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二転三転

「……茉莉花さん」

 目の前に、大きな手が差し出された。

「そんなところにびしょ濡れのまま座ってたら、風邪をひく」

 巧はぐい、と茉莉花の手を引っ張って立たせた。

「大丈夫?」

 本当に心配そうに目をのぞき込まれて、どきどきした。

「私は大丈夫だけど……お料理が……」

 オーブンから覗く黒い塊を見て、ああ、と頷いた。

「ごめん、オーブンの使い方がわからなかったんでしょう? ここに華氏から摂氏に換算するメモを貼っといたんだけど、言うの忘れてた」

 彼は冷蔵庫にマグネットで貼ってあるメモを指さした。

「ええっ」

 何度も冷蔵庫を開け閉めしていたのに、どうして気付かなかったのだろう。 

「謝ってすむことじゃないけど、本当にごめん。せっかくがんばって作ってくれたのに。食べ物、あと何があるの?」

 まるで迷子の子供にお母さんの特徴を聞くように、巧は身をかがめて茉莉花に聞く。

「あの……サラダと……」

「ん?」

 このまま消えてしまいたい。

「……サラダです」

 見得を張っても無い袖は振れぬ。

 俯く茉莉花の頭を、巧はぽんぽんと叩いた。

 ——温かくて、おっきな手。

 ずっと憧れてた。

 犬のフォルテみたいに、頭を撫でられて、


『Good girl』


 そう言われたかったのに。


「……そっか。わかった。あとは僕が用意するから」


 ——大好きな声。低めで穏やかなのに、胸の底まで響くような。

 でもその声で彼が言ったのは、あきらめの言葉。


(もう、だめだ。なにもかも台無し)

 情けなくて、ついに涙の堰が切れた。

(ああ、ここで泣くなんて最悪だよ、茉莉花! 巧さんが困っちゃうから、早く泣き止まなくちゃ!)

 ぼろぼろと泣く茉莉花に、巧はハンカチを貸してくれた。

「とにかくさ、濡れてるからお風呂入っておいで。あ、そっか、着替えがいるよね。僕のでよければ……」

 服を取りに行こうとする巧のシャツの袖を引っ張った。

「あの、あります……お料理で汚れると、思ったから、持って来てて……」

 着替えなんか用意する暇があるなら、もっと料理のことに気遣えばよかったのに。茉莉花は浮かれていた自分が恥ずかしくて下を向く。

「そう、じゃあすぐ沸くから、ゆっくり湯船に入ってあったまってね。慌てないでちゃんと髪も乾かすんだよ? 」

 茉莉花の行動を見切ったような台詞だ。巧は台所にある給湯システムのボタンを押した。タオルなどを用意してくれたのか、浴室に行って戻ってくる。

「僕はもうちょっと寄るところもあるし、のんびりしてて? じゃ、行ってくるね」

 ふんわり微笑むと、また頭に手をぽんと置いて出掛けていった。

(怒って、なかった?)

 茉莉花はぬくもりの残る自分の頭に手をあてた。

(オーブンのことで、料理の失敗は自分だけのせいだと思っているのかな)

 茉莉花は申し訳ないと思いながら、巧の優しさに胸を打たれていた。

(それにしても余裕ある対応だわ。今までつきあってきた男の子たちとは違う、大人の男って感じ? ほんといい人だなあ)

 彼が出ていった玄関の方を見ながら、茉莉花は、ほう、と切ない息を吐いた。


 しかしいつまでも余韻に浸っている場合ではない。

 風呂が沸くまで台所の洗い物をすませると、浴室に足を踏み入れる。

 他人のバスルーム、しかも巧がいつも使っていると思うと、無駄にどきどきしてしまう。

(ちゃんとした恋人にもなってないのに、お風呂だなんてハードル上がりすぎ)

 脱衣所もこぎれいに片付いていて、脱衣カゴに茉莉花用らしきバスタオルも用意してあった。新品のように見えるが柔軟剤の良い香りがする。

 その脇にはドライヤーと封を切っていない新しい歯ブラシが並べてあるし、足ふきマットも新しそうだ。

(来客用のタオルや歯ブラシがさっと出てくるなんて、まめな人だなあ。どうしよ、ますますあきれられちゃうかも)

 仕事にかまけて実家で傍若無人に振る舞っている茉莉花は、自分の生活を顧みて、顔をしかめた。しかしまたいつ彼が帰ってくるか分からないので、とにかく風呂に入ることにした。


 湯船に入ってみると、なるほど緊張と冷えで身体ががちがちになっていたのがわかる。言われたとおりゆっくり温まって髪を乾かした。

 風呂から上がって腕時計を見ると、すでに1時間以上は経過している。

 慌ててニットワンピースを頭から被った。ピンクベージュで、鎖骨が見えるくらいに開いた襟元と膝までの裾が太いリブ編みになっている。身体に沿ったフェミニンなシルエットが気に入っていた。

(アクセサリーも何もないけど、しょうがないよね。急がなきゃ)

 ぱぱっとひと通りのメイクを施して鏡に上半身を映した。

 髪こそ乾かしたばかりでふんわりつやつやだが、いつもの手抜きナチュラル風メイクにシンプルなワンピースをすとんと着ただけの自分がいる。イヴを好きな男性と過ごそうという気合いは、残念ながらあまり感じられない。

(うう。でも、あまり決めすぎてもおかしいし! 着替えを持っていただけグッジョブよ、茉莉花!)

 相変わらずのプラス思考でバスルームを出た。

 玄関の脇を通ると彼の靴がある。

 帰ってきてるんだ。

 脱いだ服を慌てて紙袋に押し込み、居間のドアを開けた。


「え?」

 薄暗い中に、キャンドルの灯が見える。部屋のあちこちに点されたそれにはアロマキャンドルも入っているのだろうか、仄かに清涼なハーブの香りがする。

 目をこらすと、テーブルの上にもキャンドルが飾られ、茉莉花の作ったサラダが中央に置いてある。赤と緑、それぞれ1枚ずつひかれたランチョンマットの上には、ワイングラスに、カトラリー。それだけではない。ローストチキンやビーフシチュー、星やツリーを象ったパンも籠に盛られている。

「これって……」

「あ、あったまった? いろいろ買ってきたよ。デザートもあるし」

 巧はキッチンにいて、冷蔵庫にケーキの箱をしまうところだった。箱の包装紙はシルバーグレイの地に赤の文字、リボンは黒の細いベルベット、というシックな包装。冷蔵庫の灯りに照らされて、包装紙に書いてある赤い文字が見える。

 “chat noir”……シャノアール。

(あれ、どこかで……)

 茉莉花は首を傾げた。そのときふっと浮かんだ箇条書きの文字。


『T’S Delica、ベーカリー、シャノアール』


 巧の机の下に落ちていたあのメモ。


(え、ということは)

 茉莉花は食卓を見回した。急に用意したにしては料理やパンもクリスマス仕様、完璧に揃いすぎているディナー。茉莉花が来る前に書かれた、あのメモ。

(まさか私の失敗を見越して、予約してた? そう言えば、バーナードカフェの海くんには、七面鳥のこととか話してた。もしかして料理がだめなこと、はじめからバレてた?)

 絶望の鐘が、がんがんと頭の中で鳴り響く。

 呆然としている茉莉花に気付いた巧は、ああ、と微笑んだ。

「びっくりした? 実はこれね、前から予約したのをつい2日前まで忘れてて、キャンセルできなかった分なんだ。どうしようかと思ってたんだけど、役に立って良かった」

 ——前から予約?

 茉莉花との約束は、はじめから手料理という話だったはずだ。


 ぴったり、ふたり分のイヴ用の食事。揺れるキャンドル。ロマンティックなディナー。


 茉莉花の胸につうっと冷たい雫が伝う。


 ——もしかして、私、誰かの代役?

 一緒に過ごすはずの相手に振られて、私に声をかけた?


 ずっと恋人がいなかった茉莉花。まめで優しくて洗練された巧。

 偶然の出会いでとんとん拍子にことが進むより、誰かのバーターであるほうがよほど現実的な気がした。

「座って?」

 巧は茉莉花の動揺に気付かず、椅子を引いてくれる。間近で茉莉花の姿を見た巧は微笑んで、

「かわいいの着てるんだね……よく、似合ってる」

 と目を細めた。普段ならどれほど舞い上がっただろう。しかしその言葉も他の誰かにかけるはずだったのだ、と思ったら、嬉しくない。

 一方の巧はさかんにワインをすすめたり、いろんな話題を振ってくる。おいしそうな食事も、料理の失敗と相まって、砂を噛むようだ。かちゃかちゃと食器の音だけがやけに大きく聞こえた。


「今夜は、おとなしいね」

 あらかた食事も済むころ、巧が言う言葉にはっと顔を上げる。向かいに座った巧は肘をついて乗り出すようにして茉莉花を見る。その甘い表情。自分だけを見ているなら、どんなに嬉しかったことか。

「どうしたの? 料理のこと気にしてるの? あれは僕が悪かったんだし、気にしないで。サラダ、とってもおいしかったよ」

 巧は茉莉花の手作りドレッシングが入った瓶を振る。茉莉花はドレッシングには自信があった。以前ダイエットしたとき、サラダばかり食べていて、味に飽きてドレッシングに凝ったことがあったのだ。

「あ、ありが……」

 お礼を言おうと思ったら、言葉より先に涙が出た。

「あれ、あれっ」

 そう言えばさっき借りたハンカチどこやったんだろう。

「茉莉花さん」

 慌てる茉莉花に、巧が近くの部屋からタオルを持って来てくれた。これもバスタオルと同じ清々しい柔軟剤の香りがして、茉莉花を慰める。

「ほんとに気にしないで? 僕は……茉莉花さんといるだけで楽しいんだから」

 ちょっと照れくさそうに言う台詞も、茉莉花の心には響かない。しばらく巧は茉莉花の様子を見ていたが、

「場所を変えようか」

 とソファを手で示した。

「ごちそうさま。今、デザートと珈琲、用意するから。そっちで食べよう。待ってて、ね?」

 席を立つと、茉莉花の脇に回り込み、肩を支えて立ち上がるのを手伝ってくれる。

「もう、泣かないで?」

 顔を覗き込む巧は、ワインのせいか、幾分頬を赤らめ、とろんとした目をしている。色っぽくて、思わず目を反らした。

(勘違いしたら、あとが辛くなる)

 顔を伏せる茉莉花に、巧は単に料理の失敗が堪えていると思ったのか、ぽんぽんと頭をなぐさめるように叩いてキッチンに下がった。

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