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お待たせしました
羽南が立っているのは光の差さない暗い空間だった。くるぶし辺りまで水が張ってあるが冷たさは全く感じない。
「ここどこだ?」
羽南が覚えている最後の記憶は突っ込んできたトラックだ。鼓膜が破れそうな轟音と一瞬の激痛が走った後ここで目が覚めた。昔の夢を見た後で。つまりあれは走馬灯だったのだろう。
「死んじゃったんだー……」
生い立ちが特殊だからか自分が死んだのだと理解してもそこまで焦らなかった。ただ心残りはある。むしろ心残りしかない。
折角一年苦労して掴み取った職も無駄になった。彼氏──は高校大学と何人か付き合ったが結婚を考えたことは一度もなかった。帰宅したら洗濯物を干し、昼と夜のご飯の仕度をし、早く帰ってくるちびっ子二人におやつを作り、勉強をする。それに遥も迎えに行かなければ。
「ああそうだ。約束破っちゃった」
亡き母と靏野夫妻の通夜でした約束。羽南が死んだ後遥はどうなるのだろうか。杞憂で終わればいいが、それは限りなく低いだろう。
「これからだったのになー」
この一年は言ってみれば慣らしのようなものだった。他人から家族になっていくための慣らし。それがもう少しで解けるというところで死んでしまった。恐らく羽南が死んでも無事だろう。古都子も帰ってきてくれるだろうし近くには祖母がいる。羽南がいなくても生きていけるはずだ。
「寂しいものは寂しいけどね」
試しに後ろに倒れ込んでみる。水がかかる感触はあるが冷たさも痛みもない。
「不思議な感じー」
臨死体験をしたことのない羽南は昔読んだ絵本のように死んだら天使が来て連れていかれるのだと思っていた。現実はそんなメルヘンではなかった。
「……」
いつまでもこんな所に留まっている訳にはいかない。それでももう少しその場で落ち着かせてほしい。
その時、羽南以外の人の気配が水面から伝わってきた。急いで羽南が顔を上げると四十代と思われる男女二人が羽南を見下ろしていた。どちらも何も喋らない。
女は遥と颯斗に似ている。遥がそのまま年を重ねていっただけのようにも見える。一方で男の方は颯介に似ている。こちらは完全に瓜二つとまではいかないものの面影がある。それだけで納得したように羽南は立ち上がって小さく会釈する。
「はじめまして。美歩さんに秀明さん。うちの母がお世話になっています。いや、いました?」
美歩と秀明は言葉こそないものの微笑みを返す。そうするとより似ている。血が流れているのがすぐにわかる。
「もしかして遅いから迎えに来てくれました? あまりにも急すぎて凡人の脳じゃ追いつかなかったんですよねーあはは……」
羽南は警戒心こそ常人のようにあるものの人見知りはしない。むしろ随分気さくな方だ。だが夫妻が何も返事をしないとなると気まずくなってくる。羽南にとっては重苦しい空気が流れる。
「あ、ああそうですね。折角迎えに来てくれたんですからいつまでもここにはいられないですよね。さ、行きましょう」
羽南が夫妻の方に一歩足を進める。その瞬間後ろから何か気配を感じた。
『いやだ!!』
「遥ちゃん?」
後ろを見ても何もない闇。それでも羽南の頭の中にはしっかりと映っていた。今まで見たこともない、遥の悲痛な表情。
『まだ一年だよ!? お母さん達が死んで引き取られてまだ一年しか経ってない! なのにどうして死んじゃうの!?』
今まで聞いたこともない、遥の狂ったような泣き声。
羽南は信じられない目を向けながら、何か安心したような表情を浮かべた。通夜でも痴漢被害でも受験でも。一度も自分の前で泣くことのなかったしっかり者の遥。羽南はずっと、遥は壊れているのだと思い込んでいた。悲しい気持ちが欠如してしまったと。だがそれは羽南の勘違いに過ぎなかった。こんなにも感情を表に出せているのだから。
『置いていかないで羽南さん!』
「置いていきなくないよ遥ちゃん」
『私、しっかりした人じゃないよ!』
「あなたは、しっかり者じゃない」
『羽南さんがいなかったら何もできない』
「遥ちゃんがいたから何でもできる気がした」
『だから戻ってきて羽南さん』
「戻りたいよ」
『私を壊さないで!』
「こんなところで死にたくなかったよ!」
遥に同調するように羽南も言葉を紡ぐ。いつしか羽南も両手で顔を覆い涙を流していた。
「もっと生きたかった! 皆の成長をこの目で見たかった! この手で、遥ちゃんを守ってあげたかったのに。どうして死ななきゃいけないの!?」
水の張る床に顔を押しつけ大泣きする。叫んで喚いて懇願する。不意に肩を優しく叩かれる。
「……美歩さん」
美歩は振り返った羽南に柔らかい笑みを見せた後、秀明と共に離れていった。
「え、どこに……」
『遥達をお願いします』
美歩の声と同時に今まで立っていた世界が割れ始めた。
「え、どういうこと!?」
慌てる羽南の頭に誰かが手を置いた。温かい優しい手。
「お……」
羽南の視界が白く光った。
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