虚脱
翌日、リクは学園に続く道を一人で走っていた。常日頃時間には余裕を持って行動しているのだが、遅刻をしそうになっているのだ。
理由はなんて事がない。いつも迎えに来るサキが、今日に限って来なかったのだ。
ちゃんと起きはした。起きてはいたが、敢えてサキが起こしに来てくれるのを待っていた。
リクの朝はサキに起こされて始まる。サキに起こされベッドから出て着替え、二人分の朝食を作り二人で食べて、肩を並べて学校へ行く。それがリクの日課だった。
だから今日も時間を気にしながらも、時間が許す限りサキを待っていたのだ。
しかし一向にサキは表れず、迫る時間に仕方なしに学校に行く準備をすると、まだ寝ているのかも知れないとサキの家に迎えに行ってみた。
だが、サキは顔を出すこともなくインターフォン越しで短く『ごめん。今日休む』と言われただけだった。
心配になって声を掛けたが、サキは大丈夫だから学校に行ってくれと言っただけだった。
サキが風邪でも引いて苦しんでいるのだったら、学校なんか休んで看病しても良かったのだが、拒絶するかのように顔も見せてくれないのならどうしようもない。リクは後ろ髪引かれる思いで学校に向かった。
いつも通う道を駆け抜け、歩道橋を疾走し、海辺の土手を走って漸く学園に着いた時にはもう、生活指導の教員と風紀委員の生徒が、カウントダウンを開始しながら遅刻者を取り締まる準備に取り掛かっている。
ギリギリではあるが、どうやら遅刻にはならなくて済んだようだ。
休む事に躊躇いはないのに、遅刻で焦るとは変な物である。そんな心理学者みたいな事を考えながら、リクは今にも閉められそうな校門を潜った。
「お早う御座います」
特に尊敬も敬意も払ってないが、生活指導の教員に一応朝の挨拶をして、校舎へ向かう。
「今日は連れ添いは一緒じゃないのか?」
リクとサキは親が研究員と言う事もあり、教師には目立つ存在であるらしい。二人が良く一緒にいる事は殆どの教師が知っているようで、サキへの連絡事項を預かったり、サキがリクへの伝言を預けられたりは良くある事だった。
生活指導の教員……、確か石田と言うこの男も、そんな二人が一緒に登校をしていなかったから軽い気持ちで言っただけなのだろうが、今はそんな言葉さえ腹立たしい。
「なんだ? 喧嘩か? ハハハ。毎日一緒にいればそんな事もあるさ。悩め、青少年。そして青春を謳歌しろ」
リクが応えないでいると、石田は勝手にそう解釈して、一人で見当外れな事を言っている。
訂正するのも煩わしい上に意味を持たない。リクは勝手に言っていればいいと、そのまま教室に向かう。
リクが教室に入るのとほぼ同時に予鈴が鳴った。教師はまだ来ていない。どうやら間に合ったようだ。
自分の席に向かうとリクを見ていたのか椎名と目があった。その瞳はキョトンとしていて、サキが一緒でない事を不思議に思っている表情だ。
彼女には伝えておいた方がいいと思いながらも、今は時間がない。リクは口だけを『あとで』と動かすと自分の席に着いた。
それを待っていたように教師が教室に入ってきて、日直が号令を掛け、ホームルームが始まった。
リクの席は窓際の後ろから二番目で、サキは四列目のやや真ん中の席である。だから、リクの席からはいつもサキの後ろ姿が見えたが今日は空席だ。
リクはなんだか物足りないような寂しいような、胸に穴の空いたような空虚を感じていた。
「鴉紋君、今日サキはお休み? 珍しいね。
始めてじゃない?」
ホームルームが終わると椎名がリクの席までやって来て、微笑みを浮かべて訊いてきた。
サキのいない学園生活はリクにとって始めての事だ。彼女にとっても始めてだろう。
「うん。なんか風邪を拗らせたみたい。
大丈夫。きっと明日は来るよ」
正直、サキが学校を休むのはかなりの大事なのだが、リク自身サキの身に何が起きているのか分かっていない。適当な事を言って不安にさせる事もないだろう。
「そう……。なら、心配ないね……」
リクは椎名を安心させる為に言ったが、椎名も只事ではないと感じていたのか、何処か翳りのある笑みを浮かべた。
リクは理由を知っているのに隠していると取ったのだろう。それを話さない事で疎外感を与えてしまったのだ。
朝の出来事を話して、実は自分も良く分からない事を伝えるべきだったとリクは弱冠後悔した。
しかし、本当のところはリクにも分からない。声を聞いた限りでは風邪を引いている風でもなく、いつもの元気はなかったが、普通であった。
だけど、学校大好きなサキが安易に休むとは思えない。
なら、怪我をしたのかも知れない。ガスを使って火傷したのかも……。お風呂に入って逆上せていたのかも知れないし、声に出ないだけで本当に風邪を引いたのかも知れない
。
考えれば考えるほどに心配になるが、結局は本当の事が分からない以上、なにを言えばいいのか分からなかった。
「早く良くなるように願ってるね……」
リクがなにをどう言えば椎名が余計な事を考えなくて済むのか悩んで言い淀んでいると、リクの気を知ってか知らずか椎名は自己完結して、微笑みながら言い残すと自分の席に戻って行った。
椎名を目で見送っていると予鈴が鳴り、一時間目の授業が始まった。
授業が始まってもリクは集中出来ず、穴が空いたように空席になっているサキの席ばかりが気になった。
気にしても仕方がないのは分かっているが、それでも目が自然と向いてしまう。
別に普段から学校を楽しいとは思っていなかったたが、今日は酷くつまらないものに思えた。
黒板を見て、ノートは一応取る物の内容はまるで頭に入って来ない。だからと言ってサキを心配しているわけでもサキの事を考えている訳でもなく、言い様のない虚脱感に蝕まれていた。
実は鬱になるきっかけとは、こんななんでもないような些細な事なのかも知れない。それが積み重なって行きある日突然耐えられなくなってしまうのではないのだろうか?
そして立てなくなる。
甘えだなんだと言う人も大勢いるだろうが、そう言う人は分かっていない。
鬱に襲われる大多数は、物事を途中で投げ出したり、諦めたり、妥協をしたりする事が苦手な、真面目で拘りを持つ人間なのだと……。
そこまで考えてリクは深く溜め息を着く。本当に自分は授業に集中出来てないようだ。
目の前のやるべき事から目を背け、哲学者気取りで人を分析しているところがその証拠だ。
集中しているのなら、授業中にこんな事は思う暇がないはずだ。いつも真面目に勉強をしている訳ではないが、今日は特に下らない物に思えた。
全てがくすんで見えて、なんだか息苦しさを感じる。
だって、サキがいない。
サキがいるだけで色褪せた世界が鮮やかな物へと姿を変える。
やっぱり自分にはサキが必要なのだと再認識したら、一秒でも早くサキの顔が見たくなった。
だが、抜け出して会いになんて行ったらサキは怒るだろう。早く学校が終わらないかな、とリクは思った。
三年分くらいの退屈に耐えて漸く放課後、リクは漸く解放されて鞄を持って教室を出た。
どうせ朝もお昼も御飯を食べていないのだ。お腹を空かせているだろう。
早く帰っておやつを作ってあげなきゃならないのだ。