序章
「これが悪魔の血ですか……」
白衣を着た男が試験管に入った赤い液体を勢い良く振りながら興味深そうに見つめた。
二十代後半の身形をきちんと整えた背の高い細身な男だ。肌は男性にしては青白く、どこか不健康的な印象を与えるが、試験管を見つめる瞳は少年のように輝いている。
「ああ。私も手に入れるのに苦労したわい。勿体なくてまだ実験には使っていないが、生物にどんな変化をもたらすのか楽しみじゃわい……」
同じく白衣に身を包んだ老人が、細い瞳を更に細めて自慢するように口の端を吊り上げた。
頭の頂上は禿げ上がり、側面に残る髪は年相応に全て白く染まっている。
「実験の時には是非とも私に助手を努めさせてください!」
「ああ、その時はよろしく頼むよぉ?」
「はい。精一杯務めさせて頂きます」
「頼もしいねぇ」
二人の白衣の男は笑い合いながら並んで部屋を出て行った。
「もう行った?」
「うん。もう大丈夫みたい。誰もいないよ」
室内に静寂が戻った後、男の子のこそこそとした質問に、同じく音量を押さえて答える女の子の声が聞こえた。
「ぷはぁ~!! もう。見つかったら怒られちゃうよ!?」
カーテンの影から、まだ小学校にも通っていないような小さな男の子が顔を出すと唇を尖らせて文句を言った。
黒い髪を清潔に整え、黒い縁の眼鏡を掛けた気の弱そうな少年だ。
「あははは。ドキドキしたねぇ……」
少年に継いで同年代の少女がカーテンの中から飛び出してきた。
茶色のさらさらヘアーをした勝ち気そうな少女である。少女は愉しくて仕方がないのか、けらけらと笑いながら少しも悪びれた様子もなく返してくる。
「もう行こう。ここには危ないものがたくさんあるんだって、お父さんいつもいつも言ってるんだから…….。
ここに入ったのがばれたら叱られちゃう」
「は~い。もぉ、リクは真面目なんだからぁ…… 」
カーテンの中から出て出口に向かうリクと呼ばれた少年に、少女は少し不貞腐れた様子で唇を尖らせる。
「叱られるよりいいでしょう?」
少女が拗ねているのは分かっていたが、彼女の機嫌は他のことに興味を持てばすぐに良くなる。取り合えず、部屋を出なきゃとリクは歩みを進めた。
「ねぇ、リク。これがさっきおじさん達が話してた悪魔の血かな?」
少女の声に振り返ると、瞳を輝かせて机の上にある試験管に入った赤い液体に釘付けになっていた。
リクは慌てて少女に駆け寄る。
「駄目だよ! サキちゃん。
それに悪戯したらそれこそ大目玉だよ!!」
「あはは。リクってば慌てちゃってか~わいいっ。大丈夫、大丈夫。なにもしないよ」
サキと呼ばれた少女は、慌てふためくリクの顔を覗き込むように見つめると、背中で手を組んで無邪気に笑った。
「もう。早く出よ。見つかったらうちへ連れてきちゃダメって言われちゃう」
本当に能天気なお隣りさんを睨んで言うと、今度は途中で立ち止まらせないようにサキの手を握り締めた。
「リクは私と遊べなくなったら寂しいんだ?」
サキがにんまりと笑って表情を覗き込むようにして見つめて来た。
「からかわないでよ。行くよ」
リクがサキの手を引いて歩き出そうとした時、サキがリクの手を引き返してしがみついてきた。
「さ……き……ちゃん……?」
急にどうしたのだろうとサキを見つめると、サキは小刻みに身体を震わせていた。
「じ……地震……」
サキがリクの服を強く握り締めたままで、消え入りそうな声で言った。
ああ、とリクは納得した。そう言えばサキは昔から地震をやたらと恐がっている。
それなら、地震が収まるまではこのままでいようと震えるサキの身体を両手で包み込んだ。
最初はリクには本当に地震が起きているのか分からない程度の揺れだったが、次第揺れは激しさを増して、棚の上のものが次々に落ち始めた。
さすがにリクも恐くなって泣き出したいのを歯を食い縛って必死で耐え、サキに抱き付いていた。
「ひゃっ……!!」
ガラスの割れる音とサキの悲鳴が同時に聞こえて目を開けた。さっきの悪魔の血を浴びて真っ赤になったサキが瞳を見開いて見つめ返している。
「サキちゃん……」
なにか良く分からないが、それが大変な事だと言うことだけは分かり、リクはサキを強く抱き締めた。
「誰かいるのか!?」
地震で建物全体が揺れるなか、突然研究室の部屋が開いて父親が飛び込んできた。
「おとうさん……。さきちゃんが……、サキちゃんが……!!」
父親の、リクの腕の中で真っ赤に染まったサキを見て息を飲み込んだ声が聞こえた。顔を強張らせてサキを凝視している。
この一瞬で状況を把握したのだ。
「ひょほほほ。これはこれは、実に興味深い……」
驚愕を隠せない父親とは対称的に老人は細い目を薄く開いて狐のような目でサキを見つめた。
「とにかく、話はここを出てからだ!」
父親に手を引かれて研究所から出ると中庭に正座をさせられた。
サキは家にかえした。家の人に事情を説明して病院に行くようにお願いした。
「あそこには入るなとあれほど言っておいただろう!!」
いつもとは違う語気の強い父親に、リクは地面に頭を擦るほどに頭を下げて謝った。
「ごめんなさい! ごめんなさい!!」
「まぁまぁ、鴉紋君。そう怒らないで。
彼らがあそこにいてくれたお陰で、私のアレも無駄にはならなかったことだし……」
「しかし、先生!!」
老人が父親を宥めようとするが、父親は怒りが収まらないらしく、さらにリクを叱ろうとした。
「君は真面目だねぇ……。まぁ、躾は私には分からないから口を挟むつもりはないけど、興味が湧かないか? あの女の子のこれからを……」
老人はなにかを含んだ笑みを浮かべると、遠くを見つめて言った。
「サキちゃんのですか?」
驚いたように問い掛ける父親に、老人はうんうんと深く頷いた。
「そうそう。あの地震では仕方がないと諦めたのだが、まさか人間に掛かっているとはねぇ……。災い転じて福となると言うのは、この事だねぇ……」
老人が糸のように細い瞳を開いてにぃと口許に嫌な笑いを浮かべながら、誰にともなく呟いた。
きっと、この顔は一生忘れられない……。
そして、この悪夢から十年が過ぎた。
異世界転移、転生の作品の多い『なろう』サイトには不向きかも知れませんが、またまた新作です。
ちょっと変わった世界を楽しんで頂けたら嬉しく思います。