イヴのご予定は?
そんなに急ぐこともないのに、茉莉花は校長に掛け合って、ハンドラーの彼を講師に呼ぶことを承諾してもらった。
(『鉄は熱いうちに打て』よ、うん)
職業フェスティバルの日時や概略をさっそく彼にメールする。予定は先だし、連絡するチャンスは多い方がいい。後日詳細を、と思っていたら、メールをした翌日には彼から『直接会って詳しく話が聞きたい』とメールが返ってきた。
待ち合わせは、バーナードカフェ。
連絡を取り合ううち、ふたりは用事がなくともカフェで落ち合うくらいの仲に発展した。バーナードカフェには入り口の近くに飼い主用に犬を繋ぐポールがある。犬のフォルテはさすがに入れないので表に繋ぎ、ふたりだけでカフェに入った。忙しいふたりはなかなか会える日はないが、教師の茉莉花を気遣い、巧は夜や週末にお伺いの連絡をくれた。
「あなたが、あの犬の飼い主さん、ですか?」
ふたりでカフェのブランチをとっている土曜日。
長めの髪をした目鼻立ちのはっきりした男が巧に話しかけてきた。巧とはまた違った、ラテン系のイケメン、といった感じ。
「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます。私、オーナーの沢村泰山です」
「ええっ」
この人が。このカフェのオーナーにしては随分若く見える。いつも見かける眼鏡をかけた店長より年下だろう。
「いやあ、以前から従業員に、『まるで看板犬のようなセントバーナードくんがいる』って聞いてましてね。今日、初めて噂の彼を拝見しました。お邪魔とは思ったのですがご挨拶だけ」
(お邪魔だなんて。ちゃんとカップルに見えるってことかな)
茉莉花は頬を赤らめたが、巧はひと言、オーナーに釘を刺した。
「一応、メスなんです、あの子は」
まるで彼女を男と間違えられた恋人みたい。茉莉花はフォルテにちょっと嫉妬してしまった。それでも明るい気さくなオーナーと話が弾み、『セントバーナードとこのカフェのマグが縁で知り合った』と言うと、彼は顔を綻ばせた。
「このカフェが縁で恋が芽生えたっていう話は、実は結構ありまして。でもそういう話は何度聞いてもいいもんです。従業員にいつも窘められるんですが、私はそういうお話が大好きでしでね。オーナー冥利に尽きるってもんですよ」
恋、という言葉に茉莉花はどきっとした。カフェに誘ってはくれるが、巧からは『好きだ』とも『つきあって』とも言われたことがない。巧の顔をそっと覗き見れば、いつものように穏やかに微笑んでいる。
(否定しないってことは、恋人同士って思っても……いいの?)
どきどきする茉莉花をよそに、男ふたりはバーナードカフェの名前の由来に花を咲かせていた。
「ええっ、セントバーナードとは関係ないんですか」
「あはは、実はそうなんです」
沢村はすみません、と両手を合わせた。
「このカフェは、働く女性向けをコンセプトにしてましてね。深夜残業でお疲れだったり、早朝の仕事の前でも、女性ひとりで入れて、ヘルシーで栄養のある食事も食べられるカフェを目指してるんです。だからミールメニューも多いでしょ。ミールアンドカフェじゃ芸がないし、ガスバーナーのバーナーからとって命名したんですよ。『バーナーとカフェ』転じて『バーナードカフェ』って」
「ふーん、知らなかったなあ」
それでもここのマグがきっかけで、巧と知り合ったのだから、オーナー様々である。ごゆっくり、と挨拶して去っていくオーナーに、茉莉花はちぎれんばかりに手を振った。
ふと我に返って巧を見ると、彼はじっとこちらを見据えている。頬杖をついて、まるで身体の中まで透視されてしまいそうな、強い眼差し。
(やだ、はしゃぎすぎたかな。変だった?)
そんな表情を察したのか、巧は次の瞬間にはいつものような穏やかな笑顔に戻る。茉莉花はほっとした。
「フォルテはここでも有名人だったんですね、って、あ、有名犬かしら」
「——バーナーって言えば、茉莉花さんは料理する人?」
突然巧に聞かれてどきっとする。しかも料理の話?
「え、まあ……ぼちぼち? あんまり上手にはできませんけど」
ぼちぼち、なんて大嘘だ。茉莉花は家事全般が苦手。なかでも料理はからきしだめだった。以前付き合っていた彼に『味噌汁も作れないの』と三行半を突き付けられた話は、大学の友人たち間ではもはや伝説である。かといって一念発起して料理を学ぶような殊勝な気持ちもなく、ここまで来た。
(所詮それだけの男よ、アイツのために人生を変えるなんてありえない)
その選択が、かえって料理をトラウマにし、それを自覚しないままに就職。実家暮らしの茉莉花は、毎日の食事はもちろん、学校の遠足の弁当でさえも母親任せだ。
『いつまでたったらお母さんはお役御免になるのかしらねえ』
と頭を抱えられている。
巧は何やら考えていたようだったが、ふっと顔を上げた。
「今度、うちで作ってもらおうかな。ほら僕はフォルテがいるから、なかなかレストランとかに行けないんだよ」
——『今度、うちで』
茉莉花の胸は高鳴った。
(巧さんの家に、呼ばれた!)
彼はひとり暮らしと聞いている。犬のフォルテは一緒かも知れないが、ふたりきりには変わりない。浮かれる茉莉花に、巧はさらに畳み掛ける。
「じゃあさ、さ来週のイヴはどう? 僕の歳になると友達は皆家庭持ちで、イヴに一緒にごはん食べてくれる人がいないんだ」
——イヴ! そんなとびきりの日に一緒に過ごしてくれるっていうの?
茉莉花の頭の画面一杯に、『キター!』の文字の弾幕が流れる。自慢にもならないが、今までイヴの夜に男性とふたりきりで過ごしたことはない。いきなりのレベルアップに、心臓が闇雲に暴れ出す。
「わたっ、しも、そんなとこです! 予定なんて全っ然!」
さりげなさを装うが、あまりのことに声が震えた。
「よかった!」
巧は満足そうに頷いた。
「お言葉に甘えて、当日ごはん作ってもらってもいい? ご馳走じゃなくても簡単なものでいいんだ。僕が今住んでるとこは先輩のハンドラーから譲り受けた家でね。彼、料理が趣味だったから、台所の設備や調理道具だけは何でも揃ってるよ」
——しまった! 料理!
茉莉花の頭の中に、ひゅう、と北風が吹いた。
「それで茉莉花さんはお料理を頑張っていると」
海はうんうん、ともっともらしく頷いてみせる。
「イヴまであと一週間、何とか彼に“Good Girl!”って言わせたいとこですよねえ」
その言葉にはっとした。
「 “Good Girl!”って言われたいなんて、私、海くんに話したっけ?」
真っ赤になって慌てる茉莉花に、海の呆れたような声が落ちてきた。
「こないだ飲み会の帰りに寄ってくださったときに何度も言ってましたよ。忘れたんですか? ま、頑張ってください。料理は愛情ですから」
茉莉花は海をにらみつけた。
「もう! 愛情だけで料理がうまくなるんだったら、今ごろ私は鉄人シェフよ」
絶品イタリアンを作る料理人の妻を持つ彼には、茉莉花の苦労は到底わかるまい。
「巧さんたら『調理器具は何でも揃ってる』って言うの。オーブンもアメリカ式の大きなビルドインのがあるって! 味噌汁も作れない私に七面鳥やケーキを焼けと?」
「まさか」
海が一笑に付すが、茉莉花は大まじめだ。
「でもね、ここでびびっちゃ女がすたるわ。買ったわよ、練習用も含めて七面鳥3羽! 冷凍庫七面鳥だらけ!」
「3羽……」
唖然とする海に、指を差して宣言する。
「みてらっしゃい! 絶対すてきなイヴにしてやるんだから!」
そしてイヴの当日。約束の14時に彼の家のチャイムを鳴らした。巧はフォルテと児童施設の慰問で出かけると言うので、早めの時間に約束をしたのだ。リビング・ダイニング形式の部屋で、ソファやテレビのあるくつろぎスペースと、食卓らしいテーブルセット、そして奥にキッチンがあった。簡単に使い方の説明を受けたが、余り料理はしない、と彼が言っていた話は本当のようで、オーブンもしばらく使った形跡はなさそうでほっとする。
「仕事のあと買い物してくるけど、遅くても7時には帰れると思うから。キッチンだけじゃなく自由になんでも使って。暇だったらそこら辺のDVD見るなり本読むなり、好きにしてていいから」
とてもそんな暇はないと思ったが、素直に頷いておいた。
「あ、帰るときメールか電話、くださいね?」
料理を作ったあとは、できたら着替えて彼を出迎えたい。おびただしい料理の材料とともに、メイク道具や決めすぎない程度のワンピースもちゃんと持ってきた。彼が帰る前に着替なければ。
「了解です」
彼はにっこり笑うと、フォルテと一緒に車で出かけていった。