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余命一ヶ月の君が、最後まで笑っていた理由——君が笑うから、僕は何も知らないふりをした。  作者: 海鳴雫


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第3話 最初の約束

 その日は、少しだけ空が低かった。


 雲が重なり合って、夕方の光を鈍くしている。

 待ち合わせ場所に現れた彼女は、いつも通りに笑ったけれど、どこか動きが遅かった。


「待った?」


「いや。今来たところ」


 そう答えると、彼女は安心したように息を吐いた。

 それを見て、胸の奥に小さな引っかかりが生まれる。


 最近、彼女はよくこういう仕草をする。

 何かを確認するみたいに、ほっとする。


 理由を考えかけて、やめた。


 並んで歩き出し、川沿いの遊歩道に向かう。

 ここは、僕たちが何度も通ってきた帰り道だ。


 でも彼女は、今日は少しだけ足取りが遅かった。


「疲れてる?」


「ううん」


 即答だった。

 それから一拍置いて、付け足す。


「ただ、ちょっと……静かに見たくて」


 川面に映る空を、彼女はじっと見つめていた。

 水は流れているのに、時間だけが止まっているように見える。


「ここ、好きなんだ」


 ぽつりと、彼女が言う。


「前も言ってなかった?」


「うん。でも、何回でも言いたい」


 理由は語られなかった。

 僕も、それ以上は聞かなかった。


 しばらく並んで、何も話さずに歩く。

 沈黙が気まずくないのは、いつものことだ。


 ふいに、彼女が立ち止まった。


「ね」


「なに?」


「また、ここ来ようね」


 はっきりとした声だった。

 これまでの何気ない言葉とは、少し違う。


「通り道だし、また来るだろ」


 軽く返す。

 それで終わると思っていた。


 彼女は首を振りかけて、やめた。


「……そうじゃなくて」


 言いかけて、口を閉じる。


 沈黙が落ちる。

 川の音だけが、やけに大きく聞こえた。


「今度はさ、もう少し明るい時間に来たい」


「今も十分だと思うけど」


「うん。でも、今度は」


 また、止まる。


 彼女は視線を落とし、しばらく考えてから、顔を上げた。


「……約束、しよ」


 その言葉に、胸がわずかに揺れた。


「大げさだな。ただの帰り道だぞ」


 冗談めかして言うと、彼女は小さく笑った。


「うん。そうだね」


 否定も肯定もせず、ただ笑う。


 その笑顔が、なぜか胸に残った。


 僕は、彼女の言葉を深く考えなかった。

 約束なんて、日常の中では簡単に交わされるものだ。


 明日会おう。

 また連絡する。

 今度行こう。


 そんな軽さで、いくつも積み重ねてきた。


 だから、この約束も、その一つだと思った。


「じゃあ、約束な」


 そう言うと、彼女は少しだけ目を見開いてから、ゆっくり頷いた。


「うん。約束」


 念を押すように、もう一度。


 歩き出すと、彼女は少しだけ距離を詰めてきた。

 肩が触れるほど近い。


 その距離が、なぜか妙に現実的だった。


 別れ際、彼女は振り返った。


「忘れないでね」


「忘れないって」


 軽く返す。


 彼女はそれを聞いて、ようやく安心したように微笑んだ。


 その表情を見て、僕は初めて思った。


 ——どうして、そんな顔をするんだろう。


 問いは浮かんだ。

 でも、口には出さなかった。


 深く考えるほどのことじゃない。

 そう、自分に言い聞かせる。


 約束は、ただの言葉だ。

 未来は、当たり前に続いていく。


 その前提を、疑いもしなかった。


 このときの僕は、まだ知らなかった。


 彼女が交わした最初の約束が、

 未来を信じるふりをした、最後の選択だったことを。

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