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滑り止めとは言ってもレベルが高いことに変わりはない。遥は全く手を抜かず、筋かな教室でシャーペンを走らせていた。
(センターの結果は国立に費やしちゃったしここは一からのスタートなんだよね。集中力持つかな。いやいやここで諦めモードになってどうするの。二日連続の試験だって乗り越えたでしょ)
疲れが蓄積していった結果、遥の思考回路がおかしくなってしまったのだろうか。またはヤケになって鼓舞しているのか。なんにせよやる気は満ち溢れている。
(今日は美智も知り合い誰もいない。私はすぐ緊張する癖がある)
教室の担当試験官が説明を始める中で遥は一人深呼吸をして心を落ち着かせた。
「これから問題を配布します」
昼休憩と十分休憩を除いて恐らくほとんどこの部屋から出ることはない。つまりスマホは夜遅くまで鳴ることがない。だから知らなかった。外で起きた事態を。
集中していた遥の体内時計は恐ろしい程に速く、気づけば最後の試験科目の終了時刻になっていた。遥はその場で気を失いそうになる程脱力した。
(つ、疲れた。これ国立まで体保たないかも。いや、弱気になってたら負けだ)
遥は自身を叱咤するように両頬を強く叩いた。コートとマフラーでしっかり防寒を固め、外に出た。
「寒っ。あ、羽南さんに連絡しないと」
スマホの電源を入れて少し待つ。完全に起動した後すぐに電話をかけようとした遥は履歴を見て驚愕した。スクロールしていっても履歴は全て颯斗の名で覆い尽くされていた。
(え、え? 何これ。そもそも颯斗電話なんてかけない)
混乱している遥のスマホに再び着信が入る。大きく体を震わせながらも遥は通話ボタンを押す。
「何よ颯斗。私さっきまで受験……え? 何聞き取れないんだけ、ど」
いつも冷静な弟がやけに興奮気味な慌てた口調で話すので遥は疲れながら耳を傾ける。だが全て聞き取れても遥は返答できなかった。肩にかけていたバッグが地面に落ちた。
「羽南さん……車に潰された?」
目の前が真っ暗になった。
薄暗い病院内を走る。看護師に叱られたがそれでも目的地に着くまで走った。
「颯斗っ!」
病室の前で待っていた弟を息切れしながらも呼ぶ。颯斗は呼ぶ前から気づいていたようで力なく遥に視線を寄越した。
「ごめ、私知らなくて。はなさん……羽南さんは!?」
「遥、ここ病室だから声落として」
時間が経ったおかげか冷静さを取り戻した颯斗が遥を窘める。その声に気づいたように病室のドアが開いた。
「羽奏さん……」
「遥。受験はどうだった?」
「そんなことどうでもいいんです! 羽南さんの容態はどうなったんですか!?」
半ばパニックになっている遥は羽奏を押し退けて病室へ入る。中の惨状を見て信じていなかったものが明らかになった。
規則的に鳴る機械音、チューブで繋がれている点滴、そこから伸びる細い腕。そして中央のベッドで寝かされている女性。
「羽南さん」
試しに呼び掛けてみるが返事はない。ほとんど布団に隠れて見えないが、片目だけしか表に出ていないくらいの包帯と呼吸器だけで十分状況が理解できた。
「なんとか即死は免れた。だが医者が言うには今日か明日にでもヤマが来るらしい」
呆然としている遥の隣に立って静かに羽奏は告げた。
「え、だって、それじゃあお母さん達と一緒……」
ただ意味もなく呟いて後ろに立っている颯斗を見る。颯斗も同じことを思っていたのか辛そうな表情を浮かべながら目を逸らす。
「……颯介達は?」
「留守番させてる。遥が試験を受けてる時に見舞いに来た」
遥が知らない間に色々と事が済んでいたらしい。
「どうして……」
誰に問いかけるでもなく遥は力を失ったような声を出した。それに答えることなく羽奏は目を閉じた。
「面会時間も終わるから帰るぞ」
「帰るん、ですか?」
今日のうちにヤマが来てしまったら? 帰っている間に、家にいる間にその心臓が止まってしまったら?
「行くぞ」
羽奏は聞こえないかのように遥の言葉を無視して病室を出た。空気を読んだ颯斗が遥の手を引っ張る。
「帰るの?」
「ここで一日中待ってたって羽南さんは帰ってこない」
「だって、私、お母さん達の、死に目にも……」
両親の死に目に逢えなかったのは颯斗も一緒だ。颯斗は姉の体を抱きしめる。
「帰ろう、遥」
弟の腕の中で遥は小さく頷いた。