異次元扉
ある夏の日の夜だった。その日は夕方ににわか雨が振り、これでちょっとは気温が下がるかと喜んでいたのだが、仕事を終えた6時過ぎ、会社を出たら何のことはなく、気温をそのまま湿度に変えたような空気で、むしろ不愉快さを増していた。
会社を出たら電車に乗り、着いた駅から歩いて15分ほどのところにある自宅に帰る。私はこれをここ四年ほど続けていた。駅から歩いて帰るのは健康のためだからと妻に言われて、しぶしぶ始めたものだが、この季節は15分歩くだけで汗が吹き出てくる。
それが日課だったのだが、どうしたことか今日に限って一駅寝過ごしてしまった。今日が金曜日だったからか、それとも仕事の疲れがたまっていたからなのか、そこのところは確かではない。しかし終点まで行かずに一駅ですんだのは幸いだった。私はひとまずその駅で電車を降り、缶コーヒーを買い、煙草を一服して、眠気を覚ますことにした。
「さて、と。どうしたものか」
待っていれば反対のホームにいつもの駅に行く電車は来る。時間にして15分ほどだろうか。それから15分ほど揺られて、15分ほど歩いて家に帰る。
ふと、私はここから歩いて家に帰ることを思いついた。どうせ金曜だし、明日は仕事はない。それに自宅からこちらの方向へは行ったことがなく、なんとなく知らない土地を歩いてみたくなったのだ。
私は煙草を片手に、妻に電話を入れた。10回ほどコール音がして、ようやく妻が出た。妻はやや慌てたような口調だった。どうも晩飯を作っている途中だったらしい。私は手短に帰りが遅くなることを伝えた。別に遅れたからといって浮気がなんだのと疑う妻ではないが、ともかく用件を伝えると、電話口の向こうで「じゃあこんなに慌てて料理を作ることもなかったわね」と聞こえてきた。
今日の晩飯はカレーらしい。カレーを作る工程のどこでそんなに慌てる必要があるのかはわからないが、妻はいったいどんなカレーを作るつもりなのか、少々心配になった。結婚してしばらくたつのに、妻は何かに挑戦するように時々奇抜な料理を作ってくる。もちろん食べるのは私だ。
電話が終わると同時に煙草もつきてきた。私は灰皿に煙草を押し込むと、ひとまず駅から出ることにした。[墨名駅]という表示がいくつかあった。今まで駅名はなんとなく知っていたが、こうして見ると都会でもなく、田舎でもなく、なんともいえない立地の駅だ。周りを見ても、住宅街なんだか、オフィス街なんだか、そんな区分は当てはまらない奇妙な駅だった。周りを見渡しても、コンビニのひとつも見あたらない。あるのは街灯と、2,3件ほどの居酒屋だかスナックだかわからないような店があるだけだ。
こんなとこで降りてしまって、これは失敗したかな、と思ったがどうせ一駅だ。散歩だと思って私は歩き出した。さっきまでの湿気はあるものの、気温自体は下がってきたようで、少しは歩きやすくなっていた。時間は7時を過ぎたころだろうか。
10分ほど歩いて、やけに暗い通りに出た。街灯も2本に1本はちらちらとついたり消えたりしている。その通りの片隅に、なにかオレンジ色の小さな光を見た。私は何か、吸い寄せられるようにその明かりのほうへ歩いていった。その光の正体は二本のろうそくだった。
なんともいえない年季の入った小さな机と、背もたれのない丸椅子。机の向こうには年齢のよくわからない、ボロをまとったような男が座っていた。こんな時間にこんな場所で、こんな異様な男が座っている。それはなぜだか私の好奇心を刺激した。
「あの・・・」
私は思わず声をかけた。
「なんでしょう?」
「ここで何をしているんですか?」
「占いです」
男の声は意外にはっきりとしていた。どうも風体からは老人のように見えたのだが、声には力があり、生気を感じさせた。
占い・・・なるほど、よくよく見てみれば、机の上のろうそく、何かよくわからない木の棒、年季の入った木造の机と椅子、そしてその男の顔つきを見て、なんとなく納得できた。
相手の男は、還暦を越えていそうな、いかにも老人といった感じのなり形をしている。顔には金縁で、大きな四角の眼鏡をしている。老眼鏡だろうか。少し色がついていて、そのためか表情はよく読み取れなかった。
しかし今時分こんなところでやっていて、商売になるのだろうか。
「こんなところでやって、儲けになるのか、とお思いですか?」
まさにその通りだった。
「ええ、なにもこんなとこでやらなくても、ちょっと歩けば駅じゃないですか。そっちのほうがいくらかマシってものでしょう」
「いいんです。これは遊びのようなものです。その上でいくらか金が入れば、それこそ儲けものというものです」
「何を占っているんですか?」
占い師はちらとこちらを見やると
「占いますか?」
と聞いてきた。別段占いなぞに興味はなかったのだが、むしろ占いよりこの人物が気になってきていた。老人であることは間違いないのだが、その声はまるでアナウンサーのようで、声は小さいがよくわかる。この人物はどういう過程を経て今ここにいるのか、よくわからないが、何か気になってきた。
「そうですね、それじゃお願いします」
私は話を聞くために一応そう答えた。
「ではそこにかけて下さい」
男はあいかわらず模範的なアナウンサーのように声を発した。
木製の椅子は、見た目こそ年季物であったが、変にきしんだりせず、安定して私は腰を落ち着けた。
「ではまず、この紙にあなたのことを書いてください」
男はそういうと、A3ほどの紙と図版をこちらに寄越した。
1名前
2年齢
3煙草 吸う 吸わない (吸うのならば銘柄)
4過去に大きな怪我 あり なし
5配偶者 あり なし
6好きな飲み物
7好きな食べ物
なんだこれは。まるで何を意図しているのかわからない。これじゃあどちらかといえば病院の問診のようじゃないか。そもそも占いってこんなもの記入するものなんだろうか。そしてこの情報から何をどう占おうというのか。ともかくわたしはバカ正直にアンケートに答えを書いた。
「伊藤洋二さん、28歳。奥さんがおられる。小学生のころ骨折あり。煙草はセブンスターを吸われる。好きな食べ物はカレーライスで好きな飲み物はコーヒーですね?」
私は首を縦に振った。
すると男はその紙をそのまま机に伏せた。なんだいったい。今答えたことに何の意味があったのだ?
「私は実は占い師ではないんです」
出し抜けに男はそういった。
「占い師ではない?」
「そうです」
私はわけがわからなくなった。
「だって、あなた、今さっき占い師だと名乗ったばかりじゃないですか。私をからかってるんですか?」
男は答えた。
「失礼しました。実は私は占い師ではなくいわば案内人のようなものをしています」
「案内人?」
「そう、案内人です。しかしいきなりあなたに「案内人」だと名乗れば、あなたは相手にもしてくれなかったでしょう。ですから私はまず占い師と名乗ったのです」
男はよどみなく答えた。
「つまり」
私は少し考えてから言った。
「ウソをついていた、と」
「そうなります。しかし私がこれから言うことは嘘ではありません」
「あなたが案内人とやらである、ということについて?」
「そうです」
「そして・・それじゃああなたは一体なんの案内人なんですか?」
「異次元の扉です」
「なんですって?」
「異次元の扉です。異次元の扉とは、つまりこことは異なる次元に行くための扉のことです」
この男はいよいよ頭がおかしい。本来君子危うきに近寄らずというが、おかしなことに、私は占いなんかをしてもらうより、狂人の話を聞くほうがよっぽどおもしろいと思い始めた。そもそも占いなんてものは私は信じてはいないのだ。
「異次元ってつまり、あれですか?魔界とか、異世界のことですか?」
「そうじゃないんです。もしかしたらそういうこともあるかもしれませんが、おそらくその可能
性は低いでしょう」
「ちょっとまってください」
私は言葉を挟んだ。
「そうじゃないけど、可能性は低いって。矛盾していませんか」
「可能性はあります。しかしそれはゼロではありませんが、そうなっている可能性はすごく低い
んです。ええと」
男は少し言葉を切った。
「煙草でも吸いませんか?そして一から話を始めましょう」
男に促され、私は煙草に火をつけた。男は灰皿を机の上に出し、「どうぞ」といった。
「さて、伊藤さん。パラレルワールドというのをご存知ですか?」
「パラレルワールド?つまり並行世界とか言われるもののことですか?」
「そうです。例えばあなたは今煙草を吸っていますが、銘柄は何を?」
「セブンスターですが」
「今あなたがセブンスターを吸っているという事実がある。しかし過去に何かあって、今セブンスター以外を吸っているかも、という可能性はありますね?」
「そりゃ、ありますよ」
昔はいろんな煙草を吸い比べていた。ただなんとなく、会社の先輩がそうしていたので同じものを吸っている。先輩がもし違うものを吸っていれば、私も違うものを吸っていたかもしれない。
「並行世界とは、つまりそのようなものなんです。過去にもしこうしていたら、今と違う自分がある」
「そりゃあ、そうでしょうよ」
私は反論するように言った。
「今までいろんなことをしてきて、そのたびにいろいろと選択をして、現在の自分があるわけですから、もしあの時あれをこうしていたら、こういう未来があった、なんてのはあって当然ですよ」
「そう。見たところあなたは会社員のようですが、もしかすれば自営業だったのかもしれない。あるいは無職だったかも。あるいはすでに死んでいたのかもしれない」
煙草を肺にいっぱいに入れ、煙を吐き出した。
「それで?」
「そうした分岐点で別れてきたもう一つのあなた、というのは並行世界で今も存在し続けているんです」
私は煙草の火を消した。
「存在し続けている、とはどういうことですか?私が分岐点をこえるたび、もう一つの可能性は消滅している。それが存在し続けるというのは、ifの話だ。分岐点の前だったら可能性として両方が存在しているかもしれないが、選んだ瞬間、片方が実在し、片方は消滅しているでしょう」
「ですからパラレルワールドなんです。突拍子もない話に聞こえるでしょうが、並行世界、パラレルワールドは無数に存在し、あなたはその可能性の中の一つなんです」
なんだか話がSFになってきた。こうなればとことん話に付き合って反論するか、私を納得させるだけの力をこの男が持っているか、の勝負だ。どっちにしろ、奇妙な話で、退屈はしなさそうだ。
「つまり、あなたはパラレルワールドへの案内人だ、と、そう言いたいわけですか?」
男はうなずいた。
「察しがよくて話が早いですね」
男は後ろに目線をやった。
「私の後ろに階段があるでしょう。その上に扉があります。そしてその扉をくぐるとあなたは並行世界のどこかへ行くことになります」
私も目線を男の背後にやると、なるほどたしかに石でできた階段のようなものがある。暗くてよく見えないが、ちょっとした小山という感じで、その扉までは確認することはできなかった。
「並行世界のどこかへ?」
「そのとおりです」
「ですが、扉をくぐるかどうかを決める前に、もう少し私の話を聞いてください」
もとよりそのつもりだった。このままその扉とやらをくぐったら、まるでバカではないか。私を納得させ、扉を開かせるだけの話がこの男はできるのだろうか?
男の話が始まった。
「今のあなたの人生は無数の選択肢の先にある現在だということはわかっていただけると思いますが、それ以上にあなたの知らない選択肢があるということです。例えば明日、あなたの頭上に隕石が落ちてくるとしましょう」
またこの男は何を言い出すのだろうか?
「隕石が、ですか?」
「そうです。通勤中に直撃、あなたは即死だ。そんなことがありえると思いますか?」
少し私は考えた。
「ありえない。そんなことは」
「なぜです?」
なぜといわれてもしようがない。しかし私は何かを反論しなくてはならない。
「並行世界というのはつまり、私がこうしたら、こうなるという話じゃないですか。つまりある道の分岐で、右に行けば安全だが、左に行けば事故に会うかもしれない。そういったことの繰り返しが人生で、並
行世界が存在するとしたら、右に行く私と、左に行く私が同時に存在してるということだ。どっちにいこうと、車の心配はあっても隕石が降るなんてのは関係のない話だ」
「そうではないのです。並行世界が存在すると仮定したとき、いや、仮定ではなく実際に存在しているのですが、そうであれば、今あなたがどうなっているかというのは、無限の可能性があるわけです。そして
あなたが今ここにいるのは、無限の可能性のうちのひとつなわけです。可能性が無限にあるなら、明日隕石が落ちるあなたも存在しているということです」
「・・・よく、わかりませんね」
「では、また別の例えをしましょう。まず、あなたが生まれます。ここをゼロ地点としましょう」
男は紙を取り出し、その紙の中心に小さな点を書いた。
「ここからそちらに向かって」
男は紙の中心から私のほうに向かって線を引き始めた。
「基本的には歩いていくわけです。その途中で右へ行ってみたり、左に行ってみたり、ときどきたちどまったりして、現在のあなたがいるわけです。ではこの線の向きとはいったいなんだかわかりますか?」
私はちょっと考えて、答えた。
「時間の流れですか?」
「厳密に言うと違いますが、まぁほぼ正解ですね」
男はピンポーン大正解!というふうでもなく、淡々と答えた。
「では、例えばあなたが選んできた選択肢についてです。あなたは小学生のころ、頭はいい方でしたか?」
また私は少し考えて、答えた。
「普通かな。一応平均以上の点数はとってきたけれど」
「では例えばあなたがこれまで来た道をまっすぐだとしましょう。左に行くほど、勉強をしている。右に行くほど勉強をしていないとします。この図の左端は勉強をし続けて優秀なあなたです。今頃一流の会社に勤めている、あるいは政治家になったりしているかもしれない。右端のあなたは未だに大学を留年している、あるいは大学になどいけず、高校にさえいけなかったかもしれない」
「可能性の話ですね」
「そう。するとこのゼロ点からまっすぐ行くか、右端か、左端か。いろんな可能性があった。ちょうど半円のような形をしていますね。ではこの半円のさらに右、あるいは左に行くとどうなるのでしょう」
「わかりませんね。円から出るということは時間の流れを超えるということですかね」
「もちろんそんなことはありません。時間の軸とは少し違うのです。そしてこの半円の外というものは、たしかに存在しているのです」
「では、本当は半円ではなく・・・まん丸ということですか?」
「それもまた違うのです。いうなれば螺旋状、あるいは球をイメージしてもらえれば近いかもしれません」
ううむ・・・。つまり私は半円の右端と左端には行けるかもしれなかったが、円の反対側には行くことができない。そして私には行けない領域も並行世界には存在しうるということだろうか。
「では、私はそう・・例えばこの図が」
ええと、中学校の数学でグラフの書き方を習ったな。
「このゼロ地点から今私の存在に向かっての線を、Y軸としましょう。Y軸は時がたつにつれプラスになって、ゼロ地点から離れていく。そしてY軸はマイナスには行かない。しかしあなたの話では、並行世界ではY軸をマイナスに行ったり、ともすればZ軸も移動ができる。その違いはなんなんですか?」
「一般方向というものです」
「一般方向?」
「簡単に言えば、おおむねこの方向、という適当な指針ですね」
「つまり・・・」
「あなたが今向かっている一般方向は、この方向ですy軸に対し並行。そしてその分岐で左に行き続ければ優秀、右に行き続ければ落伍者だった。あなたはやや左向きに歩いてきて、今、ここに存在しているということです。そして一般方向は概ね環境に左右される。あなたの両親や学校、その取り巻く因子の結果、この一般方向をめざしている。しかしもし、まったく違う環境であったならば、この一般方向はまったく逆、あるいは上や下に向かっていて、そうであれば右や左の選択だけではなく、いろいろな因子によって、まったく違うあなたがいたということです。そして、全ての可能性を考えるならばそれは球か、あるいはもっと別のものになりますが、あなただけが歩いた道は、こうして平面に表せます。生まれた時点での一般方向と今の一般方向は、多少のブレがあっても、同じようなものです。ただ、少し左よりか、右よりかの違いがあるだけです」
「うーむ・・・」
私はなにやら頭がこんがらがってきた。つまりどういうことか・・・いろんな選択肢を選ぶ以前に、その他環境や出身地が違う私もいて、今の私はその中のひとつであるということで、あっているんだろうか。
ちょっとコーヒーブレイクが必要だ。
「すみませんが」
私は立ち上がり、男に向かって言った。
「そこの自販機でコーヒーを買ってきてもいいかな?」
「ご自由にどうぞ」
相変わらず男の声はよく聞きとりやすい。
私はアイスのブラックコーヒーを二本買い、再び男の前に座った。あまりに荒唐無稽な話なのでここで話を切ってもよかったが、ここまでくればこの男がどこまで話を膨らませるのか、ということに興味があった。実際、ここまでわけのわからないところもあったが、話の内容に興味は尽きない。少なくとも今の時点で退屈はしていない。
「コーヒー飲みませんか?ブラックですけど」
「ありがとう、いただきます」
男はコーヒーを受け取ると、一気に半分ほど流し込んだ。のどが渇いていたのだろうか。私は私で何度目かになる煙草に火をつけた。
「さて」
私は話を切り出した。
「話はどこまで進んだんだったかな」
「いろいろと話してきましたが、つまり」
男は少し言葉を捜しているようだった。
「あなたには今現在、無限の並行世界が存在しているということです」
「そう、それだ」
私は反応した。
「根本はそこなんだが、ここまであなたの話を聞いてきて、話の根底にはそれがある。しかしそれを証明できないことには、あなたの論理は穴だらけじゃないですか」
男はうなずいた。
「ごもっともですね。しかしそれは証明のしようがないですね」
「それはなぜですか」
「私がいかにその存在を説明をしようとも、それをあなたが確かめる術はないのですから」
「それはそうですが・・それじゃ話が進まない」
「話は変わりますが、あなたは雷がなぜ落ちるのかご存知ですか?」
この男はまた大きく話を変えてきた。出し抜けだったので、また私は少し考えて答えた。
「それは、あれです。大気にある雲などの摩擦が電気を生み、それが臨界に達すると地上に落ちるわけです」
「そう、そしてあなたはそれを証明できますか?雷が確かに存在し、確かに落ちることを」
「そりゃあ、証明といったって、私は雷が落ちるところを見たこともあるし、理科の本にだって載っていますよ」
「そうですね。しかし私はそう説明されてもその真偽は判定できないわけです」
「なんだかそりゃ・・・理屈で話しをごまかしているだけじゃないですか?」
つまり存在するかわからないもののことは、どうとでも言えるということじゃないか。
「そう思われても仕方ないですね。ただ、なんというか・・・並行世界が存在するのは雷のように、ルールというか、現象というか・・・つまり摂理なんです」
「摂理?」
「つまりそういうものだ、としか言いようがないですね。そしてあなたが雷について知っていることは、現象や摂理を科学で解釈しようとしている行為というわけですね」
「つまり並行世界は科学では解き明かされてはいないが、そこに存在する。そういうものだ、とそういうわけですね」
「おっしゃるとおりです」
「では、あの扉を超えるとどうなるんです?私はまったく今までの経歴と違う、たとえば大工だったり、無職だったりサッカー選手になっている世界へ行けるということですか?あるいは少年のころに戻ったり、あるいは老いて死ぬ寸前の世界へ?」
「それも違うんです」
男は間をおかずに答えた。
「まずひとつめについてですが、あの扉の先にあるのは、少し選択肢が違うあなたなんです。これもそういう風になっているとしか言いようがないのですが。さっき一般方向と言いましたが、概ね同じ一般方向の、少し右や左、あるいは上か下に向かっている世界へ行くということですね。真逆の方向だとか、あまりに突飛な方向へはいけないわけです」
「それも摂理、ルールのようなものですか」
「そうです。そしてすべての並行世界は、同じ時間の流れをしています。今あなたの並行世界には、悲惨なもの、平凡なもの、楽しいもの、全てがありますが、その全てにおいて、あなたは28歳であるということは変わりません。生きていれば、ですが」
「待ってください」
「なんです?」
「悲惨なもの、平凡なもの、楽しいもの、全てがあるって?」
「そうです。先ほどから言っているように、可能性が無限だということは、どのようなものも存在しうる、いや、存在しているということです。たとえばある世界では巨大隕石が落ちてこの国は滅んでいます。ある世界ではこの国でクーデターが起きています。そして幸いにこの世界では隕石も落ちていないし、クーデターも起こっていません」
「その言い方だ。滅んでいるかもしれない、クーデターが起きているかもしれない、ということじゃなく、滅んでいる、起きていると断言するというのがどうにも納得がいかない」
男は言葉を捜しているようだった。
「今、およそあなたが想像しうる、全ての事象はどこかの並行世界で起きているのです。そして想像しえない事象もまたどこかの並行世界で起きています。無限に可能性が存在する、ということはそういうことになるのです。ですから並行世界は、ともすれば魔界のようになっているのかもしれないし、世界の終末を迎えようとしているのかもしれない」
「すると」
私も言葉を捜す。
「今この瞬間に私が死ぬ世界というのも存在しているわけかですか」
「そうです、そしてその世界は無限に存在し、同時に生きている世界も無限に存在します」
「私が今こうして、平和に仕事をして、生きているということは、奇跡ということか」
「うーん。どうでしょう。奇跡とはつまり確率的にものすごくわずか、ということでしたら、たとえば1/10000、1/100000だったら奇跡といえるかもしれません。しかし分母が無限になると、奇跡というのとは、何か違うような気がしないでもないですね。宇宙が誕生した、とか人類が誕生した、というのは奇跡といっていいかもしれません。しかし今のあなたより幸福なあなたは無限に存在し、不幸なあなたも無限に存在します。今、自分を不幸だと思っていないのなら、まぁ、奇跡というか運がよかったということですね」
「なんだか気の遠くなるような話ですね・・・」
私はいよいよ理解が追いつかなくなってきた。
「ただし、無限の可能性の中に一つだけ例外があります。それは今、あなたが私と話していることです」
「?」
「いかなる並行世界でも、今あなたは私と話しているんです」
「待ってくださいよ」
それはさすがに理解はできなくても、違うと確信した。
「無限に存在する私の世界があるなら、あなたと会話しない世界だって存在するはずでしょう。それに、今日私がここにいるのはたまたま電車を寝過ごしたからだ。電車を寝過ごさなかった世界だってある。だとするとあなたに会える確率なんてほんのわずかしかないじゃないですか」
男はなおも慌てる様子もなく答えた。
「これもまた、納得していただけるかどうかわかりませんが、そういうものなのです。もちろん違う場所、違う状況にはなっているはずですが、あなたが私に声をかけた時点で、すべての並行世界で声をかけています。もしあなたが私に声をかけなければ、全ての並行世界であなたと私は出会いません」
「では」
私は頭をフル回転させた。
「私があの扉をくぐるかどうか、は?」
「それも全ての世界で共通です。あなたがくぐればほかのあなたもくぐります。つまりあの扉を超えても、違う次元のあなたには出会えないということです。今あなたがいる世界をAの世界としましょう。あなたがくぐった先にあるのはA+の世界かもしれない。A++の世界かもしれない。そしてこのAの世界にはA-の世界とか、もしかすればBの世界からのあなたがやってきます。全ての次元のあなたは元の世界を捨て、新たな世界に来ます。-1と+1、合計ではなにも変わりません。
もちろん扉をくぐらないということもありうる。そうすれば全てのあなたも扉をくぐらず、世界はそのままに保たれます」
私はコーヒーを一口飲み、煙草に火をつけた。
つまりまとめると・・・。並行世界は無限に存在する。無限に存在するということは、いかなる可能性をもはらんでいる。私の選択によってのみ変わるのではなく、外的な要因も全て異なる世界も存在する。しかし異次元の扉を超えても、あまりに異なる世界に行くことはなく、そう今と変わらない世界にたどり着く。
「私が行く世界は、例えば妻が違う女だったりすることも?」
「ないとはいえません。しかしあの扉はそんなに遠くの世界へ行けるものではありません。とはいえ確実にここと同じ世界ではありません。そして扉を超えるかどうかはあなたの判断で決めてみてください」
「扉をくぐって、ちょっと違う並行世界に行くことが、私にとって何のプラスになるというんです?」
「さあ。それはあなた自身で考えるしかないかもしれませんね。強いて言うなら日頃と少し違う発見ができたり、普段と違う非日常を感じることができるかもしれません。言ってみれば暇つぶしですね」
男の話はこれで終わったようだ。
作り話もここまでくるとたいしたものだ。一見穴のある理屈に見えて、並行世界を認めてしまえば、全て成立してしまう。そしてその真偽を正す術は、私にはない。いや、あるとすればあの扉をくぐることだ。しかしあの扉をこえたとして、ちょっと違う世界に行くというのなら、その違いは目に見えないかもしれないし、見えたとしてもそれが扉をくぐったせいなのか、たまたまなのか、どの道判断はできない。なかなかよくできている話だ。
私は何本目かになる煙草の火を消し、コーヒーを飲み干した。
「最後に一つ聞きたいことがある」
「なんでしょう?」
「あなたはなぜここにいる?何の理由で私にこんな話をした?」
「商売ですよ」
男は初めて少し明るい表情をして見せた。
「あの扉をくぐるならば、二千円、くぐらないならここまでの話料として千円いただきます」
思わず笑ってしまった。
「話だけで金を取れるとは、さすがにプロですね。いい商売だな」
「そうです。そして不思議なことに大体皆さん2千円を払ってくれるんですよ」
「いいでしょう。二千円払いますよ」
私は迷わずそう言った。ここまでの話を聞いていい時間つぶしになったし、家でテレビを見ているよりマシな時間の使い方をしたように思う。二千円ぐらい、払ってやろう。
「面白い話だったよ。コーヒー代はもちろんいらない」
そういって二千円を手渡した。
「階段を上ってまっすぐ行くと、木製のドアがあります。そのドアを開け、くぐり、ドアを閉めることで並行世界に入ります。私の話はこれで終わりです」
私は軽く会釈をすると、階段を上り始めた。およそ三十段ぐらいだったろうか。上りきると本当にまっすぐのところにドアがあった。
ドアの周りには何もなく、ポツンとドアだけがある。その光景はシュールとしか言いようがない。
暗がりだったが、月明かりでおおよそのものは見えている。ドアまで近づいてみると、なるほどこれはドアだ。しかもというかやはりというか、年季の入ったドアだ。木製で、丸いドアノブと蝶番だけは真鍮かなにかの金属のようだった。
ドアの枠の部分は土に埋まっている。上は何も接していない。
この扉を超えれば、異世界への一歩を踏み出す、か・・・
私はドアノブに手をかけた。そしてドアをくぐり、扉を閉めた。
特に変わった様子もない。周りを見渡しても、特に変わったこともない。しいていえばさっきよりも気温が下がっているような気がする。もっとも、長いこと話し込んでいたので当然といえば当然なのだが。
なんだか拍子抜けして、とりあえず帰路につくことにした。
わたしは階段を下りて、男に話しかけた。
「こちらでは初めまして、になりますか?」
「そうなりますね」
男の声は、相変わらず小さいけれどもアナウンサーのように聞き取りやすい声をしていた。てっきり姿を消して、二度と現れないものかと思っていたので、なんだかだまされたような気分だ。
「これでなにか変わったんでしょうか?」
「さしあたりは何も感じないかもしれません。もしかしたらほぼ同じ世界かもしれません。そうしたらあまり変化を感じることはないかもしれませんね」
少なくとも私はこの男を見る限り、とても異世界にきたとは信じられなかった。
「これを差し上げましょう」
そう言うと、男は四つに折った紙切れを私に差し出した。
「これは?」
「最初に書いてもらったアンケートですよ。あなたが書いた紙とこの紙で、不一致があったら、一つの証明になるかと思いましてね」
なるほど、今までこの世界にいた私と、この私は似ているけれど、違うかもしれない、ということか。
「それから、あなたはコーヒーを買いましたか?」
「コーヒー?ええ、あなたと私に一本ずつだ」
「それはこのコーヒーでしたか?」
男は二本の缶を私に見せた。おそらく私が買ったものだ。たしかこういうデザインだったはずだ。
「煙草は何本吸われましたか?」
灰皿の上には五本の吸殻が乗っていた。銘柄は私の吸っているものと同じだ。
「四本・・・いや、五本だったかな」
確信はなかった。だが、五本も吸っていないような気もする。
「家はあっちの方向ですか?」
男は私の行く先を指差した。
「そうですが、なにか?」
「あるといいですね、家が」
それから10分ほど歩いたが、たまたまタクシーを見つけ、私は乗り込んだ。長話をしてしまった。あまりに遅くなると、さすがに妻も怒るかもしれない。ここからだとおそらく十分やそこらで家に着くだろう。
タクシーの中で私は男の言ったことを思い返していた。最後に彼が言った一言は、つまり私の家がある世界もあるし、ない世界もある。そういうことを言っていたのだろうか。すると彼はあくまで作り話ではなくここが並行世界だと言い張っているということだ。
私は受け取った四つ折の紙を開いてみた。それは私が書いたものとまったく同一だった。ちょっとは違うことが書いてあることを期待したが、そんなに好みが変わらない程度の異世界に来たということなんだろうか。
しばらくして家に着いた。若い身分なので安アパートに住んでいる。部屋番号は103号だ。ドアの前に立つと表札には「伊藤」と書いてある。
やはりこれは私の家だ。鍵を開けようとすると、すんなりと開いた。カギの不一致なんかがあれば異世界の証明になったが、これも同じようだ。
シャワーの音がする。今シャワーを使っている妻は、私の妻と同一だろうか。今すぐに確認するのもなんだかばからしい。
私はとりあえず晩飯を食べることにした。冷えた鍋に火をかけ、冷えた米をレンジに入れた。漂ってくる匂いは、スキヤキのような感じだ。
あっためた米とあっためたスキヤキを食べる。味は悪くない。
あの男は一体何者で、ここは本当に並行世界なのか。今となっては判断のしようはない。あの男はもう明日にはいなくなっているような気がする。
別に探そうとは思わないし、それにまるっきり彼を信じていないわけでもない。ただ、どちらにしろ、そう大きな問題はない。彼の言ったように、非日常感を少し楽しむことにしよう。
そういえば今日の晩飯はカレーにすると妻は言ってなかっただろうか。
あるいは、どこかの並行世界の私は、今、奇妙な味のカレーを食べさせられているのだろうか。