第13話 知らなかったこと
目が覚めたとき、部屋はまだ薄暗かった。
目覚ましが鳴るまでには、少し時間がある。
それなのに、二度寝をする気になれず、天井を見上げたままじっとしていた。
理由は分からない。
ただ、胸の奥に小さな引っかかりが残っている。
枕元のスマホに手を伸ばす。
画面を点けて、通知を確認する。
何もない。
それだけで、指が止まった。
朝比奈澪からの連絡は、昨日の夜を最後に来ていなかった。
いつも通り、と言えばいつも通りだ。
返事が遅くなることも、これまでに何度もあった。
だから、深く考えない。
考えないようにして、ベッドから起き上がる。
学校へ向かう道は、いつもと同じだった。
駅前の雑踏、改札の音、ホームに流れるアナウンス。
変わったところは、何もない。
教室に入った瞬間、ざわめきが耳に届いた。
いつもより少し騒がしい気がしたけれど、理由は分からない。
自分の席に向かいながら、無意識に横を見る。
朝比奈澪の席は、空いていた。
たまたまだ。
そう思って、鞄を机に掛ける。
チャイムが鳴っても、彼女は来なかった。
一時間目が始まり、終わる。
二時間目も、同じだった。
授業の内容は、ほとんど頭に入らない。
気づくと、何度もスマホを確認している自分がいた。
通知は、やはりない。
昼休み、後ろの席から声が聞こえてくる。
「今日、静かじゃない?」
「だよね」
何の話か分からないまま、耳だけが勝手に拾ってしまう。
「朝比奈、休みらしいよ」
その名前が出た瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
「澪?」
思わず、声が出る。
振り返ると、クラスメイトがこちらを見ていた。
「うん。体調不良だって」
その言葉は、あまりにも軽かった。
体調不良。
よくある理由だ。
「大丈夫なのか?」
「さあ。でも、今日は来ないって」
それだけで、会話は終わった。
午後の授業も、澪の席は空いたままだった。
椅子は机にきちんと収められ、教科書もノートも置かれていない。
その整然とした状態が、妙に目につく。
放課後、教室を出ようとしたとき、背後から声をかけられた。
「秋月」
振り返る。
「朝比奈のこと、聞いた?」
「……何を?」
「しばらく来ないらしい」
言葉の意味を、すぐに飲み込めなかった。
「しばらく?」
「うん。入院するって」
音が遠くなる。
「前から、あんまり体調よくなかったみたいだよ」
前から。
その一言で、思い当たる場面が次々に浮かぶ。
息が切れていた日。
ベンチに座り込んだこと。
無理をして笑っていた表情。
どれも、当時は深く考えなかったことばかりだ。
「急なのか?」
「結構、急みたい」
それ以上、聞けなかった。
帰り道、足元がおぼつかない。
スマホを取り出し、澪の名前をタップする。
呼び出し音が鳴り、切れる。
もう一度。
やはり、繋がらない。
家に帰ってからも、同じことを繰り返した。
既読はつかない。
夜になり、机に向かう。
何も手につかないまま、画面を眺めている。
いつの間にか、検索窓を開いていた。
病院の名前。
入院。
症状。
いくつかの記事が表示される。
どれも一般的な説明ばかりだ。
それでも、胸の奥が冷えていくのを感じた。
決定的だったのは、澪のSNSだった。
最近の投稿。
写真。
コメント。
日付は、数日前で止まっている。
そこに写っていたのは、見覚えのある風景だった。
川沿いの道。
夕焼け。
そして、穏やかに笑う澪。
指が震えて、画面を閉じる。
翌日、学校へ行くと、澪の机は完全に片づけられていた。
教科書も、ノートもない。
ロッカーの名札が、外されている。
その光景を見た瞬間、ようやく理解した。
これは、ただの欠席じゃない。
休み時間、保健室の前を通りかかったとき、先生の声が聞こえた。
「朝比奈さんは、しばらく治療に専念するそうです」
その一言で、すべてが確定した。
頭の中が、静かになった。
驚きも、恐怖も、すぐには湧いてこない。
ただ、事実だけが置かれた。
放課後、透は川沿いの道を歩いた。
澪と何度も並んだ場所。
立ち止まり、何気ない話をした場所。
景色は、何も変わっていない。
変わったのは、意味だけだった。
写真を撮りたがった理由。
約束を重ねた理由。
言いかけて、やめた言葉。
すべてが、違う形で胸に戻ってくる。
澪は、知らなかったわけじゃない。
隠していたわけでもない。
知っていて、言わなかった。
それだけのことだった。
家に帰り、電気も点けずに座り込む。
スマホの画面には、連絡の取れない名前が表示されたままだ。
朝比奈澪。
この事実を知ってしまったら、もう戻れない。
何も知らなかった頃の自分には、戻れない。
夜が更けても、眠気は来なかった。
代わりに、静かな理解だけが、胸の奥に沈んでいく。
——知らなかったことが、
こんなにも多かったのだと。




