凱旋した英雄は聖女を選びました。冬の補給路を守っていた私は静かに軍を去ります ~今更「戻ってきてくれ」と泣きつかれても、私は隣国の最高機密ですので~
王都は、勝利に酔っていた。
鐘。
歓声。
白い花びら。
大通りを進む凱旋馬車の上で、
“奇跡の聖女”ミレニアが優雅に微笑んでいる。
民衆は熱狂していた。
「聖女様だ!」
「英雄様、万歳!」
「王国を救ってくださってありがとう!」
その隣。
誇らしげに手を振るのは――私の婚約者。
王国軍総司令官、ジュリアン・ヴァン・カスティール。
けれど。
彼らは知らない。
この凱旋路に使われている第四大橋が、
昨夜の豪雨で崩落寸前だったことを。
そして。
たった一人の女が、
夜通し泥にまみれながら工兵部隊を指揮し、
橋を繋ぎ止めていたことを。
三年続いた北方戦線。
雪。
飢餓。
疫病。
崩落する橋。
凍死する兵士。
それらを越え。
王国は勝った。
そして。
英雄は、聖女を選んだ。
*
王城大広間へたどり着いた頃には、
祝賀会はすでに始まっていた。
豪奢なシャンデリア。
笑い合う貴族たち。
音楽。
ワイン。
きらびやかな祝福。
その中で。
重厚な扉を開いた私へ、会場中の視線が突き刺さる。
――私は、泥だらけだった。
夜通しの補修作業で、
かつては美しかった夜会服は泥漿に汚れ、裾は裂けている。
顔にも泥が跳ね、髪は乱れ、疲労で視界が霞んでいた。
最後の補給馬車が橋を渡り切るのを確認してから、
私はここへ来たのだ。
着替える時間など、なかった。
「……遅いぞ、ベアトリス」
冷えた声。
会場中央。
ジュリアンが、聖女ミレニアを伴いながら私を見下ろしていた。
「一国の総司令官たる私の婚約者が、そのような見苦しい姿で現れるとはな」
「――恥を知れ」
私は乾いた喉で声を絞り出す。
「申し訳ありません……第四大橋が崩落しかけており、その指揮を……」
「言い訳はいい」
ジュリアンは眉を寄せた。
「工事など兵に任せれば済む話だ」
「君が現場へ居座るのは、単なる自己満足だろう」
――自己満足。
(一拍)
その言葉に。
脳裏へ、
“死の顎”――そう呼ばれた峠が蘇る。
記録的な吹雪。
とても進める積雪量ではなかった。
補給断絶。
先行していた北方軍主力は完全に孤立し、全滅寸前だった。
後方部隊――
私は吹雪が到達する時間を分単位で予測し、
残された物資の量を計算し、
輸送兵を鼓舞し、
凍土を砕き、
工兵たちと共に廃材を敷き詰めた。
延々と続く、即席の木道。
雪中輸送路。
指の感覚が消えても。
最後の荷馬車が峠を越えるまで、
私は自分が火に当たることすら許さなかった。
その結果。
前線へ届いたパンを食べ。
繋がった命で勝利した男が。
今。
私を“自己満足”と呼んでいる。
「まあ、ベアトリス様……」
隣でミレニアが困ったように微笑む。
白銀の髪。
儚げな瞳。
誰もが愛した“奇跡の聖女”。
「お顔が泥だらけですわ」
「私が兵のために祈っていた間、
貴女はどちらで遊んでいらしたの?」
周囲から失笑が漏れた。
「事務官風情が目立とうとしたか」
「英雄の隣には、やはり聖女様のような方がふさわしい」
私は黙っていた。
この人たちは。
私が繋いだ橋を笑いながら渡り。
私が確保した食糧を食べ。
私が届けた薪で暖まりながら。
泥を被った私を嘲笑している。
そのときだった。
「君との婚約を解消したい」
音楽の流れる王城大広間。
ジュリアンは静かにそう言った。
まるで。
汚れた何かを切り捨てるような目だった。
私は彼を見る。
その隣には、ミレニア。
戦場で祈りを捧げるだけで兵に希望を与えたと、
民衆に熱狂的に支持される聖女。
――その祈りの裏で。
私は泥水を濾過し。
凍傷薬を確保し。
兵糧庫の腐敗率を毎日計算していた。
「……理由を伺っても?」
ジュリアンは少しだけ目を伏せた。
「君が優秀なのは認める」
「感謝もしている」
だが、と彼は続ける。
「君は後方にいただけだ」
「実際に命を懸け、兵を救ったのはミレニア様だ」
周囲の貴族たちも頷く。
「たしかにな」
「事務官だろう?」
「英雄の隣には地味すぎる」
視界の端で、聖女が困ったように微笑んでいた。
ああ。そうですか。
――この人は。
――本当に、一度も。
――後方を見ていなかったのだ。
「承知いたしました」
私が頭を下げると、ジュリアンは露骨に安堵した顔をした。
泣かれると思ったのだろう。
縋られると思ったのだろう。
「では、婚約解消を受け入れます」
私は静かに続ける。
「合わせて、
本日付で《北方戦線後方支援統括官》を辞職いたします」
その瞬間。
ジュリアンの表情が止まった。
「……は?」
「引き継ぎ資料は、すべて執務室へ置いておきます」
私は淡々と続ける。
「冬季輸送路の判断基準。
補給優先順位。
吹雪到達予測式。
橋梁崩落時の代替輸送手順」
「俗人化を排除し、
可能な限り手順書へ落とし込んであります」
会場が静まり返る。
貴族たちは、
何を言われているのか半分も理解できていない顔だった。
「補給管理コードの解除キーも中に入れておきます」
ジュリアンが僅かに安堵しかける。
――だが。
「もっとも」
私はそこで、
ほんの少しだけ言葉を切った。
「戦場の状況は刻一刻と変化します」
「吹雪、地盤沈下、疫病、輸送損耗――」
「現場判断に合わせ、
常に更新し続けなければ、
いずれ破綻するでしょう」
静寂。
「ですが……」
私は小さく息を吐く。
「もう、私が心配することではありませんので」
誰も、何も言えなかった。
私は静かに礼をする。
「私にできる引き継ぎは、以上です」
そのまま踵を返す。
背後で、
ジュリアンの声が、初めて僅かに揺れた。
「……ま、待て、ベアトリス――」
けれど。
私は、もう振り返らなかった。
そのまま礼をして。
私は会場を後にした。
*
三週間後。
北方戦線は崩壊した。
「第三補給基地から食糧が届きません!」
「冬靴の備蓄が尽きました!」
「医療輸送隊が雪山で立ち往生しています!」
司令部は怒号で埋まっていた。
ジュリアンが机を叩く。
「なぜだ!」
「なぜこんな初歩的問題が連続する!」
副官が青ざめながら叫ぶ。
「手順書通りに進めていたはずなのです!」
「補給優先順位も!
代替輸送路も!
吹雪到達予測式も!」
机の上へ、分厚い資料束が叩きつけられる。
ベアトリスが残した引き継ぎ資料。
几帳面に整理され。
異常なほど詳細で。
誰が見ても完璧だった。
――だが。
「現場の積雪速度が予測を超えています!」
「橋梁補修班から更新要請!」
「西部街道に雪崩が発生!」
別の副官が叫ぶ。
「コード更新が追いつきません!」
「輸送優先順位の再計算が必要です!」
「どのルートを切り捨てればいい!?」
怒号。
沈黙。
誰も判断できない。
その瞬間。
ジュリアンの脳裏へ、
あの日の言葉が蘇った。
『現場判断に合わせ、
常に更新し続けなければ、
いずれ破綻するでしょう』
背筋を、冷たいものが這った。
副官が震える声で続ける。
「以前は、すべて完璧だったのです……!」
「吹雪の前日に物資が届き!」
「橋が落ちる前に迂回路が完成し!」
「疫病が広がる前に薬が届いていた!」
「我々は……」
唇が震える。
「我々は、それを“当然”だと思っていたのです……!」
さらに別の兵士が飛び込んでくる。
「聖女の祈りでは腹は膨れないと、
兵士たちが暴動寸前です!」
司令部が凍りついた。
ジュリアンは、戦場では無敵だった。
敵陣を裂き。
兵を鼓舞し。
幾度も勝利を掴んできた。
だが――
兵站だけは理解できなかった。
なぜ兵が飢えなかったのか。
なぜ“奇跡のように”軍が回っていたのか。
一度も、考えたことがなかった。
副官は震える唇で報告書を握りしめる。
「以前の冬季損耗率は二%以下でした……」
「ですが現在は四十二%……!」
沈黙。
そして。
「その“奇跡”を作っていたのが……」
副官はゆっくり顔を上げる。
「あなたが追い出した、
――ベアトリス・イストリアス様だったのです」
*
北方辺境都市イルハルト。
私は新しい執務室で書類を整理していた。
「冬季損耗率一・八%」
「補給遅延ゼロ」
「越冬備蓄百二十日分、か」
低い声が響く。
「正直、狂っている」
辺境伯レオニード・クロムハイツ。
“黒狼伯”の異名を持つ、北方最大要塞の主。
黒髪。
灰色の瞳。
無愛想で冷徹と恐れられる男。
彼は私の報告書を閉じた。
「一つ聞く」
「なぜ前の国は、君を手放した?」
「…………」
「まあいい」
レオニードは椅子へ深くもたれる。
「愚か者というのは、自分が何に支えられているか気づかん。
こちらとしては助かったがな」
彼女が持つのは、単なる事務処理能力ではない。
王国軍が数十年かけても体系化できなかった
***『冬季進軍における最適解』***が、
その頭脳には刻まれている。
――それは、
数個師団の増援よりも確実に勝利を引き寄せる、
歩く軍事機密だった。
そして。
当然のように、彼は言った。
「君一人で、兵が三千人生き延びる」
私は息を止めた。
三年間。
一度も言われなかった言葉だった。
「……初めて言われました」
喉が震える。
「私が、“兵を生かしていた”と」
レオニードは怪訝そうに眉を寄せた。
「事実だろう」
その瞬間。
胸の奥で、何かが静かにほどけた。
*
二か月後。
ジュリアンはイルハルトへやって来た。
頬が痩け。
軍服は泥にまみれ。
かつての英雄の姿は、そこにはない。
「……ベアトリス」
私を見た瞬間。
彼は崩れるように膝をついた。
「戻ってきてくれ……!」
「君が必要なんだ……!」
「補給が回らない……兵が死ぬ……!」
「頼む……!」
私は静かに彼を見る。
その前へ。
レオニードが一歩、進み出た。
「下がれ」
低い声。
空気が凍る。
「我が領の軍政顧問に無礼を働くな」
ジュリアンが息を呑む。
レオニードは冷ややかに続けた。
「敗軍の将が、我が国の最高機密に触れようとするな」
そのまま自然に。
彼は私の肩へ外套を掛けた。
「会議の時間だ」
「はい」
私は書類を抱え直す。
背後で。
ジュリアンの声が震えた。
「ベアトリス……!」
私は静かに振り返る。
そして。
ほんの少しだけ首を傾げた。
「……失礼ですが、どちら様でしょうか?」
静寂。
ジュリアンの顔から血の気が引く。
私は一礼した。
「申し訳ありません。
次の冬季備蓄会議がありますので」
そのまま踵を返す。
背後で。
かつて英雄だった男が崩れ落ちる音がした。
けれど。
私は、もう振り返らなかった。
*
後に。
“奇跡の聖女”ミレニアの姿は、王都から消えた。
祈っても食糧は増えず。
祈っても橋は直らず。
祈っても兵は飢え、凍え、死んでいった。
激昂した兵士や民衆は、やがて彼女へ石を投げ始めた。
“偽聖女”。
そう呼ばれる頃には。
ミレニアは教会地下へ幽閉され、
精神を病み、笑うことしかできなくなっていたという。
けれど。
もはや誰一人として。
「ミレニア様は?」と口にする者はいなかった。
*
私は暖かな会議室へ足を踏み入れる。
地図。
備蓄表。
輸送計画。
忙しなく動く人々。
その中心で。
レオニードがこちらを見る。
「始めるぞ」
「はい」
私が席へ着くと、
レオニードは当然のように、
私の前へ温かな茶を置いた。
「……冷えやすい体質だろう」
「覚えていらしたんですか」
「何度も倒れられては困る」
相変わらず、
不愛想な言い方だった。
けれど。
その湯気は、
不思議なほど温かかった。
雪国を生かすための冬が、また始まる。
けれど、この国では。
誰も、私の仕事を“当然”とは言わなかった。
そして。
私は、もう一人ではなかった。
「……冷めるぞ」
レオニードの声に、
私は小さく笑う。
「はい」
湯気の立つ茶へ、
そっと指先を伸ばす。
僅かに曇った窓の外では、
雪が静かに降り続けていた。
【了】




