第15話 それでも、日常は続いていく
朝は、いつも通りに来た。
目覚ましが鳴り、手を伸ばして止める。
カーテンの隙間から差し込む光は、昨日と変わらない。
秋月透は、しばらく布団の中で天井を見つめていた。
起きなければならない理由は、特にない。
それでも、起きない理由もなかった。
体を起こし、制服に袖を通す。
歯を磨き、顔を洗う。
鏡に映る自分は、特別な変化をしていない。
泣き腫らした目でもなければ、やつれているわけでもない。
ただ、少しだけ動きが遅い。
靴を履きながら、無意識にスマホを手に取る。
画面を点け、通知を確認する。
何もない。
朝比奈澪の名前は、連絡先の中に静かに残っている。
消していない。
消す理由が、見つからなかった。
学校へ向かう道は、相変わらず人が多かった。
改札の音、ホームに流れるアナウンス、
誰かの笑い声。
世界は、止まっていない。
教室に入ると、ざわめきが広がっていた。
友人たちが何気ない話をしている。
透は、自分の席に座り、鞄を机に掛ける。
横を見る。
朝比奈澪の席は、今日も空いていた。
最初の頃は、その空白が痛かった。
今は、もう「そこに何もない」こと自体が日常になりつつある。
それが、何よりも残酷だった。
授業が始まり、終わる。
ノートを取る。
黒板を見る。
内容は、頭に入っているようで、どこか抜け落ちていく。
昼休み、クラスメイトの誰かが笑う。
別の誰かが、テストの話をする。
澪の名前は、もう話題に上らない。
それが、正しい振る舞いなのだと、
皆がどこかで理解している。
透だけが、その輪の少し外に立っている気がした。
放課後、寄り道をする気にはなれず、
気づけば、川沿いの道に足が向いていた。
澪と何度も並んで歩いた場所。
立ち止まり、意味のない話をした場所。
夕焼けが、水面に映っている。
あの日と、同じ時間帯。
同じ色。
透は、スマホを取り出した。
写真のフォルダを開く。
澪が撮った写真。
澪が写っている写真。
そして、自分が撮った写真。
画面の中の澪は、笑っている。
何も知らない顔で。
あるいは、すべてを知っている顔で。
その違いを、今になって考え始めてしまう。
写真を閉じ、顔を上げる。
そこには、澪はいない。
当たり前だ。
分かっている。
それでも、
視界の端に、彼女が立っている気がしてしまう。
透は、深く息を吸った。
泣こうと思えば、泣けたのかもしれない。
叫ぼうと思えば、叫べたのかもしれない。
でも、どちらも選ばなかった。
澪が残した言葉を、思い出す。
「透は、透のままでいてください」
その意味を、少しずつ理解し始めていた。
前に進め、とも。
忘れろ、とも。
強くなれ、とも言っていない。
ただ、
そのままで生きろと言っただけだ。
それが、どれほど残酷な願いかを、
澪は知っていたはずだ。
澪は、何も言わなかった。
何も求めなかった。
だから、透も何も誓わない。
病院へ行くことも。
確かめることも。
取り戻そうとすることも。
代わりに、
澪が好きだった風景を、
自分の目で見る。
スマホを構え、シャッターを切る。
画面に映るのは、
夕焼けと、川と、
そこにいない誰かの場所。
保存する。
それだけだ。
それだけなのに、
胸の奥に、確かな重さが残る。
澪は、もうここにはいない。
それは、動かない事実だ。
それでも、
秋月透の時間は、止まらない。
止まらないまま、
澪との約束を守り続けている。
何も選ばず、
何も終わらせず、
ただ、生きてしまうことで。
夕焼けが、ゆっくりと色を失っていく。
その下で、透は立ち尽くしていた。
明日も、朝は来る。
それだけは、確かだった。




