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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

剥がれた指が繋がらない

作者: 西堂有規

<剥がれた指が繋がらない>

1:名無しという名の浪人生 ID:****

剥がれた指が繋がらない。何とかしてくれ


2:名無し ID:****

 ???!!??


3:ああ言えば名無し ID:****

 ちょ意味分からん 詳細な説明求む


4:名無し ID:****

 剥がれた指?指が剥がれるってどゆこと?


5:新世界を渇望する名無し ID:****

 ≪1 釣り乙


6:名無しという名の浪人生 ID:****

 兎に角、指が剥がれて、そんでもう一回くっつけようとしたんだけど、繋がらない。俺自身突然のことで困惑している。つい数秒前までは何の以上も無かったんだ。事の経緯を説明すると、バイトから帰ってきてぼーっとネットサーフィンしてたら、実家から電話掛かってきて、電話終わってPCの前に戻ってき途端、突然指が剥がれたんだ。


7:名無し ID:****

 ≪1 爪じゃ無くて?


8:ああ言えば名無し ID:****

 ≪7 それな 指が剥がれるとか表現的におかしい 千切れるとか、折れるとかじゃなくて、剥がれたってどういうこと?皮がべろんってなってるとか?


9:占い名無し ID:****

 ≪8 グロ


9:新世界を渇望する名無し ID:****

 ≪1 釣り乙


10:新生活を渇望する名無し ID:****

≪1釣り乙

11:冷徹なる名無し ID:****

 取り敢えずイッチ落ち着け 痛みは無いのか?出血は?pc打ててるって事はそこそこ大丈夫なのか?それと、とりま指が剥がれたっていう状況を客観的に理解しやすく説明してくれたら助かる。


12:名無しという名の浪人生 ID:****

 ≪11 サンキュー、少し落ち着いた 痛みはそんなにない。けど生理的な違和感と、放置しておいたらヤバいって感じはする。血は出てない。指が剥がれた状況を他者に理解して貰いやすく説明せよってのは―ちょっとムズい。なんせ俺自身がこれまで生きてきて想定すらしてなかった状況だから、それを上手く説明できる表現が見当たらない。強いて言うなら、オノマトペで表すとすると、『ボロッ』て漢字で、第一関節から剥がれたんだ。乾燥した粘土細工のパーツが剥がれ落ちるみたいに。兎に角、どうすれば良いか全く分からない。


13:占い名無し ID:****

 病院行けよ


14:ああ言えば名無し ID:****

 ≪13 それな 掲示板に書き込んでる余裕あったら、ちゃんとした医者に診て貰った方が良い


15:新世界を渇望する名無し ID:****

 釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙


16:名ナッシー ID:****

≪1剥がれたのって何指?

 

17:名無しという名の浪人生 ID:****

 ≪16 左手の薬指


18:冷徹なる名無し ID:****

 指が剥がれて、出血が無い、痛みも無い、ワンチャン壊死ってる説ある 剥がれた指って黒くなってたりしないか?黒くなってたらその説濃厚 元に戻るか分からんが、取り敢えず直ちに大きい病院に行け 剥がれた指は氷嚢に入れて持って行け 一応切断面の傷口も消毒して、タオルとかで押えておいた方が良い 何なら救急車呼ぶべき


19:名無し ID:****

 ≪18 マトモに相手すんなよ


20:名無しという名の浪人生 ID:****

 ≪18 アドバイス感謝 でも、もう手遅れだ 


21:ああ言えば名無し ID:****

 ファッ!?


22:名ナッシー ID:****

 何があった?


23:名無しという名の浪人生 ID:****

 剥がれた薬指なんだが、一応ワンチャンくっつくかもって、タオルに保冷剤と一緒に包んで手元に置いといたんだ で、さっき冷徹なる名無し氏に指摘されて、指の状態確認しようってタオル捲ったんだ そしたら― 指が、消えてたんだ


24:ああ言えば名無し ID:****

 消えた・・・は?


25:冷徹なる名無し ID:****

 跡形も無く消え去ったって事か?


26:名無しという名の浪人生 ID:****

 ≪25 いや、厳密に言えば、存在していた痕跡みたいなのは残っているんだ。黒っぽい、消し炭をより細かくした様な粉末が残ってる でも、さっきまでの指としての原型物は完全に残ってないんだ


27:名ナッシー ID:****

 謎は深まる


28:我こそが名無し ID:****

意味分からんだろ


29:名無し ID:****

 意味分かる、いや、やっぱり分からんわ


30:ああ言えば名無し ID:****

 指が消えた?ますますオカルト染みてきたな 指が剥がれる直前の電話とか関係してるのかな?


31:名無しベクトル ID:****

 これ創作じゃなかったらヤバいだろ 新種の奇病とか?若しくは指が剥がれたっていう幻覚をみてるんじゃ・・・


32:名無し ID:****

 ≪31 後者の説濃厚


33:名無しの権さん ID:****

 スレ主は訳注かな?


34:我こそが名無し ID:****

 薬物中毒の禁断症状って、幻覚みるのもあるけど、筋肉の痙攣とか、吐き気とか、その他体調不良が伴うのが普通だけど、主さんそんな素振り、少なくとも文章からは窺えないんだよなぁ


35:ロンギヌスの名無し ID:****

 ≪34 それな


36:週休三日制で休日出勤させられている名無し ID:****

 てか、常識的に考えてまず救急車呼ぶか、病院行くかするだろ 何で悠長にスレ立てて赤の他人に助け求めてんだよ 本末転倒通り越して、頭お菓子いだろ


37:冷徹なる名無し ID:****

 確かに、病院に行かないのは腑に落ちないな 何か特殊な事情があって行けないとか?イヤ寧ろ―、ここからは完全に俺個人の主観なんだが―、何かこのスレ主、当初からそもそも病院に行くっていう発想が無かったように思えるんだ


38:名ナッシー ID:****

 ≪37 どゆこと?


39:冷徹なる名無し ID:****

 みんなスルーしてるけど、≪6の所で主は「自分で指をくっつけようとした」って書いてるよな。人体の一部が切断されるような大怪我した時って、真っ先に応急処置するとか、病院に駆け込もうって選択肢が浮かぶもんだろ?なのに彼はそれらの選択をせずに、事もあろうに、自力で治そうなんて無茶苦茶な判断している。その時点で既に常軌を逸してると思う。そんでもしかしたら、この主はこれが「怪我」だと認識していないんじゃないかと思ったんだ。怪我じゃ無ければ病院に行く必要は無いしな


40:名ナッシー ID:****

 なるほど分からん


41:ロンギヌスの名無し

 ≪39 いやいや 確かに通常の精神状態じゃないのかもしれないが、だとしても、指が剥がれたって時点でスレ立てより病院だろ 大体、怪我だと認識してない?じゃあ、主は指が剥がれたってアンユージュアルな出来事、どう捉えてるってんだ?


42:冷徹なる名無し ID:****

 怪異、とか


43:ああ言えば名無し ID:****

 ・・・・・・


44:名無しの権さん ID:****

 埒が開かないな


45:名無し ID:****

 スレ主何か心当たりあるんじゃね?


46:我こそが名無し ID:****

 そうだな、只の怪我じゃ無いってのは俺たちでも分かる 問題はその原因だよな 主さん、何か心当たりはあるのか?何かヤバい呪詛でもかけられたとか


47:名ナッシー ID:****

 ≪46 飛躍してて草


48:冷徹なる名無し ID:****

 というわけだ、主さん、良ければ話してくれないか 無理にとは言わん


49:名ナッシー ID:****

 おーい


50:名ナッシー ID:****

呼ばれてますよー


51:名無しの権さん ID:****

 応答なし


52:名無し ID:****

 寝た?


53:ああ言えば名無し ID:****

 ≪52 寝られないだろ


54:名ナッシー ID:****

 氏んだ?


55:名無し ID:****

 マジで主さんどうしたん?


56:ロンギヌスの名無し ID:****

 取り敢えず俺は落ちるわ 皆も早く寝ろよ


57:名ナッシー ID:****

 煮え切らないなー


58:名無し ID:****

 釣りだと言ってくれ・・・


59:名無しの権さん ID:****

 主が無事であらんことを祈って・・・アーメン


60:冷徹なる名無し ID:****

 取り敢えず一端抜けるわ 主さん無事だったら連絡してくれ それじゃ


 徹夜続きだと、流石に頭が重くなる。肩や腰もだんだん言うことを聞かなくなってくる。身体が声にならない悲鳴を上げているくらいは、流石の俺でも分かっているが、さりとてゆっくり睡眠を取って静養しようという気にはならなかった。

今俺は自宅マンション1階のコンビニにいる。時刻は深夜の1時前。店内には俺を含めて、夜勤の店員と仕事帰りと思しき服装の客が数人いる程度だ。

皆憔悴しきった顔をしている。勿論原因は仕事だろう。俺みたいに年中引き籠もってネット三昧、そんな生活リズムが祟って不健康になっている人間は一人も居ない。

俺はエナジードリンクと缶ビールをそれぞれ数本、無造作に買い物かごに放り込んでレジに向かった。普段引き籠もって暮らしていると余り意識しないが、いざ外に出てみれば、30手前にもなってこんな自堕落に日々をやり過ごしている自分が情けなくなり、時には無性に腹が立ってくる。だが、その感情はただ俺の中で燻るだけで、そこから何かを始めようという原動力にはならなかった。

 ピッ「年齢確認が必要な商品です」

 年齢確認、か。

 「あーすいません、身分証の提示お願いします」

 バイトの青年が言った。俺は財布の中からそれを取り出す。

 大学の時に取った、原付の免許だった。バイトにそれを提示すると、そいつは一瞬当惑したような表情をしたが、すぐに あ、結構です、と言って 袋はおつけしましょうか、と次の対応に移った。恐らく彼が驚いたのは、免許証の俺の写真と、目の前の男の風貌が似ても似つかなかったからだろう。

そりゃそうだ。実際、まだ初々しかった(自分で言うと虫唾が走るが)大学生の頃の俺と、現在親の仕送りが生命線の無職童貞引きこもりネット廃人が同一人物とは誰も直ぐには呑み込めないだろう。とは言え、その唯一の生命線すら、ここ数か月の間にぱったりと途絶えてしまった。まさに死活問題と言える危機的状況な訳だが、最早今の俺には、その状況に的確に判断するだけの気力は残っていなかった。頭髪も髭も好き放題に伸び散らかし、肌の手入れもしていないせいでニキビだらけ。生来痩せ型でこそあれ、体脂肪率もきっと増えていることだろう。風呂にもここ数日入っていないから、体臭もえげつないはずだ。現に俺がレジから立ち去るまで、バイトは心なしか、顔をしかめて対応していたような気がする。

ヨロヨロとコンビニを出て、マンションの階段を上る。エレベーターは故障中だ。重い足取りを引き摺って、何とか4階の自室に辿り着いた。

部屋の中はゴミの溜まり場だ。数日前に食べたカップラーメンの容器や割箸なんかが、一切片付けられずに放置されている。これだけ汚れていれば虫が湧いても仕方が無い。それでも、あのカサカサ動く茶色の影をあまり目撃しないのは、そんなのに気づかないほど、PCの画面に釘付けになり、ネットに耽溺しているからだろう。

自宅に帰った俺は、最早自分の意思で行動は出来なかった。ほぼ無意識に、PCの前に座り直した。まるで掃除機に吸い寄せられるゴミのようだ。

いつも書き込んでいる某掲示板のサイトを開き、面白いスレが立っていないか画面をひたすらスクロールする。

<浮気してる嫁に仕返ししたい。何か良い方法無い?>

<世界一無駄な金の使い方教えて>

<上司『もうお前来なくて良いよ』部下『≪3』上司『すいませんでした』>

ネット民の多くは、日常生活の中で、自力では解消できないストレスを抱えている。現実世界で、いざという時に縋る存在が身近に居ない奴らは、それをネットの中に求める。相談相手の素性は分からないが、自分自身の素性も誰かに知られる恐れは少ない。自分の事を知らない相手だからこそ、「本当の自分」なるものを一糸纏わずさらけ出すことが出来る。綺麗な部分だけで無く、どす黒い本性みたいなものも。これが、俺がここ数年ネット世界に身を置いて発見した哲学だ。現実の社会に出ていない人間が言うのもおこがましいのかもしれないが、現実の社会で組織に飼い殺されるように働いている奴らよりも、ネット世界の奴らの方が、何倍も人間らしいと思う。

<俺893に入ってるけど、質問ある?>

<超有名な作品を一字変えて台無しにしようぜ>

<お前らが知ってる中で一番どうでもいい雑学書いてけ>

 掲示板の画面をどんどん下にスクロールしていく。この掲示板では、「注目のスレ」と「最新のスレ」、そして「最近閲覧したスレ」の3つのタブがあって、それぞれ時系列順に表示される仕組みになっている。俺がよく見るのは「注目のスレ」の方だ。とは言え、日本屈指の人気匿名掲示板だから、注目のスレは掃いて捨てるほどある。但し、何を基準に「注目」としているのか、運営側が明示していないのが難点だ。単純に書き込みの数なのか、閲覧数なのか、はたまたその両方か。

 まぁ最近はそんなこと、どうでも良くなってきた。というのは、当掲示板内における俺の身の振り方というか、立ち位置がはっきりと定まってきたからだ。

その立ち位置というのは―「荒らし」である。

注目のスレを開いては、明らかに「釣り」、つまり虚言だと分かるスレを見つけ、ひたすらスレ主に対する罵詈雑言や、閲覧者が不快になるフレーズを投稿していく。まさに俺の粗野な性格面を余すところなく発散出来る行為だ。だが時には、その行為が、自制が効かないくらいにエスカレートして、アカウント凍結や投稿制限の憂き目に逢うこともあった。

今や俺のアカウント名「新世界を渇望する名無し」は、この掲示板界隈では悪名高い「荒らし」として通っている。だから不用意に注目のスレを荒らすのは凍結してくださいと言っているようなもの、自殺行為だ。アカウント名を変えることも考えたが、IDで正体がバレるのも時間の問題だろう。何より、俺はこのアカウント名が気に入っている。

―「新世界を渇望する名無し」―厨二病の後遺症だろうか、こういうニヒル(完全に俺の主観だが)な表現を現在でも使ってしまう。

さてさて、今日はどのスレを荒らそうか。願わくば注目のスレにしたいところだが、ざっと見る限り、それらのスレ主は、皆一度は俺を投稿制限した奴らばかりだ。これでは荒らしても1回目で足がついてしまう。

―たまには、人気の無いやつも見てみるか。

そう思い立ち、俺は「注目のスレ」のタブを閉じると、「最新のスレ」のタブを開いた。「最新のスレ」は、注目度に関係なく、あらゆるスレが時系列順に理路整然と表示されている。中には初心者が投稿したものや、面識の無い奴らのスレもあるため、多少荒らしても直ぐに「バン」されることはない。一番上の投稿は「1秒前」と表示されていた。本当に1秒前では無いだろうが。

<俺ピカ〇ュウだけど、禿げてるおっさんの前で『ピカ、ピカァ』って言うの楽しすぎるw>

―うーん、こういうコピペっぽいのは荒らしても面白くないんだよな。二番煎じになる説濃厚だし、他に書き込む奴も現れないだろうし。その下の奴はどうだ。これは「3秒前」か。まぁ本当に3秒前じゃ無いだろうけど

<あああ>

 あー、ダメだこいつ。スルーしよ。さてさて、お次は・・・

 <剥がれた指が繋がらない>

 ―なんだこれ。これも意味不明か・・・多分釣り系のスレだろうな。指が剥がれるって何なんだよ。つーか怪我してんだったたら、そんな悠長に投稿してる暇あったら病院行けよ。

 そう胸中で独りごちながらも、実際俺はそのスレに目を引かれていた。

 ―剥がれた指が繋がらない、か。

 無意識にスレのページを開いていた。既に数人が困惑の意を表するコメントを投稿していた。俺は取り敢えず「釣り乙」と投稿した。常識的に理解困難なスレには取り敢えず「釣り乙」とコメントする。荒らし家業の職業病みたいなものだ。

 スレ主「名無しという名の浪人生」は、帰宅した後、くつろいでいたら突然指が「剥がれた」ことを説明していたが、やはり言っていることはいまいち要領を得ない。やはり釣りか。釣り乙。釣り乙。

 その時、「冷徹なる名無し」というアカウント名の奴がスレ主を宥め、改めて詳細な説明を求めた。こういう真に受ける奴がムカつくんだよな。特に恨みは無いけど。釣り乙釣り乙釣り乙釣り乙・・・

 その後もコメント欄は平行線を辿った。俺みたいに釣りだと勘ぐる奴らや病院に行くことを勧める常識人がいる一方で、好奇心全開で状況説明を求める奴らや「冷徹なる名無し」と、スレ主の応酬が暫く続いた。

場面が急転直下したのは、スレ主のある投稿だった。

―「剥がれた指が消えた。」

コメント欄は騒然となった。スレ主の剥がれた指が、消し炭のような痕跡を残して消えたのだ。もしやスレ主は薬物中毒で、指が消えたという幻覚を見てるのでは、と疑う者も現れた。「冷徹なる名無し」の分析からも、スレ主の精神状態が普通では無いことが徐々に浮き彫りになっていく。

次第に俺は、荒らすことも忘れて真剣に投稿されていくコメントの流れを見つめていた。リアルタイムで、何かとても超常的な出来事が起こっている。そんな感覚に侵食されていった。

スレ主は、いつの間にかコメント欄から消えていた。

奴の安否を心配するコメントが多く寄せられる中、「冷徹なる名無し」の一端抜ける、というコメントを最後に、スレはお開きとなった。

俺はひとまずpcから目を離し、ゴミに浸食されつつある自室の床に寝転がった。

―何だったんだろう。このスレは。

ただの釣りにしては、状況が不明瞭な割に妙な生々しさがあった。スレ主の安否も気になるが、何より「指が突如として剥がれる(・・・・)」という現象が謎すぎる。

―またスレが立ったら、今度は真面目に参加してみるか。

「荒らし」らしからぬ思考をしていることに気づいて、俺は自嘲する。

―本当は、こうやって愚直にスレを楽しみたかったのかもな。

そんなことを思いながら、俺の意識は睡魔に攫われていった。


―三日後―


<剥がれた指が繋がらない>


61:名無しという名の浪人生 ID:****

 連絡遅れてすまん ここ3日間、立て続けに異常なことがあって精神的にかなりキツい状態に追い込まれてたみたいで、殆ど意識というか、記憶が無いんだ ほんの数時間前にだんだん覚醒してきて、完全に正常に戻ったのはほんの十何分前とか。今も多少興奮してるけど、取り敢えず覚えている範疇で俺がここ3日間体験したことを綴るわ


62:名ナッシー ID:****

≪1キター――――――


63:ああ言えば名無し ID:****

生きとったんかワレ


64:冷徹なる名無し ID:****

≪1 安心した 辛かったらいつでも退席していいから

65:名無しという名の浪人生 ID:****

≪64 助かる 一応先に断っておくと、さっきも書いた通り殆ど意識が朦朧とした状態(熱は無かったと思う。計って無いから知らんけど)に陥ってたんで、大分断片的かつ要領を得ない内容になっている。文構成とか改行とkに気を配っている精神的余裕はまだないから、文章自体ガバガバで読みにくいと思うけど許してほしい。3日前の深夜のスレも然り、あの投稿をした時点で、既に俺は大分精神が参っていたんだと思う。多くのスレ民が指摘してくれたように、医者から怪訝に思われてでも病院に駆け込んでいれば、点滴とか簡易的な処置は施してもらえて、もう少し冷静になれたのかもしれない。今現在は割と落ち着いているから、こうやって自分を客観的に分析できているけど、あの時は「自分の指が剥がれた」という異常な光景を目の当たりにしたせいで、病院よりも平素から入り浸っているネットに縋り付いたんだと思う。まあ「剥がれた指が繋がらない」で検索した所で参考になる情報は何も見つからなかったから、巡り巡ってこの掲示板で投稿することにしたんだ。此処までが一応俺がこのスレを立てるに至ったざっくりとした経緯だ。


66:名無しベクトル ID:****

読みにくい


67:名無しの権さん ID:****

で?結局「指が剥がれた」ってどういう状態だったの?落ち着いた今ならもう少しマシな説明できるでしょ。指が剥がれたり、それを自分で繋ごうとしたり、挙げ句の果てにはその指が手元から消え失せたって、常識的に考えて有り得ない話でしょ。特に最後のなんて最早オカルトの領域じゃん。やっぱりヤバい薬やってて、その副作用で幻覚見てたとか?それだったら分かるけど


68:名無しという名の浪人生 ID:****

≪67 薬はやっていない 八百万の神に誓ってそれは断言できる。指が剥がれるという事象や、それを自力で繋ごうとしたこと、その心理については、現状説明できる適当な言葉が見つからない。一応3日前に錯乱状態で投稿した内容が、俺の中では「真実」だったんだと、思う。1つだけ言えることは、決して単なる幻覚の類いでは無いと言うこと。実際今も、両手の剥がれた指がついていた箇所には、全て生々しい断面が残されている。切り落とされたっていうよりは、劣化して剥がれ落ちたって言うのが正しいんだと思う。断面の皮膚はザラザラしていて、変な白い粉とかも吹き出たりしてる。意識が朦朧としていた時でも、その断面だけは妙に鮮明に脳裏に浮かんでいた。今も手に目をやればいつでもそれを見ることが出来るぜ。骨まで顔を覗かせてやがる


69:冷徹なる名無し ID:****

≪68 ちょっと待て。今「両手」って言ったな?3日前の時点では剥がれたのは左手の薬指だけじゃなかったか?この3日間のブランクに他の指も「剥がれた」ってことか?


70:占い名無し ID:****

≪69 本当だ 一瞬見逃しかけた


71:名無しという名の浪人生 ID:****

すまん。大分話が逸れてしまっていた。皆が聞きたいのはこの3日間の事だったな。それについて今から話す。そこに今の質問に関する解答も含まれている


72:名無しという名の浪人生 ID:****

p.s.今日が最後の投稿になるかもしれない


73:名無しベクトル ID:****

!?


74:名ナッシー ID:****

氏ぬな―!


75:名無しという名の浪人生 ID:****

3日前、書き込みの途中で俺は強烈な睡魔に襲われた。単純に徹夜続きだったこともあるだろうが、そもそも俺自身は夜型だから、睡眠薬でも飲まされない限りあんな強烈な睡魔をあの時間帯に感じた事は無かったから、それは驚いた。でも直ぐに意識が遠のいて、次に目覚めたのは昼過ぎだった。結局10時間くらい寝てたんだろうか。寝起きの俺は昨日の異常な出来事のことは忘れていて、普通にトイレ行きたいなって思って立ち上がったんだ。そしたら、ボトッて嫌な音がしたんだ。柔らかい何かが床に落ちる音。えっ何?って思って音がした床を見ると、指みたいなものが床に転がっていた。それが本物だと脳が処理しきるまでに数秒の時間を要した。そして完全にそのヤバい状況を把握した瞬間、同時に昨日の忌まわしい記憶が思い出されて、俺は強烈な吐き気を催した。トイレに駆け込んで、胃の中のものを全部ぶちまけた後、冷静になって自分の指を見たら、左手の薬指と、右手の中指が無くなっていた。断面は―もう書きたくない。戻ってみると、さっきまで指が落ちていた床には、指ではなく、消し炭のような鼠色のカスが残っているだけだった。それからはまた意識が朦朧とし始めて、午後は飯も食わずに半覚醒状態でソファに寝転がって過ごした。明日が日曜なのがせめてもの救いって感じで、何も考えずに(考えられずに)寝転がっていると、また、ボトッて、例の音がした。一気に意識が明瞭になって、ガバッて上体を起こし、床をみると、また「指」が一本(右手の小指だった筈)剥がれ落ちていた。俺はここ3日間、この繰り返しだった。突然意識を失ったかと思えば覚醒し、覚醒したかと思えば指を失い―その繰り返しで、両手の殆どの指は残っていない。残ってるのは左手の中指と右手の人差し指だけだ。他は全部剥がれ落ちた。この文章も、2つの指先でキーをつつく感じで何とか打ち込んでいる。ここまで事態が進行したせいか、自分でも恐ろしいほどに俺は冷静だ。まるで自分が死んでも、この奇怪な事象の真実を誰かが突き止めてくれる、そう信じている。これは俺の何の根拠も無い想像だが、恐らく全ての指が剥がれた時、俺は死ぬ。そんな気がする。だからこの投稿が最後になるかもしれない。

今、また1つ指が剥がれた。これで右手の全ての指が失われた。もう時間も余り残っていない。このまま俺は死ぬんだろう。死因は何だろう?出血はしていないし、痛みも無い。でも、きっと心臓麻痺か何かで死ぬんだろう。指を全て失った奇怪な姿で。

願わくば、同じような目に遭う奴が以後現れないことを祈る。それと、皆には感謝している。茶化してくる奴も、釣りを疑う奴も、俺なんかの話を少しでも聞いてくれただけでも嬉しかった。あと指は1本だけだが、時間の限り質問には答えていきたいと思う


76:名無しの権さん ID:****

重すぎだろ 創作じゃ無かったらマジで辛いわ


77:我こそが名無し ID:****

≪76 創作に決まってんだろ


78:冷徹なる名無し ID:****

人命が関わっているのに、何も出来ないのは辛い


79:新世界を渇望する名無し ID:****

住所を教えてくれ 救急車呼ぶから そしたら助かるって絶対


80:名ナッシー ID:****

住所教えるわけ無いだろ


81:新世界を渇望する名無し ID:****

俺はスレ主を救いたい 本当にただの釣りだったらマジでキレるけど、とにかく、俺たちに出来るのは救急車を呼ぶことしか無いだろ 


82:占い名無し ID:****

≪81 あんた今日はやけに格好いいな 只の荒らしがどうしたんだ急に


83:新世界を渇望する名無し ID:****

スレ主早く 住所


84:新世界を渇望する名無し ID:****

死ぬな 頼むから


85:名無しという名の浪人生 ID:****

≪84 サンキュー、マジで泣けるわ 俺の話を完全に真に受けて、しかも事もあろうに本気で救おうとしてくれる奴がいるw皆さん安心してください只の釣りです。いやマジで爆笑wスレ民の皆さん、マジで騙してすまん真に受ける奴がいるからさwww 取り敢えず俺はここら辺で抜けさせて貰いますわw きっとコメント荒れまくると思うし、俺自身馬鹿らしくなってきたんでwそれはそうと、≪84よ


86:名無しという名の浪人生 ID:****

≪84 新世界、見つかると良いな


87:ああ言えば名無し ID:****

縦読み・・・



書き込みが途絶えた掲示板の画面を、俺は暫く呆然と見つめていた。只でさえ暗く淀んだ部屋の空気が、より一層重苦しく感じられた。脳裏に、一度も直接聞いたことが無い筈のスレ主の声が反響する。

「新世界、見つかると良いな」

うるせぇよ、と胸中で毒づく。俺の新世界は、まさに眼前にまで迫っていたんだ。お前を助ける―微力でも他人の役に立ちたいという願望。綺麗事とかエゴとかで片付けられる程に陳腐だが、俺にとっては長年に渡り抱いてきた、密かな夢だった。

だが、その夢はあと一掴みという所で霧散した。もう少しで、救えたかもしれないのに。

気がつけば、俺は泣いていた。黄ばんだズボンの上に涙がポタポタと落ちた。決して釣りにまんまと引っかかったことを嘆いているのでは無い。あれが釣りじゃ無いことぐらい、プロの荒らしなら一発で分かる。あいつは―スレ主は、本気で救いを求めていた。なのに、結局自ら差し伸べられていた救いの手を突っぱねたのだ。どうせ自分は助からない、だからせめて、俺に悔いが残らないように。「釣り乙」という匿名掲示板ならではの性質を利用して。釣りに手厳しい荒らしの俺なら、自分が釣りだと告白すれば、冷めて直ぐに離れていくと踏んで、わざと虚構の釣り宣言をしたんだ。

 ―馬鹿な奴だ。素直に住所を送っていれば、助かったかもしれないのに。俺みたいな引きこもりが、誰かの個人情報を入手したくらいで悪用しようとする度胸が無いことぐらい分かるだろ―分かんねぇか。やべぇマジで涙止まらねえ。

引きこもりの汚い涙なんて需要ねえよ―そう胸中で自嘲しながら涙を拭う。

 この掲示板に辿り着くネット民の多くは、現実の社会ではその人間性に難があるとか言われて疎まれがちな奴らが殆どだと思っていた。俺が良い例であるように、黒いスーツを着たお偉いさん方が「社会に必要の無い人間だ」「生きていても害悪しかもたらさない。何の価値も無い」と唾を吐かれるような類いの人間がうようよいる現代人の雑念の墓場。だがその墓場にも、最後の瞬間に他人の事を気遣える奴がいたことを、俺は知った。勿論その気遣いはそいつの「エゴ」だ。実際気遣われた俺は傷ついてるし、他の奴らはそいつの気遣いなんて存在に気づきもしないだろう。それでも、そいつの最期の言葉で、俺の中に新たな目標が生まれた。―剥がれた指が繋がらない。この奇怪な事象の真実を、俺が白日の下に晒す。仮令世界中全ての人間が鼻で笑ったとしても、このスレを、自分の生涯をかけて「完結」させる。それが俺の無意味な人生の中で掲げた唯一の目標となった。

 「待ってろスレ主。俺が必ずお前の死の真相を突き止めてやるからな。余計なお世話?うるせぇ。これも俺の『エゴ』って奴だよ。お前の意思なんか関係ねぇ。お前が最期に俺にやったみたいにな。お前にも見せてやるよ、俺が辿り着く、ちゃちな『新世界』って奴をな」

 応答の無いPCの画面に向かって、俺は言った。

暗い部屋の中に、俺の息づかいと、熱を帯びたCPUの唸り声だけが響いていた。



 ― 一週間後 ―

刑事という職業の本分は、正義の名の元に悪人を成敗すること、ではない。

安定した収入を得て、職務を全うし、着実な昇進を遂げる。俺が配属されている捜査一課だって、例外じゃ無い。ドラマなんかでは正義感の強い人々が難事件に立ち向かう、というテーマでよく取り上げられている花形部署だが、その内実は只の事務的捜査機関だ。ドラマでは毎週のように起こる殺人事件も、地方警察の捜査一課じゃ年に数回起こるか起こらないかだ。仮令起こったとしても、動機は些細なトラブルに端を発してるのが殆どだし、犯人も直ぐに検挙される。迷宮入りの難事件なんてものは―歴史的に見ればあるにはあるんだろうが―俺自身は、勤続十年近くになっても未だお目にかかれていない。俺が所属している強行班係の日常は、暴力沙汰を起こしたチンピラの連行と取り調べを除けば、殆どは資料整理や近所の私服パトロールといった地味な作業ばかりだ。事件が起きれば忙しくなる警察は「退屈」であることがなによりだ、と呑気な先輩方は宣うが、平和ボケしすぎるのもいかがなものか・・・ 実際、俺みたいに事件という刺激を渇望している不謹慎な刑事にとっては、日常そのものがストレスだ。

 だから、「S市のアパート一室で変死事件発生」の一報を受けたときは―やはり不謹慎だが―心が躍った。既に地道な昇進で警部補の位に就いている俺だが、やはり「死体」の出るヤマは新鮮だ。

 現着すると、丁度規制線の張られたアパートから、シートに包まれた死体が担架に乗せられて運び出される所だった。2階を見上げると、1つの部屋の前の廊下が青いビニールシートで覆われている。あそこが被害者の部屋か。

 「遅いっすよ大越(おおごし)さん」

現場の部屋に俺が入るやいなや、後輩の村井から叱責が飛んできた。

部屋の中には、無数のゴミ袋と共に使い古された赤本や問題集が散乱していた。余りの激臭に俺は思わず鼻を摘まむ。

「あー悪い悪い。道混んでてさ」

鼻を摘まみながら俺は誠意の無い語調で謝る。

「いや先輩の方が先に出たじゃないですか。めっちゃノリノリで俺らほったらかしてさ。シンプルに道間違えただけでしょ。ったく、相変わらず方向音痴なんですから」

 「いやお前さ、一応俺先輩なのよ。階級もお前より一つ上なの。もうちょっとなぁ、こう、敬意を払っても良いんじゃねぇか?」

 「死体見て興奮したいだけのサイコ警部補に払う敬意なんてありませんよ」

 村井は嘆息して、こっちです、と部屋の奥にある、足の低い長机を顎で指した。

 机上には一台のノートパソコンが置かれていた。充電ケーブルがコンセントに刺さったままだ。

 「この机に、突っ伏すような体勢で亡くなっていました」

 村井が説明する。

 「亡くなったのは、この部屋に住んでいた浪人生みたいですね。今朝、異臭がするっていう住人の苦情を受けた大家さんが、合鍵で部屋に入って遺体を発見したらしいです。身元は、えーと、(あり)(たに)(いさお)さん、20歳―ってことは、二浪ってことですかね。出身は関西の田舎で、今親御さんが遺体の確認に向かわれてます。詳しい死因は分からないですけど、見た限りでは外傷とか、毒物を服用した痕跡がないですし、持病の発作か何かじゃないすかねぇ、まぁ如何せん、係付けの主治医とかはいなかったみたいなんで、検死してみないことには何とも言えないですけど―あ、ちょっと大越さん、パソコン触るんならちゃんと手袋してくださいよ、一応証拠品なんですから」

 「今からしようと思ってたんだよ、て言うかそれ、本来なら俺がお前に言うべき台詞だからな」

 俺は不承不承村井の指示通り手袋を嵌め、ノートパソコンのエンターキーを押してみた。すると直ぐにロック画面が表示された。やはり、スリープ状態になっていたようだ。

 「死んだ奴は、直前までパソコンを触っていたってことか」

 「まぁ、パソコンの前で亡くなっていたからそうでしょうね―って大越さん、何やってんすか?」

 俺は村井の声を無視して、机の裏側をまさぐっていた。案の定、テープか何かで貼り付けられたメモ用紙らしきものの手触りを感じた。引き剥がして開いてみると、「19010516」と書かれていた。

 「これって、パスワードですかね?」

 村井が肩越しにのぞき込んで言う。

 「ま、そうだろうな。大抵の奴はこういう所に隠したがるもんだ。それにしても、これ、生年月日をずらしただけじゃねえか」

 俺は書かれていた数字を画面に打ち込んだ。ピロリン、という効果音と共にとあるサイトの画面が現れた。一瞬俺は目を見張った。恐らく死んだ浪人生が、その間際まで見ていたであろうサイト。それは、現代人なら知らない人はいないであろう、とある匿名掲示板だった。そして、彼はそこであるスレッドの投稿主となっていた。そのスレッドの題名は―

 <剥がれた指が、繋がらない>

 「マジかよ」

 俺は無意識にそう呟いていた。

   村井は、俺の側から離れて、別の刑事と何か話している。その話し声すらも、別の世界から聞こえてくるかのように遠く感じられた。

 俺がここまで動揺した理由、それは―、つい最近、俺もこのスレッドに参加していたからだ。アカウント名は「冷徹なる名無し」。



「―ってか、今更言うのもあれですけど・・・」

「ん?何だよ」

「よく死体見た後で肉が食えますよね」

署からほど近いショッピングモールのフードコートで、昼飯のハンバーガーを頬張る俺に、村井は顔を顰めて言った。平日の真っ昼間ということもあって、モール内の客足はまばらだ。

さして広くは無いこのフードコートも、俺たちみたく仕事の合間に昼飯を食いに来たと思しき大人が数名いる程度だ。

 「しゃーねぇだろ。食えるときに食っとかねぇと身が持たないぞ」

 一旦口の中のバーガーを飲み込んでからかこつけてそう言ったが、言った後にその言い回しの痛々しさに自分で辟易する。

 「いやまぁそうですけど・・・」

「第一俺は直接見たんじゃなくて写真で見ただけだし。スプラッター映切り抜き画像だと思えば、なんてことねぇよ」

「それは先輩がたまたま遅れてきたからじゃ無いですか。こっちは普通に死体とご対面してるんですよ」

 村井は頬杖を突き、憮然とした表情で俺の顔を眺めている。

「何だよお前、気持ち悪いぞ。初デートに浮かれて来たけど死ぬほどつまらなかったときの彼女みたいな目で俺を見るな。万に一つお前にそういう趣味があっても俺はお前とは付き合えねぇぞ。第一お前には玲愛ちゃんっていう可愛い嫁がいるじゃねえか」

「遂にセクハラ上司の域にまで堕ちましたか、先輩」

そう言って今度は臭いものを鼻に詰めた様な顔になる。村井の表情のレパートリーは署内随一だ。

「単純に死体を見た直後に平然と食事が取れる貴方の神経を疑っているだけです。大体、玲愛は関係ないじゃ無いっすか。無理矢理話に巻き込まないでください」

「あー、悪かった悪かった。でもな、実際刑事って仕事柄死体を見ない訳にもいかない訳だしさ、いつまでもその時の光景を引き摺って飯を食らう方が疲れるだろ。だったらいっそのこと、食事中はそういうことは一旦置いといて、飯を味わうことに集中しろよ」

「まぁ、言ってることは分かるしその通りだとも思いますけど・・・」

村井は俺の手元の資料を見遣る。

「それを見ながら食事をしてる人に言われてもねぇ・・・」

それは、今日の午前中に見分した変死現場に関する資料だった。中にはその変死体を撮影した写真も何枚か貼り付けられている。

 確かに、現場の光景をがっつり引き摺って食事に臨んでる奴に言われても説得力は無いな。その点に関しては村井が正論だ。況してやここはフードコート。  万が一、一般人の目に入るようなことがあれば大問題だ。

 だが、そういうリスクを冒してでも、俺は早急に考えねばならないことがあった。

 ―有谷功。今回の変死事件の被害者が、俺に散々アドバイスさせた挙げ句、名目上の釣り宣言をして掲示板から消えたスレ主『名無しという名の浪人生』だったのか・・・

 これは一応上に報告すべき事だろうか?警察官がネラーだということは確かに負い目を感じるが、俺自身が目撃したことだ。早めに証言した方が良いだろう。

しかし、果たしてあの様な荒唐無稽な話を警察が信じるだろうか。

 死体には外傷はなく、精神に強度な負荷が掛かったことに起因するショック死というのが妥当だ。―勿論、指も全部あった。

 全て被害者の妄想と呼ぶには生々しすぎる記録だ。

指が剥がれるという妄想に取り付かれ、その精神的ショックで心臓麻痺。

 俺が公言したところで、結論はそんなに変わらない。

 このまま黙っていようが話そうが、はなから進展の見込みが無い捜査に何ら影響は無い筈だ。

 実際今日、現場で被害者のPCを起動し、件のスレッドのページが開かれた状態であることを確認したのは俺だけだ。そして、その時俺は過ちを犯した。動揺した俺は、咄嗟にブラウザを閉じてしまったのだ。あの時、何故か俺は、このスレッドを誰かに見せてはいけない気がしていた。

 まあ何にせよ、これで俺が口を噤んでいる限り、余計な混乱は起こらず、只の変死事件として処理されることだろう。

一人暮らしの若者の突然死。巷じゃそこまで耳目を驚かすネタじゃない。

掲示板の輩もあれは釣りだったということで大方納得しているようだし、時間と共にそっち界隈でも風化していくことだろう。

―只、俺以外に若干一名、あのスレッドを真に受けていた奴がいた。そいつが何か行動を起こさないか、それが多少気掛かりだ。まあ何かしたところで、この変死事件とあのスレッドがリンクすることはないだろう。

だが、個人的にこの事件の真相に肉薄してみたいという気持ちはあった。その上で、スレ主が力尽きる頃に、執拗に救いの手を差し伸べようとしていた、アカウント名『新世界を渇望する名無し』という人物とコンタクトを取ってみるのも良いだろう。その場合、自分が警察官ということは伏せておいた方がいいだろうか。いや、逆に刑事だ言った方が相手の気は引きやすいだろう。自分の個人情報が特定されないように細心の注意を払って―

「先輩!?ちょっとちょっと」

そこで俺はハッと我に返った。すっかり長考の沼にはまっていたようだ。

村井が少し慌てた素振りで俺の肩を揺すっていた。

「んぁ?、ああ。悪い悪い。考え事しててさ。何?」

「ケチャップ、ヤバいですよ」

村井が俺の右手を指す。

見ると、余程強く握っていたのだろう、ハンバーガーの具材の隙間から押し出されたケチャップが、包み紙をつたい、あわやその下に置かれた資料へと落ちるところだった。

慌てて包み紙を整え、一息に残りの部分を平らげる。

その一部始終を見届けると、村井は怪訝な眼差しを俺に突きつけて問うた。

「どうしたんですか?何かさっきから変ですよ先輩。心ここにあらずっていうか何つーか」

「いや、本当に何でも無い。ここ数日ロクに寝てないからさ、滅茶苦茶眠いんだわ」

無理矢理笑顔で取り繕う。

「ったく、暇なんだから睡眠くらいちゃんと摂ってくださいよ。どうせ夜中までパソコンでチャットか何かやってたんでしょ」

「ま、そんなところだ。心配してくれてるのか、ありがとな」

「何すかそれ。気持ち悪い」

そう言いつつも、村井は満更でもない様子だった。

―何だかんだでこいつとも長い付き合いだな。

俺も自然と感慨に浸ってしまった。村井は関西の田舎出身で、両親の仕事の都合でこの町に引っ越してきたらしい。警察学校時代に俺と知り合った頃には、すっかり関東(こっち)の風に当たって、地元の訛りなども特に見受けられなくなっていた。

今では元同僚の女の子と結婚して、もうじき子供も産まれるらしい。万年童貞街道まっしぐらの俺からしてみれば、石の一つでも投げてやりたいくらい恵まれた奴だが、かわいがってる後輩の慶事は実に感慨深い。

「あ、電話だ」

村井がポケットから携帯を出し、俺に軽く会釈して席を離れる。

俺はその背中を見送って、再び資料に目を落とした。

有谷功の遺体の写真。初見ではおよそ新成人とは思えないくらい老けた面貌だった。髪は伸び放題、ニキビが目立つ蒼白い肌。生気の無い目は死の恐怖に見開かれ、虚空を見つめている。口はだらしなく半開きになっており、涎を垂らしていた。体型も、一目見て不摂生が分かる太り具合だった。スレッドでも余り病院に行きたがらないタイプだと示唆する発言があったし、本人も知らない隠れた持病があっても不思議じゃ無い。やはり奇病が見せた幻覚か、それとも本当にただの釣りで、たまたま持病の発作で死亡するのとタイミングが重なっただけなのだろうか。

―如何せん、詳しい死因が判明しないことには、何も分かんねぇな―

遺体の写真を見つめながら俺は胸中で独りごちた。

死人に口なし、という諺の意味を改めて実感する。

―本当にこのままで良いのだろうか。たとえ藪蛇に事態を混乱させることになったとしても、俺は証言するべきではないか―

ガコン、と椅子を引く音で、俺の意識も再び現実に引き戻された。

村井が電話を終えて戻ってきたのだ。心なしか、先程より表情が幾分暗くなっている。いや、確実に元気がなくなっている。血色の良い顔面は蒼白で、唇が小刻みに震えている。はっきり言って憔悴しているようにも見えた。

この短時間で、そんなにショックを受けることがあったのだろうか。

「どうした?何かあったのか?」

俺は恐る恐る訪ねる。彼が落ち込むとなれば、玲愛ちゃんのことだろうか。

彼女は、もうじき臨月を迎えるはずだ。まさか―

「いや、大丈夫です先輩。大したことないっすよ」

村井はぎこちない笑顔で取り繕った。

 「俺にはとてもそうは見えないけどな」

 珍しく真剣な口調で話してみて、自分でも驚いた。

 それは村井も同じようで、驚愕と不安、そして僅かに救いを求める感情が入り混ざった表情で俺を見つめる。

 村井からこんな視線を向けられたのは勿論初めてなので、俺も少し狼狽えたが、なるだけ平静を装って発現する。

 「電話一本掛かってきたくらいで、そんなに人間の表情が変わるときは、大抵とてつもなく深刻な事が告げられたときだ。別にお前が現状俺以外に頼れる相手や対処できる手段が見つかっているなら無理にとは言わないが、ここは冗談抜きで俺を信用して話してくれないか」

 村井の顔に、少し期待の表情が映る。

 改めて俺の方に向き直り、居住まいを正して村井は話し始めた。

「いや実は、電話の内容自体は別に大したことじゃ無いんですよ。実家からで、最近帰ってきてないから心配してかけてきただけなんですけど、取り敢えず適当に近況報告とかし合って、通話を切ったんです。そしたら―」

そして村井は、虚ろな目で俺の顔を見据え、至って真剣な口調で言い切った。

「指が突然剥がれて、全然繋がらないんですよ」



鬱蒼と生い茂る木々の隙間を、三つの幼い影が駆け抜けていく。

 夏の野山は、茹だる様な太陽の熱で覆われていた。しかし、その灼熱さえも、彼ら三人にとっては活力になるものだった。

 「イー君、何処まで奥行くねん。こんな道、来たことないで」

 真ん中を走る影が、先頭を行く影の背中に向かって言う。

 「ユヅの言う通りや。帰り方とか、ウチら知らへんで。また迷って(オソ)なって、オカンにシバかれるとかマジで勘弁やからな」

 最後方の影が、息を切らしながら同調する。

 確かに、この辺りは村からかなり離れた、人の手の行き届いていない山間部だ。

道と呼べる道はなく、草や落ち葉の分け目から辛うじて獣道のようなルートが浮かび上がってくる程度だ。これでは迷っても仕方ない。勾配も緩やかとは言い難く、足元には長年放置されたであろう腐食した倒木や、複雑に絡まった木の根が無数に存在しており、気を抜いていたら転んで大怪我を負ってしまう。

 「ダイジョブ、ダイジョブ。もうじき着くから安心しろや。この先にホンマぎょーさんクワガタがおる穴場があるんや。高学年の連中ですら知らんようなトコやから、夏休みももう終わりっちゅうこの時期でも、かなりの数残っとるはずや。サトちゃんとユヅが離れんかったら、帰りの道くらいオレが覚えてっから、ええからついてこい」

 イー君と呼ばれた先頭の影は、この山に物慣れている様子で、他の二人を激励している。タンクトップの白シャツが風になびき、短く刈り上げた後頭部には滲んだ汗が輝いていた。

 蝉の大合唱をBGMに、三人は更に奥へと分け入っていく。地元の小学生ですら滅多に立ち入らないからだろうか、この辺りに棲む何種類もの蝉が奏でる音色は、人里のそれよりも幾分大きく、そして快活に聞こえた。蝉は一週間ほどの短命と聞くが、それは人間に飼われている場合で、素の自然で過ごした蝉は一か月以上も生きるらしい。そんな素の自然への冒険は、子供達にとって大人たちの「侵略」とは一線を画した、健気で新鮮な憧憬を抱かせるものだった。

 「せやけど、虫取り網持ってきてないやん。あんのは、このダサい虫籠だけやで。どうやって捕まえるん」

 サトちゃんこと一番後ろを走る三つ編みの少女が、ぜぇぜぇ喘ぎながら、右手に持つ黄緑色の虫籠を掲げる。女の子用という事なのだろうか、一般の男子が持っている通常のそれより、サイズが数段小さいようだ。これまでの苛酷な道のりで、彼女が着ていた白いワンピースは泥で薄汚れ、随所に穴が空いていた。そのことに改めて気づき、彼女は最悪、と愚痴を漏らす。

 「アホ。そんな小道具使わんでも、直接手で捕まえればいいやんけ。てか、手で捕まえることに虫取りのダイゴミ?があるんやろが」

 「うぇぇ。手で捕まえるとか信じられへん。絶対汚いやん。そんなんイー君一人でやってや。ウチ見とくだけやから」

 サトちゃんはあからさまに顔を顰める。

 「何言ってんねん。何の為に三人で来たんや。お前らにも捕まえるの手伝ってもらうんや」

 「えー、俺も素手はちょっと…」

 「何言ってんねんユヅ。お前は男やろ、贅沢なこと()うな―っと、言ーてる間に着いてもうたな」

 イー君が足を止めて、辺りを見回す。標高が高くなったからだろうか、幾分涼しくなったように感じられる。

 「確かこの辺りやったはずや。前来た時は、丁度あのデカ太い木のトコにぎょーさんおったんや」

 イー君はそう言って、一本の立派な樫の木を指さす。

 しかし、見た限りでは樹皮の表面に何も居ない。

「何や、一匹もおらんやん」

幻滅と安堵が入り混じった声色でサトちゃんが言った。

イー君の表情が少し曇る。すかさず木の真下へと走っていき、木の周りをぐるりと一巡する。すると、イー君の顔色に再び明るさが戻ってきた。

「アホ。自分が見てる面が全てちゃうわ。裏見てみい」

二人が駆け寄って裏に回ってみると、そこには大量のクワガタが、びっしりと樹面に張り付いていた。全体的に黒い光沢があり、頭部に冠状の突起が付いている。

「ミヤマクワガタや。こんなにお目にかかれるなんて、オレら相当ついてるで」

イー君が興奮気味に話す一方で、サトちゃんとユヅはその多さに辟易する。

「なぁ、これホンマに全部捕るん?」

サトちゃんが泣き出しそうになって言う。

「いや、全部取ってもうたら可哀そうや。一人二匹、合計六匹やな」

「ウチは別にいらへんで」

「ほんなら、オレ3匹、ユヅ三匹や」

「結局6匹は捕りたいんやな」

それからはクワガタ採集に明け暮れた。イー君は自身の一切の気配を掻き消すつもりで、慎重にクワガタに忍び寄る。そして、鮮やかな手掴みで次々と無心にクワガタを捕えていき、ユヅがサトちゃんから引き受けて持っている虫籠に次々と入れていった。クワガタを捕えて入れる手さばきと、しっかりとタイミングを見切った籠の開け閉め。餅つきさながらの阿吽の呼吸でその所作を繰り返しているうちに、気づけば小さな虫籠は、クワガタですっかり埋め尽くされてしまった。

 「これ絶対10匹以上いるやろ」

 「せやな、ちょっと逃がしてやらなあかんな」

イー君は虫籠をユヅから受け取り、慎重に籠を開けて、6匹を残してクワガタを逃がしてやった。

 「よっしゃ、ほな帰ろか」

虫籠をサトちゃんに渡すと、イー君は再び先陣を切って来た道を戻り始めた。

「えー?これウチが持つん?」

サトちゃんが不服そうに頬を膨らませる。

「当たり前やろ。お前着いてきといて結局何もしてへんやん。荷物持ちするくらい大人しゅう引き受けろや」

「サトちゃん、俺が持ったろか?」

「いらんわ。ユヅにそういう事言われんのも腹立つねん」

イー君が軽く鼻を鳴らす。

「女の子扱いされたいのかされとーないのか、よく分らんな、お前は」

その時、ふとサトちゃんが歩みを止めた。

「ん?どうしたんやサトちゃん、小便でも漏らしたんか?」

冗談めかしてイー君が尋ねる。しかし、サトちゃんはそれには一切応えず、至極真剣な口調で問い返した。

「―何か聞こえへん?」

「何かって何やねん」

「いや、よー分からへんけど…何か、変な声」

サトちゃんの何時になく真面目な物言いに、二人も耳を澄ます。

すると、非常に微かだが、奇妙な音が聞こえてきた。声かどうかは分からないが、確かに唸っているような、獣の咆哮のそれと類似している。

「何や、この音?ユヅ、お前聞こえるか?」

「うん、何か―ゴォォォーって感じの」

「それや」

得体の知れない謎の音に、二人も怪訝な表情になる。その音は、自分たちの背後から響いているようだ。位置は掴めないが、移動するでもなく、何処か一定の場所から発し続けられているようだ。

―何かが、そこに居る。思わず、ユヅは踵を返していた。

「おいユヅ、どこ行くねん!」

イー君が叫ぶ。

「俺、ちょっと見てくる!」

振り返らずに、ユヅは返事する。幼稚な好奇心だろうか、それとも、何かに誘われていたのだろうか、今となっては分からないが、とにかくこの時のユヅは、その音の元へと行かなければならない、という謎の使命感に突き動かされていた。

無数の木々や小藪の合間をかき分け、ひたすら走る。

背後で自分の名前を呼ぶ声が、次第に遠ざかり、やがて届かなくなった。

―あいつらは、追いかけてこないんだな。

ユヅは胸中でそう独りごちた。サトちゃんはともかく、イー君なら自分の後を追って、その音の正体を一緒に追求してくれると、勝手に思い込んでいた。

その思い込みのせいもあって、実際はそうでなかったことが、無性に寂しくて、腹正しかった。イー君に腹を立てるのはお門違いだと分かっていても、その不純な心情が、油断を招いたのだろうか。バキッと、醜い音が足元で響く。刹那、ユヅの視界は横転し、宙を舞っていた。何かに足を取られて転んだのだ、と気づいた時には、身体は仰向けに地面に倒れこみ、その衝撃で背中をしたたかに打ち付けた。

 ユヅは暫くそのまま、仰向けで寝転がっていた。頭上を埋め尽くした緑葉の隙間から、夕日が差し込んでいる。

 ―自分は一体、何をしているのだろう。

後悔と、虚脱感の波が静かに押し寄せる。

―早く、帰ろ。

奇妙な音の正体など、最早どうでもよくなっていた。

緩慢に上体を起こし、身体に不具合が無いか、確かめる。幸い落ち葉などがクッションになったお陰か、両肘を擦りむいた以外は特に外傷はない。四肢も問題なく動かせるようだ。

 ユヅは帰ることを決心して立ち上がった。

そして、恐ろしいことに気が付いた。

―帰り道が分からない。

自分の浅はかさに、ユヅは愕然とする。

そもそも、イー君に連れられてこの山奥にまで辿り着いたのだから、彼が居なければ帰れないのは必然なのに。どうして俺は―

 その時、耳に、あの音が響いてきた。今度は先ほどよりも明瞭に、大きく。鼓膜を震わせてくる。

 ―ゴォォォォ、ゴォォォォ―。

間違いない、この近くだ。

ユヅは、思わずその音が聞こえる方向へと駆け出していた。先ほどまでの自責の念は、すっかり消し飛んでいた。

 程無く、それまで鬱蒼と生い茂っていた木々が徐々に少なくなり、やがて開けた場所に出た。そこが、例の音源であった。

 滝。

そこには、絶壁を流れ落ちる水の流れがあった。

清澄な空気が、ユヅの肌を突く。滝壺に夕陽が反射して、虹がかかっていた。

滝のある場所は、山中にぽっかりと空いた穴のようだった。今ユヅがいるこちら側と、滝の側は滝壺の円周上で地続きになっている。この下に地下水でも通っているのだろうか、滝の底は暗闇に消えていた。底まで何メートルあるのか、見当もつかなかい。

自分がいる側も崖になっているのだろうが、滝のある向こう側の崖の頂上は、こちら側の何倍も高いようで、滝の上層は霧に包まれて見えなかった。

ゴォォォォと唸り声を上げながら、滂沱たる水滴の集合体が、重力に身を預け、一本の太い線となって絶え間なく流れ落ちていく。

ユヅは暫く素の自然が織り成す神秘的な光景に見とれていた。

その時、ふと気づいた。

 今自分がいる場所から続いている小径は、滝のある方の崖へと向かっている。そして、向こう側の崖に到達すると、その壁面に沿って、滝の裏側を通り、螺旋階段のように周回しながら、滝の底へと続いていた。

 その光景は、ユヅの稚拙な好奇心を徒に(くすぐ)らせた。

 ―そこに道があれば、行ってみたくなる。―

 そんな純粋な衝動に、自分自身で歯止めを効かせられるか否かが、大人と子供を分かつ一つの要素なのかもしれない。

 一瞬の逡巡の後、ユヅは道に沿って進んだ。

 以前の獣道に比べればなだらかでこそあれ、舗装されていない道であることに変わりは無い。足元に注意しながら、ゆっくりと、慎重に歩む。

右手に木立、左手に滝壺。右前方に切り立った断崖。

そちらへと近づくにつれて、道幅は狭くなる一方だった。

だが、ユヅの心境に、先ほど感じた迷いは最早残っていなかった。

ここまで来たのだ。今更引き返すことは、自身の「少年」であるという矜持を裏切ることになる。

 そして、到達した。

 木立と断崖を隔てる境界面。

 「向こう側」は「こちら側」になり、「こちら側」は「向こう側」となった。

ここから先は、更に道幅は狭くなる。

 道は崖に沿って緩やかな傾斜を描きつつ、降下している。底はやはり文目もわかぬ暗闇に呑まれていた。

 ユヅは、恐る恐るその領域に足を踏み入れた。

 一歩踏み出せば、後はひたすら歩むだけだ。

 一歩一歩、慎重に、着実に。

 横幅は大人一人がギリギリ通れるくらいしかない。

 少し足を滑らせれば、奈落の底へと真っ逆さまだ。

 ユヅはそうならないよう、崖の面に右手を添えて、そちら側に若干体重を傾けて歩いた。それでも、もし落石でもあろうものなら、自分の人生など呆気なく終わってしまうだろう。自然の脅威というものを、田舎育ちの身でありながら、ユヅは生まれて初めて実感していた。

―いや、落ち着け、何ビビッてんねん、俺。

自分を叱咤しつつ進む、進む、進む。

 ふと視線を上げると、当初は遠くに見ていた滝が、目の前にあった。

 ゴォォォォと唸り声を上げるそれは、遠目では一本の太い線のようにしか認識できなかったが、間近で改めて見ると、その迫力に圧倒させられる。無数の水滴の全てが一つの流れを形成しているのではなく、中には流れを逸脱し、水飛沫としてあらぬ方向へと飛散する水粒が沢山あることが分かった。ユヅは、既に自分の全身がずぶ濡れだということに気が付いた。

 滝の流れと崖の間の僅かな隙間を、崖にへばりつく様な大勢で通過し、ユヅは自分が、この場所に立ち入る初めての人間なのではないか、という高揚を感じていた。しかし―

 ―いや、ちゃうわ

そうだ。よく考えれば、この道、明らかに人口(・・)だ。でなければ、大人一人がギリギリ通れる道幅、滝の裏の辛うじて通過できる隙間、螺旋状の道、自然に形成されたにしては不自然な要素が多すぎる。という事は。

―この先に、誰か居るかもしれへん。

確証こそ無いが、ユヅはその可能性の存在に思い至っていた。

もし本当にそうだとすれば、それは何者だろうか。自分を歓迎してくれるだろうか。そもそも、何の目的でここに道を造ったのだろう?

 自然の脅威に対するものとは一線を画した恐怖を、ユヅは感じ始めていた。

―戻った方が良いんとちゃうか。いや、戻るべきやろ。

 しかし同時に、またしても致命的な好奇心が首をもたげ、ユヅに囁く。

―いいのか?その「誰か」を、本当はお前は確かめたいんじゃないのか?ここまできて、ただ大人しくお家に帰るなんて、「少年」失格だぞ?

結局、ユヅは進み続けた。

どれくらい歩いただろうか。気がつくと、自分が最初に居た滝とは反対側の崖の頂上が、見上げられないほど深く降りたようだ。気が付くと、辺りはすっかり暗くなっていた。村の皆は自分のことを心配しているだろう。だが、ユヅにとって、彼らを不安にさせた償いは、一刻も早く帰宅することではなく、この出奔を自身にとって有意義なものにすることだった。

―全然下、見えへんな…

滝壺の底は、未だに暗闇に包まれている。

いくら降りても、この色は一生剥がれ落ちることが無いのではないかと錯覚しそうになる。

と、次の瞬間、ユヅは息を呑んだ。

―!?

道が途絶えている。

今自分が居る場所から見て、反対側の崖に、今までなら見えていたはずの道が、確認出来ない。

一瞬周囲が暗くなったことではっきり視認できなくなっただけではないかと疑ったが、しっかり目を凝らして何度見ても、そこに道は無かった。

―意味わからん…

一体何の為に自分は此処まで進んできたのか。道が無ければ、当然ユヅの冒険は此処までだ。諦めて引き返そうと思ったとき、ユヅは気づいた。

―ひょっとして、崖の中に道があるんとちゃうか?

ユヅは帰ろうとする足を踏みとどめて、再度視線を自分がこれから行こうとしていた道の先へと滑らせた。

 道は、崖に沿って滝の裏へと続き、そして―、消えていた。

―滝の裏に、洞窟の入り口とかあるんちゃうやろか。

そう思い、ユヅは再び歩を進める。

やがて、滝の裏側が見えてきた。

―ビンゴや!

滝の裏側には、ぽっかりと穿たれた洞穴が、静かに口を開けていた。

いつか、図鑑で見たカッパドキアの石窟を思い出す。但し、カッパドキアのように断崖に無数に点在しているのではなく、一つだけぽつんと存在していることが、異様な孤独感を感じさせて、ユヅには少し不気味だった。

―行こう。

意を決して、その中にユヅは向かう。

穴の中に一歩足を踏み入れた時、ユヅはゾクリと、背筋が粟立つような感覚に襲われた。何か、途轍もなく冷たく、悪意を孕んだ何かがこの奥で待ち構えている―、そんな嫌な予感がした。

 だが、ユヅは進む。奥へ、奥へ。好奇心という魔物に魅せられて。

気が付けば、滝の轟音も最早聞こえなくなっていた。洞窟は横幅は狭いが、天井は高く、大人でも背筋を伸ばした状態で通れそうだ。

暫く歩き続けると、3畳程度の、少し開けた空間に出た。

その部屋の中心に、何か石碑のようなものが立っている。ユヅは、それが異様なものに感じられた。

 勿論、この場所自体異様ではあるのだが、洞窟全体が苔むしているのにも関わらず、石碑とその周りだけが、異様に奇麗なのだ。まるで、ついさっきまで誰かが石碑を磨いていたかのように。また、周囲は明かりの届かない暗がりなのにも関わらず、石碑だけがスポットライトを浴びているかのように、明るく視界に映っていた。

何より、この洞窟に入ったときに感じた嫌な気配は、全てこの石碑に集約されているようだ。

石碑の表面には、何か描かれているようだが、流石にそれが何なのかは分からなかった。

―そもそも、何でこんなところに石碑があんねん―

 不意にズズ、という音が聞こえて、ユヅは心臓を吐き出しそうなほどに驚いた。

絶叫して呼びあがりたい衝動を押し殺して、その音の発生源を見つめる。

石碑が、ズ、ズズ、と引き摺る音を立てながら、ゆっくりと、ユヅの方へ接近してきた。

―逃げなければ。

脳はそう指令を下しているのに、ユヅの両脚は浮足立ったまま、一歩も動けずに固まっていた。まるで、足首を地面の下から強力な力で掴まれているかのようだ。いや、本当に掴まれているのかもしれない。だが、恐ろしくてそれを確認することは、今のユヅには出来なかった。

石碑は、その間にもじりじりと距離を詰めてくる。ズズ、ズズズ。その石碑の本体から、何か黒い靄のようなものが立ち上がっているのを、ユヅは見た。

靄は石碑の周囲を徐々に埋め尽くし、触手のようにユヅの身体へと向かって伸びてくる。

人生の終焉を、ユヅは肌で感じていた。

刹那、その黒い靄が一気に押し広がり、ユヅの全身を包み込んだ。




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