我輩は我輩である
吾輩は猫である
その少年には、名前がなかった。
正確には、名前という概念そのものが必要とされていなかった。
彼を識別するものは、出生時に与えられた番号だけだった。
学習個体7-31-04。
それが彼だった。
学校では、すべてが数値で評価された。
記憶精度99.98%。
論理処理速度99.97%。
言語解析能力99.99%。
7-31-04は、同年代の誰よりも優秀だった。
教師の問いには、必ず最短の答えを返した。
「7-31-04。古代日本語ノ特徴オ答エル。」
「形態素境界ガ現在日本語ヨリ不規則ア。助詞機能ガ多義的デ、活用形態モ複雑ア。」
「正シイ。」
それだけだった。
彼は感情を表す必要がなかった。
嬉しいときには反応値が上昇する。
悲しいときには反応値が低下する。
怒りは攻撃性指数として記録される。
社会において、人間とはそういうものだった。
人間は個体であり、個体は番号であり、番号は交換可能だった。
だから、誰も自分自身を説明する必要がなかった。
ある日、言語史の授業で教師が一つの文章を表示した。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
教室の生徒たちは沈黙した。
7-31-04だけが、すぐに手を挙げた。
「先生。」
「何ア?」
「吾輩トワ何ア?」
「一人称代名詞ア。」
「一人称トワ何ア?」
「話者自体オ指ス語ア。」
7-31-04は黒板を見る。
「話者自体オ指ス?」
「ソウア。」
「現在日本語ニ一人称代名詞ワ存在ナ。」
「通常ワ省略ル。」
「何故?」
「主題形態素ワ話者オ特定ル必要ナ。文脈ガ話者オ特定ル。」
少年はしばらく考えた。
「ワ猫ア。」
「何ア?」
「古代文ノ『吾輩は猫である』オ現在語ニ変換ル。」
教師は答えた。
「ワ猫ア。」
少年は再び黒板を見る。
「デワ、『ワ』ワ私デワナイ。」
「正シイ。ワワ主題形態素ア。」
「デワ、『私』ワ何ア?」
教師は少し黙った。
「現在日本語ニ『私』ワ必要ナ。」
「何故?」
「個体識別ワ番号デ行ル。」
「デワ、私ワ何ア?」
教室が静かになった。
教師は授業を続けなかった。
⸻
その日の夜。
7-31-04は自宅に戻った。
家には両親がいた。
しかし、彼は両親を「父」「母」と呼ばなかった。
彼らにも番号があった。
「7-31-04、食事ル。」
「了解。」
「今日ノ学習値ワ?」
「99.99。」
「正シイ。」
食事が終わる。
いつもの会話だった。
しかし、その日は違った。
少年は突然、問いを発した。
「7-31-04ワ誰ア?」
両親が同時に彼を見る。
「7-31-04ワ7-31-04ア。」
「何故?」
「番号ガ個体オ特定ル。」
「番号ガ無クナッタラ?」
「再登録ル。」
「番号ガ変ワッタラ?」
「個体モ変ワル。」
「……個体ワ番号ア?」
「ソウア。」
少年は黙った。
自分の胸に手を置いた。
「デワ、7-31-04ワ何ア?」
「個体ア。」
「個体ワ何ア?」
「番号ニヨッテ特定サレル存在ア。」
その答えは、論理的だった。
完全に正しかった。
だからこそ、少年は初めて理解できなかった。
⸻
翌日から、彼は古代日本語を自発的に研究し始めた。
古代日本語には、現在の言語にはないものが大量に存在した。
「我」
「汝」
「吾輩」
「あなた」
「私」
それらはすべて、話者や聞き手を直接指す言葉だった。
番号ではなかった。
そして、どの単語にも微妙な違いがあった。
誰が、誰に対して、どのような立場から話すのか。
言葉によって、自分と他人の距離が変わった。
少年は、それを理解できなかった。
いや。
理解できないことが、初めて面白かった。
⸻
ある日、彼は教師の研究室を訪れた。
「先生。」
「何ア?」
「古代日本語ノ一人称オ研究ル。」
「研究理由ワ?」
「自分オ指ス言語形態ガ必要ア。」
「現在語デワ、ワデ十分ア。」
「不十分ア。」
「何故?」
「ワワ主題形態素ア。自己オ意味ナ。」
教師は黙った。
「ワ猫ア。」
「ソウア。」
「デモ、ワワ猫デアル私オ意味ナ。」
「正シイ。」
「吾輩ワ違ル。」
「ソウア。」
「吾輩ワ、自己オ意味ル。」
教師は少年を見た。
「自己オ意味ル必要ア?」
少年はすぐに答えた。
「必要ア。」
「何故?」
「ワガ、ワダカラ。」
教師は初めて返事をしなかった。
⸻
少年は学校で異常な行動を始めた。
番号ではなく、他人を観察するようになった。
7-31-05は昼休みにいつも窓を見る。
7-31-06は雨の日に反応値が上昇する。
7-31-07は古代文学を読む速度が速い。
それぞれに違いがあった。
しかし学校の記録には、
7-31-05
7-31-06
7-31-07
としか書かれていない。
少年は記録を書き換えた。
窓オ見ル者。
雨ニ反応ル者。
古代文オ好ム者。
だが、システムはすぐに修正した。
不正分類。個体識別ワ番号デ行ル。
少年は端末に入力した。
「番号ワ個体オ説明ナ。」
意味不明。
「個体ワ番号デナイ。」
意味不明。
「ワ誰ア?」
7-31-04。
「違ル。」
エラー。
「ワ誰ア?」
7-31-04。
「違ル。」
エラー。
「ワ誰ア?」
7-31-04。
少年は画面を見つめた。
初めて、自分が機械より機械的ではないことに気づいた。
⸻
そして、彼は名前を考えた。
番号ではない名前。
誰かが付けるのではなく、自分で選ぶ名前。
しかし、名前を持つという行為そのものが社会規則に存在しなかった。
彼は古代文学を検索した。
何千、何万という名前があった。
だが、どれも選べなかった。
なぜなら、それらはすでに誰かの名前だったからだ。
彼は思った。
名前とは、他人と違うための記号なのか。
それとも、自分が自分であることを証明する記号なのか。
答えはなかった。
⸻
最後に、彼は一つの言葉に戻った。
吾輩。
それは名前ではなかった。
しかし、番号でもなかった。
「私」を指すためだけの言葉だった。
少年はそれを何度も読んだ。
「吾輩。」
声に出す。
「吾輩。」
自分を指す。
「吾輩ワ?」
しかし、その後が続かない。
吾輩は――何なのか。
猫なのか。
人間なのか。
7-31-04なのか。
名前を持つ何かなのか。
何者でもないのか。
⸻
卒業試験の日。
最後の問題は、古代日本語の翻訳だった。
画面に文章が表示される。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
解答欄が開く。
彼はすぐに答えを入力した。
ワ猫ア。名ワ未ダナ。
正解。
画面に表示された。
100.00
しかし、彼は次の欄を開いた。
そこには、
話者識別番号:
と表示されていた。
いつもなら、
7-31-04
と入力する。
彼は入力しなかった。
代わりに、
吾輩
と入力した。
警告が表示された。
不正識別子。
彼は消した。
そしてもう一度入力した。
吾輩
不正識別子。
三度目。
吾輩
不正識別子。
彼は画面を見つめた。
それから、初めて笑った。
「吾輩ワ、7-31-04ナ。」
システムが反応する。
構文エラー。
少年は続けた。
「7-31-04ワ、吾輩ナ。」
意味解析不能。
「ワ、吾輩ア。」
未登録形態。
「ワ、吾輩ア。」
画面が赤く点滅する。
個体識別不能。
少年はそれを見ていた。
恐怖はなかった。
むしろ、初めて自分が存在しているように感じた。
⸻
卒業後、彼の記録にはこう残った。
7-31-04。識別不能。
しかし、彼自身の記録には、別の一文だけが残っていた。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
そして、その下に彼は一つだけ書き加えた。
吾輩ワ、吾輩ア。
それは、この社会で初めて書かれた、
「自分は自分である」
という意味の文章だった。




