バデラスの提案
バデラスとイラージュ。双方、退く素振りのない父娘の諍いは、一触即発の様相を呈していた。
もっとも、どれほど険悪であっても、この場で血で血を洗うような争いがおこる訳もなく。
シェキーナを前にして、バデラスとイラージュが睨み合う。今この場は、完全に父娘喧嘩の様相を呈していた。
「私は控えろと言ったぞ、イラージュ!」
「父上こそ、メルル様に対する不敬な発言、取り消して下さいっ!」
そして、魔界の王の御前であるにも拘らず、双方ともに退く素振りはなかった。当初こそ魔王の前での無礼を正そうとしていたバデラスだが、今はその事が念頭から抜け落ちているようだ。
「……横合いから失礼いたします。バデラス様、無礼講の場とはいえ、魔王様の御前ですので、少し慎まれては……」
既にシェキーナは静観の構えだ。だからだろう、先に注意を喚起したのは、秘書であるムニミィ=ディナトであった。
「……イラージュさん。ここは、控えて……」
そしてイラージュには、アエッタが控えめに声を掛けたのだった。もっとも彼女には、これが一番効果があるようで。
「こ……これは……。失礼を……」
「ア……アエッタさまぁ……」
顔を赤くしたバデラスは激しく俯き、蚊の鳴くような声で謝罪らしき言葉を口にした。動揺の余りだろう、その台詞はとても最後まで聞き取れない程であった。
そしてイラージュは、先ほどの剣幕はどこへやら、咎められた子供のように泣きそうな表情を浮かべて、懇願するような声でアエッタの方へ向き直ったのだった。
シェキーナを信奉しているバデラスだが、事が父娘の事情となれば流石に周囲が見えなくなるようだった。そしてそれを気付かされれば、自分の痴態に羞恥するのも当然かもしれない。
一方のイラージュは、もっと分かりやすい話だ。敬愛するアエッタから非難の言葉を浴びれば、一気に委縮してしまうのも頷ける。もっともアエッタの方は、年上であるイラージュを諫めるのには、随分と踏ん切りが必要だったのは言うまでもない。
先ほどのやり取りの通り、イラージュが尊崇しているのは、今は亡き「大賢者メルル」である。無能非才だと沈んでいたイラージュを救い上げ、唯一無二の有用な人材として生まれ変わらせてくれたのだから、イラージュにとっては神とも言える存在なのは当然だろう。
そのメルルが死去し、その全てをアエッタへと引き継がせたとあっては、その敬意がアエッタに向かうのもまた、仕方がないだろうか。
そんなアエッタに声を掛けられては、イラージュに父娘喧嘩などという些事など気に掛けている余裕は無かったのだった。
室内に充満していた剣呑な空気は一気に霧散し、さりとてそのまま酒宴を続けるような雰囲気でもなくなり、シェキーナへ夜の歓迎会への参加を懇願した後、バデラスは肩を落として退出していった。
そしてイラージュもまた、|アエッタとシェキーナに《・・・・・・・・・・・》騒動の謝罪を終えると、このまま屋敷に留まるのは諍いの種だという理由で、自身は町の宿屋に部屋を取りそちらへ引っ込んだのだった。
(……やれやれ)
騒動の顛末を見届けたシェキーナは、心の中で深く嘆息していた。
父娘の関係は、ハッキリ言えばシェキーナには関係ない。今後どれだけ拗れようと、シェキーナに実害がなければ何の痛痒も感じないと言うのが本当の所だ。
しかし、それがエルナーシャにも悪影響を及ぼす可能性があるとなれば話は変わってくる。
イラージュの問題は、少なからずアエッタに影響して来る。そしてそのアエッタは、エルナーシャの親友であり最も信の置ける部下でもある。そのような立場の者が問題を抱えていれば、それがエルナーシャに波及するのは火を見るよりも明らかだろう。
(滞在中に、解決の糸口でも見つかれば良いのだがな)
本当の意味で家庭というものを持った事のないシェキーナには、親子の関係や諍いの治め方など知りようもなかった。もっと言えば、彼女には実の両親と言える存在もいないのだ。これでは、親子の情愛を説けと言われたところで不可能なのに間違いはない。
それでも彼女は愛するエルナーシャの為、そして何よりも、最愛の存在であるエルスの為に、この事態を打開する方法を密かに模索していたのだった。
シェキーナが、バデラスとイラージュの関係に気を揉んで2日が過ぎた。その間に確たる進展は無かったのだが、それも仕方がないと言える。
明確に、何をどうすれば問題の解決に繋がるのかが分からないのだ。どれほど考えても、答えが出る訳では無かった。
(まぁ、結局はセンテニオ家の問題でもある訳だ。私が行動を起こして事態を深刻化させるよりも、時間経過によって解決を図った方が良いのかも知れないな)
結局のところ、シェキーナもこの考えに落ち着こうとしていた。
……のだが。
面白いもので、動こうと構えれば糸口が見えない事も、静観の構えを取った途端に動き出す事もある。その事件は滞在3日目の朝、バデラスの謁見から始まった。
「シェキーナ様、おはようございます! 陛下におきましては、ご機嫌麗しく大慶至極に存じます」
訪問初日の失態から、バデラスはその晩には立ち直り、イラージュとの諍いなど無かったかのように鹿鳴の宴を開催し、完璧に近い接待をこなしたのだった。
失地回復を果たしたバデラスは調子を取り戻し、一層シェキーナへの崇拝を色濃く見せていた。それに伴って、その口調も益々芝居掛かってきていた。
「堅苦しい前置きは不要だ、バデラス。して、このような朝早くに何用かな?」
元来シェキーナは、格式ばった対応は苦手としている。と言うよりも、必要性を感じていないとでも言おうか。ただ、国の運営を行うに際して必要ならば、それも仕方がないと許容しているのが本当だった。
だから彼女はバデラスから持ち掛けられた挨拶合戦、礼賛攻めを早々に封じ込め、要件の内容を問うたのだった。
「はい、陛下。ここ連日、陛下を歓待する宴を催してまいりましたが、些か同工異曲が過ぎようと感じておりました」
片膝を付き深々と頭を下げたまま上奏しているバデラスだが、それを前にしてシェキーナは小首を傾げていた。
魔王を迎えての酒宴ならば、どこも同じようなものである。実際、他の領地でもそうであったのだから。
故にシェキーナの考えには、センテニオ領での歓待が同じ事を繰り返しているとは思っていなかったのだ。
「聞けば、明後日にはこの地を発たれるとの事。このバデラス、陛下に御堪能頂けているかどうかが心懸かりでございますれば」
「いや、バデラスよ。私は存分に……」
「そこで、今夜は少し趣向を凝らした宴を催したいと愚考した次第です!」
バデラスの言う通り、シェキーナたちは明後日にはこの地を発つ予定であり、その旨はムニミィよりバデラスの従卒に連絡済みである。先に回った4つの領地での滞在日数を考えれば決して短いという訳ではないが、バデラスにしてみれば拙速であると感じられたのだろう。
しかし、シェキーナの巡歴はこの地で終わりではない。ここで長に留まる事が出来ないのも確かであり、仕方のない事であった。
十分に持て成せているかと言うバデラスの疑念に、シェキーナは当たり障りのない言葉で応じようとした。楽しいかと言えば、堅苦しい事この上ない接待を心より喜楽出来ないシェキーナだったが、流石に本心を話して良い場かどうかの心得くらいはある。
もっとも、全てを言い切る前に、バデラスは話を続けたのだが。
シェキーナに上奏するバデラスの顔はやや上気し、少し興奮気味でもあるようだった。
「……ほぅ。どのような座興を用意されているのかな?」
この場はバデラスに乗る方が話が早い。シェキーナはそう判断して、バデラスに続きを促した。
「実は、近隣の森に熊鹿の群れが確認されております。捕まえる事が中々に難しい獣ですが、その肉は非常に美味であり、ぜひとも魔王様に献上したく存じます!」
「……ふむ、なるほど」
魔界には無数の集落があるが、その周辺が必ずしも安全とは限らない。人の居住区を僅かに離れるだけで、凶悪な魔物が潜んでいる可能性すらあるのだ。
故に、魔界の住人も安易に森や山に入るような事はしない。その代わりとでも言おうか、魔獣も簡単には人の集落を襲わないのである。
だが今回バデラスは、その危険を顧みず森の生き物を狩ろうとしている、しかも彼の言い様では、自身が出向いて獲物を仕留めて来ようとしているのだ。
「私の為にかような趣向、大儀である。では、快報を心待つとしよう」
草食獣である熊鹿であるが、決して容易に狩れる獣ではない。魔獣としての強さは、双頭虎よりも高いと言える。
それでもシェキーナが引き留めようとしなかったのは、バデラスが完全に乗り気となっていると察したからに他ならない。
「ははっ! 大物を仕留めて御覧に入れます!」
シェキーナの読み通り、バデラスは意気高揚して堂々と応じたのだった。
意気揚々と狩りに出発したバデラス。
シェキーナの目から見てもそれは、何ら大事になるような事では無かった。
だがしかし、物事は人の思う通りには進まないのが常であった……。