青の淵
青の淵
森の木々がぽっかりとそこだけをよけて陽の恩恵を差し出したように、青の淵は忽然と存在していた。
ほとりには岩がごつごつと無造作に置きすえられ、水面は鏡のように静かだった。
少年の眺める方向に川がつながっていたが水のせせらぎも一つの波紋も青の淵にはなかった。
「あの川は世界の終わり、本のふちっこまでつながってるよ」
シュレガーが少年の目線を追いかけ先んじて言った。
少年は空を見上げた、陽はもうだいぶ傾いていた。
「ねえシュレガー」
「暗くなる前に森を抜けなきゃ、走ればどうにか・・・」
「あら、無理よ」
突然鈴の音のような声が少年と猫に投げかけられた。
「走ったって無理よ、森の終わるとこまでまだとっても長いんだもの」
声の主は音もなく小さな岩の上に座っていた。いったいいつあそこに来たのだろう、水一滴跳ねる音すらしなかったのに。
「ねえ、あなた、変わった子供なんでしょ?こんなときにこんなとこにいるんだもの」
声の主は好奇心いっぱいの輝く声で少年に話しかけた、その姿は上半分は乙女、下半分は魚、と本の挿絵にあるとおりの人魚だったのだが。
彼女の顔には豊かな燃える赤毛がうねるようにぴったりと顔を覆っており、口が動いているのか全く判別がつかなかった、声の方向からしてきっと彼女なのだろうけども。
赤毛の人魚に少年は答えた。
「えっと、たぶんそうです、まだ旅立ったばかりなのだけど」
赤毛の人魚が手を叩いた。
「そうよね、月の獣が来るにはまだ早いのに何かいるんですもの、びっくりして見にきちゃったわ」
「ねえみんな、子供よ子供、変わった子供とーーー」
シュレガーの方に顔を向けた
「変わった猫ちゃん」
シュレガーは何故かむっとした顔をしてひげをぴくぴく動かした。
青い水面が音もなくぷくりと何か所も持ち上がると、その下から黄金の巻き毛が顔をのぞかせた、が、まるで意思を持つかのように、水面から人魚が出ると同時に彼女らの顔を覆った。
「ほんとだ、子供だわ」
漆黒の髪の人魚が言った。
「それと猫ね」
金色の髪の人魚が頬杖をつきながら言う。
「ねえあなた」
赤毛の人魚が手招きをした。
「今夜中にこの森を抜けるなんて無理よ、まだまだ森はずっとあるの」
「でもこのままぐずぐずしていたら夜になってしまうわ」
金色の髪の人魚が言う。
白い髪の人魚が声を震わせた。
「今夜は私たちが月に還る夜よ、月の獣が来てしまう」
「こんなちいちゃな子供狩られてしまうわ」
「そうよ、そこの猫だって、良い毛並みですもの」
「ねえ、彼らって綺麗なものを狩るのよ、自分たちがとっても醜いから」
「狙いは私たちよ、美しくあるためだけのものですもの」
金色の、漆黒の、巻き毛の、様々な人魚たちが口々にささやき合う、少年は誰に何を答えるか、何を聞くのかわからなくなってオロオロとした。
赤毛の人魚は声を張り上げた。
「ねえみんな、こんなことしてる時間なんてないわ、私たちには準備もあるしーーー」
「そうだわ」
肩をびくっと動かした
「ねえあなた、ここで少し待っていらっしゃいな」
少年は思わぬ声に目をむいた。
「私たちの衣を織りに運命の女神たちが来るわ」
「そうよ」
「それを使って私たち月に還るの」
人魚たちの声が華やいだ。
赤毛の人魚は人差し指を立て、少年に内緒話をするかのように続けた。
「女神たちにお願いして衣を織ってもらえばいいわ、あなたってまだとっても小さいし」
「そしたら安全にこの森を抜けられるもの」
それがいいと口々に人魚たちが賛同した。
少年は思わぬいい情報に心からほっとした、人魚たちに礼を言う。
「ありがとう、じゃあここで少し待ってみる、いろいろ教えてくれて助かったよ」
人魚たちは顔を見合わせくすくすと笑った。
「よくってよ、私たちが優しいの今日だけだもの」
人魚たちは次々に水面に沈んでいく。
「私たち、準備しなきゃ、じゃあね」
少年はもう一度頭を下げた。
人魚たちが音もなく水面下に全て戻っていくと、また静寂が少年と猫を包む、陽の光は少し赤くなっていた。
「とってもいいひとたちじゃないか」
少年はシュレガーに微笑みかけた。
シュレガーはまだひげをせわしなく動かしながらつまらなさそうに答えた。
「君にはね」
「それより少し休もう、女神たちなら希望がある」
少年は思い出したように慌ててシュレガーに質問を浴びせかけた。
「そうだ、女神たちってなあに?運命の三女神のこと?」
シュレガーは伸びをしながら答えた。
「知ってるじゃないか」
「でも僕が読んだのは本の中でーーー」
シュレガーは少年の言葉を遮った。
「本の中は全て真実、君が知ってるのも全て真実」
「ま、だからさ、少し休んで待とうよ」
少年とシュレガーは柔らかな草の上に腰を降ろした。