みんな!『ムン活』しようぜ!~《叫び》の画家・ムンクの魅力について~
国立科学博物館の特別企画展『昆虫』のキャッチコピーが『みんな!昆活しようぜ!』だったので、それになぞらえたパクリタイトルです。
さてさて、そんなどうでもいい話は置いといて、みなさん『ムンク』って知ってますか?
なんかどっかで名前だけは聞いた事あるなー、とか。
あー、なんか暗い絵ばっかり描いてる画家でしょ?とか。
いや、そもそも知らんし、とか。
色々な感想があるかと思いますが、あの『叫び』の絵を描いた人だよと言えば『あぁ~なるほどね』となる方が大半じゃないでしょうか。
映画やアニメや漫画やらで、よくパロディとして扱われる『叫び』ですが、実はこの作品、全部で5枚以上も製作されていたということはご存じでしょうか。
油彩画で描かれた1点が、ノルウェーの首都にあるオスロ美術館に。
パステル画で描かれた2点のうち、1点はノルウェーのムンク美術館に。もう1点は個人所有。
テンペラという、乳化剤を混ぜた絵具で描かれた1点が、これまたムンク美術館に。
そして、ムンクが『叫び』の出来に気を良くして大量生産したリトグラフ・バージョンが、今や世界中のいろんなところに散っています。
これら5枚以上の『叫び』のうち、2018年11月現在、東京都美術館にやってきているのはテンペラ・バージョンの『叫び』です。
テンペラとは、前述したように乳化剤を混ぜた絵具で描かれているので、油彩画と違って経年劣化に強い耐性を持っています。
なので、描かれた当時の色合いをほとんど残したまま、鮮明な色合いを放っているってところが魅力的なんです。
ただ……非常に悲しい事に、このテンペラ・バージョンの『叫び』は昔、盗難に遭っています。オスロ警察の捜査の結果、絵画は無事取り返せたのですが、なんかよく分からない液体が付着して絵が損傷してしまい、完全な修復には至りませんでした。
しかし、この目で実際に絵を見てきたからこそ言えるのですが、正直なところ、どこに損傷痕があるかなんてよくわからなかったし、それ以上に絵の迫力が圧倒的で、些末なことのように感じられたのは事実です。
100年以上も昔に描かれた傑作の絵画が、当時の魅力をほとんど損なわず、われわれ現代人の目の前に出現してきた……想像しただけで、ドキがムネムネしてきませんか?
え? そんなこと言われても何がなんだか分からない?
分かりました。
では僭越ながら、ド素人の絵画好きが語るには力不足は否めませんが、ムンクの絵の何が凄いかを、少々ここで語らせていただきます。
その前に、ムンクの絵画活動を理解する上で、彼が活動していた19世紀半ばから末の文化背景や、彼が生まれ育った家庭、彼を取り巻く女性関係について、簡単に述べさせていただくとしましょう。
■ムンクが活動していた時代。
エドヴァルド・ムンクはノルウェー出身の画家で、1863年に首都・オスロで生まれました。
彼が誕生した19世紀半ばの頃、近代科学は隆盛を極めていました。
世界中に普及した産業革命は黎明期から成熟期に移行し、科学の力が自然原理の謎を次々に解き明かしていく中、ダーウィンが『種の起源』を発表し『お前ら、人類は猿から進化したんやで』と、センセーショナルを巻き起こしていきます。ここにきて、ついに自然科学は『ヒト』の領域にまで踏み込んできたのです。
さらに、きっと間接的に多くの人々を経済的に殺していった原因と言われても仕方ない、カール・マルクスの『資本論』が発表されたのもこの時期です。
資本論は、当時の若者たちの心を熱病の如く浮かせ、これに傾倒する人たちが後を絶ちませんでした。
彼らは反ブルジョワジーを掲げ、『商品価値は労働量により決定され、あらゆる価値は等価交換の原則原理に従う』という、いまの経済学からしてみると、お前ふざけてんの?と言いたくなるような主張が世界を席巻していました。
ムンクが成人した年頃には、『神は死んだんだからさぁ、もう俺らも、そろそろ超人になるべきじゃね?』と唱えたドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェが、あの『ツァラトゥストラはかく語りき』を発表し、キリスト教的な理想論を過去のものとしました。これに乗じて、フリー・セックスが流行しはじめたのも、19世紀末の特徴の一つと言えるでしょう。
こういった、科学的・経済的・哲学的側面において目覚ましい発達を遂げていった結果、目に見える領域への科学的メスはどんどん入られていき、もう自然分野で明らかにすべき謎は(この当時は)ほとんど開拓され尽くしたかのように見えました。
その結果どうなったかというと、人々の興味は『目に見えるもの』から『目に見えないもの』へ、つまりは自然科学の分野から精神世界の分野へと、矛先が移っていったのです。
その証拠に、精神医学の父とされるフロイトが『なに?お〇んちんの夢を見た?じゃあ欲求不満なんだね』と患者たちの心を具象化しだし、その弟子であるユングが『人の集合的無意識ってマジでパネェ』と唱えだしたのも、19世紀の末でした。
余談ですが、世紀末になると精神世界やオカルトが隆盛を迎えるのって、人の世の常なんでしょうかね。
月刊ムーが面白がられたり、『幻魔大戦』などのオカルト系列の小説や映画が流行ったり、オウムが調子に乗ってヤベェことしたのも20世紀末であったし、世紀末というのは人の心を狂わせる、何か魔性のような空気を孕むものなのかもしれませんね。
■ムンクの家庭
さて、ここで話の焦点を生まれたばかりのエドヴァルド・ムンクに戻しましょう。
彼がこの世に生を受けた当時、まだノルウェーは独立しておらず、オスロも『クリスチャニア』という名前でした。
お父さんは医者で、先祖には画家のヤコブ・ムンクや、美術史家のピーター・アンドレアス・ムンクなどがいて、地元では名の知られた名家だったようです。
ですが、彼が幸せな子供時代を送ったかというと、そうではありません。
お母さんはもともと病弱気味で、ムンクが5歳の時に結核で亡くなってしまいます。
母亡き後の一家を精神的に支えたのは、お母さんの妹、つまりムンクから見て叔母さんにあたるカーレン・ビョスタさんと、ムンクの一つ上のお姉ちゃんであるソフィエちゃんの二人でした。
ムンクは、このソフィエお姉ちゃんと特に仲が良く、いつも二人で遊んでいたらしいのですが、そんなお姉ちゃんも、ムンクが14歳の時に、お母さんと同じく結核でこの世を去ります。
母と姉。母性を寄せてくれていたはずの二人を早くに喪ってしまったことが、ムンク少年の心に暗い影を落としたのは間違いなく、ここから、彼は己の身近に『死』と『病』の存在を感じ続けていきます。
また、幼いムンク少年自らも、リウマチ熱に侵され続け、更には不眠症を併発してしまうような、脆弱な子供でした。
当時のことを、のちにムンクはこう語っています。
『病、狂気、死、それらはわたしのゆりかごのそばにつきそう黒い天使だった。以来、それはわたしの人生に常につきまとった』
さて、一方でお父さんのクリスチャン・ムンクはどんな人だったのかと言うと、これが厳格にして敬虔深い、名前通りの『クリスチャン(キリスト教徒)』だったわけです。
その厳格ぶりは妻を結核で亡くしてからますます拍車がかかり、ムンクを叱る時は『やりすぎ』なくらいに怒鳴り散らし、乱暴を働いたらしいです。
この辺りは詳細なソースが見当たらなかったので、どの程度『やりすぎ』だったかは私の知る限りでは把握できないのですが、ムンクの日記などから推察するに、父親とは相当な確執があったようです。
さらにムンクが成人してからも、彼の家族は悲劇に見舞われます。
ムンクが34歳の時に、二つ下の弟であるアンドレアスを肺炎で失い、妹のラウラは統合失調症に罹って精神病院へ送り込まれます。
そしてムンク自身も、後述します女性関係のもつれで精神を病み、アルコールに溺れ、45歳の時にコペンハーゲンの診療所で養生を余儀なくされます。
どうですかこれ。少なく見積もっても、とても順風満帆とは言い難い生活ですよね。
モディリアーニには負けますが、それでも十分に波乱万丈な生活ぶりと言わざるを得ないでしょう。
しかし裏を返せば、身近に死や病の匂いを感じ取らざるを得ない環境にいたからこそ、ムンクの中で『生命へむけるまなざし』が育てられ、それが彼の作風を形作っていったのです。
■ムンクとファム・ファタルな女たち
ムンクを語る上で決して外せないのが、彼の女性関係にあります。
これは私の想像ですが、彼は幼い頃に身近な母性を寄せてくれる存在を失った結果、心の奥底で抱える女性への渇望が、人一倍強かったように感じます。
彼が成人して以降付き合ってきた女性は5人もいて(しかも全員美人)、その中には『人妻』もいました。この人妻というのがミリー・タウロヴという女性で、しかもこれが初恋の相手。きっとお母さんの面影を、彼女の中に見い出していたに違いありません。
奔放でいながら、危うく、時に罪悪感を抱きながら女性関係を続けるムンクですが、中には手痛いものもありました。彼が35歳から39歳の時に付き合っていた女性、トゥラ・ラーセンの存在です。
このトゥラという女性はオスロ有数のワイン商の父の下で育てられた、いわゆる金持ちお嬢様でした。髪型が金髪縦ロールだったかどうかまでは知りませんが、とにかく金持ちの、それでいてワガママな女性だったそうです。
ムンクと付き合っていた当時、トゥラは30歳を超えていました。もうそろそろ結婚して身を固めたいと思っているのに、ムンクは中々結婚に承諾してくれない。
これはムンクが彼女を弄んでいたからではありません。いちおう彼の名誉の為に説明しますね。
ムンクは画業を続けていく上で常に『孤独』であろうと決意しており、ゆえに結婚はしないという、独特の人生観に基づいた人生設計をしていました。独特と言いましたが、こういう考えの人が画家には結構いるので、そう珍しいものでもありません。
でも、トゥラはそんなの関係ないわけです。彼女はムンクと結婚して子供を産んでママになりたいわけです。でもムンクは結婚なんてごめんだし、ましてや父親になんてなりたくないわけです。
トゥラ『はやく私を嫁に貰いなさいよ! でなけりゃここで死んでやるわ!』
ムンク『なんと言われようと結婚はしない! わたしは独身を貫く! 独身貴族万歳!』
話は平行線をたどり、だんだんと激しい口論をしていく二人。
そのとき突然、トゥラがその手に黒光りするものを握り締め、ムンクに向けます。
轟く発砲音。トゥラは怒りのあまり、隠し持っていた拳銃でムンクの左手を撃ち抜きました。
さすがのムンクもこれには相当堪えたようで、この時に味わった肉体的・精神的苦痛がきっかけとなって心を病み、前述したようにアルコールに溺れていったのです。
ですが、この時の世論はムンクを非難し、トゥラを庇う傾向にありました。
やっかみがあったんだと思います。トゥラはお金持ちのお嬢様で、美人で、社交界の華でしたから、彼女がムンクと付き合い始めた時も、周囲からは『なんでムンクなんかが』と、まるで『月がきれい』の比良君みたいなことを言う輩が多かったらしいのです。
そのため、ムンクがトゥラに撃たれた時も、トゥラはムンクに弄ばれたんだ、彼女は悪くないと主張する人が沢山いたらしい。
女性からしてみれば、確かにムンクはひどい男だなぁと思うかもしれませんけど、でも私は、そんなムンクがちょっと羨ましい。
拳銃で撃つって、そうとう相手を愛していないと出来ない行為じゃないですか。いわゆる愛情の裏返しという奴でしょ?
私も拳銃で撃たれるのは嫌だけど、でもそれくらい深く愛してもらいたいなと思う気持ちが心のどこかにあって、だからこのムンクのエピソードも、実は結構好きだったりします。
■ムンクの画業~その苦難の歴史~
さていかがでしょう。ここまで語ってきて、エドヴァルド・ムンクという人物に少しご興味を抱いて頂けたでしょうか。
それではいよいよ、彼の画業の歴史を簡単にご説明いたします。
まぁ一言でいって、とても苦労人ですよムンクという人は。それは彼の画風が、当時のヨーロッパの美術から見て、あまりにも前衛的で難解で暗いものと見られたせいです。
彼の画風……それは、あの『叫び』にも代表されるような、人間の内面にある不安や恐れ、死、静かなる狂気、魔性の女に狂わされる男などを題材にして、キャンバスに描いていくものでした。
『病める子』という彼の代表作にして画風の起点とも言うべき作品があるのですが、これをムンクは22歳の時に描いているんです。
印象派に代表される『目に見える風景を描く』ことが主流であった当時の絵画世界とは相反して、精神医学分野が黎明期を迎えるのと同じように、彼は『目で見て感じたものを感じるままに描く』『内なる魂をイメージ化して投影する』という、いわゆる心の動きで絵画を論じる『象徴主義』の先駆けとしての作品を次々に発表していきます。
ですがそれは、言い換えるならば流行からは大きく外れた作品。
当時のノルウェーの批評家たちからは『邪道』と断じられて相手にされません。
ドイツのベルリンで開いた個展も、批評家たちから『こんな暗いだけのグロテスクな絵を描いて、あんた芸術を馬鹿にしてんのか?』と罵られ、わずか一週間で打ち切られてしまいます。
しかし、実はこの時すでにムンクには熱狂的なファンが何人かいまして、彼の芸術を理解しないドイツ芸術アカデミーに対して、反旗を翻す運動が起こっていたりします。
それからも、ムンクはヨーロッパ各地を放浪しながら独自の芸術を極めていき、精神を病んでアルコールに依存しながらもこれをなんとか克服してからはノルウェーに帰国し、小さな片田舎でアトリエを構えて製作に没頭します。
1911年、ムンクに転機が訪れます。
ノルウェーの最高学府であるクリスチャニアン大学(現・オスロ大学)の講堂に飾る壁画コンペティションで、彼は堂々の一位を獲得するのです。
この講堂というのが大学の創立100周年を記念して建てられたもので、その講堂に飾る壁画のコンペティションは、大学と政府が主導する形で行われた、独立後初の文化的公共事業でした。
一旦は、大学側がムンクの画風を拒絶して彼のコンペ1位をなかったことにしようとするのですが、コンペに参加した人たちや、ムンク支持者たちからの猛抗議を食らって、大学側、および政府は、ムンクの作品を認めざるを得なくなりました。
その時にムンクが手掛けた壁画の題名が『太陽』
岩と緑に囲まれた山間の向こう。真っ青な海の中心から、画面いっぱいに白と黄色と赤の健康的な閃光を放つ太陽が昇る、美しく、雄大な作品。
ムンクはついに、祖国・ノルウェーから、その苦難と辛酸に満ちた画業の成果を認められたのです。
彼はこの時、50歳を迎えていました。
■ムンクの絵の『なにが』すごいか
突然ですが、みなさんは『死にたい』と思った事はありませんか?
そこまでいかなくても、『仕事行きたくないな』とか『勉強なんかして何の役に立つんだろう』とか『学校に居場所がなくて辛いなぁ』とか『もう離婚したい』とか『明日の事を考えるだけで憂鬱になる』なんてことを思ったりしたことはありますか?
私なんかは、あったりするんです。死にたいとまではいきませんけど、ときどき、ときどきですね、この先、自分がどんな人生を歩んでいけばいいか考えると、不安で不安でしかたなくなる時があるんです。
そういう時にムンクの絵を見ると、とても心が安らぐんです。
なに馬鹿なこと言ってんだとお思いでしょう? でも、彼の作品……とりわけ、死や狂気や絶望を扱った作品群を眺めていると、精神医学で言うところの『同質性の原理』が働いて、とても安心するのです。
つまり、人という生き物は、気分が落ち込んだ時には暗い音楽をかけたり暗い映画を観たり、暗い絵画を鑑賞したほうが、気分が上がる傾向にあるんです。
マイナスとマイナスを掛けるとプラスになるという、なんとも不思議な作用ですけれども、これは精神医学の世界で、ちゃんと実証されている原理原則の一つなんです。
ですが、ムンクの絵が『ただ暗い』だけなのかと言ったらそうじゃない。ただ暗いだけの絵なら、ぶっちゃけ誰にだって描けるんです。
彼の絵は確かに暗い。画面を飾る色彩の一つ一つを眺めていると、まるで先行き不透明な迷宮に迷い込んだような感覚がまず最初にくると思います。
でも、そこに不思議な引力を感じてしまうのは、彼の絵が、ただ暗く陰惨な、絶望だけに満ちているからではありません。
その暗さが究極的なまでに突き詰められているからこそ、鑑賞者はその反動として安心を知覚できるのです。
ムンクが描く究極的な暗さ。それを語るのにふさわしいのが、わたしが『叫び』以上に好きな『絶望(1894年版)』という作品です。
構図としては『叫び』とほとんど同じです。鑑賞者から見て、画面の左斜め奥から右手前にかけて橋が伸び、そこに一人の男が立って、少し俯き加減にこちらを見ています。人生に悩んでいるのか、それともこれから身投げをしようとしているのか。真っ黒な男の服装とは裏腹に、空は血のように赤く染まり、橋の欄干から望むオスロ・フィヨルドの港町は、毒々しいくらいの青さに満ちています。
見ただけで『あ、陰鬱だ』とわかる風景。
しかしここで重要なのは、この今にも孤独感に苛まれて死んでしまいそうな男ではなく、その男が立っている橋の奥に映る、こちらに背中を向けている二人の人物にあります。
このモブキャラ二人は、まるで男の存在になど気づかないように、談笑でもしているのでしょうか、ちょっと肩を寄せ合って歩いています。
この二人の人物の役割とはなにか。私は思うんですけど、きっとこれは『社会』のメタファー(暗喩)じゃないかと思うんです。
もしこの二人がいなくて、暗そうな顔をした男一人でも絶望感は生まれるでしょう。
でもそれは、見ようによっては、とても『独り善がりな』絶望感。『俺ってこんなに孤独で可哀想なんだよね』と、まるで孤独な自分に酔っているかのような、そんないやらしいナルシズムが見え隠れしてしまいそうです。
しかし、そこに前述した二人のモブキャラを置くだけで、この男が社会からも相手にされない、凄まじいまでの孤独と絶望に打ち震えているように見えてしまう。
すると、心のうちに不安を抱えた鑑賞者は、この男を『心底可哀想な人なんだろうな』と認識すると同時、自然と心が、画面の中の人物に寄り添うようになります。
そして次には、あなたはこう言って男を励ましているでしょう。
『まぁ、そんなにくよくよするなよ』って。
つまりムンクの絵の何が凄いかと言うと、一歩間違えれば『ナルシスティック』とも捉えられがちな、人が抱える不安や絶望、もっと砕けて言えば『かまってちゃんな思考』を、どこまでもどこまでも突き放して、独立した『暗い感情』として画面に映し出している点なのだと私は思います。
ムンクの絵は、じつはけっこうギリギリな部分で成り立っているのです。それを説明するのにもう一つお勧めしたい絵が、彼が31歳から33歳にかけて製作した『メランコリー(1894~1896年版)』という作品です。
これは、ふしだらな愛欲に苦しむ男の絵です。
画面の構図としては、どこかの海岸線。画面の手前に海岸の岩に座って、鑑賞者から見て横向きに頬杖を突く男の姿があり、そのはるか向こうのボート岸には、白い服を着た女性と、黒い服を着た男性が向かい合う姿が小さく描かれています。
この作品には設定がありまして、画面手前に映る男性は、画面奥に映る白い服を着た女性に恋い焦がれているのですが、実はその女性は人妻で、その伴侶たる男性と、今まさにボートを愉しもうとしている場面なんです。
これも一見してしまうと、男のなんとも陰鬱そうな目線を見ている内に『叶わない恋』に恋しちゃっている俺って、見てよ、こんなに可哀想でしょ? といったナルシズムに満ちているかのようですが、ここで注目すべきなのは、頬杖をついている右手ではなく、画面の一番下に映っている男の左手です。
この左手、ぎゅっと固く握りしめられて、拳のかたちをしているのです。まるで、絶対にこの恋を諦めてなるものかという、何をしてでも彼女を手に入れてやるぞという心の激しさが、つい体に現れてしまっている。
それに反して、男の表情は『メランコリー』という題名通りに、とても憂鬱そうな感じになっているから、この男性の存在が、凄まじいほどの立体感を伴って見えてくるのです。
これらの作品に見て取れるように、ムンクの描く『死』や『絶望』や『苦悩』というのは、どこまでも客観的に描かれ、複雑性を備えています。
だからこそ、常に内なる不安を抱えている多くの現代人の興味を引きつけ、時に『わかるよ、君もたいへんなんだね』と共感の念を引き起こし、時に『まぁ、そんなに落ち込むなよ』と画面の向こうの人物に語り掛けてしまうような、妙な親近感と安心をもたらしてくれるのです。
なお、ここでご紹介した『絶望』も『メランコリー』も、今回の大回顧展でしっかり飾られています!
東京都美術館のキュレーターさんマジ有能すぎてヤバい。
■結び
いかがでしたでしょうか。
もっともっとムンクについて語りたいところはあるんですけど、彼のライフ・ワークである『生命のフリーズ』に触れているともう収集がつかなくなるので、一旦ここでお開きにします。
ここから先、ご興味を持たれた方はぜひ東京都美術館に来館していただき、世紀末芸術、象徴芸術の先駆者であるムンクの絵を、ご自身の目でお確かめください。
そして、彼の絵に込められた『死を内包した生の絵』をご鑑賞ください。
きっと美術館を出た頃には、あなたの心は『とてつもない安心感』に満ちていることでしょう。
ではでは。