第5話 「交錯する意志、迫る決断」
朝靄に包まれた《始まりの街》の中央広場は、普段とは異なる緊張感に満ちていた。NPCの掛け声も、物売りの騒音も今日はどこか遠い。広場の掲示板に貼られた一枚の紙が、すべての空気を変えていた。
「第一層ボス戦 明朝六時 最奥の門前集合 有志求ム ―ゲイル」
「これは“イベント”ではない。“戦争”だ。来る者は覚悟を決めろ」
その紙に書かれた文字を、プレイヤーたちは何度も読み返していた。
仲間を失った者、見知らぬ誰かの死に動揺した者、自ら戦うと決めた者。反応はさまざまだが、誰の目にも恐怖が宿っている。
「……ついに来たな」
クロウ――本名、八神直樹は、建物の影に身を寄せながら呟いた。
この世界に囚われてから、すでに二週間が経過していた。現実世界での時間経過は不明だが、ゲーム内では“死=消滅”のルールが厳然として存在し、それを疑う余地もなかった。
目の前で仲間が消えるのを見た者もいる。
ダンジョンの罠に嵌まってログアウトする様子もなければ、メッセージの一つすら送られてこない。死んだ者は――この世界から、ただ「いなくなる」。
「何人、集まると思う?」
隣で声をかけてきたのは、カレンだった。
長い黒髪をポニーテールにまとめ、落ち着いた瞳で掲示板の前の騒ぎを見守っている。クロウとは初期のフィールドで出会い、以後、共に行動してきた仲間――というより、数少ない「信頼できる人間」だ。
「二十人いれば御の字だな。集まるのは好奇心と、生き延びたい奴と……死を恐れない馬鹿どもだ」
「あなたは、そのどれ?」
「どれでもない。俺は“勝てると思ったから行く”だけだ」
淡々と答えるクロウに、カレンは少しだけ笑った。
彼の本質を理解している者は少ない。引きこもりだった過去、プロ顔負けのゲーマースキル、そして理詰めで戦局を読む冷静さ――カレンはそれを、ただ「知っている」。
「……でも、ほんとはさ。あなただって、人のために戦えるんじゃない?」
「ない」
「ふーん。冷たいね」
「ゲームだからな。そう教えられてきた」
冷静なやり取りだったが、互いの間に流れる空気は柔らかい。
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その夜。クロウは、街の片隅にある安宿の一室にいた。
手をかざすと、視界にステータスウィンドウが展開する。
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【ステータス】クロウ(Crow) Lv.12
•攻撃:12
•防御:11
•速度:11
•知識:11
•器用:10
•SP(未使用):8
保有スキル:
•片手直剣スキル(熟練度:189)
•身体強化スキル(熟練度:154)
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「さて……どう振るか」
SPは、レベルアップ時に得られる極めて貴重なリソースだ。初期5ポイントはすでに振り切っていた。
今回はボス戦を目前に控えている。攻撃一辺倒では死ぬ。防御に全振りしても、削りきれなければ意味がない。
「……攻撃に+3、防御に+2、速度に+2、器用に+1……これで行く」
確定を押した瞬間、ステータスに微細な変化が走る。身体がわずかに軽く、そして芯から力が湧くような感覚。
フルダイブ型VRMMO《Eidolon Requiem》において、ステータスは単なる数値ではなく、実際の身体感覚に直結している。
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【最終ステータス】クロウ(Lv.12)
•攻撃:15
•防御:13
•速度:13
•知識:11
•器用:11
•保有SP:0
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「生き残る。それだけだ」
誰にも聞かせることのない独白を口にして、クロウは剣の柄を握った。
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翌朝。まだ太陽も昇らぬうちに、クロウとカレンは《ダンジョンの門前》に立っていた。
すでに十数人のプレイヤーが集まり始めている。ほとんどが武器を携え、緊張した面持ちで互いを観察していた。
「……少ないね」
カレンがぽつりと呟く。クロウは頷いた。
「まぁ、こんなもんだろ」
その時、ゲイルが現れた。昨夜掲示板に告知を貼った張本人。鍛え上げられた体格と軍人のような物腰、そして一切のブレを感じさせない眼差し。
「予定通り、出発する。今ここにいる者だけが、この層を超える資格を持つ」
誰も声を上げない。だが、その沈黙は“覚悟の沈黙”だった。
クロウは周囲を見渡す。剣士、魔法使い、盾持ち、回復役。バランスは悪くない。
だが、おそらく――半分以上は、初戦で足を止めるだろう。
カレンがクロウを見つめる。
「行こう、クロウ。――ここを越えれば、きっと何かが変わる」
彼女の言葉に、彼は頷いた。
「……ああ。俺たちで“突破”するぞ」
その瞬間、ゲイルの号令が響く。
「全員、進軍開始――!」
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ダンジョンの入り口は、まるで巨大な咆哮を上げる獣の口のようだった。
冷たい石畳を踏みしめながら、二十人弱のプレイヤーたちが黙々と奥へと進んでいく。その空間には音がほとんどなかった。誰もが息を潜め、鼓動だけが耳元に響く。
クロウはその隊列の中で、冷静に全体の布陣を観察していた。
(前衛剣士が5、盾役が3、後衛が7……回復職はカレン含めて2人か)
人数こそ少ないが、幸いにもバランスは悪くない。問題は“連携”だった。
彼らの多くは、まだこの世界に慣れ始めたばかりだ。敵の動きに対する読みも浅く、何より「死ぬかもしれない戦闘」を経験していない者が大半だ。
(ボスの攻撃は、おそらく範囲型と即死級の連撃……一発食らえば、それだけで終わる)
クロウは剣の柄に触れながら、頭の中で想定されるパターンをいくつも構築していった。
この世界で生き残るには、情報と経験、そして「読み」が必要だ。
カレンがそっと声をかける。
「クロウ、緊張してる?」
「しないわけがない」
「でも、手が震えてない。あなた、最初から覚悟できてたの?」
「違う。ただ……震えてる暇がないだけだ」
カレンは小さく笑った。
「それ、あなたらしいね。……私、死にたくないな」
「なら、生き残れ。俺も、お前も」
2人の視線が交差し、静かにうなずき合う。その一瞬だけ、隊列の中に温もりが流れた。
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ダンジョンを進むこと十数分。ついに、最奥の《封印の間》が姿を現した。
巨大な二枚扉の前には、黒鉄の鎖が絡み合い、中心には紋章が刻まれている。そこに立っていたのは、隊を率いるゲイルだった。
「全員、ここまでよく来た。だが――ここからが“本番”だ」
低く、しかし明瞭な声が響く。
「この扉の奥にいるのは、第一層の支配者。《深紅の牙王》という名の大型種だ。ソロで勝てる相手じゃない。少しでも連携を欠けば、即死する」
ざわめきが走る。だが、誰も退かない。既に“来る”と決めた者たちだった。
「前衛は三人一組でローテを組む。盾持ちは引きつけに専念。後衛は回復と遠距離牽制。……死ぬな。仲間の死を見ないためにも、自分が死ぬな」
クロウはその指示を聞きながら、一歩、前へ出た。
「俺からも言いたいことがある」
意外そうな目で見られる中、彼は淡々と語った。
「このゲームでは、死ねばログアウトもできない。“死=消滅”だ。今までの戦いとは意味が違う。命を、ゲームの中に置いていくことになる」
しばしの沈黙。
「……だからこそ、俺たちは“遊び”じゃなく、“戦う”必要がある。判断を間違えたら、仲間も、自分も終わる。今からそれを忘れずに――全力で挑め」
言葉を終えると、再び列に戻るクロウ。その背を見て、誰もが思った。
――この男は、ただのプレイヤーじゃない。
――彼は、生きるために「戦う者」だ。
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カレンがそっと隣に寄る。
「珍しいね、人前で話すなんて」
「言わなきゃいけない気がした。……誰かが言葉にしないと、気づけない奴がいる」
「ふふ、そういうとこ、好きよ」
その声に、クロウは少しだけ目をそらした。
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ゲイルが扉に手をかざし、紋章が音もなく砕ける。
重厚な扉が、きぃ、と音を立てて開いていく。
中からは、赤く光る目が、こちらを睨んでいた。
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第一層ボス戦――《深紅の牙王》との戦いが、いま始まる。