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余命一ヶ月の君が、最後まで笑っていた理由——君が笑うから、僕は何も知らないふりをした。  作者: 海鳴雫


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第6話 何も起きない一日

 その日は、朝から空が澄んでいた。


 休日の昼間に会うのは、少し久しぶりだった。

 待ち合わせ場所に現れた彼女は、いつもより明るい色の服を着ていて、遠くからでもすぐに分かった。


「待った?」


「いや。今来たところ」


「よかった」


 そう言って、彼女は笑う。

 その声には、前に感じた不安定さがなかった。


 顔色もいい。

 歩き方も軽い。


 ——本当に、もう大丈夫なんだ。


 そう思えてしまうくらいには、彼女は元気そうだった。


「今日は、いっぱい歩こう」


「珍しいな」


「たまには、ね」


 商店街をぶらぶらと歩く。

 特に目的はない。


 気になる店を覗いて、買わずに出て、また次へ。

 食べ歩きの屋台で、二人分を分け合う。


「これ、思ったより美味しい」


「だろ」


「当たりだね」


 他愛ない会話が続く。

 彼女はよく笑い、よく話した。


 時間を気にする素振りもない。

 いつもなら、帰りの時間を先に決めるのに。


 カフェの前で立ち止まり、少し迷ってから入った。

 窓際の席に座る。


「なんか、老夫婦みたいじゃない?」


 唐突に、彼女が言った。


「は?」


「ほら、休日に特に予定もなくて、こうやってお茶してる感じ」


 からかうような笑顔。


「そんな歳じゃないだろ」


「未来の話だよ」


 彼女は楽しそうに言う。


「このままずっと一緒だったら、こういう日ばっかりかもね」


 冗談だと分かっている。

 分かっているのに、胸が少しだけ熱くなる。


「どうするんだよ、それ」


「さあ?」


 彼女は肩をすくめて、笑った。


 その笑顔が、やけに眩しかった。


 店を出たあと、彼女はスマホを取り出した。


「写真、撮ろ」


「今?」


「うん。今」


 理由もなく、今。


 並んで立ち、カメラを構える。

 シャッター音が鳴る。


「……ちゃんと写ってる」


 彼女は画面を確認して、満足そうに頷いた。


「そんな大した写真じゃないだろ」


「いいの」


 そう言って、スマホを大事そうにしまう。


 午後になっても、歩き続けた。

 疲れたら休んで、また歩く。


 一度だけ、彼女が立ち止まって、深く息を吸った。


「大丈夫か?」


「うん。ちょっと歩きすぎただけ」


 すぐに笑って、何事もなかったように進む。


 僕は、それ以上聞かなかった。

 今日は、何も壊したくなかった。


 夕方、駅前で別れる時間になる。


「今日は楽しかった?」


「楽しかったな」


「よかった」


 彼女は、心から満足そうに微笑んだ。


「ね。今日は、何も起きなかったね」


「そうだな」


 何も起きなかった。

 それは、いいことのはずだった。


 特別な事件もなく、喧嘩もなく、体調を崩すこともなく。

 ただ、普通に過ぎていった一日。


「また、こういう日しよ」


「いつでも」


 軽く答える。


 彼女はその返事を聞いて、ようやく安心したように頷いた。


 別れ際、彼女は何度も振り返って手を振った。

 最後に見せた笑顔が、今日一番穏やかだった。


 帰り道、僕は思った。


 完璧な一日だった。

 何も失わなかった。


 だから、この日が特別だなんて、考えもしなかった。


 ——あとから思えば、

 何も起きなかったこと自体が、奇跡だったのに。


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