中国古代の庶民スイーツ『甘豆羹』
古代中国を舞台にした歴史小説を書いていて、もっとも難しいと感じるのは、人々の日々の暮らしの描写です。どんな衣服を着て、家の中ではどんな風に過ごし、そして何を食べていたのか。中華風異世界ファンタジーならば、どうせ異世界だし、いっそ適当でいいか、となりますが、異世界でない地球の、実際の歴史上のできごとを題材として取り上げている場合は、やはり神経を使います。
特に食事のシーンは生活描写の中でも、かなりのウェイトを占めてくる。何か食べているシーン、飲んでいるシーン、小説としてのリアリティを出すためにも、当時の生活水準に見合った食べ物を食べさせたい。あるいは当時はどんなものを食べていたのか、単純に知りたい、そういう興味で小説を読む読者さんもいるかもしれません。
漢代(前漢:紀元前206年~後8年、後漢:後25年~220年)の人々は、何を食べていたのか。
これを知りたいアナタと私のための、まさしくバイブルのような研究論文があります。
林巳奈夫「漢代の飲食」(『東方学報』第48号、1975)。中国考古学の泰斗が、貴重な考古遺物と豊富な文献から、漢代人が飲み食いしていたものを集めた大作。しかも、京大の機関リポジトリからPDFで、なんと無料でダウンロードできます。(アドレス書いちゃダメらしいと別の場所で知りました。検索したらすぐに出て来るはず。)
何しろこの論文、98ページもある。長過ぎでしょ(笑)。この『東方学報』って雑誌、京大の人文科学研究所が出しているんですが、デカくて分厚くて重くて、しかもページが開きにくい。表紙が厚紙でできた電話帳みたいな、めちゃくちゃ読みにくい上に、コピーもしづらいという、全く読者に優しくない仕様でした。でも、PDFならラクラク! しかもタダ! これをPDF化するためにコピーを取った人は、間違いなく汗だくになったと思います。京大人文研の中の人に感謝しつつ、ぜひダウンロードしてみて下さい!
……ただし、98ページもある上に、旧漢字旧仮名遣いで、現代日本語なのに、非常に読みにくい。読み慣れるまでは、少し……いえ、すごく、苦労するかもしれません。でも大丈夫! 98ページもあるんだから! 読んでるうちにきっと慣れるよ! ……たぶん。
1975年の論文ですから、些か古いのは確かですが、これほど網羅的に、漢代人が飲み食いしていたモノについて集めた論文はありません。しかも日本語です(旧仮名遣いだけど)。その後の発掘によって多少は補い得る部分もあるかもしれませんが、全体における価値は下がっていないと思われます。
漢代には砂糖と植物油は存在しない。少なくとも、明確に料理に用いられるものとしては、検知できていない。これは現在のところも動いていないでしょう。
『後漢書』の西域伝・天竺国の部分に、香料や胡椒とともに見える「石蜜」が、どうやら蔗糖(つまり砂糖)の塊状のものを指すらしい。砂糖は、後漢時代にはインドから中国に伝播はしていました。インド渡来の仏僧が、秘薬として持ち込んだりと、希少過ぎてとても料理になんて、使えません。東晋の顧愷之ら、六朝貴族はサトウキビをガジガジ齧っていた(『世説新語』に見える)ので、南北朝時代以降、ようやく、サトウキビが中国に広まったと考えられています。でも、お貴族様がガジガジしてる段階ですから。庶民の手に届くのは、もう少し後になりそうです。
*追記
『楚辞』には砂糖黍の搾り汁と思しき記述があり、二日酔いの薬として用いられたみたいです。どの道、南方の限られた人たちだけの口に入るモノであったと思われます。
今回のエッセイでは、砂糖のない漢代の人が、どんな甘いものを食べていたのか、林先生の論文をヒントに考えてみました。
漢代で甘いものと言えば、「蜜」か、「飴」でした。論文で言うと、61ページから63ページにかけての部分になります。
「蜜」は蜂蜜。「飴」とは、穀物のもやしに熱を加えて作る、つまり麦芽糖の類。日本で言う、水あめです。
蜂蜜は言うまでもなく、貴重品です。『後漢書』朱祐伝の注に引く『東観漢記』に、
上(=光武帝)在長安時、嘗與祐共買蜜合藥。
と、光武帝が若い頃、長安の太学に遊学していた時代、同郷の友人、朱祐(*1)と蜂蜜を買い、薬を調合して売った、という記述があります。蜂蜜もまた、半ば薬のような扱いだったのですね。当時、養蜂も行われていましたが、庶民の口に入るものではなかったようです。
では「飴」はどうでしょうか。
中国最古の辞書『説文解字』によれば、「飴、米糱煎也」あり、論文では「穀物のもやしに火力を加えて水分を飛ばしたもの」と解説しています。漢代の文献に出てくる「米」は「コメ」のことではなく、精白した穀物全般を指します。「糱」はモヤシ。「煎」は熱を加えて水分を飛ばすこと。麦芽糖は、麦芽酵素によってでんぷんを糖化させて作ります。
林先生の論文は、漢代の飲食物を広く列挙することを主眼としていますので、麦芽糖の作り方については、当然、知っているものとしてスルーされます。以下、少し詳しく説明しようかと思いましたが、麦芽糖の作り方については、「星 武臣」様とおっしゃる作者の方が、活動報告に載せているのを発見しました(2018年4月13日)。人見知りの私はリンクを貼って、いちいち挨拶に行くのが面倒くさいので、各自で検索してみてください。要するに米を炊いて粥を作り、65度くらいに冷まして麦芽を加え数時間放置し、その後煮詰めて水分を飛ばすのです。
中国古代の史料において、麦芽糖の作り方はどのように書かれているでしょうか。北魏時代に書かれた『斉民要術』巻九には、『食経』という書物(北魏の崔浩の著とも言われるが、確定はしていない)の《作飴法》が引用されています。これによれば、
取黍米一石、炊作黍、著盆中。糱末一斗攪和。一宿、則得一斛五斗。煎成飴。
精白したモチキビを一石、炊いて飯にして盆に広げる。乾燥モヤシの粉末一斗を混ぜ合わせる。一晩置くと一斛五斗になる。煮詰めて水分を飛ばし、飴にする。
と、稲ではなく、精白したキビ(黍米)で作ります。このモヤシ「糱」は『斉民要術』巻八によれば、八月中に用途に合わせて発芽小麦を作って、乾燥させておいたものです。後漢時代の豪族の年中行事を記した崔寔『四民月令』には、「十月、先冰凍、作餳、煮暴飴。」と、漢代には冬十月、気温が下がる前に「餳」と呼ばれるやや硬い水あめと、煮る時間が短い緩い水あめ「飴」を作ったようです。
精白したモチキビ一石、石は「セキ」と読んで重さを表す場合は、現在の約30キログラム、「コク」と読んで容積を表す場合は、1石=10斗。時代によって違いますが後漢から西晋時期で1斗=約2リットル。現代日本の十升強、といったところでしょうか。どちらにしても、かなりの分量になります。豪族の台所で、奴隷たちにまとめて作らせる分量と見るべきです。
「飴」をもう少し煮詰めて固くしたものが「餳」です。『斉民要術』には、さまざまな「餳」の作り方が出てきます。「白餳」を作る場合は「白芽散糱」を、つまり芽が出たばかりの状態のモヤシを使い、「黒餳」を作る場合は「青芽成餅糱」、芽が少し成長して青くなり、根が「餅」のようにくっついた状態のものを用いる。「琥珀餳」を作る時は、大麦のモヤシを用いるとあります。
さらに「乾飴」と言って、「飴」を煮詰め、乾燥させたキャンディ状のアメもありました。固形キャンディについて、林先生の論文には突然、「榮太郎のあめのやうに固めたもの」と出てきて、田舎者の私は《榮太郎のあめ》がわからず、少しばかりパニックになりました。だって「漢代の飲食」って論文読んでて、前触れなく《榮太郎》が出てきたらビックリ仰天ですよね?誰だよ!って。
……《榮太郎》は江戸時代から続く老舗の飴屋でした。
豪華な副葬品と、生けるがごとき屍体で有名な馬王堆一号漢墓からは、「糖笥」と書かれた付札が出土しています。「笥」は竹籠ですから、この「糖」は固形のアメと思われ、かつ、菓子の目録に「唐」というのが出てくるので、これは穀類でできたスイーツとしてのアメなのでしょう。馬王堆の墓主は列侯の夫人ですから、漢代の上級セレブの老貴婦人。このクラスになると、固形キャンディを日常から楽しみ、それを死出の旅に携えることもできました。現代の大阪のオバチャンがかならず携帯するスイーツ「あめちゃん」。中国古代の貴族のオバチャンも食べていた、オバチャン伝統のスイーツなのです。(ちなみに馬王堆の屍体、画像検索で見られるはずですが、グロいのでググるのは推奨しません。ホントにグロいからねー!ググっちゃダメよー!)
では、庶民はどんな甘いものを食べていたのか。あるいは甘いものとは無縁の人生だったのか。
林先生の論文、22ページには、興味深い記述が登場します。穀物の、豆の部分です。
『急就篇』という、漢代の文字を覚えるための一種の教科書に、「餅餌麦飯甘豆羹」とあり、「餅餌」「麦飯」「甘豆羹」の三種類の食物が出てきます。唐代の顔師古の注には、
甘豆羹、以洮米泔和小豆、而煮之也。一曰、以小豆為羹、不以醯酢、其味純甘、故曰甘豆羹也。麦飯豆羹、皆野人農夫之食耳。
と、「麦飯、豆羹、皆な野人農夫の食のみ」とあり、これらは田舎の庶民の食物であったことがわかります。「甘豆羹」とは、文字通りならば「甘い豆のスープ」、漢代の小豆ぜんざいみたいな、庶民のスイーツ。いったいどうやって作るのでしょうか。
顔師古注の、「洮米泔」、いきなり見たこともない漢字ですが、「洮」も「泔」も米を研ぐ、あるいはコメのとぎ汁という意味です。「小豆」は現代と同じく「アヅキ」を指しますから、林先生の言うとおり、「甘豆羹は米のとぎ汁にアヅキを混ぜ、煮たもの」となります。一説には、小豆のスープを作り、「醯酢」(どちらも酢です)を入れず、味付けはただ甘い、だから「甘豆羹」と言う、とあって、酸っぱい味付けはしなかった(漢代の人は酸っぱいものが好き)。
……アズキを米のとぎ汁で煮ただけで、甘くなったりしませんよね?!
私は大根を煮るときは米のとぎ汁で下茹でしますが、大根は甘くなりません。米のとぎ汁でアズキを煮てうす甘いぜんざいになるんだったら、日本の主婦がそれを利用しないわけない。醤油を遥かに凌駕する、万能調味料「米のとぎ汁」。お茶がわりにあっためて飲み、全ての料理の隠し味として米のとぎ汁が投入され、子供のオヤツは問答無用で「米のとぎ汁ぜんざい」一択。「えー、またコレ〜?」「うるさい! オヤツは米のとぎ汁しかないよ!」……という、日本は今頃、「米のとぎ汁地獄」になっていたに違いない。今、現在、日本がそうでない時点で、「米のとぎ汁でアヅキを煮ただけ」説は却下である。絶対、甘いわけないもん。
林先生は、「何で甘味をつけたかわからないが、うす甘いぜんざい的なもの」と述べています。では何を加える? 「野人農夫の食」ですから、高価な蜂蜜や麦芽糖を加えたとは、考えにくい。そもそも、米のとぎ汁で煮る意味も不明です。
何か、重要な工程が省略されているに違いない。
「餳」についての漢代の辞書『釈名』の説明、「餳、洋也、煮米消爛、洋々然也。」(餳、とはどろどろしている、という意味で、穀物を煮てぐずぐずにしたものである)がヒントになりそうです。
穀物を煮ただけでは、麦芽糖になりません。『釈名』は、麦芽の類を入れる過程を省略していると考えられます。『釈名』の作者、劉煕も、『急就篇』に注をつけた顔師古も、士大夫ですから自ら料理に携わったりしない。製造工程を見ても、穀物をドロドロに煮ている、とか、あの白いのは米のとぎ汁だな? 程度しかわからないのかもしれません。彼ら士大夫は、自分で再現する必要もないのですから、とりあえず原料さえわかればいい、くらいに考え、余計なことは書かないのかもしれません。この「甘豆羹」も、米のとぎ汁に何か安価なものを加えて甘くしているのに、それを省略している可能性があります。
私は「米のとぎ汁」であれこれとネット検索してみました。床を拭いたり、乳酸菌にしたり、いろいろな利用法があるのですが、私はついに、個人のブログで「米のとぎ汁に米麴を入れたら甘酒ができる」という記事を発見しました。(個人ブログなのでリンクは張りません。グレープおばさん、という方のブログです。)
このブログ主の方は家庭用の精米機を持っておられて、その「七分づき米のとぎ汁」は「濃い」ので、ほんのり甘い甘酒が作れるそうです。残念ながら、市販の、精米済みの普通の米のとぎ汁では薄いので、ダメっぽいです。……というわけで、精米機のない私には検証はできないのですが。
漢代の精米方法は人力で舂いて行いますから、そのとぎ汁は濃かったはず。砕けた米なども含まれていたでしょうし。麴を加えれば、やや薄い甘酒になるのも不思議ではない。
……つまり!
これはあくまで私の予想ですが、「甘豆羹」とは、米のとぎ汁を温めたものに麴を加え、少し発酵させて薄い甘酒のようなものを作り、それで小豆を煮たのではないか。……これなら、蜂蜜などの高価な甘味を加えなくても、「うす甘いぜんざい」風のものが作れそうです。
そもそも、現在の「小豆餡」には大量の砂糖を加えて甘くこってり仕上げますが、煮た小豆に麴を加えて甘酒のように発酵させ、砂糖を入れずに甘いあんこを作る方法もあります。甘酒もそうですが、上手くするとかなり「甘いもの」を砂糖なしで作ることが可能です。麴は漢代の台所では、保存食づくりや調味料の一種として欠かせないものでした。庶民が楽しむスイーツには、蜂蜜よりも麴発酵の甘味が自然に思われます。
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〇漢代の庶民スイーツ「甘豆羹」(っぽいもの)を作ってみよう!
①自家精米の七分づき米を用意できる方は、その「米のとぎ汁」。沸騰させ、65度に冷ましてから、米麴を入れ、65度を保つように、七時間ほど保温する。→うすら甘い甘酒ができる。
②小豆を煮る。初め五分ほど煮て湯を捨て、アク抜きをする。鍋に新しい水と小豆を入れて、柔らかくなるまで煮る。
①の甘酒で②の小豆を煮る。→「甘豆羹」(っぽいもの)出来上がり!
〇自家製の甘酒を作ったり、自分で小豆を煮るのが面倒くさいという人は……
①米麴を使用した、砂糖不使用の甘酒を用意する。
②砂糖不使用のゆであずきを用意する。
①と②を一緒に煮る。→「甘豆羹」(やや近いもの)出来上がり!
「……それって、要するに砂糖不使用の『甘酒ぜんざい』なんじゃないかしら……?」
という疑問を持たれた方。鋭いですね。その通りです!実は私、このお正月は「ゆであずき缶」と「麴甘酒」で、漢代風の「甘豆羹」を作ってみようと思っていました。……が!
甘酒は砂糖不使用だったのですが、購入しておいた「ゆであずき缶」に、砂糖ががっつり使用されていました……。さらに家族のインフルで、一から小豆を煮ている場合ではなく……。
だから鏡開きの日には、小豆を煮て「甘豆羹」を作ってみようと考えています。
おモチを入れてぜんざい風にしてもいいですね。
え? おモチは漢代にあったのかって? もちろんありましたよ! 上に引いた、『急就篇』の「餅餌麦飯甘豆羹」、この、「餅」は小麦粉を水で捏ねた料理全般を指しますが、「餌」、こちらが現代の日本で言う、モチと同じものと考えられています。「餌」に大豆を炒って粉にしたものをまぶした、現代日本で言う「きなこ餅」も、古代から食べられていました。「甘豆羹」にモチを入れた可能性だって、ゼロではありません。
このお正月、中国古代風のおぜんざいを作ってみるのは、いかがでしょうか。
*1
朱祐 本当の名は朱祜。 後漢の安帝の諱を避け、『東観漢記』には朱福と書かれ、諱を避ける必要のない『後漢書』ではなぜか朱祐と書かれる。光武帝の同郷の幼馴染。