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我輩は我輩である

作者: 荒唐無 稽
掲載日:2026/10/04

吾輩は猫である


 その少年には、名前がなかった。


 正確には、名前という概念そのものが必要とされていなかった。


 彼を識別するものは、出生時に与えられた番号だけだった。


 学習個体7-31-04。


 それが彼だった。


 学校では、すべてが数値で評価された。


 記憶精度99.98%。


 論理処理速度99.97%。


 言語解析能力99.99%。


 7-31-04は、同年代の誰よりも優秀だった。


 教師の問いには、必ず最短の答えを返した。


「7-31-04。古代日本語ノ特徴オ答エル。」


「形態素境界ガ現在日本語ヨリ不規則ア。助詞機能ガ多義的デ、活用形態モ複雑ア。」


「正シイ。」


 それだけだった。


 彼は感情を表す必要がなかった。


 嬉しいときには反応値が上昇する。


 悲しいときには反応値が低下する。


 怒りは攻撃性指数として記録される。


 社会において、人間とはそういうものだった。


 人間は個体であり、個体は番号であり、番号は交換可能だった。


 だから、誰も自分自身を説明する必要がなかった。


 ある日、言語史の授業で教師が一つの文章を表示した。


吾輩は猫である。名前はまだ無い。


 教室の生徒たちは沈黙した。


 7-31-04だけが、すぐに手を挙げた。


「先生。」


「何ア?」


「吾輩トワ何ア?」


「一人称代名詞ア。」


「一人称トワ何ア?」


「話者自体オ指ス語ア。」


 7-31-04は黒板を見る。


「話者自体オ指ス?」


「ソウア。」


「現在日本語ニ一人称代名詞ワ存在ナ。」


「通常ワ省略ル。」


「何故?」


「主題形態素ワ話者オ特定ル必要ナ。文脈ガ話者オ特定ル。」


 少年はしばらく考えた。


「ワ猫ア。」


「何ア?」


「古代文ノ『吾輩は猫である』オ現在語ニ変換ル。」


教師は答えた。


「ワ猫ア。」


 少年は再び黒板を見る。


「デワ、『ワ』ワ私デワナイ。」


「正シイ。ワワ主題形態素ア。」


「デワ、『私』ワ何ア?」


教師は少し黙った。


「現在日本語ニ『私』ワ必要ナ。」


「何故?」


「個体識別ワ番号デ行ル。」


「デワ、私ワ何ア?」


 教室が静かになった。


教師は授業を続けなかった。


⸻


 その日の夜。


 7-31-04は自宅に戻った。


 家には両親がいた。


 しかし、彼は両親を「父」「母」と呼ばなかった。


 彼らにも番号があった。


「7-31-04、食事ル。」


「了解。」


「今日ノ学習値ワ?」


「99.99。」


「正シイ。」


 食事が終わる。


 いつもの会話だった。


 しかし、その日は違った。


 少年は突然、問いを発した。


「7-31-04ワ誰ア?」


 両親が同時に彼を見る。


「7-31-04ワ7-31-04ア。」


「何故?」


「番号ガ個体オ特定ル。」


「番号ガ無クナッタラ?」


「再登録ル。」


「番号ガ変ワッタラ?」


「個体モ変ワル。」


「……個体ワ番号ア?」


「ソウア。」


 少年は黙った。


 自分の胸に手を置いた。


「デワ、7-31-04ワ何ア?」


「個体ア。」


「個体ワ何ア?」


「番号ニヨッテ特定サレル存在ア。」


 その答えは、論理的だった。


 完全に正しかった。


 だからこそ、少年は初めて理解できなかった。


⸻


 翌日から、彼は古代日本語を自発的に研究し始めた。


 古代日本語には、現在の言語にはないものが大量に存在した。


「我」


「汝」


「吾輩」


「あなた」


「私」


 それらはすべて、話者や聞き手を直接指す言葉だった。


 番号ではなかった。


 そして、どの単語にも微妙な違いがあった。


 誰が、誰に対して、どのような立場から話すのか。


 言葉によって、自分と他人の距離が変わった。


 少年は、それを理解できなかった。


 いや。


 理解できないことが、初めて面白かった。


⸻


 ある日、彼は教師の研究室を訪れた。


「先生。」


「何ア?」


「古代日本語ノ一人称オ研究ル。」


「研究理由ワ?」


「自分オ指ス言語形態ガ必要ア。」


「現在語デワ、ワデ十分ア。」


「不十分ア。」


「何故?」


「ワワ主題形態素ア。自己オ意味ナ。」


 教師は黙った。


「ワ猫ア。」


「ソウア。」


「デモ、ワワ猫デアル私オ意味ナ。」


「正シイ。」


「吾輩ワ違ル。」


「ソウア。」


「吾輩ワ、自己オ意味ル。」


教師は少年を見た。


「自己オ意味ル必要ア?」


少年はすぐに答えた。


「必要ア。」


「何故?」


「ワガ、ワダカラ。」


 教師は初めて返事をしなかった。


⸻


 少年は学校で異常な行動を始めた。


 番号ではなく、他人を観察するようになった。


 7-31-05は昼休みにいつも窓を見る。


 7-31-06は雨の日に反応値が上昇する。


 7-31-07は古代文学を読む速度が速い。


 それぞれに違いがあった。


 しかし学校の記録には、


7-31-05

7-31-06

7-31-07


としか書かれていない。


 少年は記録を書き換えた。


窓オ見ル者。

雨ニ反応ル者。

古代文オ好ム者。


 だが、システムはすぐに修正した。


不正分類。個体識別ワ番号デ行ル。


 少年は端末に入力した。


「番号ワ個体オ説明ナ。」


意味不明。


「個体ワ番号デナイ。」


意味不明。


「ワ誰ア?」


7-31-04。


「違ル。」


エラー。


「ワ誰ア?」


7-31-04。


「違ル。」


エラー。


「ワ誰ア?」


7-31-04。


 少年は画面を見つめた。


 初めて、自分が機械より機械的ではないことに気づいた。


⸻


 そして、彼は名前を考えた。


 番号ではない名前。


 誰かが付けるのではなく、自分で選ぶ名前。


 しかし、名前を持つという行為そのものが社会規則に存在しなかった。


 彼は古代文学を検索した。


 何千、何万という名前があった。


 だが、どれも選べなかった。


 なぜなら、それらはすでに誰かの名前だったからだ。


 彼は思った。


 名前とは、他人と違うための記号なのか。


 それとも、自分が自分であることを証明する記号なのか。


 答えはなかった。


⸻


 最後に、彼は一つの言葉に戻った。


吾輩。


 それは名前ではなかった。


 しかし、番号でもなかった。


 「私」を指すためだけの言葉だった。


 少年はそれを何度も読んだ。


「吾輩。」


 声に出す。


「吾輩。」


 自分を指す。


「吾輩ワ?」


 しかし、その後が続かない。


 吾輩は――何なのか。


 猫なのか。


 人間なのか。


 7-31-04なのか。


 名前を持つ何かなのか。


 何者でもないのか。


⸻


 卒業試験の日。


 最後の問題は、古代日本語の翻訳だった。


 画面に文章が表示される。


吾輩は猫である。名前はまだ無い。


 解答欄が開く。


 彼はすぐに答えを入力した。


ワ猫ア。名ワ未ダナ。


 正解。


 画面に表示された。


100.00


 しかし、彼は次の欄を開いた。


 そこには、


話者識別番号:


と表示されていた。


 いつもなら、


7-31-04


と入力する。


 彼は入力しなかった。


 代わりに、


吾輩


と入力した。


 警告が表示された。


不正識別子。


 彼は消した。


 そしてもう一度入力した。


吾輩


不正識別子。


 三度目。


吾輩


不正識別子。


 彼は画面を見つめた。


 それから、初めて笑った。


「吾輩ワ、7-31-04ナ。」


 システムが反応する。


構文エラー。


 少年は続けた。


「7-31-04ワ、吾輩ナ。」


意味解析不能。


「ワ、吾輩ア。」


未登録形態。


「ワ、吾輩ア。」


 画面が赤く点滅する。


個体識別不能。


 少年はそれを見ていた。


 恐怖はなかった。


 むしろ、初めて自分が存在しているように感じた。


⸻


 卒業後、彼の記録にはこう残った。


7-31-04。識別不能。


 しかし、彼自身の記録には、別の一文だけが残っていた。


吾輩は猫である。名前はまだ無い。


 そして、その下に彼は一つだけ書き加えた。


吾輩ワ、吾輩ア。


 それは、この社会で初めて書かれた、


 「自分は自分である」


という意味の文章だった。

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