9
話も終わった頃、急に羽南がいそいそとキッチンの方へ向かった。
「明日も朝早いんでしょ? ほら子どもは部屋に帰って寝た寝た」
「羽南さん? まだ九時……」
小学生以下ならともかく中高生は全く眠くならない。それなのに背中を押してくる羽南は鬼気迫る勢いだ。
「何かするんですか」
「大人の営み」
「酒飲むだけだ」
紛らわしい言い方をする羽南に被せて誤解を解く。よく見れば羽南がキッチンに取りに行っていたのは氷が入ったグラスと箱入りの缶ビールであった。
「私絡み酒らしくてさー」
「自覚があるなら」
「ないない。お姉ちゃんに歯型ついてるからわかるだけ」
「……おやすみなさい」
留まったらどうなるか想像して未成年三人はそそくさと二階へと上がっていった。
「ようし飲むぞー! つまみは野菜炒めでいいでしょ?」
「風呂入りたいんだが」
「黙れババア」
ジャケットを脱いだブラウス姿の羽奏に缶とグラスを叩きつける。胸の辺りのボタンがはち切れそうになっている。
「最近は子どもがいるから飲んでられないの」
「元々一人ではそんなに飲まないだろ」
「だってお姉ちゃんが一人で飲むなって言うから。あの状態で外に出たらお前の人生終わるって」
「言ったか?」
「言った」
缶からグラスに移したビールを羽南は一気に飲み干す。対称的に羽奏は一口飲んではつまみを食べまた少しだけ飲むを繰り返す。
「ぷはぁ! 極楽!」
「急性アル中で死ぬなよ」
「死なないって! 大学コンパでジョッキ二杯一気飲みだぞ私は!」
「……」
二年前から酔う度に聞かされる自慢話。両親が家に防音設備をつけてくれたことに感謝する羽奏だった。もとより防音を付けたのは母も絡み酒だからなのだが。
「お姉ちゃんもぐいっといっちゃおうよ~」
「いや。明日も仕事があるから」
「えー。じゃあせめて定時上がりしてよ。今のご時世何があるかわかんないんだから」
「ああ。例の電波女」
ワーカーホリックな羽奏でも妹とのメールはしっかり見る。普段は滅多に揺れ動かない羽奏だが、通夜終わりのメールには流石に目を疑った。
『お姉ちゃんwww やばい、電波www DQNがいるwww 運命の赤い糸www 窒息死する。骨拾っといて』
「何事かと思った」
「いやお姉ちゃんにも見せたかったわ。不謹慎極まりない。なんか遥ちゃんに難癖つけてすっごいウザかった」
「ふーん」
羽南は机に突っ伏してグラスの氷を指でつつく。
「それにあの子。何するかわかんないし」
「長女か?」
「遥ちゃんね。責任感が強いっていうか無謀っていうか。放っといたら既に壊れてましたって感じがして目が離せないのよ」
羽南は目の前の足を軽く蹴る。
「明日遥ちゃんたちと一緒に出てよ。痴漢が逆恨みでもしたら堪ったもんじゃないし」
「わかった」
それから酒を飲んで談笑をする。酔い潰れて寝息を立てる羽南をベッドに運んでから羽奏は風呂に入り、仕事を終わらせてからわずかな休息を摂った。
「……というわけで遥ちゃん達はこれからお姉ちゃんと一緒に登校してもらいます。あ、ちびちゃん達は気にしないで。変な奴来たら自転車で突撃するから」
「犯罪だけはやめてくださいね」
本当にやりかねないところが怖い。遥はダイニングテーブルに座って颯馬の口を拭っている羽奏を見る。いつ見ても変わらない美人顔。ただ感情が全く出ない分警戒心を解くことができない。
(痴漢から助けてもらったからいい人なのは間違いないんだけど)
自分に呆れを感じ遥はため息を吐く。それをどう取ったのか羽南が肩を掴んで揺さぶってきた。
「大丈夫だよ遥ちゃん!」
「へ?!」
「お姉ちゃん本当に仕事にしか興味ないから! 颯斗君達に色目使ったりとかもないから! やましいことなんて一切しない社畜バ……」
「羽南、うるさい」
パソコンや資料が入った黒い大きな鞄が羽南の顔を直撃する。ブラウスのボタンがはち切れそうになりそうな程豊満なその胸は思春期の男子でなくとも憧れるだろう。何にとは言わない。
「それよりもそろそろ出るんじゃないのか」
颯馬と円が食べ終えた食器を流しに置いて羽奏は時計を見る。
「そんなまさか……あれ!?」
「それはフリか」
テンパる羽南に冷めた言葉を投げる。朝食を用意したり弁当を作ったりしている内に時間が来たらしい。
「カロリーメイト! チョコがいい!」
「今日は玄米ブランだ。ブルーベリーな」
「どうも!」
確実に喉が詰まるものを一口で食べ、水で流し込む。リスのような頬から普通に戻っていく。
「よし」
「お前いつか人のこと言えなくなるぞ」
「ほっとけ。ちびちゃん、忘れ物ない?」
準備万端と言わんばかりにバッグを持っている二人を見て羽南は笑う。
「じゃあ行こっか。お姉ちゃん。ちゃんと遥ちゃん守ってよ。ていうか定時で帰れ」
「はいはい」
生返事をする羽奏にこめかみをヒクつかせる。
「もう……遥ちゃん。何かあったらすぐに連絡してね」
「はい」
自転車が見えなくなるまで見送ってから遥達も駅へ向かうことにした。