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Good girl

茉莉花まりかさん。いらっしゃいませ。バーナードカフェにようこそ」


 レジで茉莉花に声をかけたのは、バリスタのかいだ。茉莉花は幾分くたびれた顔で、それでも彼に笑ってみせる。

 ベージュの半コートに茶のロングスカート、ショートブーツ。髪は緩やかなウェーブがかかったセミロングだが、天然なのか、パーマがとれかけなのかわからない有り様。化粧にもあまり気合いは入っていないが、目だけはくりっとして睫毛も長い、とよく言われる。

「海くーん、こんばんはー。スパイシーバニララテ、トールでお願いしまーす」

 甘えたような声で保温マグを渡す。マグはバーナードカフェ専用のマグで、トレードマークのセントバーナードがついている。

「かしこまりました」

 海がキッチンに移動すると、茉莉花も移動してその姿を見ようとカウンターに乗り出した。背が高くエプロンがよく似合うハンサムな海は、茉莉花の目の保養だ。おまけによく気が利き、ラテアートまで作れる凄腕の持ち主なのだから。

「お仕事帰りですよね。お疲れですか」

 くたびれているときは、甘めの飲み物をたっぷり。茉莉花の習性を見切っている海は、軽やかにラテを作り始める。

「そうなのよう。もうすぐ学校も終わりだし、おまけに慣れないことやってるもんだから」

「慣れないこと?」

 海は手を止めず、ミルクを泡立てながら尋ねた。お客とのコミュニケーションを大事にするこのカフェでは、例え作業中でも客の言うことに耳を傾けてくれる。

「ほら、クリスマスが近いでしょ。たくみさんに手料理をご馳走しようと思って!」

「うわあ、乙女だなあ、茉莉花さん」

 わざわざ振り返ってまでからかう海を、にらみつけてやった。

「うるさいわよう、この新婚め!」

「もう、結婚して半年ですよ?」

 海は片目をつぶってみせる。

「でも、あっつあつなんでしょ!」

 海は、このカフェで知り合った年上の女性と、猛アタックの末結婚した。常連なら誰でも知っている事実だ。

「おかげさまで。このラテなんて目じゃないですよ。どうぞ?」

 しゃあしゃあと言ってのける彼が出すラテは、舌が焼けるほど熱かった。



 茉莉花は小学校の教員をしている。今担当しているのは2年生。やんちゃな彼らを相手にしていると、いつも知力体力共に限界だ。仕事が終わるとどっと疲れて泥のように眠る。いつも元気な茉莉花先生が、仕事を離れると背中を丸めて足を引きずるようにとぼとぼ歩いているなんて、誰が信じるだろう。

 そんな茉莉花はある日、出掛けた先の大きなショッピングモールで「チャンピオン・ドッグ大集合」というポスターを見つけた。日時を確認すると、もうすぐここで始まるらしい。元より動物好きの茉莉花は、最前列に陣取ってその様子を眺めた。

 それはドッグショーで良い成績を収めた犬を一同に集めたチャリティ・ショーだった。ドッグショーとは、純血犬種だけを集めて、その種の中でいかに素晴らしい犬かを競う大会なのだという。確かに毛並みもつややかで美しい犬ばかり。飼い主がリードを引き大勢でトラックを走る姿は圧巻だった。アジリティという障害物競技を華麗にこなす犬もいる。

 その中に、大きなセントバーナードがいた。堂々とした体躯のわりに、身軽に障害物を飛び越え、会場の注目を集めている。その犬を扱っていたのが、巧だった。

 年のころは茉莉花と同じ30代くらいか。チェックのシャツにジーンズ、ロングブーツ。ラフな格好なのに、長身の彼にはぴたりとはまる。前髪はさらっと長めだが、短めに刈り込まれたうなじは清潔そうで。爽やかな牧場の青年といった印象だ。衣装なのだろうかテンガロンハットを被り、その鍔越しに覗く瞳は、時に厳しく、それでいて犬に対する愛情であふれていた。手をあげて、走って、きびきびとした動作も美しい。

 そして何より、そのセントバーナードが命令に従うとほめる、その声に聞き惚れた。


「Good girl(いい娘だ)!」


 歯切れのいい発音。よく通るが低く響く、例えるならチェロのような声。

 セントバーナードも彼に応えようと、枠をくぐり抜けたり、ひょいと飛び越えたり。遠めに投げられたフリスビーも必死にジャンプしてキャッチする。


「Good girl!」


 そう言って頭をなでると、犬も本当に嬉しそうにしっぽを振るのだ。


(私も言われたい)


 唐突にそんなことを思った。

 学校での自分は、生徒に良くできました、とほめる側だ。しかし実生活では自分が何かを成し遂げたとしても、誰も何も言ってくれない。


「Good girl!」


(その大きな手で、頭を撫でてもらえたら)


 そんな倒錯的な想いを振り切るように、茉莉花はぶんぶんと首を振る。

 それでもショーが終わるまで、彼とセントバーナードの姿を食い入る様に見つめていた。

「ありがとうございました! またお越し下さい!」

 あっという間にショーは終わった。

 茉莉花は名残惜しげに小道具を片付ける巧を目で追う。せめてもの抵抗で、彼の傍にある募金箱にありったけの小銭をゆっくり入れた。

「ありがとうございます」

 目が合った彼は、にこやかに礼を言う。間近で聞く声もやっぱりよく響くいい声だ。ときめいた茉莉花は少女のように手を胸に当てる。

(なにか、話したい)

 しかしここは募金箱の前。後ろも詰まっていて、いつまでも留まっているわけにもいかない。

「あの……とってもすてきでした!」

 と言い捨て、逃げるようにその場をあとにした。

 それでも未練たらしく遠くから観察していると、ついに彼は床に置いていたトートバッグに手をかける。

(あ、行っちゃう)

 かといって、引き留めるほどの勇気も自信もない。30を過ぎ、教師である自分の立場も踏み出す一歩の邪魔をする。

(こうして出会いがなくなっていくわけよね)

 ため息をつきながら、彼の姿を見送ろうとした。すると、

「あ」

 彼がトートバッグを持ち上げた弾みで、赤い筒状の物がこぼれ落ちる。それはころころと茉莉花の足元に転がってきて、ショートブーツの爪先で止まった。手に取ってみると、見覚えのあるセントバーナードのマークがついた保温マグ。

「すみません! ありがとうございます」

 巧はすぐに駆けてきて、ぺこりと礼をした。

「これ、バーナードカフェの……」

 茉莉花が無意識に呟くと、巧の目尻がくしゃっと緩み、口元もほころんで。

「バーナードカフェ、ご存じですか? はじめはね、こいつを飼っているんで、セントバーナードのマークに惹かれて店に入ったんですけどね。珈琲も食べ物もおいしくてはまっちゃって、今じゃ常連なんですよ」

 彼の脇に座るセントバーナードは、カフェのマークそっくりの顔を上げて嬉しそうに尻尾を振る。自分が話題にされているのをわかっているように。

 まさかの共通点にうれしくなって、茉莉花は興奮気味に彼の方に身を乗り出した。

「私も同じマグもってるんです! 自宅の近くなんで、よく行くんですよ! 今の季節だとスパイシー・バニラ・ラテがお気に入りで。寒くて疲れたときは甘い物が身に沁みるっていうか! 昨日もたっぷり飲んできたばかりなんですっ!……って、あ!」

 つい大きくなった声に、周りの人が振り返る。

(は、恥ずかしい! やだ、どうしよう)

 赤くなってもじもじする茉莉花に、彼の穏やかな声が降ってきた。

「……僕も今朝、飲みましたよ。あれ、おいしいですよね」

 ふと見上げれば、柔らかな微笑みに出会う。彼が茉莉花に向けている眼差しは、包み込むようにやさしくて。


 すとん。


 それはもう、ものの見事に。

 茉莉花は恋に落ちた。

 

 熱心に話をする茉莉花に巧は名刺をくれた。そこには彼の職業と所属している団体なども書かれている。

 ハンドラー。

 それが彼の職業の名前だった。動物トレーナーだと思っていたら、違うのだという。

「同じ犬種が集まるドッグショーで、いかにその犬の魅力を最大限に引き出すか、っていうのが僕の仕事。訓練もするし、本番でハンドリング、つまり引き回したり、競技をさせたり。立ち姿ひとつにも、美しく見せるにはリードの弾き方とかいろいろコツがあってね。僕はセントバーナード専門」

「詳しいことはわからないけど、この子はすっごく目立ってましたね。お利口だし、身体のわりに機敏だし」

 茉莉花も犬の背中を撫でさせてもらう。

「まあね。この子は僕個人の飼い犬なんだけど、セントバーナードでここまでアジリティができる犬はそういないと思う。そのかわり、ハンドリングする僕のほうも相当な運動量だよ。筋肉もつくから、ジムに行く必要なんかないくらい」

 確かに、シャツの上からでも肩や腕の筋肉の張りがわかる。ついまじまじと見てしまい、恥ずかしくなって話題を変えた。

「この子の名前は何ていうんですか?」

「フォルテっていうんだ。子犬の時から鳴き声だけは他の兄弟より大きくてね、それでフォルテ。これでも女の子だよ」

 彼は自慢げに愛犬の首元を撫でる。フォルテも安心したように彼を見上げて。

(やっぱいいなあ)

 犬に嫉妬している自分に苦笑する。

「今日みたいなショーはよくあるんですか」

 あわよくば、また会えないかと思ったのだ。

「ドッグショーが最優先だけれど、今日みたいなチャリティショーや施設とか学校の慰問なんかも、頼まれればやることにしてる。もう12月だから、クリスマスに呼ばれたりね」

(学校の慰問)

 茉莉花は、はっとした。

(そうだ。来年、学校で開催される職業体験フェスティバルで、いろんな職業の講師を探してたんだっけ)

 職権乱用と思いながらも、これはチャンスだ。駄目元で『是非、講師を』と彼に依頼してみた。

 巧は穏やかな顔で頷いて、

「いいよ、僕たちでよかったら。じゃあ、日程とか詳しいことはまたあとで連絡をください。日中は連絡がとりにくいかもしれないから」

 と携帯の番号とメルアドも交換してくれるではないか。なんという僥倖!

(ここのところ男っ気なしだった私が、一日のうちにここまで……。これは運命かも)

 降って湧いたような恋の予感にうっとりと浸る。

「じゃ、またね」

 そんな茉莉花を残し、巧は手を振りながらフォルテと共に颯爽と帰って行った。


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