第2話 覚えていてほしいこと
待ち合わせ場所に着いたとき、彼女はもうそこにいた。
スマホを手に、周囲をきょろきょろと見回している。
僕の姿を見つけると、ほっとしたように表情を緩めた。
「ちゃんと、ここで合ってたよね」
「うん。いつも通りだろ」
「何時だっけ?」
「十七時半」
「……あ、よかった」
彼女は小さく息をついて、笑った。
それだけのやり取りなのに、なぜか胸に引っかかる。
待ち合わせの時間も場所も、毎回同じだ。
確認する必要なんて、今さらないはずだった。
でも彼女は、それ以上何も言わなかった。
並んで歩きながら、コンビニに寄る。
彼女は棚の前で立ち止まり、迷いなく一本の飲み物を手に取った。
「それ、昨日も飲んでなかった?」
「一昨日もだよ」
得意げに言う彼女に、僕は曖昧に笑う。
「そうだっけ」
「もう、覚えてないの?」
責める口調ではなかった。
むしろ、楽しそうだった。
「別にいいよ。覚えてなくても」
そう言って、彼女は会計へ向かう。
外に出て、彼女はストローを差し込み、ひと口飲んだ。
「あ、美味しい」
その一言を、まるで大事な感想みたいに噛みしめる。
——前から、こんなだっただろうか。
また、同じ疑問が浮かんで、消える。
歩きながら、彼女はよく話した。
他愛のない内容だ。
「この前さ、駅前で猫見たの覚えてる?」
「……ああ、なんかいたな」
「ほら。あの時、すごい真剣な顔してた」
「してたっけ」
「してたよ。私、ちょっと笑っちゃった」
細かすぎるくらいの記憶を、彼女は次々に口にする。
僕は相槌を打ちながら、内心で驚いていた。
そんなところまで、覚えていたのか。
「よく覚えてるな」
「覚えてたいんだもん」
即答だった。
「どうして?」
冗談半分で聞いたつもりだった。
彼女は一瞬だけ、言葉に詰まる。
ほんの、刹那。
気づかなければ見逃してしまうほどの間。
「……大事だから」
それだけだった。
理由は語られない。
深掘りする雰囲気でもなかった。
川沿いの遊歩道に出ると、彼女は歩く速度を落とした。
夕暮れが近づいている。
「ね」
「ん?」
「今日のことも、ちゃんと覚えててね」
まただ。
胸の奥で、小さく何かが揺れる。
「忘れないよ。大したことしてないけど」
「うん。それでいい」
彼女は満足そうに微笑んだ。
忘れてもいい。
それでいい。
そう言われているのに、
なぜか「覚えていてほしい」と言われている気がした。
別れ際、彼女は一度だけ振り返った。
何か言いたげな顔で、でも結局、何も言わずに手を振る。
その笑顔を見て、僕は手を振り返す。
きっと、考えすぎだ。
彼女が日常を大切にするのは、悪いことじゃない。
少し記憶力がいいだけだ。
そうやって、自分に言い聞かせる。
その日の夜、何気なくスマホを見ながら、ふと思った。
——今日、何を話したっけ。
思い出そうとして、曖昧になる。
それでも構わないと思った。
このときの僕はまだ知らなかった。
彼女が「覚えていてほしい」と願う一つ一つが、
失われていく時間への、静かな抵抗だったことを。




