陸海空のミリタリー精神が俺のハートにも宿っているんだ。大学時代はワンダーフォーゲル部で大活躍したし、ハイスクールの時はアメフト、そしてロースクールでは陸上部の400メートルリレーのアンカーやったぞ、そしてな町内会ではゴミ拾いの班長さんとかやってね、あれはゴミを拾う道具の使い方にコツがあって結構難しいんだよねたくさん拾うのは、さらには、、」
ジョージの自慢話が延々と続くのでショウは可笑しくて吹き出した。「あはは、それは凄いな!」
ジョージは自慢げに胸を張って答える。「だろ?うんうん♪」
ショウは聞いてみた。
「で?どうする?」
「え?やるさ、もちろんやるさ」
「良かった。ジョージも一緒に行ってくれるんだ。頼りになるからなぁ君は!」
うなづきながら、ジョージは得意気に胸をドンとたたいた。
二人は今夜、これからの予定と計画を立てる為にショウの家に集まる事にした。ジョージが言った。「あのさ、ツマミはピザでいい?買って行くよ。」
「ジョージ、飲み会じゃ無いから」
普段通りショウはボロ車で自宅ガレージに入った。ジョージが来る前に家のパソコンでメールを送る。フレスキー教授にユーリ助教授の渡英のスケジュールを確認する為だ。おそらくモスクワではユーリ助教授とは会えないとフレスキー教授にも言われていたので、助教授と接するチャンスは無い。しかし、どうにかしてユーリ助教授のデータを受け取らなくてはならない。その為のやりとり、メールや電話はおそらく傍受、ハッキングされていると考えた方がいい。彼女はソ連にとって要注意人物なのだ。だとすれば、ユーリ助教授が渡英した後でケンブリッジ大学から間接的に連絡を入れてもらった方がいいだろう。その為にユーリ助教授のスケジュールが必要だった。
フレスキー教授へのメールが終わる頃、ジョージはやって来た。手のひらの上にはメガサイズの大きな箱がある。
「はーい、ピザ〜ラお届け!」
ジョージはにこやかに言った。ショウは笑いながら首を横に振って答える。「それパーティーサイズじゃん、誕生日じゃ無いから!」二人して大笑いした。
ショウは笑いながら思っていた。ジョージは道化ているが、それは彼が不安でいっぱいなんだと。ジョージはにこやかに道化る事で、自分の中の心配や恐怖感と戦っているのだ。それを批判することなど誰にも出来ない。ジョージは精一杯頑張るつもりなのだ。それに二人して緊張しても、少しも良い事などないだろう。逆にリラックスして物事を進めた方が良いのかも知れない。恐怖や不安は必ず顔付きに出る。それを見破られては元も子もない。
ショウは仕方ないなぁと笑いながらリビングテーブルの上にメガサイズのピザを置いた。先程、フレスキー教授へメールした内容を説明して彼の意見を求めた。ジョージもショウの意見について納得する。ジョージは言った。
「ユーリ助教授が渡英した直後に自分達はモスクワ入りしよう。その前にケンブリッジのユーリ助教授からメールで、どの様にデータを拾うのか指示を出してもらう。媒体になるだろうけど、モスクワ大学内か、モスクワの違う場所か、それはユーリ助教授に決めてもらうしかない。助教授も行動は監視されているはずだから、何処にデータを隠すのかは難しいだろう。」
「そうだな。おそらくユーリ助教授のパソコンは触れないと思った方がいい。もしかすると、先生のデスクにも近寄れないかも知れない。データの場所はユーリ助教授に任せるしかないな。そして、いざと言う時の事も少し考えておこうと思っている。ひとつは、データを拾えなかった場合。そして、データを手に入れた後にKGBに拘束された場合だ。
運良くデータを手にしても、モスクワ空港でのチェックはかなり厳しい。それをどうやって潜り抜けるのかだ。」
その時、トントンとドアを叩く音がした。ショウとジョージはビクッと顔を見合わせて身構える。ショウはゆっくりと玄関へ向かう。ジョージはリビングの窓から玄関先の様子を見る。ジョージが言った。「あれ?アンナだぜ。」
ショウは振り返り、まさかと言う顔でジョージを見た。そしてロックを外し、ドアを開けた。そこにはアンナが立っている。「こんばんは、ショウ。」
ショウは何と言って良いのか困った。何故?とも言えないし、どうぞ、とも言えない。そんなショウの顔を見てアンナは言う。
「フレスキー教授から全部聞いたわ。先生はメールのやり取りを一番心配されているのよ。ユーリ助教授からの直接は無理だから、ケンブリッジから受けるしか無いとの判断なの。ただ、モスクワ入りしている二人へケンブリッジからの連絡はやはり危険なの。そこで私が頼まれた。」
「そうか。で、どうするの?」
「私がケンブリッジからメールを受けて、それをショウへ流すとリスクは減るだろうと教授は言ったわ。」
「そうか。なるほど。」ショウとジョージはうなづく。アンナは続けた。
「でもね、私フレスキー教授に直訴したのよ。私がショウとモスクワへ行くってね。」
ジョージは驚いてアンナに言う。「え!それじゃ俺は?」
「ジョージ、ケンブリッジへ行ってくれる?」
アンナはフレスキー教授へ頼んでいた。自分の方が相手に不信感を与え難いだろうと。教授は初めは難色を示した、その理由はあまりにも危険だからだ。それにケンブリッジでの役割りも彼女にやって欲しいと。しかし、アンナは教授へ食い下がった。ある案を出していた。アンナはショウへ言う。
「私達、明日結婚するの。」
「え〜!けっこんする?」
「そう。そしてハネムーンに行くのモスクワへ。モスクワ大学には近寄らないわ。純粋なハネムーンだからね。」
「え〜!はねむーん?」
ジョージとショウは顔を見合わせて驚いた。ジョージは言った。
「いいなぁ、お前。アンナと結婚?いいなぁ。俺は一生独身かな。」
「ばか!何言ってんだよ!ジョークだよ。ね?アンナ、ジョークだよね?」
「本気よ。ちゃんと正式に結婚するの。モスクワから無事にケンブリッジに行けたら、その時は解消する事になるかも知れないけれども。」
ジョージはショウの呆れた顔を見て言う。「だよな、アンナみたいな美人がお前に惚れるワケが無い。」
「余計なお世話だ!」ショウは叫んだ。でも、顔付きはまんざらでも無かった。ショウは言う。「でも、それで良いの?アンナ?俺で?」
ジョージは横から言う。「これ偽装工作だから、ショウ本気にするなよ。」
アンナが真顔で答える。
「私はショウのこと、嫌いじゃないわ。あのパブで会った時から。ショウはどう思ってるか知らないけど。」
「えー!」ジョージは驚くショウの顔を見て言った。
「ショウ、お前顔が真っ赤だぞ。しかし、今夜俺達は何回『えー!』って言ったか分からないな。」
ショウは指を折って数える。
それを見ながらジョージは言う。
「しかし、ホントに明日の事は分からないモノだな。まさか、ショウとアンナが結婚する事になるとは。ホントに未来は分からないモノだ。」
アンナが言う。
「テーブルにあるピザを食べても構わない?私今日は朝からアップルジュースしか口にしてないの。お腹空いてて。」
ショウは。
「え?ジュースだけ?」
ジョージが開かずに置いてあるピザの箱を開けて。「ショウはまた『え?』って言った!。」大笑いする。
「今夜はこのピザで三人で結婚祝いのパーティーしようぜ!ショウは冷蔵庫からビール持ってこいよ!」
「えー!パーティー?」
「ショウがまた『えー!』って言った!何度目だよ!」ジョージが腹を抱えて大笑いする。それにつられて、ショウもアンナも大笑いした。
その後は、三人でメガサイズピザを平らげた。この夜、いつもは静か過ぎる郊外の森の中に若者達の笑い声が聞こえたのだった。戦地へ向かう戦士達の宴のように。
翌日、モントリオール郊外の小さな教会で二人は結婚した。参列者はフレスキー教授、そしてそのスタッフ達のみの極めてささやかな式だった。
チャペルの祭壇の前で神父は言う。「新郎ショウ、新婦アンナ、あなた方は健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、妻を愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
ショウは「はい、誓います。」と答え、アンナも同じく答えた。そして、誓いのキスをした。アンナはショウの耳元で囁いた。「私、この日が見えていたの。あのパブから帰り道に見えたの。」
二人は参列者からの暖かい拍手を浴びて、揃ってお辞儀をした。宴会はチャペルの前庭での立食会が用意されている。秋の終わりを告げる爽やかな、そして枯葉舞う穏やかな晴天だった。ショウとアンナはそれぞれのテーブルに行って、参列者へ飲み物を注いでいた。ショウがフレスキー教授の居るテーブルへ行くと、教授の隣に見知らぬ女性がいて、フレスキー教授と楽し気に話をしている。ショウが来るのを待っていたように教授は言った。
「ショウ、この方はボストン大学の細菌学の教授、リナ先生だ。君達は初対面だったな。今日はショウに会わせたくて、自分がリナ教授をお呼びした。リナ教授はモスクワ大学のユーリ助教授とは懇意の中だ。今回の件、君達の事も話してある。」
リナ教授はほっそりしたスタイルの、まるで雑誌のモデルのような女性だ。肌はとても色白で、おそらく30代前半だと思われるが歳よりもかなり若く見えた。この若さで教授に抜擢されているのは、成績優秀で飛び級で卒業まで行ったのだろう。笑顔の素敵なお洒落な方で、言われなければとても教授には見えない。
ショウが、初めましてと挨拶するとリナ教授は言った。
「今日は、あなた達と会えて良かったわ。フレスキー教授から聞いていたけれど、ツンドラ溶解を細菌学的な見地から分析しようと言うショウの意見は、実は私もとても重要な事だと考えているの。おそらくモスクワ大学のユーリ助教授も同意見だと思っている。今後の事を考えると、今回のデータ解析は地球の未来予測になるから。ただ、現時点ではソ連政府によってそのデータは極秘扱いにされている。彼等にとって、データは高額な商品なのよ。南極大陸のデータも同じこと、中国からの勝手な侵略を受けているのが実情。ソ連と中国は、ツンドラと南極を切札にして世界を脅すつもりなの。」
フレスキー教授はその後を続けた。「ショウとアンナにはとてもリスキーな事を頼んで、申し訳ないと思っている。ただ今リナ教授が言うように、現時点で既に地球は最期の秒読みに入っている。各国の政府の考えはどうなのか、それは知る由も無いが、ソ連、中国の他の世界の政府達もその危険度をおそらく真剣には考える事は無いだろう。権力争いと金のルールを捨てる事は難しい。」
ショウは答える。
「リナ教授、自分とアンナは共に覚悟はしています。いや、自分よりもアンナがそうだと思います。」
フレスキー教授とリナ教授はショウのその言葉の本当の真意をその時は知る事は出来なかった。
リナ教授が別れ際にショウへ言う。
「あなたと直に会って話をするチャンスは今夜が最後かも知れない。あなた達はもうすぐソ連へ行かなければならないから。私の予定も明日はここからケンブリッジへ行ってあちらのチーム達とハーバード大学との連携を模索する事になっているの。だから、今夜あなた達と話がしたい。どうかしら?」
「私の自宅で良ければどうぞ。」そうショウは答えて、ジョージにリナ教授のホテルまで迎えに行ってもらうと伝えた。自分とアンナは旅立ちのプランを早急に作らなければならない。最後の日は迫っている。フレスキー教授にチャペルでの別れの挨拶をすると教授は言った。
「おそらくユーリ助教授は二、三日後に渡英するだろう。モスクワ大学に居る間にデータをチップにコピーして何処かに隠してくれるはずだ。彼女も大学校内では無理だと考えているのは確かだから、別の場所になると思う。予想されない場所に。ただ、それが分かるのは彼女がケンブリッジ大学へ行った後になる。それをジョージが口頭で教えてもらうはずだ。」
ショウはそれを聞き、自分達のモスクワ入りはその後になるかも知れないなと考えた。ジョージからの連絡が入ったら即座にモスクワ入りだろう。
ショウとアンナは自宅で荷物を整理しながらリナ教授を待っている。その頃、ジョージはリナ教授の滞在先のホテルへ向かっていた。彼は車の中で気分ルンルンだった。あんな美人教授と自分が車でドライブなんて考えただけで最高で、これは運命の出会いとしか思えないんだけどと真剣に考えている。彼は結婚式の時のレンタルしたスーツの姿で運転していた。自前のスーツは持っていないのだ。車は古い4WDで乗り心地は抜群とは言えないが、そんな事は気にもとめていない。ホテルに到着し、カウンターでリナ教授の部屋を教えてもらう。トントンとドアをノックする。しばらくするとリナ教授が開けてくれた。リナ教授は立っている。
「ジョージです。お迎えに来ました。」
「あなた、結婚式のままね。」
するとジョージは後ろに隠していた花束をいきなりリナ教授へ差し出して言った。「あの、花をどうぞ。あ、誤解しないでください。この花は結婚式の余り物ではなくて、自分が花屋で買って来たんですけど。」
リナ教授はそれを見て怪訝な顔で言った。「買ってきたの?私に花を?」
「そうです。貴女には花が似合うと思います。どうぞ受け取って下さい。」
リナ教授は予想外の言葉に驚き、心の中で思う。本当に変わった人だなと。こんな人は今まで自分の周りには居ない。それがなんだか可笑しかった。リナ教授は笑いながら花を受け取って、洗面所の流しに水を張り、そこへそっと置いた。
部屋の方へ戻るとジョージはソファに座っている。
「ジョージ、あなたは私を迎えに来てくれたんでしょう?遊びにじゃなくて。」
ジョージはソファに座ったままでどうしたの?と言う顔で「あ、そうでした。」と笑った。
「お茶は出さないわよ。直ぐにショウの所へ向かいます。デートじゃないんだから、もう。」
ジョージはあわててソファから立ち上がって廊下に出る。ホテルの玄関まで歩きながら「でもリナ教授、ショウの家まで車で30分ほどかかります。その間、楽しいお話でもしませんか?」リナ教授はほとほと呆れてしまった。こんな人居るんだ?と。車に乗り込んだ後もリナ教授は彼の話を黙って聞いているだけだった。ジョージはリナ教授へプライベートな質問はせず、自分の事を少し話した。山が好きな事や、世界各地の山を登ったり、森林を探検した話をした。するとリナ教授が聞いてきた。「ショウって、どんな人なの?プライベートは。」するとジョージは楽しそうに喋り出す。
「ショウの事ですか?奴はおっちょこちょいでね。パソコン見てると夢中になって、ついこないだも目玉焼きを焦がして家事になりそうになってね。家中煙だらけで大変だったし。それから、公園でのランニング中もイヤホンで学術講演を聞いてたら、犬のでっかいフンを踏んづけてしまったり。この時は靴がウンチまみれで、臭いのなんの。それでよく見たら犬のフンじゃなくて人間のウンチだったんですよ。困りますよね、公園でウンチする奴がいるなんて。それから、、、」ジョージの話は止まらない。初めは黙っていたリナ教授も途中からジョージと一緒に大笑いしていた。こんな学生時代みたいな感じは久しぶりだ。ハイスクールの時は親友達と楽しい話で盛り上がったものだ。なんだか気持ちが若くなった気がする。自分は大学へ進学してから、今日まで研究者として生きて来て、周りからも『まるで鬼のようだと』言われる程にじぶんに厳しく過ごして来た。本当に心底笑った事なんてあっただろうか。そんな事を感じていた。
あっと言う間にショウの家に車は到着した。面白く、楽しい時間は過ぎるのが早い。車が停まり、リナ教授はジョージへ言った。「話の続きは、帰り道にお願いね。久しぶりに声を出して笑ったわ。こんなに笑ったのはもう何年振りかしら。私が大笑いしたなんて、私の研究室のスタッフ達は誰も信じないわよ。笑わない女って言われてるんだから。あなた本当に変わった人ね。まぁ、私も相当変わってるから似た者同士かしらね。」
ジョージは先に運転席から降り、助手席ドアを開ける。彼の4WDは席が高く降りる時に女性は気を遣う。リナ教授の方へジョージは手を出して、彼女の片手を持ち下りるのを支えた。彼女は高い座席から下りたが、その拍子に少しよろけてジョージに抱き付くようになってしまう。「ごめんなさい。」と少女のように恥じらいをみせる。ジョージにはこの一瞬が永遠のように感じられた。
その少し前。
家の小さなデッキに置いてある古びた木のベンチにショウとアンナは腰掛けていた。ふたりは車のライトが遠い暗闇の中でチラホラ見え始める時からずっとそこに居た。ライトの光線が右から左、そして右へと移動するのを映画の1シーンのように見つめていた。「きっとあの車がそうだと思うよ。ジョージは運転荒いからリナ教授大丈夫かなぁ?」ショウは隣のアンナを見ると、彼女は両手で自分の頬を暖めるようにして目を閉じている。車のライトがどんどん近づいて来た。するとアンナがショウを見て言った。「ショウ良く見ていて。暗闇の中のふたりを良く見てて。」ショウは何のことだか分からない。ただアンナに言われるままに、近づいて来る車を見つめていた。車が自宅前に停車して、暗闇の中でライトが消えた。そしてジョージがドアを開けて助手席側へ向かうのが闇の中でぼんやりと見えた。彼がドアを開け、リナ教授がよろけるように下りた。アンナがもう一度言った。「良く見てて。」
暗闇の中でリナ教授が彼に倒れるようにもたれかかり、ジョージが彼女を抱き抱える。すると、一瞬ふたりが淡い光のベールに包まれたようにショウには見えた。とても優しくて暖かい感情に満たされているような光だった。
「何?ふたりが光って見えたよ。」ショウは横に居るアンナを見ると、アンナもショウを見つめているのが分かった。「ショウにも見えた?恋が誕生した瞬間の光よ。」ショウとアンナはいつの間にか手を握っていた。
「アンナ、君と手を繋いでいたから僕にも見えたのかい?あの光が。」
「そうかもね。」アンナはクスッと笑った。
ショウが立ち上がり出迎えに行こうとすると、アンナは彼の手をぐっと握ったまま座っている。「ショウ、そんなに急ぐ事はないわ。恋の芽生え、それはこの世で一番美しい光景なんだから。私達は中で待ちましょう。」そう言ってショウの手を握り、ふたりはベンチからリビングへと戻った。
暖炉の前で待っているとジョージとリナ教授がドアを開けて入って来る。ショウはそのふたりの様子を見ながら心の奥で感じていた。自分はこのふたりに幸せになって欲しい。それを守らなくちゃいけない。いや世界中の愛する人達を守らなくちゃいけない。そう心に誓った。
ショウの前のソファにジョージとリナ教授が座ると、奥のダイニングからアンナが紅茶を持って来る。部屋にアールグレイの良い香りが漂う。リナ教授がショウへ語り出す。
「シベリアツンドラの溶解は温暖化の影響だけではないわ。フレスキー教授からショウ達の考えも聞いたけれど、私もその点は考え続けていたの。地質のサンプルが無いから確かな事は分からない。でも溶けている地質を腐敗させている菌が存在するのは確実だと思う。でも、何か変なのよ。どうしても理解出来ない点があるの。その菌の正体を確かめ無ければ、対策はうてない。私の経験から、通常の腐敗菌では無いように思える。」
「と言うと、どのように思えるのですか?」とショウ。
「通常の腐敗菌はたくさんあるし、人類もそれを様々に利用してきたわ。つまり、コントロール可能なの。例えば、発酵食品は全てそう。人間の体の中にも多数存在して、健康を維持する要素にもなっている。ただ、今回の場合はそれとは全く違って見える。」
「違う?どう言う事です?」
「腐敗はタンパク質、脂質、糖質などの有機物を分解発酵するけれど、生体そのものを攻撃する事は無い。もちろん毒素を出して、それによって生体が中毒する場合があるけれど、それはあくまでも副産物によるものなの。ただ今回の腐敗菌は恐ろしい気がする。生体組織そのものを分解するように思える。例えば、その腐敗菌が手に触れたりしたら、その場所から即座に腐り始める。皮膚の細胞に染み込んだ腐敗菌は猛烈なスピードで組織分解を加速化させる。現時点で確認されている通常腐敗菌なら高濃度の塩分や低温化などの処置法がある。しかし、永久凍土ツンドラの中で生き延びた腐敗菌は全く違うサバイバル術を身につけたと考えた方が良い。おそらく簡単にはコントロール出来ない。彼等も生き残るのに必死なのよ。解放されたツンドラ溶解によってその腐敗菌は物凄いスピードで進化し始める。もちろん彼等自身の為にね。相手が死んでいようが、生きていようがお構い無しだわ。過酷過ぎる環境で生き抜く為に貪欲で、しかも強くなっている。」
「菌を殺すことは可能でしょうか?滅菌です。」
「それは分析しなければ分からない。現時点では方策は無い。普通の感染なら対策も考えられるかも知れない。だけど、彼等の場合は即座に腐り始める。貪欲なのよ。例えば、その菌を吸い込んだとしたら、口腔や鼻腔と気管支、そして肺が即座に腐り始めることになる。止めるには、その患部を切り取るしか無い。手足も同じことになる。一度でも生体の細胞に入り込んだ腐敗菌はその部分を腐らせるから、その部分が治癒したり再生したりする事は考え難い。人類史の中で、チフスやエイズや、コロナも経験したわ。あれらは組織の機能を低下させ多くの人の命を奪って来たけれど、いきなり組織を腐敗させたりはしない。今回は全く違う。腐らせて、再生不可能にしてしまうと思われる。少しでも吸い込んだら命は無い。一気に肺が腐り始め、まるで銃に撃たれたかのように死んでしまう。」
ジョージが恐る恐る聞く。
「俺、シベリアツンドラ観察に行ってきましたけど、、、」
「ラッキーだったのよ。その菌はまだ溶け出したツンドラの中で、過去に埋もれた動植物を腐敗させるのに懸命になっている。ただ、その餌が少なくなってきたら地表に出て行く。時間の問題だと思う。」
ショウも尋ねた。
「もしもその菌が海に流れたりしたら?普通なら高濃度の塩分で生存しませんよね?」
横に居るアンナが答えた。
「海も餌に。」
リナ教授は頷き、言葉を継いだ。
「その通りだと思っている。普通なら海の塩分で腐敗菌は活動出来ない。ただツンドラの腐敗菌にはそれも通じないかも知れない。もしかしたら、その塩分さえも繁殖に利用するかも。」
四人は沈黙してしまった。知らぬうちに雨が降り出したようで、屋根やデッキを雨が打つ音が聞こえる。
「沿岸の人々は亡くなってしまうかも知れない。」リナ教授は辛そうに言った。想像するだけでも恐ろしい。
ジョージはリナ教授へ言う。
「しかし、それは確実なことでは無いんですよね?まだ分からないんですよね?もしも、それが真実だとしても、誰も信じないかも知れない。あ、俺は信じますけど。」
「そうね。まだ分からない。分析するデータが不足だから。でも、分析しても、しなくても、一年後には分かると思っている。結果が出て来るから。おそらくソ連の人口は半減するかも知れない。海に流れたりしなくてもね。」
ショウとジョージは顔を見合わせて、ため息を吐く。教授の顔を見る。リナ教授は厳しい顔を見せていた。
その後、四人はツンドラ大陸のデータについての連絡の方法などを確認し合う。リナ教授は皆に、自分とジョージがユーリ助教授からデータの隠し場所を聞く。そしてジョージからショウへ教える事になると説明した。それが上手く行ったらショウとアンナはソ連へ飛んでとの手筈だ。
ただ今は、データがどうなっているのか誰にも分からない。
「ソ連内でのあなた達に運が味方すれば良いけど。」リナ教授はショウとアンナを見ながら言った。
「運良くデータを手にしても、ソ連国外へ持ち出すのか一番危険な事ね。」
「とにかく一刻も早くデータを得て、分析しなければ。」ショウはリナ教授に言った。
その時、ショウのスマートフォンにフレスキー教授からの電話があった。明日にでもユーリ助教授が渡英する事が決まったらしい。そして教授の手配でリナ教授とジョージの渡英は明日に。更にショウとアンナのハネムーン旅行も3日後に決めてくれたとの事だった。
リナ教授はケンブリッジ行きの用意があるから先に帰るとジョージに頼み、ふたりで車に乗ってホテルへ向かった。庭先の道路まで出てショウ達は車のライトが見えなくなるまで見送っていた。先程までの雨はすっかりやんで、星空が見えている。風が小枝を揺らして、小川の音のような木々のざわめく音が聞こえる。アンナは不安気な顔をしているショウに言った。
「そんなに暗い顔をしちゃダメよ。私達、ハネムーンに行くんだからね。」
「アンナ、君の言う通りだ。楽しいハネムーンだよね。でも、正直言うと不安というよりも、責任の重さに負けそうに、、、」
アンナは夜空を見上げて言う。
「空を見て、あんなにたくさんの星達が輝いている。強く光ってる星もあれば、ほのかに光る星もある。でもね、光を出さない星達の方が多いの。輝かなくても、その星達は宇宙を支えている。輝いている星の周りで宇宙の均衡を保つ為に、その目には見えない星が居る。輝く事の無い星々が居るの。」
「そうだね。空を見上げて星の数の多さに子供の頃は驚いた。宇宙にはこんなにたくさんの星があるのかって。でも、見えない星々はもっとたくさんあるんだよね。」
「地球だって自分で光ってるわけじゃ無い。太陽のエネルギーで私達は生きている。空気を温め風を作り、海水を動かして、そして生命が生まれた。私達が生きている事は、宇宙が生命を活かすエネルギー体だから。命はそれを証明していると思う。私達は宇宙のエネルギーで出来ている。宇宙から全てをもらっているのよ。」
そしてアンナはショウの手を握り、言った。
「これから先の地球上にはたくさんの不安と悲しみが見える。それは、到底言葉には出来ないほど。私達に出来る事はその悲しみを少しでも減らして、命を守っていく事なの。そして地球も。」
ショウは答える。
「自分の不安や責任の重さにつぶされそうになっていたけど、アンナの言葉で勇気が湧いてきたよ。ありがとう、アンナ。」
その頃、ソ連国内シベリア地帯では恐るべき事態が起こり始めていた。シベリア方面の民間人との連絡が全て途絶えたのだ。ツンドラ地帯へ派遣されている陸上部隊にも交信不可の状態だった。それを踏まえて、ソ連政府は原因を探るために、更に追加となる陸上部隊を派遣する事にした。司令官はバイカル湖北部のイルクーツクに部隊を召集し、拠点本部を設置した。部隊長は部下に情報を収集するように指令を出すが、思うように情報を得る事が出来ない。現時点で分かっている事は、全く連絡が途絶えたとの事だけであった。シベリア方面で暮らす民間人はもとより、学術研究を目的として入っているチームとも音信不通だった。更には、陸上部隊からの連絡も途絶えたままである。少しでも情報を得る為に、部下に指令を出してイルクーツクから陸上部隊を北上させることになった。ツゥルを経由してオカ湖まで北上部隊を派遣し、各所で情報を収集させることになった。その途中の街で派遣部隊長は信じられないような噂を聞く事になる。それはある地元の猟師からだった。
部隊は車列を組んで北上していた。道路の周りは枯れ果てた木々が閑散と立ち並び、地面の草も枯れている。谷間の道路の為に山間部を走るのだが、山の様子も何か変だ。「生気を感じない」とトラックの中の兵達は口々に話し合っていた。
指揮官は途中の小さな街で部隊を休ませる事にした。情報が無いので、地元民達とコンタクトして情報を得る事も大切な任務だった。
村に点在する家々。その中で、屋根の上の暖炉煙突から煙が上がっている一軒がある。指揮官は幹部二名と共にそこへ向かい、ドアをノックした。その間、周りの家々を見るとどこの家にも部屋の明かりが点いていない。軋みながら木のドアが開いた。小柄な、いかにも猟師だという陽に焼けてしわくちゃ顔の男が立っている。顔のシワの年輪は伊達ではなく、それは過酷な環境を長年生き抜いてきた者だけが持つ厳しさを表している。男は言った。
「何の用だ。」彼は指揮官と幹部をじっと見回した。幹部の一人が言った。
「話を聞かせて下さい。変わった事はありませんか?」
男はそれに答えず、じっと兵達達の姿を見ている。その目は何かを威嚇するような目付きだった。幹部は言葉を継いだ。
「実は、連絡が途絶えた部隊の捜索に来ています。何かご存知ありませんか?」そう言うと、男は幹部を睨み付けて言った。
「あんたら、北へ行くのか。」
「はい。その予定です。シベリア方面の部隊の捜索に向かいます。連絡が途絶えたのですが、何か噂でも構いません。」すると男はいきなり大声でゲラゲラと笑い出した。隊員達が驚いているのを見て、更に笑っている。
「今何て言った?シベリアへ行くと行ったのか?そりゃ可笑しくて笑わずにいられないぞ。」
「何が可笑しいのです?」隊長は怪訝な表情で言った。
「北へ行くのか。それはな、地獄へ行くのと同じことだ。あんたらは地獄へ行くと言うのか。」また男は笑い出した。すると急に黙り込み、隊員達へ向かって言った。
「北へ向かう前にな、やっておく事があるぞ。」隊員達は黙って聞いている。
「あんたにも大切な人が居るだろ。その人へ電話しておけ。」
「え?」
「別れの言葉だよ。愛してるとか、そんな事を言っとけ。俺が言えるのはそれだけだ。」そう言うと、男はバタンとドアを閉めてしまった。
ソ連政府は政府軍を各地からツンドラ地帯へ派遣させている。主体は陸上部隊だが、海域沿岸には海軍の空母や潜水艦も配備された。また、空軍では敵潜水艦に対して対潜哨戒機(敵潜水艦を警戒する航空機部隊)をも配備していた。
男の家から部隊へ戻る隊員達は、あの男の事を話していた。
「隊長はどう思いますか?あの男の話です。」
「そうだな。分からんが、危険である事には間違い無いだろう。」
「隊長、この先の北上計画はどうされます?」
「ただ、ひとりの男の話を聞いて、信じる訳にもいかん。情報をもっと集めてから本部へ確認するべきだ。」
その村には他の住民達は居ないようだったので、部隊は次の拠点を目指して出発する事になる。しばらく部隊の車両隊列が枯れた平原の道を進んでゆくと、一台のジープが前方から走って来る。隊長は無線で先頭の車両に、その車を停めるように指令を出した。隊の車両が数台で道を封鎖するように停車する。ジープはギリギリまで走って来て急停車した。車の窓が開いて乗っている男が大声で叫んだ。
「何するんだ!開けろ!通してくれ!」
先頭車両の隊員が車から降りてそのジープに近づいて言った。
「どうしたんですか?何があったんです?そんなスピードで飛ばして。」
「いいから、通してくれ!」男はまだ若い30代ほどのガッチリした体型だ。猟をするのか、木こりなのか、身体はかなり鍛えられているのが服の上からも分かる。
隊長が男に近づいて言った。
「何があったか言って下さい。それまで通す事は出来ません。」
すると男は観念したように早口で喋り出した。
「仲間とふたりで北へ行ったんだ。戻らない猟師仲間を探す為に行ったんだ。いつも同じ場所でキャンプするから、そこへ向かった。テントはあった。でもいくら呼んでも誰も居なかった。俺と一緒に行った奴が車を降りて、テントの方へ確認に歩いて向かった。そしたらそいつか叫んだ。「中で死んでるぞ!」俺は驚いて車から降りようとした。その時、見たんだ。そいつがテントから戻ろうと歩き始めると、いきなりバタンと倒れちまった。そして聞こえたんだ奴の声が。「逃げろ」と言った。俺は怖くなって車で走り出した。」
「彼は死んだのか?」
「そんな事分かるわけ無いだろ!でもテントの中に死体があったから、奴も何かのガスでも吸って死んだと俺は思う。だから逃げたんだ。あんたら、俺の事を仲間を見捨てて逃げ出した情け無い人間だと思ってるだろ?確かにそうだ。でもな、あの時逃げなかったらたぶん俺も死体になって転がってると思う。、、、話す事はそれだけだ。通してくれ!」
隊長はその車を通してやった。そして、その場で隊に臨時のキャンプを張らせる事にする。次の目的地はまだ先だが、一旦この場所でミニ基地をつくり、本部の指示を確認する事にした。
カーキ色の指令本部テントの中で幹部達は考えている。隊長は決断した。
「このまま本隊全てを北上させる事はリスクが高い。民間人の話をそのまま受ける事は出来ないが、それを確認したい。10名の斥候隊を出す事にする。シベリア訓練の経験が豊富な隊員を選んで組織してくれ。決まり次第、先発に行かせる。我々は、その斥候隊の報告をここで待つ。」
幹部達は先発隊を選定し、有毒ガスに対応したガスマスク装備を持って北へ向かわせた。
先発隊を乗せて軍用トラックは北上する。無線で本隊とは連絡を取り合っている。初めの二時間ほどは特に異常な報告は無かった。暫くすると先発隊から連絡が入る。
「何か腐敗した匂いがします。」
本隊から全員ガスマスクを装着する様に指示が出た。車は速度を落としてゆっくりと進んでいた。
前方の平原で水飛沫が発生している。何か噴き出している。本隊へ連絡を入れて、車を停車させた。ガスマスク装備をチェックして、五名の斥候が徒歩にて前進を始める。各人7〜8メートルの間隔をあけてゆっくりと歩を進める。水が噴き出している地点の近く、15メートル付近に到着した斥候隊は車のリーダーに無線を入れた。
「地下のガスにより噴き出している模様です。メタンガス濃度はかなり急激に上がっています。」
突如、大音量が空間を切り裂く。その時、車で待つ隊員達の目の前で斥候隊五名は吹き飛んでしまった。地響きとともに地面が半径30メートルほど爆音と共に吹き飛んで火柱が噴き出る。メタンガスは可燃性ガスであり、強度の圧迫加圧で爆発したのだろう。そして吹き飛んだ泥は雨の様に後方で待つ隊員に打ち付け、トラックから出て見守っていた他の隊員達は全身泥だらけになった。トラックも屋根から側面まで泥にまみれた。爆発した地表部分は大きくえぐられた様に無惨にへこんでいる。その穴からは大量のもうもうとした白煙を吐き出し、グワッグワッと唸るように不気味に鳴いている。穴の奥はまるで地獄への入り口のようだった。暫くすると何事も無かったかのように静まった。時おり、シューシューと空気の漏れるような音がするだけだ。他には何も音はしない。泥まみれのトラックの周りには隊員達の死体が転がっていた。
トラックの無線からは本隊の呼び掛けが響くが、答える者は無かった。
イギリスのロンドンヒースロー空港に、ジョージとリナ教授を乗せた航空機が舞い降りた。到着ロビーで二人は少ない荷物を受け取り、出口へとフロアを歩き出す。
途中、魅力的なカフェやレストランがたくさんある。ロンドン最大のヒースロー空港は世界でも屈指の充実したホスピタリティが自慢で、ショップやレストランは数百を数える。
「リナ教授、あのレストラン素敵だね。ケンブリッジ大学に行く前に少し食べてから行かない?お腹すいたし。」ジョージが言う。
「また食べるの?機内食、私の分も食べたの誰?デザートも全部あげたじゃない。」
「でも、この空港のカフェはめちゃくちゃ素敵だよ。美味しそうなブルーベリーパイとかどう?」
「本気で言ってるの?あなた、手に持ってるのブリトーでしょ。さっき缶コーヒー買う時に一緒に買ったよね。それでも食べなさい。」
「いやコレは売店のオヤツで、カフェレストランのステーキが食べたい。ガーリックバターソース付きのミディアムレアな肉。」
「いい加減にして!もう!そんな事言って無いでタクシー探して!」
肉が食べたいと愚痴ってるジョージをよそにリナ教授は颯爽とタクシー乗り場へと足を運んでいた。すると教授へ電話がかかってきた。画面を見て相手を確認すると、すぐに受信ボタンを押して通話を受けた。
「ハイ!リナよ。ユーリ何かあったの?」
ジョージはそれを見て、この二人は敬称略で呼び合う関係なのかと思った。自分も早くリナと呼んでみたい。そんな事を考えている。
「え?本当に?すぐに向かうわ。」そう言うと電話を切り、ジョージへタクシー乗り場へと急ぐように言う。
「リナ教授、何かあったのですか?」
早足で歩きながらリナ教授は答えた。「南極でね。それ以上はここでは話せない。ケンブリッジ大学、いえ各国の政府は大騒ぎになっている。極秘だけどね。とりあえず、私達もケンブリッジへ急ぎましょう。」
タクシーを拾って乗り込む。幸いにも数組待つだけで、直ぐに乗る事が出来た。ケンブリッジ大学まで、なるべく急いで欲しいとドライバーに伝える。チップは弾むわとリナ教授は言った。ドライバーは嬉しそうにニヤリとした。タクシーはいい感じのスピードでコーナーをクリアして行く。ベテランであろうドライバーは実に楽しそうに運転している。コーナーごとに後部座席のふたりは左右に揺られる。リナ教授が身体を支える為にドア上のグリップを握った。横を見ると、彼は紙の袋からブリトーを出して食べている。ジョージと目が合うと、彼は言った。「これ美味いよ。半分食べます?」
上手なドライバーのお陰でケンブリッジ大学まで予想よりも早く到着した。運転手がドアを開けると、リナ教授は直ぐに降りてタクシーの中に居るジョージへ言った。「料金を払っておいて。チップもたくさんね!」そう言うと走って行ってしまった。
ジョージはキツネにつままれた様な顔をして。「え〜!」と言った。ゴソゴソと財布を出して、料金にチップを足して運転手へ渡す。すると運転手はそれを受け取りながら笑い、ジョージへ言った。「男はつらいね。」
ジョージは舌を出し。
「それもあんがい、楽しいっすよ」と、笑って車をおりた。
ケンブリッジ大学の学舎はとても素晴らしい。格式のある構えで、しかもインテリジェンスに包まれている。古き良き良識の伝統を感じる。「久しぶりだな。」学舎を見上げてジョージは感慨深い顔をした。実は彼の出身はスタンフォード大学で、全米ではハーバードに次ぐ屈指の大学だった。しかし、彼はその事をほとんど誰にも言わず暮らしていた。それを言うと、何か自慢する様で嫌だったのだ。だからその事を知っているのはフレスキー教授の研究室スタッフぐらいだった。彼は学生時代に数度ケンブリッジ大学の教室にも参加して、研究を学んだ事がある。懐かしい思い出の場所だ。
学生時代に校内をあちこち動いている経験から、彼は誰にも聞かずとも分かるだろうと校舎に入って行く。研究室のあるだろう建物内に進んで、教室を探して歩いた。その間、幾つかの研究室をのぞく。無関係な教室を見ながら、そこに居る若い研究者達を見て、頑張れよ皆んなと考えていた。基礎研究は陽のあたらない地味な仕事だ。それを彼は良く理解していた。そんな事を考えながら歩を進めていた時、前方の十字廊下に右手通路から左側へふたりの男達が行き過ぎるのを見た。
ジョージはあのふたりは学生じゃないなとピンと感じた。しかし大学の研究者でも無さそうだ。なんだか変にキツイ感覚を感じる。ヤバい仕事人か?何にしても平凡な人間じゃないだろう。ジョージは山岳体験が豊富なので、野生動物、特に危険性が高い肉食性の動物からの危険を察知する能力が鍛えられていた。ぼんやりしていると山では命は無い。熊や狼、そして猪など。そして猛禽類のオオワシや鷹から身を守らねばならない。
あのふたりの目付きはまるで野生の獣のようだった。自分の感覚には自信がある。ジョージはふたりに悟られないように気配を消していた。男達の姿が見えなくなると、懐から持っていた小さな鏡を出して廊下の向こう側を見た。サバイバーにとって鏡はとても役に立ち、遠く離れた山へも反射の光で合図を送ることも可能であり、ジョージは普段から習慣で持ち歩いている。それが役に立った。見ると、男達は廊下にある部屋へ入っていった。ジョージは足音を消してそっと閉じられたドアの前に立ち、耳をドアにつけた。かすかに話し声が聞こえる。ロシア語だ。
「殺すか拉致するか、指令を待っていたが殺れとの事だ。部屋から誘い出して別の部屋で始末する。」ジョージは世界各地を旅しているため、各国の言葉には精通していた。
ジョージは気配を消したままその場を去る。急いで研究者達の集まる部屋へと向かった。
研究室ではリナ教授とユーリ助教授を中心として話し合いが進んでいる。遅れて到着したジョージはドアの側で黙って聞いていたが、どうも話は南極大陸についての事らしい。中国軍が以前より南極大陸の周りの水域に軍を多数投入していたが、今回は他国の承認を得ずに上陸を開始したとの事だった。それも非常に大掛かりなもので、大輸送船団により軍隊を数万規模で上陸させ駐屯地を各エリアに設置している。そして、更に軍人だけでなく民間人をも数十万人規模で海軍が運んでいるとの事だった。中国は南極大陸に民間人を入れ、そこに住居をつくり出し、街を営む事を目論んでいる。そうなると、各国の政府は手を出しづらい。
ユーリ助教授が言った。
「シベリアツンドラ地帯の溶解による土壌の腐敗は大問題だ。しかし、それは南極大陸とて同じ事になると予想される。中国政府もシベリアの事はソ連政府から情報はある程度入っているはずだが、彼等にとってそれは些細な事だと言った認識なのだろう。あるいは、何かの人的な被害が出ても領土拡大の生贄ぐらいにしか考えていないかも知れない。」
その時、研究室のドアをノックして先程の男ふたりが姿を現した。
「ユーリ助教授はいらっしゃいますね。私達はモスクワ大学長からの依頼で参りました。早急にとの事です。内容をお伝えしすが、ユーリ助教授だけに直接との指示なので、おひとりで外でお願いします。」
研究室に居た全員がユーリ助教授へと視線を向けた。ユーリ助教授は仕方ない様子で「ちょっと待っていて」と皆に告げた。彼女は男達に促されて廊下に出る。ふたりの男はユーリ助教授を間に挟み、廊下の奥に向かって歩き出す。ドアの側に居たジョージも研究室を出て、その後をついて行った。男達がそれに気が付き、「おい、ついて来るな。」と言う。
ジョージは聞かないフリをして、ユーリ助教授の側まで進み彼女の手を掴み、自分の背後に彼女を隠した。男は威嚇するように「何をする!」と言った。
「それはコッチのセリフ。」ジョージはニヤリと答えた。
男は、ふざけるなと言いながらユーリ助教授を取り戻そうと手を伸ばしてきた。ジョージはその手を素早く手刀で撃つ。バキッと骨の砕ける音がしてその男は廊下に転がる。男の前腕部は『くの字』に折れ曲がっていた。
もうひとりの男はそれを見て、右手を懐の銃へ伸ばす。その瞬間物凄い速さで男の頭へ何かが飛んでくる。ジョージは回し蹴りでその男の側頭部をヒットしていた。蹴られた男は廊下の壁まで吹っ飛んでノビてしまった。ジョージはすぐにその男の背広を開くと、ホルダーから銃を抜き取った。
後ろからリナが叫んだ「ユーリが危ない!」
ジョージがユーリの方へ振り返ると、先程の腕を折られた男が自分の背広から銃を出して銃口をユーリ助教授に向けていた。指令通りユーリ助教授を殺そうとしたのだ。
ジョージは手に持った銃でその男へ向けて躊躇なく引き金をひく。弾は男の肩に命中し、男は後ろに倒れ込み男の持つ銃は廊下に転がった。
廊下の向こうには研究室から出て来たリナが立ちすくんでいる。リナはユーリに走り寄り、ふたりは抱き合った。ジョージはそれを見てホッとした顔をして言った。
「大した事ないよ。これくらい出来なきゃ、山にはひとりで入れないからさ。熊と戦うよりも楽なもんだ。」
ユーリ助教授はジョージに言った。「あなたがジョージね。リナから聞いている。ありがとう。」
何事かと廊下に出て来たスタッフ達は呆気にとられている。それはそうだろう、銃声の後に、血だらけの男がふたり廊下に倒れているのだから。ジョージが警察を呼ぶように頼んだ。
彼はリナに近寄って「007みたいだった?。」
するとリナはジョージの左頬へ平手打ちをし、ジョージに抱きつきながら涙声で言った。
「バカ!死ぬかと思った。」
ユーリがふたりの横に来て、
「助けてくれた御礼をしなくちゃ。」と言うのでジョージは笑って答えた。
「ステーキとドーナツでどうですか?」
それならとユーリは言う。
「じゃ、三人でドーナツ食べに行きましょ。」
大学の近くには学生達が集まる人気のカフェがある。人が集まる場所の方が安全だろうと、三人でそちらへ向かう。大学の造りに似た古い様式の、蔦のからまる煉瓦で出来たカフェだ。
カフェのオープンデッキに据え付けてある木製のテーブルとチェア。それも年月を経過したアンティーク家具の様に素敵だ。この場所には開学以来数多くの青年達が集い、青春の語らいをした事だろう。
カフェへの道。
ジョージを先頭にして歩く。リナとユーリは彼の後姿を見ながら歩いている。ユーリが言った。
「私の知ってるリナは研究の鬼で、まさか彼氏が出来るとは夢にも思わなかったよ。初めて知った時にも、嘘だと思って信じられなかった。だからリナの心を掴んだ人がどんな人なのか?そんな人が居るのか?この目で見るまで本当に信じられなかった。でも、今日その謎が解けた。ジョージは素敵な人ね。」
リナは自分に素直に答えた。
「ありがとうユーリ。今の自分が自分でも信じられないわ。」
リナ教授はブラックコーヒー、ユーリ助教授はダージリンティーを注文する。ジョージはアイスコーヒーとドーナツ四つ。
「オールドファッション二つと、ベーカリー、そしてフレンチね。」と言った。
「ふたりはドーナツ食べないの?」
「ジョージの見てるだけで胃もたれしそうだから、遠慮しておく。」リナ教授が答えた。
ユーリ助教授がティーをひと口飲んでふたりへ話し出した。
「あなた達のお友達、ショウ君とアンナさんの結婚おめでとう。ハネムーンでモスクワに行くのよね。それを聞いて新婦さんへのプレゼントを用意したわ。私が良く通ってる花屋さんがあるんだけど、そこでとても素敵なコサージュを作ってもらう事にしたの。花屋さんの名前は『クラシーヴィ』、美しいと言う意味よ。その店のオーナーはケーナさんと言う私の古い友達だから、心配しないで。彼女に『アンナさんが来たらコサージュを渡して』と頼んである。これをふたりに伝えてね。」
そう言うとユーリ助教授はスッキリした表情なった。ジョージはドーナツを頬張りながら言った。
「ショウとアンナには自分が伝えます。喜ぶと思います。本当にありがとうございます。しかし、美味いですよこのドーナツ!おひとついかがですか?」
ユーリとリナは顔を見合わせて笑った。ジョージは彼女達を大学へ送ったあと、ひとりで校外に流れる川のほとりにやってきた。この辺りは観光客や地元のジョギングする方々が多い。その川の土手を歩きながら見える風景は、おそらくこの数十年の間は変わりが無いだろう。大学もそうだが、周辺の街並みも昔のままを見せてくれる。近代的な未来都市よりも自然や古い街並みを愛するジョージにとってはとても心地良い。彼はスマートフォンを取り出しショウへ連絡する事にした。時差はかなりある。地球の反対側だ。
「でも早い方がいいよね。」と呟きながら電話した。
深夜のモントリオール。
ショウはフレスキー教授と電話をしていた。そこへジョージからの着信が入る。
「教授、今ジョージから着信が入りました。」
「来たか。では、この電話は切る。その後は彼の話の内容は一切誰にも言うな。もちろん、私にもだ。」
そう言うと、フレスキー教授は電話を切った。ショウはジョージからの着信を受ける。
「ジョージか!どうケンブリッジは?」
「良い所だよここは。まぁ、ちょっとトラブルあったけど大丈夫かな。ところで、」
ジョージはモスクワにある花屋の事をショウに伝える。余計なことは挟まず、ユーリ助教授から聞いたそのままを伝言した。ショウは黙って聞いていたが、ユーリ助教授の考えが分かった。
「それは素晴らしいね。アンナもとても喜ぶと思う。」そう言うと後はいつものように、たわいない雑談をして電話を切った。
キッチンではアンナが軽い夜食を作って居た。ショウはキッチンへ行って、ふたりでホットサンドをのせた皿と紅茶をリビングへ運ぶ。
「今ジョージから電話があったよ。モスクワ大学の近くに『クラシーヴィ』と言う素敵な花屋さんがあるんだって。」
アンナは黙って聞いている。テーブルの上の紅茶とサンドをショウの前に置き直す。
「その花屋さんのコサージュがとても素晴らしいらしい。ぜひ、お土産に買ってみてと言われた。ハネムーンだしね。それにコサージュを付けたアンナの姿を見てみたいし。」
アンナは微笑んで答える。
「それは嬉しいわ。じゃあコサージュが似合う服を着て行かなくちゃね。」彼女も全てを了解したようだった。
「でも私そんな服を持ってたかしら?」そう言うと、ふたりは肩をすくめて笑った。
翌日の午後、モントリオール空港からモスクワ空港への便にふたりは搭乗した。機内でショウは窓の外を眺めている。ソ連の上空に機が入る。何事も無いように見える。「この美しい大地が。」とショウは呟いた。
機は無事にモスクワ空港に降りた。他の乗客と共に入国ゲートに並ぶと、その出口に警官や軍人達が多数居るのか見える。彼等は乗客へ何か言っている。ショウ達の番が来た。
「何処へ向かうのです?目的は?」唐突に聞かれる。
アンナが微笑んで答えた。
「ハネムーンで来ました。モスクワと、その校外の観光地を回ります。」
「そうですか。それ以外の場所は?」
「行く予定はありません。」アンナがショウの手を握る。
警官はショウとアンナを交互に見て通してくれた。ふたりは手を取り合って空港を出た。タクシーに乗った後もアンナはショウの手を離さない。
「どうしたの?ずっと手を握りしめてるけど。」アンナは答える。
「今日はそうさせて。お願い。」
「僕はもちろん構わない。手を繋いでモスクワを歩こう。」ショウは嬉しそうに答えた。ホテルはボリショイ劇場の近くの由緒ある建物群の中にあった。とても素晴らしく、数百年の時を感じさせる。歴史と言うか、文化や芸術の匂いがする街並みを見せてくれる。
ホテルにタクシーが到着する。
荷物を下ろし、チェックインをした。ベルボーイに荷物を部屋に運んでもらうようにショウが頼んだ。
「せっかくだから、近くを歩こう。ボリショイ劇場も歩いて行ける距離みたいだよ。」
するとアンナは握りしめていた手に更に強く力を込めた。
「行くの?」と言う。
ショウはその事は気にならず、アンナを連れて歩き始める。モスクワ市街の中心部とあって交通量も多い。ただ、さすがに広いソ連らしい道はとても広く整備が行き届いている。暫く歩くとボリショイ劇場が見えて来た。ちょうど演劇が終わったようで、沢山の人達が劇場から出て来るのが見える。ほとんどの方は観光客だろう。皆さん、思い思いの服装をされているがボリショイの演劇を観るに相応しい格好だと思いながらショウは眺めていた。劇場に近づくと、一団のグループが出て来たので目を惹いた。アラブの真っ白な装束をまとい、とても厳かな雰囲気だった。彼等もまたボリショイの演劇を楽しまれたのだろう。その7〜8名程の方々は全員が身振り手振りで演劇の素晴らしさを語り合っていた。余程、伝統のある演劇に感動されたのだろう。その数歩ほど後ろに女の子が『くるみ割り人形』のクララの人形を抱きしめながら歩いていた。10歳ほどであろうが、よほどその人形が気に入ったのか話し掛けながら歩いている。彼女の歩は遅れるが、集団は観劇を観た興奮からか、後ろを気にしていない様子だった。
アンナと手を繋いで歩いていたショウが立ち止まった。すると何かを感じたようで、彼は手を振り解きいきなり走り出した。彼の出来る限りの力で走る。数秒ほど走ると、その時地響きと爆発音が一帯に響く。
周辺に居た観光客達は、何事かと爆破音の方向へ目を向けた。道路にある穴から大量の白煙と炎が見える。マンホールが吹き飛んでいる。
高さ15メート程に舞い上げられたマンホールは斜めに落ち始める。まるで円盤を投げたように回転し、シュルシュルと空気を切り裂きながら飛んで行く。
それを見て、その場の人々は皆凍りついたように動けない。恐ろしいのだ。
ただひとり、ショウだけが走り続けている。彼はあの女の子に向かっている。
マンホールもまた、鋭く回転しながらその方向へ向かっている。
女の子をショウが守るように抱きしめた時、マンホールが頭上に物凄いスピードで落ちて来た。
アンナは「ショウ!」と叫びながら両手を広げた。
ショウは女の子を抱えている。左手で身体を守り、右の手で彼女の頭部を守り、地面に片膝を立てるように全身で彼女を包み込み、しゃがみ込んでいる。
そのふたりの頭上に轟音と共にマンホールが落ちた瞬間、ふたりは光で包まれていた。その光にまるで弾かれるようにマンホールは角度を変えて飛び、煉瓦建の建物の壁に激しく突き刺さった。煉瓦はボロボロと崩れ落ち、周りの景色はその振動で歪んで見えた。
ショウは女の子を抱いていた。覆い被さるように抱いているショウの顔と手足には煉瓦の破片が突き刺ささり、血が流れていた。
その子の母親らしい女性が女の子に駆け寄り、ショウの手から抱き上げた。女の子は意識があり、『ママ』と泣いている。
アラブ装束の男性がショウに言葉を掛けているが、ショウの意識は無く、だらりと地面に横たわったままだった。
アンナがそこへ駆け寄って、目を閉じて何も答えないショウの手を握る。そのままアンナも意識が無くなって、倒れ込んでしまった。
救急車と警察車両、そして消防車両も集まって来る。救急車の一台はショウとアンナ、もう一台は女の子と母親を乗せて救急センターに向けて発進した。
周りで見て居た人達はそれぞれ話している。
「あの青年死んでないのか?マンホールが直撃するのを見たけど、あの青年と女の子は死ぬと思った。信じられない。」
「奇跡よ。生きてるなんて。」
「あの壁に食い込んでるマンホールを見てみろ。あれがぶつかったんだ。普通なら即死だろ?」
その中のひとりが口を開いた。
「俺にはマンホールが跳ね返されたように見えた。あの青年の背中にぶつかってマンホールは跳ね返された。見間違いかも知れないけど。自分にはそう見えた。でも、そんな事あり得ないよ。」するとその周りにも、そう見えたと言う人が何人も居た。
誰かが言った。
「あの青年の勇気には感動した。自分の命をかけて女の子を守るなんて。彼の血を流した姿を見ると涙が出るよ。」
この事件はたちまちニュースになった。いろいろ噂も出て来る中、事故の原因は地下でのガス管破裂だとソ連政府は断定し発表した。ただ海外メディアには、その事故原因を不明として発表する場合が多くニュアンスが微妙に異なっている。しかし国内、国外問わずニュースの共通点があり、その事故には幼い女の子を救ったひとりの男性が居ると言う事だった。
モスクワ大学医学部、救急救命センター。
ショウは二日の間、昏睡状態でベッドに横たわっている。アンナは妻と言う事もあり、看護が許されていた。ドクターからは、彼の全身と脳にはかなりの衝撃があり、その為の昏睡との診断だったが、右肩の脱臼と鎖骨の骨折も認められるとの事だった。ショウは三日目の朝、目を覚ます。
顔中絆創膏だらけのショウが薄目を開けると、アンナが居るのが分かった。
「どうしたの?此処は何処?」
「病院よ。痛みは無い?覚えてるあの時の事?」
「ああ、そうか。助かったんだね。あの子は?あの女の子は大丈夫?」
「大丈夫よ。擦り傷で済んだわ。」
「良かった。助かったんだ。」
「あなたには、見えたのね。あの事故が起こる事。」
「うん。直前に感じたんだ。見えたんだ。そしたら無我夢中で。」
「助けに行ったのね。ショウらしいわ。もしかしたら、ふたりとも死んでいたかも知れないのに。きっと何かに助けられたの。」
「そうだ、きっとそうだと思う。アンナ、あの花屋さんには行ったの?」
事故がニュースになり、今回の救出した男性は結婚のハネムーンでカナダから来ている事が報じられていた。ショウとアンナの名前もニュースで知らされて、それを見た『クラシーヴィ』のオーナーが病院へ訪ねて来ていた。
「ユーリ助教授に頼まれていたと言って、花屋のオーナーさんが来てくれたの。私達の事をニュースで見てね。それで病院までコサージュを持って来てくださったの。あなたの勇気に感動したとおっしゃっていたわ。だから、プレゼントしたいって言うの。それはと遠慮したけれど、どうしてもってお金は受け取らなかった。自分の作ったコサージュを付けてもらうだけで光栄だって。私の胸を見て!これが頂いたコサージュよ。とっても綺麗だわ。」
「そう。良かった。そのコサージュ、とても君に似合うよ。淡いイエローの華。大事に持ち帰らなくちゃね。」
「花と言えば」とアンナは話し出す。
ショウが昏睡状態で入院したと言うニュースが流れると、モスクワはもとより、ソ連全土、そして世界各地から彼の無事を祈る為の花束が送られて来たのだ。それはとても病室には入り切らず、病院の玄関アプローチや中庭まで埋め尽くす量だった。病室はまさに花畑のように。
「ショウ、もし起きれるなら窓から外を見てごらんなさい。」そう言って電動ベッドをゆっくり起こした。
ショウの右肩と右腕はギブスと包帯でぐるぐる巻きにされている。点滴にも注意しながら身を起こして外を見ると、そこには中庭の地面が見えない程の花達が置かれている。
「ショウが回復するように、ソ連だけでなくて世界中から送られて来たの。花にはあなたの無事を祈る言葉が添えられている。中国からもたくさん来ているのよ。国境は無いわ。人種も無いわ。全ての人達があなたの無事を祈っているの。」
ショウは、何かを感じるように黙っていた。
「あ、それからね。あの女の子のご両親が事故の当日から毎日病院にいらしてね。あなたの意識が戻ったら御礼を言いたいとおっしゃっているわ。本当ならもう帰国する予定だったらしいけれど、あなたが回復するまで滞在を延ばすと言ってね。今日も午後から来るはずよ。どうする?」
「そう。あの子も一緒に来るのかな?それなら会いたい。」
アンナは看護ナースに連絡し、ドクターに診てもらうように頼んだ。すると病院の大勢のスタッフ達が病室に集まって来る。全員が自分の事のように喜んでいる。ショウの顔を見て拍手をする者もいた。ドクターは言った。
「私もニュースで事故の詳しい事を知りました。信じられないと思います。ここに居る皆がそう思ってます。ショウさんへ、飛んで来たマンホールの蓋が確かにぶつかったと多くの目撃者が述べています。この傷で済むとは驚きです。ともあれ、良かった。後は骨折部の手術が必要ですが、どうされますか?」
アンナが答えた。
「先生はじめ、病院の全てのスタッフの皆さんにはとても感謝してます。ありがとうございました。私達はハネムーンでモスクワに来ました。実はこの後ロンドンに行かねばなりませんので、もし飛行機に乗れるようなら向こうで手術してもらおうと考えてます。」
ドクターは搭乗には問題無いだろうと、許可を与えた。若いナース達がドクターに何か言っている。
「ショウさん、もし迷惑でなければですが、病院を出る時にスタッフ達が全員集まってショウさんと記念写真を撮りたいと言ってます。大丈夫ですか?」
ショウが戸惑っているのを見てアンナが言った。
「そうしてあげなさい。」
ショウが無事に目覚めたとのニュースはあっという間にメディアによって流された。そしてそれは時を経ず世界へ発信される。
昼が過ぎ、面会希望者達が来た。あの少女の家族だった。彼等はショウが入院してから毎日病院へ来てショウの容態を心配していた。女の子は事故の翌日退院していたので、一緒に来ていた。
ショウの病室のドアが開いて、ボリショイ人形を抱いた女の子が飛び込んで来た。
「ショウさん!助けてくれてありがとう!私はカシミといいます。」
あの時の女の子だった。ショウのベッドに近寄ってショウの左手をとった。ショウはその小さな手を握り返す。
「カシミちゃん?良かった、元気そうで。」
アラブの衣装の方々が入って来る。その子の父親らしき男性がショウへ深くお辞儀をして言った。
「ショウさん、私はサイールと申します。娘を助けて頂き、お礼を申し上げます。あなたが居なかったら、娘の命は無かったでしょう。私達は目の前であなたの勇気を見ました。あれは奇跡です。私達夫婦にとって、娘は何よりも大切な宝です。今、娘はあなたの勇気で生かされています。」
男性の隣に居た女性が言葉を継いだ。
「ショウさん、私はアイーダと申します。あなたは御自分の命をかけて娘を守って下さいました。なんと御礼を言っていいのか。」
ショウはにこやかに答える。
「カシミちゃんですよね、娘さんのお名前は。彼女が助かった事が自分にとっても一番嬉しいんです。今日はカシミちゃんの元気な姿を見せて頂いただけで幸せです。本当に良かった。」
サイールは再度頭を下げて言う。
「家内と私は自分達の全てをあなたに捧げてもまだ足りないほどと思っております。何でもおっしゃって下さい。」
ショウは驚いて答える。
「そんな必要はありません。私は本当にカシミちゃんが無事ならそれで良いのです。他には何も必要ありません。」
サイールはそのショウの言葉を噛み締めるように聞いている。
「分かりました。では、私どものお願いをひとつだけよろしいでしょうか。あなたとアンナさんを私達の家族としてお迎えしたいと思います。血は繋がってはおりませんが、血よりも濃い絆です。家族として一生お付き合い下さい。」
そう言って、夫婦ふたりでお辞儀をした。
ショウはどう答えて良いものか分からない。アンナがショウを見て言う。
「お受けしましょう。それもまた、礼儀だし、運命よ。カシミちゃんとも家族になれるし。」
カシミはそれを聞いて大喜びしている。ショウとアンナと家族になって嬉しくてたまらないのだ。
その後四人は歓談していたが、与えられた面会の時間が間近になる。病室を出る時間を前にして、妻のアイーダはアンナへひとつお願いをする。自分の首にかけられたネックレスを外して、それを受け取って欲しいとの事だった。淡いピンクダイヤモンドだ。
「この宝石は私共の家系の宝なのですが、主人とも相談して是非あなたに受け取って欲しいのです。どうか、これを。」
そう言って手に取っていた、ピンクダイヤモンドのネックレスをアンナの首にかけた。
アンナが驚いて、辞退するとアイーダは言う。
「数千年の昔からの先祖代々の言葉が込められているのです。かけがえのない『救い人』が現れた時、迷う事なく渡せと。私達には迷いはありません。」
サイールも言う。
「その通りです。今、あなた方へ渡さなければ私達は先祖に顔向けが出来ません。どうぞお受け取り下さい。物は持つ事が喜びではありません。渡す事が出来る事こそが真の喜びなのです。」
カシミは両親の顔を交互に見ていたが、父と母の言葉が終わると言った。
「パパ、ママ、偉いわ。さすが私の親ね!」
その言葉に、病室に居た全員がにこやかに笑った。
その後、リナ教授の手配でショウとアンナは渡英してケンブリッジ大学医学部で手術を受ける事になる。病院から盛大な拍手を浴びて二人を乗せたタクシーはモスクワ空港へと向かう。空港も大勢の人達がショウ達を見送りに来ている。皆、口々に「ありがとう!」と言っている。出国チェックも無事に通過する。そのゲートの監視員達も、そして配備された軍人達も皆、ふたりへ声をかけている。
「ありがとう!またモスクワへ!」
ロンドン空港にはジョージが迎えに来ていた。ショウ達の顔を見るなりジョージが言った。
「ショウ、モスクワで良い事したな。でも、ニュースで見たけど相当危なかったみたいだな。そのぐらいの骨折でまだマシかもな。」
「ありがとう。でも痛いよ。」
「そりゃ骨が折れてるんだから当たり前!大学の医学部でしっかりやってくれるから大丈夫だ。めちゃくちゃ名医らしいよ。ところで、お前が助けた女の子の事だけど、知ってるよな?」
「いや、知らないよ。名前がカシミって言うぐらいしか知らない。どうして?」
「えー!知らないのか?本当に?知らないのか?」
「え?どうして?知らないとマズいの?」
「あの子の両親はアラブ系の富豪の中でもトップクラスと言うか、家系の凄さは中東の中でも抜きん出てる由緒ある家で、今は表には出ないけど政治や経済における影響力は半端無いらしい。それに凄いのは、その財閥や政治力に加えて人格的な影響だ。あの家系代々その言葉が神格的な影響を与えている事で、人々の精神的な支柱になっている。」
「、、、、、。」ショウは言葉が出ない。
「つまりな、こう言う事だ。金や力で無く、たとえ見返りなど無くても周りの国民達はあの方の為にならどんな事でもする。国民達からはそれほどに、信頼と愛情を受けている。いや、心底信じているのだろう。そう言う人、お前が助けたのは。その方のひとり娘なんだ。ヤバいだろ?」
「ヤバいな。」
アンナが胸に手をあてて。
「あのね、このネックレスを頂いたの。」
ジョージはそれを見て、驚きのあまり後に数歩後ずさりした。
「そ、それは、あの家系のピンクダイヤモンド?」
ジョージは世界各国を旅して、地方の様々な伝承や伝説化された話なども色々聞いている。特に彼の性格上、現代的科学的な事よりも考古学的な事象についてかなり本格的な学びをしていた。
「噂の域の話だけは聞いた事がある。謎に包まれたピンクダイヤモンドの事は。お前達は何も知らないと思う。知っていたら、受け取らなかったかも知れないな。これから言う事は、あくまでも伝説だ。そのつもりで聞け。信じるか信じないかは、お前次第だ。」
ジョージはいつに無く真面目な顔付きで語り出した。彼の話によれば、その宝石は宇宙の神秘そのものだと言う。この大宇宙にあるエネルギーを受け取る事が出来るパワーストーンであり、他の石とは全く別物なのだと言う。ただ、持つ者誰しもがその石を持つ事でエネルギーを受けられるかと言うと、それは違うと言った。その石は、持つ者を選び、持つに値した人間だけがその石の持つ本当のパワーを得る事が出来るのだ。つまり、その石は自己の意志と共通の人間にだけ心を開き、潜在的に持つ力を発揮する。要するに、その時に初めて宇宙のエネルギーを受ける。
そこまで一気に話すと、ジョージは深く息を吸う。
「誰もが持てば良いと言う事では無く。持つべき人が持つべき石だ。常人か持っても、ただのダイヤ。持つべき者が持てば、、」
ショウとアンナは息を呑み、次の言葉を待つ。
「宇宙の意志と通じる。その意志を知る者は誰も居ない。どんな意志なのかは、誰も知らない。」
ジョージは最後に言った。
「この事について、俺に質問はするな。これ以上言う事は何も無い。そしてこの話は忘れろ。」
そう言い終わると、いつものジョージに戻っていた。
「さぁ、ドーナツでも買ってケンブリッジへ急ごうぜ!あ、それから言いそびれたけど、アンナ!そのコサージュとっても似合ってるよ。」
三人はジョージの車に乗って大学へと走り出した。
ケンブリッジ大学の研究室に入って行く。ショウとアンナを迎えたユーリ助教授は言った。
「アンナ、コサージュ気に入ってくれた?私のセンスいいでしょう。」
アンナは御礼を言って、そのコサージュを胸からそっと外しユーリ助教授へ手渡した。リナ教授も来てモスクワでの事故の話をした。
「大変だったようね。こちらでもそのニュースで持ちきりだったのよ。でも、そのお陰で無事に出国出来たのも事実ね。ショウは怪我をしっかり治さなくちゃ。医学部のドクターに頼んであるわ。私達はこれから分析に入るから少し時間がかかる。その間にショウ達はドクターに会ってらっしゃい。」
ユーリ助教授はコサージュを分解してデータを取り出し、研究室のスタッフ達と分析準備を進めて行く。ユーリ助教授は地質学の権威、リナ教授は生物学が専門なのでそれぞれの意見を踏まえて総合的な見解を出す。データはAI分析にかけられて行く。シベリア地帯の地質学的動向と、細菌分析に主体を置いた。
「出来れば北だけで無く、南極大陸のデータも欲しいところだけど、同時に進行している極点付近の地質溶解が知りたい。そうすれば、大陸プレートの変化予測も分かるんだけど。」ユーリ助教授は残念そうに言った。
AI分析が終わりそうな時、研究室が僅かに揺れた。
ユーリ助教授がスタッフに言った。「NASAに緊急連絡を入れて、プレート地点観測のデータをすぐに送らせて。」
世界の各大陸にはそれぞれ断層プレートが存在する。そのプレートの動向を衛星がリアルタイムで確認出来るシステムが構築されている。莫大なる数の定点を確保し、その定点を衛星観測する事で僅かな定点のズレや上下を知る事が可能になっている。しかしながら、海面化の情報源はまだ十分と言えるほどの量では無かった。そしてソ連北部と南極大陸においても然りだったのだ。極点付近の観測態勢にはまだまだ不備があるのが現状である。
リナ教授がユーリ助教授に尋ねた。
「今の揺れなんだけど、震源地が複数のようね。変だわ。」
通常の地震はほぼ100%の確率で一定の断層プレートで単発的に発生する。ところが、今回の揺れは世界各地にある断層プレートに多発同時的にズレが見受けられる。その震源地の数は数百に及んでいた。特に際立っている異変は北と南の極点付近にも震源地が発生した事である。
ユーリ助教授はリナ教授に言った。
「地球の回転軸は極点を貫く地軸なの。その軸の傾きは23.4度。その軸を中心にして地球は回転しているのはご存知の通り。今までは極点部は南は永久凍土、そして北は北極の氷棚大陸にて守られていた。ただ、それが溶けたの。この10年の間にほとんどの氷河は消失したわ。南極大陸は僅かに極点部のみに凍結土が残るだけなの。そして北点には過去は北極圏と呼ばれた氷の大陸があったの、過去にはね。それがもう無くなってしまった。その事がどう言う意味を持つのか?それは海水面の上昇はもちろんだけど、実はもっと重大な事があるの。」
「ユーリ、もしかしたら歪み?極点が歪むの?」
「さすがリナね。その通りよ。大きな駒を想像してみて。回転している地球サイズの駒よ。軸を中心にして回っているけれど、その軸の部分にほんの少しでも緩みが出たら?
地球は無重力の宇宙空間に居る。
それなのに彼方へ飛び去ってしまわないのは、慣性の法則で回っているから。そして、太陽の重量による引力を受けているから。
つまり、無重力の宇宙空間にもその天体が持つ質量、それによる慣性の法則は生きているの。例えば、宇宙船の中で駒を回せば回り続けるの。フリスビーを投げれば、回転しながら飛び続ける。地球は太陽の重量と、自分の地軸の回転による自転による慣性力で生きていると言っても過言ではないわ。その軸が緩むとどうなるのか?」
教室に居る全員がユーリ助教授の言葉を待った。
「今までは地球の外殻は、自身の慣性によるスピードで。そして中心核もそれに合わせて狂わないように回転していた。それがもし緩むとそのバランスが狂わない保証など無い。
外殻が速度を速めるか、遅くなるか?中心が速くなるか、遅くなるか?はたまた、自転しなくなってしまったら?。
それはAI分析にかけなれば分からない。どちらにしても、ズレる可能性はゼロでは無い。そして太陽もその地球のバランス崩れをそのままにするとは思えない。おそらく、現在のような安定したコロナフレアでは済まなくなるかも知れない。太陽のフレアが荒れてしまう。」
リナ教授がユーリ助教授に聞く。
「ユーリはどう予測するの?どうなって行くの。地球は?」
「地球は生まれ変わろうとする。変化に合わせて進化するの。つまり、その変化したバランスに合わせて自分自身を作りかえようとする。進化論のダーウィン博士も言った、生き残るのは強い者では無く、変化に対応出来る者だと。その言葉通り、地球は必死になって自己崩壊し、バランスに対応した天体に再生変化して行く。それを死ぬと見るのか、進化と見るのか。それは宇宙が決めること。人間の知るところでは無い。」
その話を後ろで聞いていたジョージが言った。
「自然界と同じなんだな。永遠に生きる生命なんて無い。どんな生命でも、死んで種を残して生き返る。進化しながらね。宇宙もそうやって進化する。そう言う事だろ。しかし、自然界はミクロな宇宙とか言うけど、本当に花一つとってもそうなんだよ。小さな宇宙なんだと思うよ。だから、地球も一度枯れて、再生するしか無いかもな。そうなると人類の終わりか。」
「ジョージ!お前らしく無いな。簡単に諦めるなよ。」
医学部から戻ったショウがドアの前で言った。
ジョージがニヤリとして言う。
「ショウ、お前何か考えてるのか?どうするって言うんだ。」
「え?いやそんな、何も考えて無いけどさ。気持ちだけは諦めないって言うコト。それじゃダメかな?」
「ショウらしいなぁ!仕方ない、俺もそのダメ意見に付き合う事にするよ。」
ジョージは大声で笑って、ショウに歩み寄りガッチリと握手した。そして横に居るアンナの肩を抱き寄せた。
するとリナ教授とユーリ助教授も歩み寄り、スタッフ達を全部呼び寄せる。そして、そこに居た全員で肩を組み、声を合わせて叫びましょうとリナ教授は言った。
「ダメ意見に付き合うぞー!」
落ち込んであきらめるか、不可能にさえもチャレンジするか、それは人の気持ち次第だ。
ショウはその後でポツリと独り言を呟き、笑った。
「そんなにダメ意見じゃないんだどなぁ〜。」
南極大陸。
中国の大規模な植民地化計画は加速度的に進行していた。数十万規模の人民を輸送艦で送り、大陸の各地へ移住させている。大陸の周辺の海域には巡洋艦による警戒域が張り巡らされていた。もちろん、主要各国も黙ってはいない。国連では大問題として議論されている。しかし、中華韓国区(既に中国の一部となっている)とソ連政府は中国政府の動きを許容していた。彼等は南極大陸の資源を望んでいる。中国の軍事力、経済力、そして世界一の人口による圧倒的な支配力により南極大陸を植民地から中国、ソ連の二カ国による共同体支配を画策している。現時点では、中ソの連合体に反旗を上げるのは自国の経済にとっては決して少なくないダメージを受ける国がほとんどだ。その為に、半ば中ソの侵略とも言える南極大陸の植民地化を本気で妨害する国は現れない。また、中ソはこの植民地化と新国家建設について、協力もしくは容認した各国には南極大陸の資源を確保すると水面下で動いている。各国の政府、特に軍事力と経済力に乏しい国々はその事をチャンスとも捉えている。何故なら、自力では南極大陸の資源は到底確保する事は不可能であり、もし中ソに反対したとしても欧米の主要国にて寡占される事が分かっているのである。中国は猛反対し批判の矛先を収めない欧米主要国、そして世界各国へ言った。
「人類史を見よ。人々は領地を拡大する為に、原住する人間を殺し領土を得てきた。イタリア、イギリス、フランス、ドイツ、そしてアメリカ。例外は無い。多くの犠牲の上に築き上げられた国々だ。今、私達はただひとりの人間も殺しはしないだろう。各国の思惑で領土を取り合う事はあまりにも愚かで、人の命をないがしろにする事だ。我が国家は無血にて南極大陸を開発し、そしてその資源を望んでいる弱小なる国々へ優先的に分配するだろう。それを踏まえての支持を求める。我が国家は、全ての国々からの協力に感謝をし、その礼を決して忘れる事は無い。協力した国々は必ずや豊かになる事を保証する。」
各国の政府は揺れ動き、まるで火花を散らすように激突する。まるで、それは世界の大陸を襲う大地震のようだった。その激震は人々の生活や経済、そして精神までも崩して行く。人は将来の不安に怯え、恐れ、自己保身の魔物に取り憑かれていった。
それとは別に、極点部の様子も激変し続ける。その経験した事の無い変化は地球の全人類を飲み込んでしまう。
全てが今までと変わってしまったのだ。全ての当たり前が無くなりつつあった。
世界各地での大地震と、予測不可能な天候不順。各地で凶作と不漁が続き、深刻な食糧不足となる。特に資源の乏しい国ではそれは深刻な事態となる。エネルギー資源の枯渇、食糧不足、そして最も恐ろしい人心の乱れ。人々は奪う事こそ命を守る事だと考え始める。無理も無い、死ぬか生きるか究極の選択なのだ。
ソ連シベリアツンドラの凍土の融解は加速した。悪天候がその速度を速める。さらには、南極大陸でも凍土の融解が止まらない。ついに南極大陸でも腐敗菌が地上に餌を求めて姿を現し始める。植民地化された入植者達は次々と腐敗して行く。それは瞬く間に、大陸全土へ広がっていった。
ツンドラでの腐敗菌による死亡者が加速すると、欧州各国の民衆はパニックになった。その腐敗は中国の北部へも進んでいった。理由の分からぬ死因に人々は逃惑うしかない。
ケンブリッジ大学。数週間前。
リナ教授達はツンドラのデータにて解析を進めていた。地質学的なデータと共に地層内に含まれる細菌層のデータも僅かながら入力されてある。過去のワクチンの経験からそれらの新種の細菌類にも適した製造法を模索していた。
AIの分析結果を確認し、リナ教授が言った。
「現時点のAIでの判断ではワクチンは無理だとの結果だわ。ワクチン製造にはいろいろあって、タンパク組み替え式のベクター型、コロナウィルスのmRNA型、そしてDNA型などがある。ただ、どのワクチンでも腐敗の弱毒化は望めない。幾ら変異させても、腐敗の毒性は消す事が不可能なの。生きた細胞に触れた瞬間には腐敗が始まってしまう。そして、その腐敗物をエネルギーにして増殖する。手の打ちようが無い。その菌に少しでも触れたら死ぬのよ。治る事は無い。」
その言葉を聞いたユーリ助教授が言う。
「もっと情報を集めての解析が必要ね。それまでは、隔離するしかないわ。凍土の融解エリアから遠去かるしか無い。地質学的なデータからは大陸の崩壊は無いと出ている。つまり、地層が割れて海洋への流出は無さそうね。ただ、地軸の変化によっては不透明だけど。」
リナ教授が提案する。
「この腐敗菌がどう言う生態を示すのか?そのデータが不足しているの。データや菌そのものを得る事が出来ると、分析結果を元にして弱点も探せる可能性が高い。ただ、これはあまりにも危険な仕事なのでその手配が難しい。」
「俺がやってみますよ。」
ジョージが言った。彼は言う。
ソ連の最北部にシュミット岬という空軍基地があり、その規模や内容は謎に包まれている。民間人はもちろん立ち入る事は不可能だ。ましてや外国の民間人などに許可が出される事は、軍部の最高幹部の許可を得なければならない。ただ現時点の基地は無人化していた。腐敗菌の広がりで軍は北からの撤退を余儀なくされていたのだ。そこへ行くとジョージは言った。
「セスナで飛ぶ。そして凍土のサンプルを取ってくるよ。」
リナ教授が言った。
「サンプルは欲しいけれど、それはやめて。危険過ぎる。」
「俺、危険な場所って大好きなんだ。誰も行きたがらないでしょ?そこ。ワクワクするな。それに久しぶりにセスナも操縦出来るしね。自慢じゃないけど、セスナとヘリコプター、それに船も操縦出来る。重機もひと通りやってるよ。あ、そうだ!たぶん戦車とか置いてあるかも知れないな。ついでに操縦してみようかな。」
リナ教授が言った。
「あなたって人は!」
「俺の勘だが、ツンドラ凍土でも気温の上昇が早い南部から溶解が始まっているから、最北部にあるシュミット岬基地はまだおそらく溶解してはいないだろうと考えている。時間の問題だが、まだ少しの猶予はあるはずだ。そこへ飛んで、基地の外の地面を数メートル掘り返して土地のサンプルを採取する。ただひとつ問題がある、。」
「危険って言う事?」リナ教授が心配そうに聞く。
「いや、違う。セスナの燃料なんだ。途中ドイツで給油したいと考えているが、それでもギリギリなんだ。それは今から近くのセスナ機の飛行場に行って、相談する。腐敗を防護するような防護服とサンプルを取る一式をリナ教授には用意して欲しい。」
ジョージはリナ教授と一緒に地元のセスナ機の飛行場へと車で向かう。リナ教授が言った。
「ロンドン空港みたいに大きな空港じゃなくて、地元の小さな所でいいの?」
「ああ、いいんだ。そう言った地元のセスナ機のマニアが集まる飛行場の方がいい。」
ふたりを乗せた車が飛行場へ入って行く。大型の格納コンテナの前でふたりは車をおりた。ジョージは地元の方に近寄って何かしら話していた。するとその地元の方はジョージを連れて、別の格納へ歩いて行き、ふたりでその中へ入った。しばらくすると、ジョージが戻って来てリナ教授へ言った。
「良かった。ツイてるな!航続距離を競うレース用の特別セスナが有るそうだ。普通のセスナの二倍の距離を飛べる。そのセスナに更に予備タンクを載せて、もっと長い距離を飛べるように加工を頼んできたよ。タンクの固定と連結ですぐに終わるらしい。さすが、邪の道は蛇だ。セスナの事はセスナマニアに聞けだな。」
直ぐにでも飛ぶとジョージはリナ教授へ言った。
リナ教授は車の中から紙袋を取り出してジョージへ渡した。
「はいこれ、持って行きなさい。あなたの一番好きなドーナツよ。お腹が空いたら食べて。それから、私の事をリナって呼んでくれる?そう呼んで欲しいの。」
「リナ。とても嬉しいよ。でも、俺が一番好きなのはドーナツじゃなくリナなんだ。いや、ドーナツと一緒にしちゃ失礼だな。リナ、愛してる。世界で一番。」照れ臭そうに彼は言う。
「私もジョージの事を愛してる。」リナの目から涙が溢れ出し、ジョージはそっと手の指でそれを拭いた。
セスナのベテランの方が改造が終わったセスナを車で引いてきた。滑走路まで用意してくれると、ジョージがドーナツを持って操縦席に乗り込んだ。途中、ベテランに聞かれた。
「それは?ドーナツかい。」
「ハイ!改造ありがとうございました。」
そう言うと彼はエンジンを始動した。エンジン音が唸り出し、プロペラの風が舞い上がる。ジョージはリナへ向かって大声で叫んだ。
「戻ったら、俺と一緒になってくれ!」
「聞こえない!今なんて言ったの?」
騒音と強い風でリナにははっきり聞こえなかった。
その横でベテランの方がジョージへ向かって、気をつけてと言いながら元気よく手を振っていた。
ジョージが操縦するセスナ機が飛び立つ。ジョージは挨拶のつもりなのか、両翼を交互に上下にユラユラと動かした。それを見ながらベテランさんがリナ教授に言った。
「ところで彼は何処まで飛ぶ予定なんだい?」
「極北にあるシュミット岬というところまで。」
「え?今何と言った?シュミット岬と言ったのか?そんな所まで行けるはず無い。彼は何を考えてるんだ!」
「確か、ドイツの飛行場で一旦降りて給油したいと言っていたわ。」
「いやいや、それにしてもドイツから飛んだとしても片道切符だ。帰りの燃料なんて残って無い。彼は死ぬつもりなのか?それほどしてまで、シュミット岬に行かなくちゃならん訳でもあるのか?」
どうなってしまうのか。ベテランさんが続ける。
「それに、ソ連邦は勝手に上空を飛ぶ事を許さないだろう。下手したら撃ち落とされるぞ。なんて事を考えるんだ!それが分かっていたら、止めたのに。」
「たとえ止めたとしても彼は行ったでしょう。そういう人なの。あなたに心配かけてごめんなさい。でも、きっと彼なら大丈夫だと思う。やり遂げるわ。」
既に機体は遠く彼方へ飛び去り、翼の残す二本のかすかな白煙が、頼り無げに見えているだけだった。
ケンブリッジ大学。
ショウの怪我の処置は無事終わり、アンナと共に研究室へ戻っていた。ユーリ助教授が極点のデータ解析がほぼ終わり、その報告をお願いしていた。ショウは最も心配している事を聞いた。
「シベリア北部と南極大陸の凍土の融解によって、大陸棚や極地の地層内にある断層の緩みはどうですか?」
「その点は大丈夫そうね。大きな地層のずれは無さそうだわ。もし割れてしまうと腐敗菌を含んだ溶解土が海洋へ流れ出す恐れもあったけれど、その心配は今のところ必要無いようね。」
アンナは下を向いて聞いている。
ショウが言った。
「そうですか、まだ良かったです。では、後は腐敗菌の分析待ちですね。対策を立てないと。」
ショウはアンナの方に近寄って、相談があると言う。
「実は、病院で骨折の手術後にアンナが病室に居てくれたよね。その間、ずっと僕の手を握ってくれてた。その時僕は麻酔の為にぼんやりしていたんだけど、聞こえたんだ。」
アンナはショウの言葉にうなづき、聞いている。
「カシミに会えと、そう聞こえた。だから、君と一緒にアラブへ行かなきゃならない。」
ショウがアンナにそう言うと、アンナが黙ったまま懐に手を入れてスマホを出した。その時、着信があった。
「はい、アンナです。サイールさんですか?はい、ショウの怪我の方は大丈夫です。はい、はい、、
、、、」
アラブの富豪のサイールからの電話のようだ。しばらくアンナとサイールは話していたが、電話を切ると彼女がショウへ言った。
「カシミちゃんも同じ事をお父様へ頼んだみたいよ。どうしてもショウを呼んでくれって。それでサイールさんから電話がかかって来たのよ。全部手配済みだからロンドン空港から飛んでくれって言われたわ。」
「カシミちゃんも同じ事を?」
「そうね、あなた達同じ事考えてたのね。」
「そう、もしかして、自分と彼女が事件の時に触れ合って同じ光に包まれたから?」
「そうかもね。」アンナはそう言って、何故か悲しさを表した。
指定された通りロンドン空港へ行くと、サイール家の自家用機が待っていた。それに搭乗してドバイへと飛び立つ。機内には秘書だと言う女性が居て説明を受けた。
「サイール様はドバイの別邸でお待ちになっております。中東の治安はかなり不安定で、安全性を考えての事です。中東だけではなく、世界的な人心の乱れをサイール様は危惧されております。」そう残念そうに言った。
ふたりはドバイ国際空港から、一路港へ向かう。そこでサイール家の自家用船に乗った。秘書は言う。
「港からそう遠くはありません。これから向かうのはサイール家のプライベートアイランドになります。もうしばらくで到着します。」
船長が来てふたりに挨拶をした。
「この度は遠路ありがとうございます。おふたりに乗船頂き光栄に思っております。たった今連絡が来ましたが、サイール様は島の港でお待ちのようです。」
島の港に到着した。とても整備された湾内には大型の帆船が数台係留されていた。よく見ると、そのヨットのデッキにカシミが居て、元気そうに手を振っている。カシミはふたりを見つけると、走って来てアンナに抱きついた。サイールと奥さんのアイーダもヨットの中からふたりのもとへやって来た。
「ようこそ!おふたりをお待ちしておりました。カシミがどうしてもおふたりに会いたいと言うものですから、御無理を言って申し訳ありません。この島の中は後でゆっくり御案内させて頂きます。悪天候が続きましたが、久しぶりに今日は天候も良いようなので、ヨットで少し島巡りなどを楽しみましょう。ヨットのデッキでお話を聞いて下さい。」
ソ連ツンドラ地帯上空。
ソ連軍のレーダーに探知されにくいように低空飛行を続けているセスナ機。ドイツでの給油を終えて、シュミット岬を目指していた。天候は変化を続け、風雨が襲い来る。機体はガタガタと音を立てて今にも分解してしまいそうな頼り無さだった。ソ連軍のレーダーはセスナを捕らえていた。
「上官殿、一機の未確認飛行物が確認されました。」
「何?戦闘機か?何処の国の物だ?」
「いえ、戦闘機ではありません。どうもスピードと機体の動きからすると小型のセスナ機のようです。北東部へ進路をとってます。」
「セスナか?民間機かも知れないな。それで進路はどの方向だ。」
「どうもシュミット岬方面のようですが、あの方面の部隊は全て撤退しております。どうされますか?」
「シュミット岬の方面、、、何をしたいのか。分からんな。シュミット岬航空基地の資料は全て撤退時に持ち出している。もし基地に降りられても何も無いはずだ。」
「そうです。あの基地からは至急撤退命令の為に重要な資料だけ持ち帰っているのですが、数機の航空機と重機などを残してはいます。もちろん、火器弾薬などはありません。」
上官はしばらく考えてから、言った。
「ほっておけ。自暴自棄になって死にたいんだろ。自殺行為としか思えん。撃ち落とすだけ、弾の無駄だ。それに我々には民衆を制圧する仕事が残っている。軍を総動員して国外逃亡を計る奴等を黙らせなくてはならん。」
ジョージが操縦するセスナ機の機体には翼に氷が張り付き始めた。機が風でブルブルと揺れるごとにそれが剥がれ落ちる。前方の視界は曇り、機の計器が示す方位計と後は彼の勘だけが頼りだった。燃料計はエンプティ近くを示し、あと100キロ程しか飛ぶ事は出来無い。さすがのジョージもブルッと身震いをした。操縦席の横に置いた袋を片手で開けてドーナツをひとつ取り出した。
「リナのくれたドーナツ。勇気百倍だ。ポパイのほうれん草だ。ちょいと古過ぎて誰も知らないかな?」独り言を言いながら彼は笑う。
ジョージは口元にドーナツを運んで、そっとキスをした。ドーナツのほのかに甘く、良い香りが彼の心を暖めた。
ドバイ、サイールの島。
二艘のヨットが湾から滑り出した。一台はショウ夫婦とサイール家族。そしてその後方にはサイールの部下の操る護衛艇が従うように後を追っていた。二艘のヨットの帆は穏やかな風を受けて静かに波を切ってゆく。ドバイの水平線が夕焼けの赤と水面の青とで鮮やかなコントラストを見せていた。ヨットの舵をとるサイールの半身も美しいオレンジ色に輝いている。サイールはヨットの操船を自動に切り替えて、船内のリビングに入って行った。
「夕焼けが綺麗だから、デッキで紅茶でも。」
「奥様お手伝いします。」アンナとアイーダはキッチンで紅茶とカシミの為にホットチョコレートを用意する。
サイールはショウとカシミをデッキに誘い、夕陽が良く見える席をショウに勧めた。
「とても綺麗だ。大自然の美しさに適うものはありませんね。」サイールがショウへ言う。
ショウは、ひとしきり水平線の夕焼けに見惚れていた。アンナ達が飲み物を運んで来た。
「カシミがショウさんと、アンナさんに話があるようなんです。実は私達夫婦もまだどの様な内容なのか聞いていないのです。さぁカシミ、お話を聞いて頂きなさい。」
「ショウとアンナにね。私が見た事を聞いて欲しくて。」そう言って黙り込んだ。カシミは自分の見た事をどう伝えれば良いのか自信がない。
「夢で見たのかい?良かったら話してくれる。」ショウが優しく言うと、カシミは語り出した。
彼女は恐ろしい夢を見たと言った。とても怖くて、ショウに聞いてもらわないと眠れない。寝ると、また同じ夢を見てしまうと怯えている。理由は分からないけれど、多くの人達が死んでしまうと言って泣いた。
ショウは話を聞き終わり、カシミを抱きしめた。
「僕も見たんだ。カシミと同じ夢を。これから僕の言う話を聞いて驚くかも知れないけれど、それは真実なんだ。」ショウはサイールとアイーダにも聞いて欲しいと言う。
「君は、僕がもし話さなかったとしても、これからの事を知ってしまう。見えてしまう。だから、僕の口から伝えておくよ。」ショウは飲み物をテーブルの上に置いて語り出す。
「君の見た夢は現実になる。人類に残された時間は、もう少ない。これから先多くの人が亡くなってしまうだろう。その残された時間はとても貴重だと僕は思っている。
人は誰でもいつかは死んでしまう。その限りある時間の中で、誰をどう愛したのかが、死んだ後に天国へ持ち帰れる全てなんだ。お父さん、お母さん、友達、お店の店員さん、バスで横に座った人。昔、偉い人が『隣の人を愛せ』と言ったけど、その通りなんだ。愛は昔も今も変わる事はなく時間を超えるものだと思う。
愛はそれを与えた他人を暖め、そして与えた自分も暖める。決して減る事はない。僕とアンナは思っている。残された時間の中で、多くの方に幸せになって欲しい。『愛する事』それがこの宇宙の意志。死は終わりでは無いと思っている。」
アンナも言う。
「この地球も生きているし、いつかは死んでしまう。そして、必ず産まれ変わるものなの。地球上の命も産まれては死に、そして他の生命に産まれ変わる。今、地球は死につつある。でもね、それは再生の為の道筋なの。」
ショウが言葉を継いだ。
「人は老いて死ぬけれど、地球も同じなんだ。本当なら、その地球の死と再生は遥かに遠い未来だった。だけど、その時間がとても短くなってしまった。地球は病んで、このままでは死の星になってしまう。だから、再生する為にバランスを取る事が必要なんだ。宇宙のバランス。それが宇宙の意志。
その意志を取り戻す為に地球が再生を始める。産まれ変わり、全てが変わる。これは、人間はどうする事も出来ない。その事を批判する事も出来ない。人間が出来る事は、一つだけ。その宇宙の意志を受け入れる事。それだけ。
僕らは学ばなくてはならない。それはね、宇宙の意志に従って生きることが大切だと言うこと。その意志を愛し、受け入れる事。」
サイールが言った。
「人は老いて死を迎えた時に、人生の意味を知ると言います。その時が人類全てに来るのですね。」
「サイールさん、これから先の事をお話しします。地球がどうなるのかを。」
シベリア北部上空。
ジョージが操縦席の計器を確認する。燃料計の数字はエンプティを通り越し、警告灯が赤く点灯していた。ただ彼はその状況下においても焦る事は無い。焦り、動転しても、良い事などひとつも無い事を幾多の経験から身に染み込ませていたのだ。彼の神経はギリギリの場面で、職人が研いだナイフの様に研ぎ澄まされる。先程まで寒さの為に震えていた指先の揺れはぴたりと止まり、見えなかった視界が広がって見える。一瞬の判断ミスで全ては終わる。彼はその瞬間を楽しんでいるかの様にさえ見えた。
「よ〜し!」と彼が言う。
右方向にセスナが旋回を始めると、霧の中にシュミット航空基地が見え始めた。滑走路を確認し、機体を合わせて行く。その時、セスナのエンジンがプスプス鳴き始める。燃料がほとんど行って無いのだ。ジョージは両翼を上下に小さく揺らす。燃料タンクを揺らしたのだ。するとエンジンは息を吹き返した。
「頑張れよ!もう少しだ。」と彼は言いながら両翼の車輪を下ろす。滑走路がフロントガラスの中でブルブル揺れながら迫ってくる。地面が迫り、セスナが接地するとタイヤがキュッと鳴いて白煙が出た。格納庫直前でセスナは停止すると、惰性で回転していたプロペラがガクガクッと止まった。
ジョージは操縦桿に伏せる様にして「ふぅ〜っ」と大きく息を吐いた。ほんの一瞬の達成感。だが、のんびりとはしていられ無い。時間との勝負なのだ。彼は操縦席の後ろから防護服を取り出して、狭い機内で着る。そして最後に頭部をすっぽり覆うキャップを装着し、セスナのドアを開けた。
冷たい雨と風が吹いている。彼は格納庫の中に入る為に入り口を探したが、どのドアも施条されている。少し離れた場所に建物がある。そこまで歩く間に数台のトラックが放置されている。ドアを引くと開いたが、キーは無かった。運転席から荷室に入ると工事用の工具などが置いてあり、その中でバールを拾い上げた。
建物のドアも開かないのを確かめると、彼はバールを使って壊した。中に入って電灯のスイッチを入れてみたが、反応は無い。電気が来ていないようだ。部屋の中を見回したが、全てが灰色に見える。建物から出たが、やはり全て灰色だ。
「ここには色が無いのか?」
そう言いながらジョージは格納庫へ戻った。先程のバールで入り口を壊して中に入る。その奥右手に給油機があった。彼はこれを探していたのだ。
給油機のスイッチを押すが、やはり反応は無い。格納庫の外に出て、周りを探す。発電所らしき小屋がある。おそらく自家発電用のエンジンが設置されているはずだ。この場所になど伝送線を張るわけが無い。
小屋を開けると、発電用エンジンが二台設置されていた。このエンジンを始動する為のモーターが横に座っている。そしてバッテリー用だと思われる箱があった。ジョージは祈る思いで箱を開けた。
防寒布をかけられた大型のバッテリーが数個並んでいる。その配線ターミナルのマイナス端子が外されていた。それを見て、大きく息を吐く。息が白く吐き出される。
「真面目な整備士で良かった。」彼はそれを全て繋ぎ止めると、始動ボタンをおした。
エンジンの振動音が静寂の中に響く。パッと電灯の明かりがついて、灰色の世界に色がともった。死の世界からこの世に戻ったように感じる。ジョージはその色彩を感じながら言った。
「これで、この世に帰れる。」
格納庫にあるショベルカーを使って、基地の外に出る。土地のサンプルを採取する為に数メールの穴を掘ってゆくが、地面は固く凍っていて、ガッガッと音がする。
「こりゃ、手で掘ってたら三日必要だったな。ま、その前に死んでたか。」
ジョージはセスナに給油が済むと、直ぐに基地を飛び出した。
ドバイ、サイールの島。
穏やかな海上をゆっくり進むヨットのデッキでショウは語る。
「呼んで頂く以前からこの日、この場所でお会いするのは既に分かってました。お話しをする運命だったのです。その内容を聞いて下さい。
サイールさんからピンクダイヤモンドをいただいた日の夜でした。自分でも夢なのか分かりませんが、脳裏にありありと見えたのです。」
サイールが聞いた。
「それは予言でしょうか?」
「それは、自分には分かりません。おそらく、誰にも分からないだろうと思います。それ以前に、誰も信じないと思います。」
アイーダが言った。
「人は、自分に都合の良い事は信じやすく、都合の悪い事は信じ難いと言います。」
ショウは答える。
「明日死ぬと言われて信じる人はどのくらい居るでしょう。人は残された時間が短いと確信した時、生きることの本当の意味を知ります。」
アイーダは頷く。
「死の持つ意味でしょうか?」
ショウはその後、一言一言を区切るように、噛み締めるように、話始めた。
「いえ、死はきっかけに過ぎません。生きる意味を知る事こそがこの宇宙の意志だと教えてくれました。それをこれからお話しします。」
「宇宙の意志は、人間が考えることとは違います。人間の都合では無いのです。人間はそれを評価する事は出来ませんし、人間の評価は意味がありません。」
「宇宙の悠久の中で、時間の持つ意味は生きることでしか理解出来ません。生死とは、その時間の持つ意味を知る事です。」
「人間は生きる時間の中で、自分をつくります。そして、死を迎える時に『どう生きたのか』と言う『結果』を残すのです。『結果』、それは宇宙に影響を与える要素になります。」
「今、地球は変わる事を望んでいます。地球は自己の中で積み上げられた『結果』が宇宙のバランスに合わないと思っているのです。」
「宇宙は生命を与えました。生きる時間を与え、その生命に自由を与えました。そして『結果』を残します。」
「この人間の残した結果がそのまま地球と宇宙に影響を与えます。」
「地球に変化が無くとも、いつの日か強い生命体が地球に来て、人類は滅ぶでしょう。人類史の『争いの結果』が宇宙へ影響を与え、その『結果』を人類は自ら受けなくてはならないのです。」
「人類はどのように結果を残して来ましたか。過度な欲の為に、悲しみの結果を残しました。」
「宇宙の意志はバランスを求めています。それはバランスが宇宙全体を護り、創り上げているからです。調和とバランス無くしては、宇宙は無いのです。」
「その意味を知る事が生命体には最も幸福と安心を与えます。何故なら、宇宙の真意と調和するからです。」
「残された時間は短い。結果を残す時が来ました。」
「90日後には人類の大半は命を落とすでしょう。地球が宇宙の意志とのバランスを保つ為に変化して行きます。」
「人間にも同じく宇宙のエネルギーが宿っています。それは、調和と愛です。愛し合う時に生命は誕生し、育むのです。宇宙の真意はそこにあるのです。」
「愛し合う事、それが人類を護るでしょう。」
「サイールさんにお願いがあります。」
ケンブリッジ近くの飛行場。
ジョージは無事にセスナで帰還した。ベテランさんは驚いている。
「お前さん、本当にシュミット岬まで飛んだのか?良く生きて帰れたな!」
「オヤジさん、セスナをお借りした料金を払います。」
オヤジさんはセスナを撫でながら、そんな物はいらないと言う。お前さんが俺のセスナで有り得ない挑戦をしてくれて本当に嬉しいし、なによりお前さんに会えただけで十分だと言った。これから何処へ帰るのかとオヤジさんはジョージへ聞いた。自分のトラックで送るよと機嫌良く笑った。
オヤジさんの車の中でジョージがシュミット岬での出来事を話すと、目を丸くして驚いていた。そしてジョージへ真顔で聞いた。
「どうしてそんな危険な事をやろうとしたんだ?戻れなかったら死んでただろ。」
ジョージは答えた。
「それは、、、愛ですね。たぶん、愛です。」
ケンブリッジ大学に到着したジョージはリナの待つ研究室へ凍土のサンプルを持って入る。
入って来た彼を見たリナの目から涙がこぼれ落ちた。
「ただいまリナ。ドーナツ美味かったよ。」
ジョージは真っ先にリナを確認し、彼女の姿を目をしっかりと見る。
「うん。良かった、、本当に良かった。」
リナはやっとクチに出来た。
彼女は今回のシュミット岬への飛行が、どれほどに困難なのか分かっていたので、連絡も無く待ち続けた時間は永遠のように感じたのだ。
ユーリ助教授はそのふたりを見つめて、言った。
「リナ、良かったわね。そしてジョージ、本当にありがとう。早速分析に取り掛かるわ。リナは細菌のデータを解析してくれる?」
腐敗菌の分析と実験が進む。徐々に細菌の様相が見えて来た。
リナ教授が言う。
「35億年以上前から地球に存在する『古細菌』の一種ね。この仲間にはメタンガスを発酵によって生成する種が多い。今回のシベリア凍土の溶解によってメタンガスが大量に発生したのもこの細菌が主に関与している。メタンガスは二酸化炭素の数倍の温暖化効果があるから、大気温の上昇は不可避ね。急激な上昇になるのは止められない。
この『古細菌』は元々は乳酸菌みたいな発酵菌だったけど、数億年地中で生き抜く為に進化した。この腐敗菌は恐ろしい。タンパク質、糖質、脂質、そして骨の成分であるリン酸カルシウムを腐敗分解し、毒素を生産する。この腐敗菌の出す毒素は非常に強力なもので触れた生体組織は考えられないスピードで腐ってしまう。
ただ、今回の実験で弱点も拾う事が出来た。先程言ったように数十億年の間、彼等は地中で過ごして来た。つまり、太陽の光には無縁の世界だった。通常の地上部分に当たる日光が持つ紫外線には耐性を持つが、紫外線レベルが上がると彼等は死滅する事が発見された。そしてもうひとつの弱点がある。」
ジョージが言った。
「温度かな?寒い中で暮らしてたから、暑いの苦手かもね。」
リナが笑ってる。
「いやそんな、暑がりとかじゃなくてね。熱に弱いってことね。」
「同じ事じゃない?それってさ。ドーナツみたいに油で揚げたら?死ぬかな?」
「またドーナツ?でもそれは、当たってるわ。実験では摂氏60℃を超えると死滅する事が発見出来た。それに乾燥にも弱く、湿度が15%以下でも生存不能のようね。ただ、今言った条件は地球上にはなかなか無い。赤道付近や砂漠地帯ぐらいかも知れない。」
「どんなに凶暴な奴にも弱点は必ずある。それを知る事が身を守るためには絶対条件だ。」
ジョージは自分のサバイバル経験から納得するように言った。
ドバイ、海上のヨット。
ショウはサイールに言う。
「今、私のお話しした事は、おそらく誰も信じないでしょう。それだけではなく、言った本人は相当な非難を浴び、命をも狙われる事になるでしょう。
しかし、私は知ってしまった以上、それを伝えなくてはなりません。どのようになろうと、すでにその覚悟は出来ております。その上で、お願いしたい事があります。
サイールさんのお力で、中東地域、そしてアフリカの砂漠地帯、赤道付近の乾燥地帯にシェルター基地を創り上げて欲しいのです。そして出来る限り多くの方を避難させて下さい。これは、サイールさんにしか不可能な事だと思ってます。」
ショウがそう言い終わると、サイールが言った。
「そこは命を繋ぐ為のシェルターなのですね。」
サイールは深く考えた。
なるべく多くの方を救う為には、通常のやり方では不可能だろう。ショウの言葉の意味を確実に伝える方法が必要だ。そして、それに賛同する者達全ての力を結集してシェルターを創る。それ以外には無いだろう。ただ、果たして成功するだろうか。いや、それは考えるべきでは無い。やるしか無いのだ。サイールはショウへ尋ねた。
「時間の猶予はどのくらいでしょうか?」
「90日間です。その後は、太陽のフレアが激しくなり、磁気嵐の為に電子機器は全て使えなくなります。強い紫外線は生命を奪います。そして、天変地異が始まります。それが始まった後はシェルターの外には出れなくなります。」
「分かりました。私とアイーダでやってみます。」
そう答えてサイールは妻を見た。すると、娘のカシミが言った。
「お父さん!ワタシもやるからね!」
世界情勢。
10年ほど前に南極大陸の氷がほとんど溶け、南極は棚氷も全て溶けた。それに時を同じくして、世界各地では異常天候が頻発しだした。農作物は凶作が続き、海では各地で不漁となる。各国の政情もそれに伴い不安定となる。
それは人民の疲弊を加速させる。物価は高騰し、賃金は下がり、失業者は街に溢れていた。社会的なストレスにより、巷には身体的精神的な病に罹患する者が増加している。
最も重大な問題は、それらによる人心の乱れと暴力、略奪行為の蔓延だった。弱者は更に弱くなり、強者はそれを喰い物にしてゆく。全てが混沌となって、不安と恐怖が世界を支配していた。
南極大陸の氷河と北極海の棚氷の消失は海水温の急激な上昇を招く。数十年前からの温暖化対策は、焼石に水となる。温暖化による大気温の上昇を抑えていたのが海だったからだ。熱量の大半を吸収してくれていた海が一気に高温化してゆく。
海水温の上昇は海の生態系を破壊していった。地球は海水に育てられたと言っても過言では無い。その海が各大陸から流される汚染物によって傷んでいる。海底に沈んだ廃棄物は計り知れない。成層圏もまた、各国からの宇宙ゴミにより、取り返しのつかない程の汚れた空間になっていた。
中国はソ連と結託して、弱小国を自国へ取り込もうとしている。南極大陸は実質的な支配下に置かれていた。欧米諸国はそれに対して抗議はすれど、有効な対向は出来ない。その体力が残っては居なかったのだ。各国の思惑は迷走し、混沌とした。
ドバイ。
ヨットはサイールの島へ戻り、別邸へショウとアンナは居る。ふたりはゲストルームへ案内された後、海の見えるリビングへ行った。ふたりを待っていたサイールがショウと話し出す。
「私の家系は代々アラブの地で暮らして来ました。その間、中東の財閥だけでなく世界中のユダヤを含めた財閥達との絆を創り上げて来ましたが、彼等に力を貸してもらおうと考えています。人種や宗教の壁を超えて、全ての力を結集しなければならないと思っています。
ただ、大きな問題があるのも事実です。一番の抵抗は、おそらく各国の政府でしょう。政治的な思惑で、足並みを揃える事が困難な状況なのです。もし、それが可能だとしてもかなりの時間が必要なのは必至でしょう。
しかし、私達に残された時間は90日間です。その猶予はありません。各国の政府の結集は諦めざるを得ません。
そこで、財閥主体で事を進めようと考えています。全世界の財閥グループに力を借りるつもりです。それでも、多くの人の為のシェルターを創り上げて行くのは至難の業でしょう。それを可能にする方法はひとつだけあります。
民間人のボランティアに協力してもらう以外には無い。そう思います。多くの方々に協力してもらい、その全員と財閥グループの力を合わせて行くのです。」
ショウもその方法しか無いと思う。サイールは続けた。
「財閥グループ、そして民間人ボランティアを結集してゆく為にはどうしても欠かせない事があります。それはリーダーです。
ショウさん、それはあなたです。
ヨットの上でショウさんは言いました。『誰も信じないだろう、そして危険が襲い掛かるだろう』と。
確かにそうです。私もそう思います。ただ、その役目を果たすのはあなたの使命でもあるのです。他の誰でもなく、あなたにしか出来ません。
ショウさん、あなたの意志、宇宙の意志を世界へ示して下さい。あなたの言葉は必ずや、人々へ伝わるでしょう。そして、地球を、人類を守る為に人々は集まって来るでしょう。
それが私とアイーダ、そしてカシミのお願いしたい事です。」
ショウの隣に居たアンナが彼を見て「ショウ」と言った。
前を向いていたショウがアンナを見る。胸元のピンクダイヤモンドがほのかに光って見えた。
「分かりました。伝えましょう。サイールさん、お力を貸して下さい。全世界への配信の手配をお願い致します。」
サイールはショウの目を見て、しっかりうなづいた。彼は直ぐに財閥グループに招集をお願いし、彼等に伝えた。
世界中の財閥達。表には出ない者、出る者が居る。真の意味での豪族達が呼ばれた。
サイールはその前で言う。
「我が家に代々伝わる伝説は、皆さんご存知でしょう。」
そう話し出すと、財閥の長達は皆、お互いの顔を見合わせてざわついた。まさか、と言う顔をしている。サイールは続けた。
「サイール家は数千年の間、その言い伝えを伝承して参りました。そして、その時が来たのです。」
その場に集まった全員から、驚きの声が漏れた。
「その言い伝えとは『救い人が現れた時、躊躇なく渡せ』との事です。」
サイールがそこまで言うと、ざわつきは一層高まり、場は騒然となった。
「皆、黙って聞け!」
と誰かが言った。最長老の男だった。彼の顔には深い皺が刻まれ、その眼光は鷲の様に鋭く、そして海の凪のように静かだった。
「続けなさい、サイール。」彼は言う。サイールは彼に頭を下げて、続けた。
「持つべき方の元へ、ピンクダイヤを渡す事が出来ました。そして、その方はおっしゃいました。
人類にはもう時間が無いと。
90日後には、地球は大きく姿を変えてゆき、ほとんどの人間が、それに飲み込まれるだろうと言います。
その方の使命はひとつ。
世の人々へそれを述べ伝える事。
これからの天変地異の中で、人は助け合わねばならないと語られました。
その方の言葉を全世界へ伝えるのが、私達の使命だと信じます。
ピンクのダイヤの伝説を信じる者達よ、どうか私に力を貸して下さい。」
その場に集っている豪族達は、半ば信じられない顔をしている。また、半数は黙り込んで深く考え込んでいた。ひとりが言った。
「その方が本物である証拠はあるのか?」
そう言うと、先程の長老がその言葉に答えた。
「証拠などあろうはずが無い。」
先の男は自分の言葉に恥じるように黙り込んだ。長老は続けた。
「サイールは、ワシの知る限り、他の誰よりもその人格は優れておる。その彼がデタラメを言うと思うか?
そして彼はまた、人を見る慧眼がある。そうでなければ、豪族達の頭になど成れるはずが無いだろう。
人を無闇に騙さず、信じるに値する者を見極めて信じること。それが彼の姿だ。
ワシはサイールを信じておる。」
彼のその言葉で、場の雰囲気は決着したように見えた。場内の豪族達がサイールの元へ集まり、指示に従うと言うと、サイールは言った。
「その言葉は私にでは無く、ピンクダイヤモンドを持つ方へお願い致します。私はその方の使いなのです。」
南米大陸、最南端ホーン岬。
ホーン岬は裸岩の切り立つ断崖である。頂上の標高は424メートルもあり、この岬への上陸は不可能だとも言われるほどの見るからに最果ての厳しさを人間に突き付ける。岬の先には流速の速いホーン岬海流が流れる。荒天が多く航海の難所であり、岬を通過する経線が大西洋と太平洋の境界なのだ。その切り立つ岬の岸壁の岩が大きく音を立ててガラガラと海中へ落ち始めた。
大きな地震と共にホーン岬は崩れながら海中へと沈み込む。それと時を同じくして、世界の大陸の各地で巨大地震が頻発する。大津波が陸を飲み込み、各海岸都市は壊滅的な被害を受けた。天候は大荒れとなり、豪雨と雷が都市部を襲う。世界は不安の中に突き落とされて行く。
そんな中、サイールを中心とした豪族達が各国の要人達へ手をまわしていた。
先のサイールと豪族達の話し合いで、ショウの言葉を全世界へ伝える場を作り出す為に、彼等は知恵と、権力と、そして財力を総動員する。長老は、その『救い人』の言葉を伝える場として国連を利用しようと考えていた。
「奴等は見栄と金の成る木は、見逃さん。そこを踏まえて策を建てるのじゃ。お前達の腕の見せ所だ。問題は中国とロシアだろう。南極の件には触れて欲しくないからな。それからな、話の中味は決して言うな。地震についての今後の展開とでも言っておけ。間違いじゃないからな。」長老はニヤリと言った。
いつの世も、役人は金には弱いようだ。もちろん清廉潔白なる政治家達も多い。しかし、スネに傷を持ちながらそれを隠して生き延びるのも彼等の常套手段だ。ましてや、金の動きを実質的に押さえているマネーグループには逆らえない。豪族達がその気になれば、国のひとつやふたつ、破産させるのも可能なのだ。
準備が整ったと、長老へ連絡が入った。
長老はサイールに言った。
「サイールよ。ワシは長く生き過ぎたのかも知れん。まさか、このような世になるとはな。しかし、人生で宝も得た。それは家族、そして信じられる友じゃ。お前と一緒に同じ時間を過ごす事が出来て、ワシは本望だと心底思っておる。お互いにあとに残された時間は少ないかも知れん。人類の為に少しは恩返ししないとな。」
地球の海底。
過去100年間に渡るプラスチックの不法投棄が堆積している。それらは年月と共に細かく砕かれ、マイクロプラスチックとなり海中に浮遊していた。それらはやがてガスを放出させる。プラスチックは紫外線と海水の塩分により劣化しガスをだす。そのメタンガスは、今まで地球大気の熱量を吸収して来た海水温を急激に上昇させてゆく。メタンガスは二酸化炭素の25倍にあたる温暖化をもたらすのだ。海水中のプラスチックは回収不可能どころか、加速するように年々増えて行ったのだ。そして、それに追い討ちをかけるように海底火山の噴火が各地で頻発する。海は汚れ、生物は急激な減少を示す。最も海中生物にとって重要な海中プラントが激減した。さらに死んでしまった珊瑚礁、海藻類は海水中の酸素量を激減させた。沿岸の地域では、まるで沼地のような様相を呈している。
大規模耕作地。
農作物は人の命とも言える。大地からの恵みで人間は生活を営んで来た。その大地が干からびてしまう。
大陸の大規模な麦やトウモロコシ畑は致命的な水不足に直面していた。地下水を供給源として来たが、その水源が各地で涸れてゆく。さらに乾燥した平原は森林伐採による吹き曝しにより、次々と砂漠化して行った。
海、そして陸からの食糧が人口に比べ、圧倒的な不足を生じる。人々は天候不順と食糧不足に怯え、不安の中に居る。さらに、各地では免疫力を無くした人々の間に感染病が蔓延していった。
電力。
基礎的な資源を持たない国は、完全な電力不足となる。飲料水の供給も不足し、衣食住のライフラインが分断された。電気車両もガソリン車も、水素車もエネルギー不足により、無用の長物に成り果てた。当然ながら、人々は自給自足の生活を強いられる。都市部ではもはや暮らしを立てる手立てが無くなり、山村部へと逃げていった。沿岸の原子力発電施設も頻発さる地震と悪天候により、稼働停止を余儀なくされた。また、破壊された原発施設は海洋と近隣のエリアに致死量放射線を垂れ流した。
気候。
急激な気温上昇による、大気流の変化が頻発する。熱した海水からの噴水のような蒸気は、超大型のハリケーンを生じる。その水害は河川を破壊し、街を飲み込む。山岳地では、各地で大規模な土石流が発生し続ける。また、乾燥地帯は更に乾燥が長期化し、動植物が生存可能な状況は消失する。
国連総会。
もはや、一触即発な状況の各国の緊張はピークに達していた。互いに侵略と支配を目論む。多くの国は独裁、もしくは軍事国家の様相を呈している。戦火を待つだけのように見えた。
異常事態の中、国連総会が開催され、その壇上にはショウがいた。
何者かと訝る(いぶかる)各国の大使達を前に、ショウは立つ。世界中に配信される語りが始まった。
ショウが語り出した。
「全ての人々に、人類と地球の未来を伝える事が私の使命です。その為に私は選ばれました。
あなた方全ての人々にとって、残された時間は僅か90日間なのです。
老若男女、人種、宗教、貧富の差はありません。全ての人に平等に時間は与えられ、過ぎてゆきます。
残された時間の中で、生きる事の意味を知る事です。
人間は過去の間違いの精算をしなければならないのです。
地球は本来の姿に戻ってゆきます。宇宙の望む姿へ。
与えられた時間の中で、お互いに慈しみ、育むことです。
そうしなければ、次はもうチャンスは与えられません。
今回が、ラストチャンスなのです。
90日間をどう生きるかで、人類は生き残るのか、死滅するのか、それが決まります。」
反発の嵐が巻き起こる。
世界中の起業家、ブルジョワ層、インテリ、先進国と軍事国家。彼等は自分達の積み上げて来たこの世界を否定されたように感じたのだ。
それをよそにして、財閥グループはシェルターの建設を進める。各国からのボランティアを募り、ショウの言葉を信じる多くの人が参加した。
ショウは世界中のメディア、人々からの猛烈な批判を浴びる。彼は悪魔の生まれ変わりだと、殺人予告をする者達も多い。
それでもサイールを中心とした世界中のグループはボランティアと協力して過酷な工事を達成する為に、明日の人類の為に死にものぐるいで働いた。
各国の軍事国家は猛反発した。
ショウを気狂いだと笑う者がほとんどだった。工事の妨害や、嫌がらせをする。殺人予告も相次いだ。
しかし、工事現場ではスープの差し入れや、疲れた人々を癒す為に楽器を演奏し、歌う者も居る。子守りをする者、老人の世話をする者。愛する者と過ごす者。皆は、それぞれに残された時間を過ごしていた。ただ、時間は容赦なく過ぎていった。
シェルターは世界各地に建設された。あるひとつのシェルターにはサイールと長老が居た。
サイールが長老に言った。
「もう残すところ3日となりました。シェルターは明日閉じます。長老はこちらに入って下さい。」
「いや、ワシは残るよ。シェルターには入らん。」
サイールは驚き、尋ねた。
「どうしてです?あなたは入らなければならない方です。」
「ワシは長く生き過ぎた。それに、残ってやらねばならぬ事もある。」
サイールには言葉の意味が計りかねた。
「サイール、ワシは地球を見届けたい。そして残される多くの人を愛したい。『死は地獄では無い』と教えねばならぬ。愛を持って死ぬ事は、決して悲しみでは無いのだ。残された数日、数分、数秒の中で愛する事の大切さを皆に教えながら死にたいのだ。残される事を恨む事の無いように、ワシには教える義務がある。それがワシの使命なのだ。それがこの90日の間に分かったのだ。許せ、サイール。これがワシの人々への恩返しなのだ。」
サイールは人目もはばからず泣く。長老の意志は固かった。彼は残された時間の中で、自分の生きる意味を噛み締め、そしてハッキリと悟ったのだった。
時間は刻々と刻まれていった。
そしてシェルターの扉が閉じられる90日目の夜が来た。
今までの静か過ぎる日々とは全く違う恐怖が襲って来た。それは、獲物を狙うライオンのように静かに忍び寄り、そして急に襲い掛かかる。
南極大陸のプレートが大きく裂け、極点の地軸が揺れ始める。大陸の海岸線は海面に沈み、また浮かぶ。海中の海底火山は噴火した。海水を飲み込み、水蒸気とマグマが爆発する。
太陽のフレアも大爆発を続け、容赦無い致死量の紫外線が地球に放射された。次期嵐は全ての電子機器を焼き尽くす。人口衛星は全て吹き飛んだ。山岳は崩れる。川は氾濫し、荒れ狂う。海は沸騰し、考えられないような雨雲で地上を覆い尽くした。火山の噴火も続き、噴煙とマグマは地表を火の世界にした。地上はこの世の終わりを告げるように、荒れ狂う。人々はなす術もなく、逃げ惑うだけだった。
ある者は、家族を抱きしめ祈り。またある者は、他人が逃げ込んだ地面の穴に入り込み、他の者達を追い出した。銃を乱射する者は、他人の持つ僅かな食糧の為に数すえ切れない人々を殺す。コンクリートの家の中で、襲い来る略奪者へ容赦無く銃を撃つ。
そして礼拝堂へ集まる人々。もはや祈る事だけが彼等には救いだった。
ガーナ、シェルターの中。
ガーナ共和国は古くから英国とは深い繋がりがある。そこに建設されたシェルターの中に、ショウとアンナ、そしてケンブリッジ研究室のスタッフ達は居た。
揺れ動くシェルターの中で、ジョージがショウへ言った。
「大変な事になったな。しかし、シェルターを各地に建設して良かった。もし、やってなかったら人類は全滅して居ただろう。おそらく、1億人ほどはシェルターで助かる。100億人のうちの、1%だが、それでも俺は良かったと思う。ショウ、全ての人を助けられなかったのはお前のせいでは無い。自分を責めるなよ。」
「ジョージ、ありがとう。正直言うと、自分は身を引き裂かれるほどに悩んだ。辛い。全ての人を助けられなかったのは、辛い。
ただ、自分の使命は『伝える事』だった。それを人類へ伝える事。」
「お前は良くやったよ、ショウ。全滅を救ったんだ。」
「自分は多くの人々を助ける事が出来なかったと考えている人がほとんどだったかも知れない。それもまた事実だ。人間の評価として。
ジョージ聞いてくれるか?」
「良いとも、何でも言ってくれ。俺達は親友だろ。」
ショウは語り出した。
「人間の思いと、宇宙の意志とは全く違うものなんだ。
価値観も違い、倫理観も違う。資本主義も無ければ、共産主義も無い。
そのに在るのは、ひとつだけ。
『宇宙とのバランスを保つ進化』
宇宙の意志は、大宇宙の星々やその中に生きる生命体を永遠のものだとは捉えていない。
生まれては、死ぬ。これが真理。
その中で、宇宙の意志を知る事を望んでいる。
生まれて死ぬまでの時間を与えているのは、それを知る為の時間なんだ。
生命は何故生まれては、死ぬのか。その問いについて考える時間を与えている。
大宇宙には地球以外にも知的生命体は存在する。彼等の時間の使い方、生き方、発展の仕方。それは人類とは違う。価値観も違う。生きる意味を理解する、その理解も違う。
彼等と同じなのは、生まれては死ぬ時間が与えられている事。
その時間への理解の深さは人類とは違うんだ。
宇宙のバランスとは、お互いのバランス。そして、生と死の間にそれを学ぶ事。
進化と成長、そして発展にもバランスが整って初めて、お互いに成り立つ。
地球の資源を利用するなら、それと同時に地球への保全もする事がバランスを保つ事になる。
例えば、海を汚したら、その汚れは回収しなくてはならない。二酸化炭素を出すなら、森林保護をしなくてはならない。プラスチックを使うなら、それを自然に帰す方法を取らなくてはならない。
そして何よりも、大切な事は。
生命体はお互いに愛し合い、大切にする事を望んでいる。何故なら、それがバランスだからだ。そして、その時期を過ごした時間に、人は生きる意味を理解する。
その意味を深く理解している方は過去に居た。その方々は人々へそれを伝えて来た。人はどう生きるべきかと伝えて来た。
それが、与えられたその時間の中で『どう生きるのか』を知る事の意味だ。
先達の偉人方はその事を連綿と人類へ伝える為に生きて、そして死んだのだ。
そして、人類は学んだ。
結果を残した。
数千年かけて学んだはずだ。
教えをどう理解したのかは、結果を見れば分かる。
その積み重ねた結果が、今の人類だ。
自分は、どうする事も出来ないんだ。全ての人達を助ける事が出来なかった、、、、。
ジョージ、許してくれ。」
ショウは地面に突っ伏して、震えながら涙を流した。
ジョージは彼を抱き寄せる。震えるショウをしっかりと抱いた。彼の涙の重さを知る事は無理だと感じた。それは彼にしか分からない。自分はただ、ショウの側に寄り添って彼を暖めて、そして信じて共に生きていこう。そう思った。
側で寝ているアンナ。胸元のダイヤモンドがショウを抱いているジョージには、光るように見えた。
そして、数年が過ぎていった。
ある日、シェルターの揺れが止まる。
各場所にあるシェルターの人々は、どうして良いのか分からない。ショウがシェルター内の皆を呼び言った。今から言う私の言葉は、他のシェルターの中の全ての人にも聞こえます。耳ではなく、心へ響き聞こえます。
私の言葉を聞いて下さい。
そうショウが言って、語り出した。
「地球、それは人類が誕生する以前の姿へ戻りました。
皆さん、シェルター内の生活は終わったのです。これから先、地球と共に生きて行きましょう。
人類は全滅を免れ、シェルター内の1億人ほどは地上に戻って来ます。
これより、新しい人類史が始まります。
それを作り出すのは、今ここにいる皆さんです。
これから先の数千年、数万年の時間を経て、どのような世界を作り出すのか。
それは、皆さんが決める事なのです。」
ショウはジョージにシェルターの閉じられている扉を開けるように頼んだ。
ゆっくりと開かれる扉の向こうから、眩い太陽の光が差し込んで来る。シェルターの皆は歓声をあげた。扉が開いて、外の世界へと目を向ける。
荒れた大地の向こうには、緑の残っている山が見える。風も気持ち良く、何もかもが人々には新鮮に見えた。
ジョージが皆へ振り返って言った。
「さぁ皆んな、手を取り合ってシェルターから出よう!」
海底火山の爆発、海底地層の破れにより海中の汚染物質は全て地中深くへ吸い込まれマグマはそれを焼き尽くしていた。腐敗菌は紫外線と熱風により、死滅していた。地表にあった人工物は全てプレート移動による地震で粉々になって、跡形もない。
ただ、海がその熱を吸収した為に海中の生態系は壊されている。また、水質の悪化は酷かった。それは、人にはどうする事も出来ない。
海が死んでしまったと、ショウとジョージにも連絡が入って来た。
ユーリ助教授を中心として調査チームが結成された。ショウとアンナ、そしてジョージとリナも含まれている。一刻も早く、科学者としての検知から人命を守る為の策を練らねばならない。また、どのように変化したのかを知る必要があった。
荒地となった平原をチームは徒歩で移動する。植物は各地に、ある程度は残っている。また、大地の割れ目から、そして木々の残る森の中にも水源はあった。
ジョージを先頭にして1週間ほど調査チームは進んでいたが、シェルター外での生存者は見つられない。野山の穴の中に隠れていたと思われる小動物の生存は認められ、チームのメンバーは喜んだ。
その様な落胆と喜びが交互に眼前に現れて来る。
あと1日も歩けば海岸線へ出る予定だ。その夜の野営キャンプで、ジョージが焚き火を囲みながら皆に言った。
「皆んなも感じているかも知れないが、俺には別の世界になったまった気がする。
俺達が知っていた地球とは違う気がして、しょうがないんだ。
一体ここは何処なんだ?」
そう言いながら、ブーツを履いた足で地面を叩く。
焚き火の炎がパチッと弾けて、火の粉が飛んだ。
前に居るアンナが言う。
「何処でもないのよ。」
そして彼女は星空の中に浮かぶ月を指差した。
「月に聞きなさい。」
「え?どう言うこと?なに?月って」
アンナとショウ、そしてそこに居た調査チームの全員が月を見上げた。
次の昼前に、海が見える場所まで来る事が出来た。
ジョージが言う。
「あまり近くに行くな。何があるか分からない。それに、絶壁が崩れ落ちるかも知れない。」
海の見える場所は、断崖絶壁で海面からの高さはゆうに200メートルを超えている。恐る恐る近づいて行くと、白波の立つ海面が見えた。その色は海と呼ぶには悲し過ぎるほどのダークな黒に近い灰色だった。その色が水平線まで続く光景は、異常な感じがした。まるで全ての悲しみを飲み込んでしまったかのように、全員は感じた。
ジョージはそれを見て、思わず言った。「ヤバいな、これは。」
じっと、その海を眺めていたリナも言う。
「これは時間がかかるわね。」
チームメンバーがリナに聞いた。
「どのくらいなんですか?100年とか、いやもう少しかかりますか?」
「いえ、数万年は必要だと思う。おそらく、この場所だけでは無いはずだわ。全ての海洋が元通り、いえ本来の姿に再生するのは10万年以上かも知れない。」
ジョージが驚く。
「じゅ、じゅうまんねん!」
「それも、最低限で10万年。海が再生して、その後に生態系が戻るのには更なる時間がかかるわね。海は生命の母と呼ばれるほどに、生命にとって大切な場所なの。」
「なんてこった!地球から母親が居なくなるって?」
「太古の地球の気体は、ほとんどが二酸化炭素だったの。そして長い年月をかけて海中の植物性プランクトンが誕生し、酸素を作り出して、その量は80%にもなった。それは地上に誕生、進化した哺乳類にも大きな影響を与えていたのよ。それが消失してしまった。これは大変な事だわ。酸素の供給源が、植物だけになってしまう。さらに、かなり森が減ってしまった。本当にこのままだと、生命体の無い原始地球になってしまう。それに、この海の深い灰色はまるで墓地のようだわ。」
アンナが悲しそうに言う。
「リナ、その通りなの。セメタリーカラーなの。」
ジョージが驚く。「え?墓地。」
「生命の母だった海は、その生命達の死を抱き寄せる墓地へと姿を変えてしまった。人類だけではなく、多くの生命が命を無くした。その彼等の『魂』(たましい)を母なる海は受け止めている。
あの悲しみをたたえた海の色は、セメタリーカラーなの。」
リナはアンナの言葉を聞いて、うなづくように言った。
「魂達の墓地、、、鎮魂の海なのね。」
翌朝早朝。
まだ暗い夜明け前、海岸の絶壁の上にショウとアンナが居た。海の彼方が少しづつ明るくなって来る。太陽の光線がいく筋も水平線から放射状に煌めいて来た。
ショウはアンナのクビにかけてあるピンクダイヤモンドを、そっと外した。ショウはアンナとお互いの意思を確認し合うように、見つめ合う。
ショウは右手に握りしめていたダイヤを、絶壁の上から思いっ切り水平線めがけて投げた。
ダイヤは飛んでゆく。
ダイヤは放物線を描くように、登ってきた朝日をキラキラ反射しながら海面へ落ちる。
海中に沈んだダイヤは、ゆっくりと回転しながら灰色の海底へと消えた。
ショウ達はその海面を見ている。
徐々に海中からピンク色の光が広がり、それはやがて灰色の海水を青く変えてゆく。岸壁の下からその青い海は広がり続け、やがて水平線の彼方までが輝くように青い海となった。
ショウはアンナとふたりで、それを眺めていた。
海の中。
海中に沈んだダイヤモンドの周りに、灰色の『何か』が集まって来た。その『何か』がダイヤモンドに触れると、その灰色の『何か』はピンクの暖かな光に包まれ、灰色から変化して、透明に輝く『何か』に変わった。
その透明に輝く者達は海の中へ広がり、別の灰色の『何か』に触れてゆく。輝きが伝わる。
透明な者は、灰色の者達を救うように次々と輝かせて行った。
その光景をショウとアンナは見つめていたのだ。
アンナが言った。
「ピンクダイヤモンドの愛が伝わったのね。魂から魂へ。そして空へ帰った。」
ショウが答える。
「きっと生まれ変わってくれる。その時の為に、守っていかないと。」
ジョージとリナは、目を覚ましたらテントに居ないショウとアンナを心配して、岸壁まで探しに来ていた。
岸壁に立つふたりを発見したが、何か近寄りがたくて、後方でふたりを見つめていた。魂達が救われて、海が生まれ変わる奇蹟を見た。
ジョージがしみじみと言った。
「愛の力って無限なんだな。」
リナは彼にキスをした。
月。
もしも月に意志があるならば、月は眼下の地球を見てどう思うのだろう。
生まれ変わったと思うのだろうか。それとも原点に戻ったと思うのだろうか。
月が眺める地球の大陸は、Pangaea大陸のようにひとつになっていた。
月は思うだろう。
これから先、地球ではどのように人類は生きるのかと。
ーーーーー終ーーーーー
作 マサヒロ
愛の星地球。その姿は、つくりあげる人類のこれからの生き方に全てかかっている。