雛と御桜館
複数のパトカーが停まっていた。赤いランプが光を放つ。
警官達が取り囲むブルーシートの下に、ニ人の男が駆け付ける。
「天草さん、こちらです」
非常に若く見えるが、どこか老成した雰囲気を纏う刑事は頷きながら細目をブルーシートに向ける。
「今回の仏さんはどんな感じだい?」
「ええ。堅洲で見つかったにしては綺麗な状態です」
「そうかそうか。よかったよ、今日は新入りがいるんで、余りに損壊した仏さん相手だときついだろうしね。なあ田崎君」
田崎と呼ばれた若い刑事が冷や汗を流している。見た目は天草と変わらない年齢に見えるが、その振る舞いは年相応に見える青年だ。
「そろそろ仏さんと御対面といこう。田崎君、心の準備はいいかい?」
「ウス。覚悟は決めましたよ、先輩」
「結構。それじゃあ失礼」
ブルーシートが取り外された。
そこに倒れていたのは外国人と思われる若い女性。その腹部が大きく弾け、血と臓物があたりに飛び散っている。
吐き気を堪える田崎。怪奇事件対策部に配属されて初めての事件。この凄惨な遺体にしても、まだ綺麗な部類になるとするとゲンナリしそうになるが、出来るだけ醜態は晒したくなかった。
天草の様子を見てみると、普段の胡散臭い感じは変る事が無い。随分と軽い調子で警官達と会話いているのを見るに、彼にとってはよくある事なのだろう。
「う~ん。やっぱりおかしいよねえ。田崎君、仏さん見れる? エチケット袋欲しいかい?」
「だ、大丈夫っす」
喉まで込み上げてきたものを強引に飲み込み、遺体を注視する。顔も四肢も綺麗なままなだけに、弾け飛んだような腹部の様子は見るに堪えない。一体何者が、このような残虐な行為をやってのけたのか。
田崎はそこで違和感を覚えた。爆ぜたような腹部。それはまるで内部から裂けたようで。その印象をそのまま伝えると、天草は思案するような表情を浮かべる。
「やっぱりそう思うよねえ。どう見ても死因は仏さんの内部から来ている。殺人事件とも思えないし、まさか事故?」
「仏さん、爆弾でも飲んだんでしょうか?」
「ニトログリセリンは甘いしねえ」
「間食にダイナマイトっすか? そんな馬鹿な」
「その馬鹿げた事が起こるのが如月市だよ。何らかが原因で爆弾を飲み込んだって言うのもあり得る話ではある……が、おやつにダイナマイトはやっぱりないかな。仏さん、弾けたお腹の中身も綺麗に残っているし、焦げ臭いにおいもしない。爆発まではしていないだろう」
ブルーシートに包まれた遺体が片付けられ、一時撤収となった時。パトカーに乗り込もうとした田崎は不思議なものを見た。点々と町に続く血の跡。まるで何かの足跡のようで。
進足取り軽やかに、蠢く球体がポヨポヨ揺れる。
複数の真っ赤な瞳は抑えきれない好奇心で、動くものに反応しては興味深そうに瞬いていた。
生まれたばかりのこの雛にとって、見るもの全てが驚きに満ちていた。
空にはまんまるお月様。投げかける月光がどことなく蜘蛛にも似た姿の雛の後ろに影を落している。
人通りのない夜の道をポテポテ歩いていると、時折家屋の番犬が激しく吠えたててきた。
びっくりして身を震わせていると、何事かと思った家主が外に出てきて悲鳴を上げる。
そのまま犬を抱き上げて、家に籠って鍵を掛ける様を見て、雛は不思議そうに目をパチクリさせた。
ここまでの道すがら、これまでにも何度かあの二足歩行の生物……人間に遭遇してはいたのだが、どいつもこいつも雛を一目見ただけで大きな声を上げて走り去っていったのだ。
雛は知らない。本来ならば真白な球形の身体も、生まれた際に浴びる事となった血がこびり付き、斑な茶褐色に染められていたのである。
人間から見れば、血に塗れた奇怪な肉塊が蠢いているのは不気味でしかなく、悲鳴を上げるのも不思議ではなかった。
それ以外にも、擦れ違う野良犬や野良猫は警戒の声を上げ、野鳥達は近付く前に空へと舞い上がる。
そこまでの拒絶を受ければ、多少はへこみそうなものなのだが。よもや自分が怪生物だとは思いもよらない雛は、何で自分が警戒されているのかとんと見当がつかない様子。
路地裏から感じる野良猫達の視線を受けながら、近づかなければ猫達が逃げない事を学んだ雛は、星明りを反射して煌めく猫の瞳を魅入られたかのように眺めていた。
そんな時だった。雛の目の前を堂々と通り過ぎる者が現れたのは。
雛は一瞬、暗闇が自分の目の前を覆い隠したのを驚いたが、よくよく見るとそれは黒い子猫だった。
子猫は雛をチラリとも見ず、尻尾を得意げにピンと立てて歩いていく。
間近で猫を見たのはこれが初めてだった雛は、猫が先程まで見ていた連中よりも遥かに小さな事もあって、好奇心の赴くままにその跡をつけ始めた。
つけられていた事に気付いたのだろう。子猫は一時立ち止まり、自分を追ってくる雛を一瞥する。子猫の綺麗な緑色の瞳が、雛の赤い眼と交差する。
やがて子猫は再び歩き出したが、時折後ろの雛を確認する事はあっても、遂に追い返そうとはしなかった。
子猫を追って雛が辿り着いたのは、月光が映える白い館だった。
御桜館と呼ばれるこの曰く付きの館から、雛は不思議と引き付けられる感覚を覚えた。
ポケっとした様子で夜闇の中でも存在感の放つ建物を眺めている内、雛は子猫を見失っていた。
はてさて、あの子猫はどこに行ってしまったのだろうか。赤い瞳が視線を彷徨わせると、居た。
庭の端に生えている大きな桜の木の下。暗闇に一体化するかのような黒い毛皮も、輝く緑の眼光のおかげで完全には溶け込めていない。
館の放つ誘惑に引かれつつも、トテトテと子猫の下まで歩いていくと。雛は漸く、そこに居るのが子猫だけではない事に気付く。
子猫が前足で必死に揺すっているのは成猫の黒猫だった。瞳をしっかり閉じていた為、子猫と違って完全に闇に溶け込んでいたようだ。
奇妙な闖入者を見つめる子猫を余所に、雛も子猫がやっているように黒猫を前足で揺すってみる。
普段の子猫の感触と違ったせいだろうか。黒猫の片目が若干眠そうに開かれた。月明かりをそのまま反射したかのような黄金の瞳が雛を認める。
雛の姿を認めた黒猫はすっかり眠気が吹き飛んだ様子であった。金の双眸をパチクリとさせ、雛の事を凝視している。
この猫も自分を見て逃げ出さない。その事実に気を良くした雛は、ふかふかとした毛並みを堪能するかの如く、黒猫を触り続ける。
黒猫が抱いていた多少の警戒感も、これですっかり失われたようだ。身体を触られているのをそのままに、奇怪な肉塊を見つめ続け……舌を出して一舐め。
ザラザラとした下の感触に雛がビックリしていると、黒猫は丹念にその身体を舐め続ける。それに倣ってか、子猫の方も雛に舌を突き出した。
初めは奇妙な感触に驚いた雛だったが、慣れてみるとなかなかに心地良い。黒猫達の舌に身を預けていると、生まれて初めて感じる親愛の情に心が温かくなるのを感じた。
やがて、黒猫達の舌が離れた。こびり付いた血が綺麗に舐めとられ、今や雛の身体は本来の白色を取り戻している。
もう終わりかと名残惜しそうな視線を向けると、黒猫が雛をあやすかのように前足で頭を優しく叩いた。ポヨポヨとした感触が癖になったのだろうか、黒猫の前足はなかなか雛の頭から離れようとはしなかった。
瞬く星空の下、桜の木の木陰で雛は子猫とじゃれていた。
子猫はすっかり気を許したようで、雛と遊ぶ姿を黒猫が微笑ましそうに見守っている。
そんな黒猫の瞳が、急に細められた。子猫がじゃれつくのを止めたのを見て、雛が何事かと二匹の黒猫を交互に確認すると、二匹の瞳は白い館に注がれていた。
不思議な館。それを認識すると、雛はその建物が放つ誘惑に改めて引き寄せられるのを感じた。
明かりの漏れる窓の下にまで雛がノソノソと近付いてみると。
「ア~イキャ~ンフラ~イ!」
窓が開くと同時、高らかな宣言と共に飛び出してくるのは白い影。
真白なワンピースとは不釣り合いなホッケーマスク。その上から女物の下着を被った少女が月明かりの下に踊り出し……雛を踏んづけ盛大にこけた。
雛が突然の衝撃に目を回していると、続々と窓から飛び出す異形達。犬とも猫ともつかない毛むくじゃら、背丈の低い木を思わせるのっぺらぼう、そして爛々と眼が光る幼女等々……。
地面に倒れ伏すホッケーマスクの不審人物を取り囲む中、幼女がずずいっと詰め寄った。
「さ~な~え~! 毎度毎度懲りないな! さっさと妃の下着を返せ!」
「何て残酷な事を言うのシオンちゃん! この私にお姉さまの温もりを手放せと?」
「うっさい、下着ドロ! 燈子が折角洗濯して綺麗にしたってのに早々に汚しやがって! 館のアレコレで大変な燈子の手間をこれ以上増やすな!」
早苗は頭に被った下着を取られまいと手で押さえる。足元の注意を怠った自身の浅はかさを激しく呪う。
追手に囲まれてはいるが、逃げようとすれば逃げれるだろう。今、早苗の身体はエクトプラズムを持って実体化している。一方的に慕っている妃の温もりを存分に感じる為に身に着けた魔術だった。それを解除すれば、早苗は霊体に戻り、この包囲をすり抜けて逃げ出す事が出来るだろう。
しかし。霊体化するという事は、物質に干渉出来なくなるという事。今、彼女の頭に輝く妃の下着という戦利品を持ち去る事は出来なくなる。かと言って、霊体化しなくてもこの異形の連中に袋叩きに合い、下着を持ち去られるのは必至。
早苗は覚悟を決めた。どちらにせよ妃の下着を失う未来が待っているのなら、少しでも長くこの温もりを……!
「お姉さま、万歳!」
「上等だ馬鹿野郎!」
その咆哮を合図として始まる、異形達のお仕置きタイム。
己が信仰に殉じて死を受け入れた受難者の如く暴力の嵐をその身で受け止めつつも、頭部を包む温もりに恍惚としている無敵の少女。踏みつけられた雛を心配して近寄ってきた黒猫は、そんな早苗の姿を冷めた瞳で一瞥した。
雛はもう立ち直っていた。目の前で繰り広げられるトンチキ劇には目もくれず、目の前にある館への開口部を眺めている。
どうにか館に潜り込みたい。雛の意図を察したのだろう。黒猫の姿が見る見る内に変化していく。
ポン、と雛の頭に置かれた大きな前足。雛が振り返ると、そこに居たのは黄金の瞳を輝かせた黒い雌獅子だった。
獅子は開けっ放しの窓の前で香箱座りをすると、自身の背を顎で指す。意図を察した雛が獅子の背を攀じ登ると、獅子は雛が落ちないように注意して立ち上がった。
今、雛の前には館の中が広がっている。窓を乗り越えて着地すると、覗き込んでいる黒獅子を見上げた。
黒獅子は軽く一吠えすると、窓から離れていった。付いてきてくれないのは残念だが、手を貸してくれただけでも有難いと雛は黒獅子に感謝した。
ポテポテと廊下を歩き、雛の身体では到底届かない扉を見上げる。
ガチャリ、と独りでに扉が開いた。真っ暗な無人の部屋の中を覗き込んでみると、これまた勝手に電気がつく。
雛は気になって部屋に体を滑り込ませるが、やはり誰も居ない。
目の前には雛の姿。鏡に映る自分の姿を眺めていると、途端に鏡から血が滲みだす。血が象るのは文字だった。
『初めまして、可愛いまんまるちゃん! Qちゃんより』
血染めで綴られる歓迎の言葉。残念ながら生まれたばかりの雛には日本語を理解する事は出来なかったが。
これ以上は何もないと判断した雛が廊下に出ると、二足歩行の生物……人間が目の前を通り過ぎた。否、人間なのだろうか。これまでの道中で見てきたどの人間よりも小さい。
雛は分からなかったが、それは西洋人形だった。何処から持ち出したのだろう、見事な装飾が施された短剣を手にしている。
自分を気にしていない事もあり、後ろを付けてみると。人形が客間にたどり着いた瞬間、作り物の身体が硬直した。次の瞬間、糸の切れた傀儡のように倒れ伏す。
「はい、確保」
魔術を行使して物騒な武装人形を無力化したのは、人一人が容易に抱えられそうな大きさの象のような生き物だった。
鼻を使って器用に短剣を取り上げると、側に金髪青眼の少女が覗き込む。
「まあ、綺麗な短剣ですわね。ゲーム画面では分かりませんでしたわ。メイサさん、よろしくて?」
「ほら。しっかし随分と年代物だなあ。妃はどう思う?」
「まだまだ目利きは自信が無くて……魔術的にはどうでしょうか? 魔術に関係ありそうな、そんな外見していません?」
「確かにね。でも、関係ないよ。単なる装飾だね」
手渡された短剣をしげしげと見つめる少女。
小象は倒れた人形を持っていたロープで縛り上げ、部屋の隅に持っていく。
雛が廊下から覗き込んでみると、そこには数体の人形が吊るされていた。ぐったりしている人形もあったが、大半がジタバタと足を動かしている。
その反対側。なんとも物騒な品物が積み上げられていた。捕囚となった人形達が持ち込んだ獲物の数々である。サバイバルナイフや錐、金槌といった物ならまだしも、人形の小さな体でどうやって持ち込んだのか、スコップや鶴橋なんてものも存在していた。
「う~ん。中々タイムが縮まらないねえ」
「これ以上の速さでクリアするには根本的にチャートを練り直さないと駄目か……?」
大きなテレビの前で思案するのは小学生のような見た目の少女と、髪も肌も真白な赤い瞳のメイド。
画面に大きく表示されている『THANK YOU FOR PLAYING! BY TICK TOCK MAN』の文字。
彼女達はプレイしていると呪いの人形に襲われるという呪いのゲームでRTAを試みていたのであった。何故そんな危険な真似を……と常人なら頭を抱えるのだろうが、真白なメイドは人ならざる者であり、この程度の脅威など危険の内にすら入らないといった様子である。何より、気まぐれでプレイしたこのゲームがやけに中毒性があった事もあり、時間を見てはプレイを楽しんでいたのである。
まさか犠牲者をゲームにのめり込ませる為の中毒性が、よもや怪異の暇つぶしに用いられようとは製作者も思ってはいなかったであろう。
「……これで行けると思うか、タマ?」
「やってみないと分からないよ、トーコちゃん!」
早々と新たなチャートを練り直したのであろう。燈子と呼ばれた白いメイドは再びコントローラーを手に取る。
「燈子、まだやるのか? そろそろ魔力を補充したいんだけど」
「すまないな。しかし新しいチャートがうまくいくかが気になってしまって……」
「いい、いい。燈子には世話になっているし、息抜きくらいは盛大にしなって」
メイサはそういうと、魔術を用いた捕獲トラップの設置に取り掛かる。
「タマ、すまないが例のワインを持ってきてくれないか? 魔力回復に丁度いい」
「OK! メイサちゃん、おつまみは~?」
「任せるよ」
環がキッチンに姿を消すと、入れ替わりの様に客間にやってきたのは、早苗を追っていた例の毛むくじゃら。妃の足元に纏わりつき、咥えていた下着を差し出した。
「あら? 風で飛んだのでしょうか? 燈子さんは休憩時間ですし、お洗濯は明日頼みましょう」
役目は果たしたとばかりに妃の下から離れた獣は、そのままチャートを確認している燈子の膝の上に納まる。燈子は獣を優しく一撫ですると、ゲームを再スタートした。
画面に映し出される『GO! GO! MARY!』のタイトル。キッチンから戻ってきたらしい環の足音を確認すると、雛はその場を離れたのであった。
これまでの扉から感じる雰囲気から、雛には部屋が無人かどうかが分かるようになってきた。
動くものが無いとつまらない。雛は人気の感じる部屋を探り当て、扉に手を置く。ポテポテと音を立てる扉が、次の瞬間僅かに開いた。Qを名乗る騒霊の仕業であった。
部屋の中を覗くと明かりがついていた。雛が睨んだ通り、中に誰かが居るようだ。
扉から身を乗り出して確認してみると、こちらに背を向けた金髪の少女が一人、何かを弄っている。
少女の側には二つの人形。片方は先程客間で見た西洋人形に酷似しているが、もう片方は随分と変わった人形だ。おかっぱ頭の和人形なのだが、伽藍洞の瞳に光が宿り、三日月のように裂けた口から「ホホホ…」と声が漏れている。
「う~んと……」
少女は人形に気にした様子も無く、何かを探す様に視線を彷徨わせる。
そんな時、西洋人形が動き出し、ドライバーを少女に差し出した。
「ありがと~。よし、完了! 試運転してみよ!」
人形達が少女の手元を覗き込む。雛には少女の背が邪魔で何があるのか分からなかったが。
少女が修理していたのは古ぼけた無線機だった。しばしの沈黙の後、何らかの電波を受信する事に成功したようだった。
『いえ~い! 皆、元気してる~? ザ☆アトミックガールことD・Dちゃんだよ~ん!』
『あれ~? 私、初回ゲストの筈だよね? 何でレギュラーになってるの? でお馴染み、煌めく瞳はエメラルド、プリチーアイドル、沼川姫子で~す!』
『星辰が揃わず暇してる寝坊助な皆に一時の癒しを与えるこの番組、「今夜もシャイニー☆シャイニー!」 今日も元気に始めちゃうよ~!』
『早速今日一番目のお便りは……てい! 失礼しました。改めまして今日一番目のお便りは……』
『ちょいちょい姫ちゃ~ん。何でお手紙読まずに捨てちゃうのさ~』
『だって~。あの蛸野郎からのだもん。どうせ碌でもない事を書いてるに違いないって』
『え~? 読んでみなけりゃ分からな……甘辛煮食べたい? ホントにクソみたいな手紙だったね! 流石姫ちゃん!』
『じゃあお口直しに……ペンネーム、シュシュッとガッツェさんから! こんばんは、御二柱様! 少し前に会社の部下達と一緒に海水浴に行ったんですけど、皆酷いんです! 私を砂浜に埋め立てての放置プレイ! 西瓜割り西瓜をの隣に置かれたり、押し寄せる波がとっても怖かったです! 多少のパワハラくらいでこんな仕打ちを受けるなんて、私、嫌われてるのでしょうか?』
『大丈夫だよガッツェさん! 本気で嫌っていたなら、西瓜割りなんかして構ったりしないって! 君が本当にパワハラクソ上司なら、私だったら間違いなく放置の後に鳥葬していたからね!』
『は~い、どんどん行くよ~! 次のお手紙はトンボ坊や大好きさん! こんばんは、御二柱様! 弟が反抗期でお姉ちゃん悲しいです! どうしたらいいんでしょうか?』
『う~ん。難しいお年頃だねえ。そういう時は……』
受信した毒電波を熱心に聞き入っている少女と人形達。全く動きが無くて面白くない。生まれたばかりで言葉を理解できない雛は、新たな刺激を求めてそっと部屋を後にした。
ガチャリと開いた扉。雛が次に覗き込んだのは、棚に収められた大量の本だけが印象的な殺風景な部屋だった。余計な物など何もない寂しげな部屋であるだけに、年季が入ってはいるものの立派な本棚の存在感が際立っている。
最も、雛にはそんな事は理解できない。唯、先程の少女達の部屋よりも動きのあるものを確認できただけで喜んでいた。
机に座って何かをしている少女の横で、どことなく樹木を思わせる謎の生物がユラユラと動いていた。
よくよく見るとそれは、雛に躓いて転んだ早苗にお仕置きしていた怪異の中の一体だった。この怪物の影に隠れてはいるが、先程聞いた幼女の声も聞こえており、それに相槌を打つかのように枝を思わせる無数の腕がサワサワと騒めいていた。
そんな、雛の見えない部分で何が行われていたのかと言うと。
机に座った少女、響は魔術の師であるロビンから借り受けた英語で訳された古ぼけた魔導書を、これまたロビンから貰った白紙の書物に日本語に訳した上で書き写していた。
この白紙の書……ロビンは影の書と言っていたが、本来はロビンが所属する魔術結社車輪党の党員達が、様々な用途で利用している分厚い帳面であった。魔術研究やアイディア等を書き込む為のメモ帳としての扱いが主ではあったが、響の様に写本を作る際の素体としても重宝されていた。
魔導書の写本は車輪党では実入りの良い仕事として推奨されているようで、響は借金返済の足しと小遣い稼ぎを兼ねて、僅かな時間を利用しては魔導書の複製に精を出していたのである。
そこそこの賃金を貰えて魔術の勉強にもなるこの内職を、響は結構気に入っていた。今更手書きの写本なんて……と思う魔術師は居ないだろう。古来より魔導書は手書きで作られるのが常識である。魔術師が己から記した文字でなければ、魔導書は魔力を帯びないのだ。だからこそ、車輪党では影の書などと言うアナログな道具が記録媒体として重宝されているのである。
もっとも、機械印刷された魔導書が無価値という事も無い。魔力が宿らないという事は、不意な魔力の暴発や暴走が起きない事を意味しており、安全に情報だけを保存したい場合に関しては手書きの写本よりも優れていた。古い価値感の魔術結社は印刷本を邪道として排除する動きもあるようだが、流石は新進気鋭の魔術結社である車輪党。デジタル問わずアナログ問わず、あらゆる方法で魔術知識の保全に力を入れているのだった。
そんな響の隣にて、ノートパソコンを弄るのは彼女の暫定使い魔である幼女、シオン。その後ろには頼りになる正規使い魔の樹木型生物、芙蓉がのっぺらぼうな顔で覗き込んでいる。そして机の上、ノートパソコンに食いついている小さな影が一つ。小さな鼠がそこに居た。
何時の間にやら館に住み着いたこの鼠は逸れ使い魔のレモンと筆記で名乗った。ロビンに借りがあるとの事で、彼女の為に魔導書の入手に力を入れているとの事だった。何でも前にロビンの魔導書を駄目にした弁償をしているらしい。
そんなパソコン組三名が急に歓声を上げる。
「やったなレモン! レアな魔導書ゲットだぜ~!」
シオンの称賛にちーちー鳴きながら答えるレモン。その後ろでは芙蓉が小躍りをしていた。
響は手にしていたペンを置いた。
「レア物? 何手に入れたんだ?」
仮にも魔術で身を立てる身、普段は金にならない事以外には興味を持たない響でも、魔術に関する関心が無い訳ではない。
「これこれ! このスレ!」
向けられたノートパソコンの画面を覗き込むと、そこには「なんか変な本手に入れたったw」なるタイトルが。
書き込みを目で追ってみると、スレッドを立てた男は古本屋で奇妙なラテン語の本を入手したとの事で、そこに記された獣を呼び出す魔術を試してみたようだった。
初めは軽いノリで書き込まれていた男のコメントも、何らかの化け物が迫ってくるのを察してからは次第に焦燥感に駆られたものになっていく。偶然、その魔導書に詳しい人物がスレッドを見ていたらしく、退散の呪文についてのアドバイスを貰う事でどうにか事なきを得たようだ。
助けとなったコメントに感謝の意を示すスレ主。ついでにコメントで注意されていた件として、始まりの方の呪文が全く同じ間隔でニ頁に渡って記されている事への理不尽さを憤ってもいた。怪物の退散の呪文と怪物を召喚師に送り返す呪文が紛らわしい配置で載っていたらしい。
スレ主はこれに懲りたようこの本を破棄しようとしたが、それに同意するコメントがある一方で、学術的な価値があるので思い留まるようにするコメントも寄せられており、困っていた所を見計らってシオンがコメント。それなりの代金で譲ってもらう事に成功したのだった。
「阿保だなこいつ……ただの人間が魔術で遊ぼうなんて正気の沙汰じゃねえ」
「全くね。でもそのお陰でロビンに送る魔導書が手に入ったんだ。犠牲者も出なかった事だし、終わり良ければ何とやらってね」
響は肩を竦めて苦笑する。ノートパソコンをシオン達に返し、伸びを一つして立ち上がる。
「喉渇いたし、飲み物持ってくる。お前らは何飲みたい?」
「甘いヤツ! ジュースでもいいし、お砂糖たっぷりのコーヒーでもいいよ! ホットかコールドかは任せるよ」
芙蓉とレモンは、シオンの言葉に同意を示す形で頷いた。
キッチンに行こうと振り返った所で、響は扉が僅かに開いているのに気が付いた。シオン達が戻ってきた時はしっかり閉められたのを確認したのだが。
響は気にもしない。この館で生活をしているなら、多少の怪異は止む無しだ。大した実害も無いなら、放っておけばよい。
きちんと扉を閉めて歩き去る響の姿を、彼女が振り返る際に見つからないように逃げ出していた雛は、廊下の角からこっそりと見送るのだった。
最後の扉が開かれた。隙間から漏れる暗闇に雛は面食らう。これまで何者かの気配があった部屋からは明かりが漏れているのが普通であった。
静寂が支配する暗い部屋にどうしたものかと悩んでいると、廊下の離れた場所から話し声が近付いてくる。声の主がこちらに向かってきている事を察した雛は、慌てて暗闇の中に身を躍らせる。
廊下から漏れる明かりを頼りに、ベッドの隙間に潜り込んだ雛。息を潜めていると、静寂の中に確かな存在感がそこかしこで感じられた。
一体この部屋には何が潜んでいるんだろうか。好奇心が鎌首を擡げる。ついつい身を乗り出して存在感の主を探してみたくなったが、部屋に明かりがつけられた事で声の主達がこの部屋に入ってきたのに気が付き、既での所で留まった。
「新しいチャート、うまくいかなかったねえ」
「まあ、そう簡単にはタイムを縮められんという事だな」
「行き詰った時は他の人のチャートを参考にしたい所だけど……」
「ワンオフ品だからな、あのゲーム」
客間で聞いた声。雛がベットの下から確認すると、環と燈子が縛り上げられた人形達を手にしてベッドの前までやってくる。
ベッドの上でガサゴソと音がする。頭の上で何をしているのか気になる雛だったが、ベッドを離れた環の姿を見て理解できた。
人形の戒めが解かれている。観念したように動かない西洋人形を、どこに置こうか迷っているようだ。
明かりがついて部屋をよくよく見ると、棚やら机やらには無数の西洋人形が飾られている。どれもこれも、無機質な質感の中に確かな息吹を感じられる。どうやら客間で捕縛していた人形達と同類らしい。
ロープを解いているらしい燈子の足元に、遅れてやってきたのは毛むくじゃらの生き物。雛はそれと目が合った。犬とも猫ともつかないそれは、面白いモノを見つけたとばかりに目を輝かせ、雛に向かって突進してくる。
完全に不意を突かれた雛。狩猟本能全開の獣にあっさりと捕えられ、咥えられた姿でベッドの外へと連行される。
「カヤちゃん、何それ? わわっプニプニだ~!」
獣の獲物を目敏く認めた環は、差し出された雛を持ち上げた。
これまでの人間が雛に向けてきた恐怖に満ちた視線ではない。好奇心だけが支配する輝く双眸で、環は雛の感触を楽しんでいる。
燈子も客間に乗り込んで来た捕虜の解放を一旦止め、繁々と雛を覗き込む。重なり合う双方の赤い瞳。
「刈萱、どうだ? 敵意は有りそうか?」
ふるふると首を横に振る毛むくじゃら。
雛は環達に敵意が無いと分かると、彼女の愛撫を身に受けて心地良さそうに甘えている。
その様子を確認すると燈子は思案し、そして。
人の生涯は死をもって完成すると言う。であれば、それ以降があるのなら、それは蛇足となるのだろうか。
完成された人生という名の物語に、碌でもない後付けストーリーを加えている少女がここに一人。
「ハンカチ、ハンカチ! お姉さまのハンケチ!」
洗濯籠からくすねたハンカチをホッケーマスクの上からクンカクンカと堪能しつつ、屋敷を爆走する少女の名は和香鳥早苗、享年九歳。
死して尚盛んな亡霊少女は、今日も今日とて御桜館の住人たる怪異に追い回されていた。
「こら待て早苗!」
「待ちませ~ん! だいたい今日は洗濯前の品を選んだのよ! 二度洗いしないで済むよう配慮した私の思慮深さを褒め称えなさい!」
「そんなバカみたいな配慮求めてない! 盗みを止めろと言ってるんだよ!」
自信の言葉に過去の過ちを猛省しつつ、元盗人のシオンは白いワンピースの現盗人を追いかける。
もう少しで窓。すぐ側の曲がり角から、早苗は慣れ親しんだ気配を感じた。
「今だ、皆!」
シオンの号令が響くとともに曲がり角から躍り出る影二つ。芙蓉と刈萱の挟み撃ち。それを見事な跳躍で易々と回避すると、勢い余って廊下に転がった両者を見下ろし勝ち誇る。
「ああ! 芙蓉! 刈萱! 大丈夫か?」
「甘い甘い! 私も日々成長しているのよ! この程度の策、お見通しなんだから!」
追いかけてくるシオンを悠々と眺めながら、窓を開け放とうとした正にその時。
「げっふううう!」
早苗の腹部に猛烈な勢いで飛び込んで来た第三の影。凄まじい弾力に弾き飛ばされ地を滑る早苗が顔を上げると、そこには見慣れない怪異がいた。白い球体に足の生えた、蜘蛛のような生き物。いつもの面子を捌ききった事で油断した早苗は、この新たな援軍の登場にまでは対処できなかったのだ。
「よくやったぞ、柏!」
満面の笑みで新入りの功績を称えつつ、早苗を囲んで円陣を組むシオン達。
最早これまで。観念した早苗は、何時もと同じように愛しのお姉さまの温もりと共に心中する覚悟を決める。
お仕置きは始まったばかり。盗人を懲らしめんとばかりに早苗の頭の上でポヨポヨ跳躍している雛こと柏。
館での生活を楽しんでいるその様子を、黒猫達は窓の外から満足気に見つめるのであった。