オーブン料理は慎重に
「さてと」
茉莉花は、彼の部屋を見回した。
フォルテと一緒に生活しているせいか、あまり余計なものを置いていないシンプルな部屋だ。床はフローリングで隅のほうにケージやラグが置いてあって、そこがフォルテのスペースなのだろう。彼の物らしいぼろぼろになったぬいぐるみやボール、きれいになった食器などが置かれていて、思わず笑みがこぼれる。
どうやら彼にこの家を譲ったハンドラーは外国人らしく、暖炉がある欧米風のゆったりとした作りだ。犬を考慮してのことだろう、高いところにいくつも棚があり、そのあちこちにガラスのキャンドル・ホルダーが飾ってあった。
(暖炉にキャンドル。私んちの純和風とはえらい違いだなあ)
ドッグショーのときのものだろうか、巧とフォルテが誇らしげに微笑む写真が、フレームに入って幾つも並んでいる。当然のようにいつも隣に陣取っているフォルテがうらやましい。
(フォルテがいる限り、イヴのディナーとはいえ、あんまりロマンティックな状況にはならないんだろうなあ。最強のライバルだわ)
とはいえ、母親には
『友達とのクリスマスパーティで、もしかしたら、泊まりになるかも』
と言ってあった。荷物には下着とかわいいナイトウェアも忍ばせてある。アラサーにもなると、こんなところだけは用意周到なのだった。
(ま、無駄になる可能性は大だけど)
茉莉花は気を取り直してエプロンをつけ、料理の支度を始めた。
サラダは家で野菜を切り、お手製のドレッシングを作ってきた。これはさすがの茉莉花でもできる。
問題は七面鳥とケーキ。
焼き時間が少ないケーキからとりかかった。まずは土台のスポンジケーキから。茉莉花は鞄から一冊のファイルをとりだした。インターネットのレシピサイトで調べプリントアウトした資料がきちんと閉じられている。1頁目は『誰でも簡単! しっとりふわっふわ! のスポンジケーキ』。さっそく卵を割り、白身を泡立てる。ケーキは食べる専門の茉莉花がハンドミキサーなど持っているはずもなく、これもインターネットで調べた『おしえてQ&A ハンドミキサーなしでメレンゲを作るとき』を参考にした。
「泡立てってめんどくさいなあ。やっぱミキサー買えばよかった。このくらいで砂糖を混ぜるんだっけ」
その記事によると砂糖を入れるときめ細やかな泡になるという。
「よく分かんないけど、ま、この辺で」
泡立ちは今ひとつだったが、他の材料と共に混ぜ込んで型に流す。これをオーブンに入れればいいのだが。
「へっ?」
温度調整をしようとスイッチを入れると、浮かび上がった数字に仰天した。
『250°F』。
「に、にひゃくごじゅう?」
レシピには170度で焼けと書いてある。ダイヤルを回してみても250度が最低で、どんどん数字は大きくなるばかり。ついには500°Fになり、茉莉花はパニックになった。
「どうしよう! 」
しかし茉莉花も教師のはしくれ。そのうち思い当たった。
『°F』。ファーレンハイトだ。
アメリカ製のオーブンなので、表示が摂氏でなく華氏になっているのだった。しかしそれがわかっても換算の仕方がわからない。自分のPCを持ってくるんだった、と思っても後の祭り。巧のPCを借りようと家の中を捜索する。
「あった」
ノート型のPCが机の上に置いてある。彼の机は仕事関係の書類や本が積まれていた。ゴミ箱に入りそこねたのか、床にメモが落ちていて拾い上げる。見ると、ボールペンで箇条書きにされたリストだった。
『ケンネル・ボブに確認のtel
風呂・寝室掃除、ベッドメイキング
ドライフード ×2
牛乳、卵、パン、ハム、レタス、トマト
T’S Delica、ベーカリー、シャノアール
フレンチロースト200g
14時 茉莉花さん
14時半 “子供の家”』
『14時 茉莉花さん』。日常生活のメモの中に、自分の名前が記されているのが、たまらなくうれしかった。俄然やる気になってくる。
しかし華氏を摂氏に換算する記事を見つけるためと開けようしたPCは、セキュリティロックがかかっていて開かない。
「もう!」
仕方なくキッチンにもどり、低い温度で15分焼くことにした。レシピには30分と書いてあったので、中程で様子を見てみよう、という作戦だ。その間に生クリームに砂糖を入れて泡立てるが、これもハンドミキサーがないため一苦労。いつまで経っても液体のままのクリームと格闘しているうち、タイマーが鳴った。
「どれどれ」
中を覗いてみると、型の中のケーキの生地は入れたときと同じ高さ。全く膨らんでいない。きっと温度が弱いのだろうと、さらに温度を上げて15分。生クリームをしゃかりきになって掻き回していると。
「ん? 焦げ臭い?」
オーブンから煙が上がっている。慌ててドアを開けてみると、白い煙が茉莉花を包む。
「……うぷ!」
トレイを引き出すと、表面が真っ黒に焦げただけで全く高さの変わらない代物が、型の中に鎮座していた。
「あーあ、『誰でも簡単』ってのは嘘?」
テーブルに並べた苺と泡立っていないままの生クリームを恨めしげに見る。
「仕方ない、ケーキはいっか、所詮デザートだし。七面鳥さえ食べられれば」
このくらいでへこたれないのが茉莉花の長所でもあり、短所でもあった。実際落ち込んでいる暇もなく、今度はターキーに取りかかる。ターキーを焼くのは4時間もかかるのだ。家で下ごしらえはしてきてあり、大きな肉の中にはひき肉や香草、米などを炒めた具がぱんぱんに詰まっている。米が入っているので、ごはんを炊いたりパンを用意しなくてしなくていいのもこのレシピを選んだ一因だ。
レシピに書いてあったオーブンの温度は190度。オーブンを使ったことがない茉莉花は、それが他の調理と比べて、高いのか低いのかわからない。しかしケーキよりは強火だろうと、中程の温度にして今度は30分。
「生焼けよりは、よく焼けたほうがいいもんね」
ターキーの詰め物の中にはチキンスープも混ぜ込んであり、30分おきに肉からたっぷり流れ出てくるスープを受け皿からすくって回しかけ、4時間じっくり焼かなくてはならない。これは家でなんとか成功しているので自信があった。
30分経ち、オーブンを開ける。今のところうまくいっているように見えた。しかし2回目には、焼き色がなんだか怪しくなってくる。焦げそうだ。
「まずい」
ケーキの二の舞いは避けたい。慌てて低い温度にする。その後も30分で回しかけていたが、オーブンからじゅじゅじゅ、と大きな音がした。開けてみると肉から溢れ出したスープがオーブン内にこぼれている。
(しまった。思ったより受け皿が浅いんだ!)
慌ててオーブンを開け、布巾を持つ手を中に突っ込んでしまった。
「あっちい!」
手の甲がオーブンの内壁に触れてしまう。飛び退いた瞬間、身体がテーブルに当たる。泡立て途中で液体のままだった生クリームのボールが、がしゃんと倒れた。
「きゃあ!」
エプロンを着ていたにも関わらず、シャツとジーンズまで生クリームまみれ。それでも『火傷はすぐ冷やさなければ』という頭があり、クリームをかぶったまま蛇口を一杯にひねり手を突っ込んだ。水が跳ねるのも構わず、じゃぶじゃぶと盛大にかけていると、携帯が鳴った。
「ええっ! このタイミング?」
時計を見ればまだ6時前。こんなに早く連絡が? 茉莉花は手を拭いて電話をとる。やはり巧だった。
「ごめんね。料理中だった?」
いつものような穏やかな声。そんな彼のきれいなキッチンは飛び散った水と生クリームで台無しだ。茉莉花は泣きそうになりながら、小さな声で、はい、と答えた。
「僕、今買い物中なんだけど、うっかり生鮮食品を先に買っちゃって。今からそっちによるけどいいかな。冷蔵庫に詰めたらまた外出するから、料理は急がなくていいよ」
——冷蔵庫!
それは取りも直さず、キッチンに入るということだ。まずいと思ったが断るわけにも行かない。電話を切った後、急いでオーブンを閉め、床を拭く。
(まずい、まずい!)
しゃかりきになって床を拭き終わった瞬間、チャイムが鳴った。
(ぎりぎりセーフ!)
「おかえりなさーい」
仕事から帰ってきたのだから、とパニック状態の胸の内を隠し、せめてもの笑顔で出迎えた。
「ただいま、茉莉花さん……って、どうしたの?」
巧は茉莉花を見るなり目を見張った。あまりにもまじまじと見るので、玄関の姿見に自分を映してみる。
——ぎゃあ!
そこにいる茉莉花は惨憺たる有り様であった。髪や顔には小麦粉がつき、エプロンは水でびしょ濡れ、シャツやジーンズの左脇は生クリームの白い大きな染みが浮かんでいる。
「ごめんなさい、火傷して、慌てちゃって!」
「火傷したの? どこ!」
巧は茉莉花の全身に視線を這わせた。
「大したことないんです」
「見せて」
有無を言わさぬ口調におずおず手を出す。巧はその手を自分の目の前まで持っていき、赤くなった皮膚を見て顔をしかめた。その手を取ったまま、黙って居間に引っ張っていく。
「座って」
いつもにこやかな彼が口数も少ない。救急箱を持ってくると軟膏を塗られ、ガーゼに透明なシートをかぶせた絆創膏を貼ってくれる。
「これで濡れても大丈夫だから」
「え?」
「お風呂、入ってきなよ」
今度は風呂に連行しようとする。茉莉花は必死で抵抗した。
「え、あ、いや、まだ、料理途中だし。ってあ、ターキー!」
そういえばターキーはオーブンの中。火傷と巧の帰宅騒ぎで、30分ごとの観察を忘れてしまっていた。
「あの、ここで待ってて!」
茉莉花は急いでキッチンに駆け込んだ。
明らかに焦げ臭い。
オーブンを開けると。
「……」
悪夢、再び。見るも無惨に焦げた、黒光りした小山のようなターキーが。
「嘘……ターキーだけはうまくいくと思ってたのに」
3羽も買ったターキー。中に詰める詰め物も大量に作り、ぎゅうぎゅう詰めて。腕が筋肉痛になり、もうターキーは食べたくないと家族に言われながら、それでも練習を重ねた。
——すべては今宵のイヴ、一緒に過ごしてくれる巧のために。
「もう、嫌」
ボールや食器が重なり、生クリームや粉、調味料が飛び散った調理台。なのに食べられるものがサラダしかないなんて。
「茉莉花さん?」
巧の声がする。
(もう、ごまかせない)
茉莉花は観念した。
入ってきた巧はオーブンの前で座り込んでいる茉莉花を見つけた。開けっ放しのオーブンからは丸焦げの七面鳥。キッチンを見回し、巧はふう、とため息をつく。
——あきれちゃった?
茉莉花の胸に、味噌汁の一件が蘇る。
——私、また料理でふられるの?