EPISODE9落単危機
「それでさ」
お昼時で賑わいを見せ始めていた食堂の中、カレーをスプーンでつつきながら、薫が口を開いた。
「まあ、大学に来てない期間も大変だったわけよ。企業の説明会行ったり、インターンに行ったり」
「ふーん」
俺は唐揚げ定食を食べながら、彼の話を適当に聞き流していた。いや、意識的に意識しないようにしていた。
「それで、お前はどうなんだよ」
話題の矛先が自分に向かう。聞き流しているふうを装っていた俺は不意に箸を止めてしまった。
「どうって?」
「そりゃ、就活だよ」
大学3年生になると、皆自分の進路について考え始める。大学院へと進むのか、それとも就職をするのか。俺の周りの人はだいたい就職をするようだった。薫もまたその1人。そして、俺も――。
「洋樹、2年生から色々やってたじゃねえか」
「あはは、そうだっけ」
とぼけてみるも、うまく笑えずに変な感じになってしまった。虫の居所が悪くなって、目を逸らした。
「ちょっと、就活は休んでるんだ」
「そうなのか」
「まあ、就職以前に卒業出来なきゃ意味ないからね」
あはは、と誤魔化してみるけど、なんだか乾いた笑いのようで、正直辛くなってしまった。ただただ、早く一日が終わりますようにと願った。
午後の講義にも出席し、授業が終わった後そのまま解散の流れとなったところで、先生からこっちに来いと合図を受けた。
何かやったの、と周りから言われるが、俺は軽く首を振って見当もつかないと答えた。もちろん、心当たりはあるのだが。
ずらずらと学生が教室を去る中、先生は俺を待ち構えていた。大きな丸渕眼鏡のレンズの奥からこちらを覗き、ボサっとした頭を一度搔くと、呆れたように言った。
「君、なんで呼ばれたか分かる?」
童顔のせいか、年齢はあまり自分と変わらないように見える。声も口調も若く、そのせいかあまり威圧感が感じられない。
「いや、分かるよね?」
「分かりません」
「んはっ」
真面目な顔をして答えたら、先生は吹き出してしまった。口元に手をやり、落ち着かせてからまた教授は口を開いた。
「レポートだよ、レポート」
「ああ」
俺が今納得したというふうに頷くと、先生はまた口元に手をやった。また、少しして。
「このままだとヤバいの分かるよね。もう期日はとっくに過ぎてるけど、レポートを出してほしい」
「出したら受け取ってくれるんですか」
「もちろん。まあ、成績は良くないと思うけど、単位は保証しよう」
「分かりました。でもレポート出してないのは俺だけじゃないですよね。なんで俺にだけこんな親切に忠告してくれるんですか」
普通はこんな親切な忠告などなく、問答無用で評価を下すはずだ。まあ、レポートも出さずに授業だけ出ているやつなんて俺ぐらいだろうが。
「まあ、そうだね。でも、出席してくれているのに、単位を落としては勿体ないじゃないか。それに……」
「それに?」
先生は顔を寄せて、俺だけに伝わる声で言った。
「それに、僕は結構贔屓するタイプだからね」
「じゃあ、贔屓して単位をくださいよー」
試しに、口をとがらせて言ってみた。案の定、呆れたようなため息をつかれた。
「はあ、仕方ない。心苦しいけれど、今ある材料で評価するしかないな」
俺の要求は受け入れられないということだ。先生は誠実な人だ。この人にできる最大限の贔屓が、忠告そして期限超過のレポートの受理ということだろう。正直、本当にどうしようもない理由で俺が窮地に追い詰められた時にはその限りではないという確信があるが。
「分かりました。謹んでレポートを提出させて頂きたいと思います」
「ではどうぞ」
先生が手渡してきたのは透明なファイルだった。その中にレポートの提出課題の説明用紙が入っている。
「これまで君が提出してこなかった分だ。それに書いてある課題を提出すること。期限は1週間後の23日。今回はしっかり期限厳守で。でも適当にやっちゃだめだよ。期限過ぎてる分、期限を守っている人とは対等に見れないからね。それなりの完成度で提出すること」
「い、1週間ですかっ!」
「ああ、それでその日僕講義の後出張に行っちゃうから、ちゃんと講義の時に出してね」
「わかりました」
「じゃあ、そういうわけだからよろしくね」
俺は思わず絶句した。ファイルの中に入っている提出物の量は相当に多かったのだ。もちろん、これは俺がサボってきたせいなわけであるが。それにしても、この人は贔屓するといいつつも、中々に鬼である。
「それでは健闘を祈る」
別れ際に先生はそう言っていた。
俺はすぐに家に帰り、計画を練った。1週間で間に合わせるためにどれをどれほどの時間をかけてやるのか、綿密に考えた。来週からは定期考査もある。他の勉強をしつつもかなりの量のレポートをこなさなければならなかった。
考えれば考えるほどその過酷さを理解させられるので、何度かこの単位は捨てようかとも思ったが、単位数に余裕がある訳でもなく、むしろ先生の優しさでこの単位を拾えるのなら拾っておくべきだと理性が訴えた。それに到底無理な話ならともかく、できないことも無いのも事実だった。
「よし」
やると決めたからにはすぐに行動。俺は机に向かってパソコンを開き、レポートの制作に取り掛かった。柊には、しばらく構ってやれないと伝えると、子供じゃないしと口を尖らせ、大人しく読書をしてくれた。
この日はそれからほとんど机に向かいっぱなしだった。そして、次の日も。その次の日も。俺は学校やバイトの合間を縫ってほとんど時間をレポート作成と勉強に捧げた。そして、レポート提出当日の早朝。
「…終わったー」
寝ぼけ眼でディスプレイを睨めつけながら、ボヤいた。伸びをして、時計を見る。時刻はもう既に午前5時を回っていた。
あとはこれを印刷してまとめて提出するだけだ。俺は書いたレポートを保存をしてからパソコンの電源を落とした。
机の照明を落とし、ベッドに転がり込む。今日は午前の授業は休講で、午後からの講義に出ればよいだけだった。既に眠っている柊を見てから、俺も眠りに落ちた。