EPISODE8大学
7月16日
ブルルッ、ブルルッ。
朝、スマホのアラームのバイブ音と共に、俺は目を覚ました。まだ覚醒しきれていない頭で、何とかアラームを止める。そのまま、二度寝をしようと目を瞑るが、少し思い立ってすぐにムクリと起きた。
何か、いる。ベッドの上から気配がする方へ見下ろすと、そこには幸せそうな寝息を立てて、布団の上で寝ている女子高生がいた。
その瞬間に昨日の出来事が俺の脳内を駆け巡った。思わず、頭を抱える。何故あんなことをしたのだろうと今更後悔の念が湧いてくる。
そして、やってしまった罪悪感の波が押し寄せてきて、背筋が凍った。しかし、ここまで来ると逆に冷静になるというか、なんというか。
さっきまでの眠気はいつの間にかどこかへ行き、俺はじっと天井を見上げていた。カーテンの隙間から漏れている朝日が、一日の始まりを告げている。
こんな大変な出来事が起きても、当たり前だが、朝日は昇るし、世界は通常通りに運行している。もちろん、俺にもやらなければならないことがあるわけで、それがなんだか不思議だった。
時計を確認する。大学に行く支度をするのにはもう動いてもいい頃だ。それでもなんだか起き上がる気が起きなくて、寝ている柊を眺めた。
「…かわいい寝顔だな」
ボソッと愚痴のようにボヤくと、柊が反応したかのように、
「ぅん…」
と身動ぎをしたので、少し驚く。
やっと起きる気になり、ベッドから降りてカーテンを開けた。燦々と降りそそぐ夏の日差しが俺を照らし、思わず目を眇める。
振り返ると、柊がモゾモゾと動いて体を起こした。眠そうに目を擦る。欠伸をしてからゆっくりとこちらを向いた。
それを眺めていた俺と目が合う。
「…おはよう」
誰かと朝、顔を合わすことなんてなかったので勝手が分からずに控えめに挨拶した。すると、柊はキョトンとする。
「…誰?」
まさか、柊が言っていた記憶喪失って一日毎に行われるのか? とそんな考えが頭を過り、膝から崩れ落ちそうになったが。
「なんだ、洋樹さんか」
そう言ってニヤっと見上げる彼女に、俺は安堵の息を漏らした。
「おはよう」
もう一度挨拶する。
「おはよう。今日はどうするの?」
「大学の講義があるから行かなくちゃならない」
「それ、私もいってもいい?」
大学のキャンパスは広いし、余程の事がない限り誰でも入ることは可能だ。柊ももちろん可能だろう。しかし、柊と一緒にいるところを知り合いの誰かに見られたら、これほど厄介なことは無い。加えて、柊はいい意味でも悪い意味でも目立つ。それらを考慮すると。
「いや、ダメだな」
一人で部屋に残すことにも不安はあるが、大学に連れていく困難に比べれば致し方ないだろう。
「えー、私一人ってことー?」
「まあ、仕方ない。少しだけど、お金は渡しておくから」
そう言って、財布を取り中身を確認していると、柊がふふっと笑った。
「今日も私ここにいていいんだね、本当にお人好し」
「その言い方にはムカつくけど、でもほっぽり出す訳にもいだろ。お前何も持ってないんだから」
実際に彼女は制服以外に何も持っていない。お金も、居場所も、記憶さえも。まあ、記憶に関しては彼女が嘘をついていなければの話だが。それでも、何もせずにほっぽり出すなんて無責任じゃないかと思う。
もちろん、人は猫とは違うけれど、もし死にそうな子猫が道端にいたとして、それを見つけて連れて帰って、介抱してやったとしても、その子猫を元の場所へ返すのは無責任な行為なんじゃないのかと思う。例え急場は凌げたとしても、その子猫は生きてはいけない。それも自然の摂理と言うなら、最初からその子猫を助けなければよかったのだ。助けるという行為には責任が伴う。その責任を手放してしまうようなら助ける資格はないだろう。
「そういうところがお人好しなんだよ」
にっと笑って柊が言った。俺もそれに対してにっと笑った。
「生意気な口だなー!」
頭を乱雑に撫でてやると、柊は楽しげな悲鳴を上げた。
「わっ、わっわー、ふふふ」
笑いながら柊は俺の手を掴んだ。
「髪がくしゃくしゃー」
「自業自得だろ」
俺は今日の天気に負けないくらい晴れ晴れとした気持ちで朝の準備を始めた。お湯を沸かし、食パンを焼いて、コーヒーを入れ、食パンにいちごジャムを塗って、咀嚼し、コーヒーで流し込む。顔を洗って、歯を磨いて、服を着替えて、ペンとノートをカバンに詰めて、鏡の前で髪を整える。柊も外には出ないけれど、似たような手順を踏んだ。
「それじゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
柊が手を振って送り出してくれた。行ってらっしゃい、なんて聞くのはいつぶりだろうかと思いを馳せながら、急ぎ足で大学に向かった。
大学へは自転車で30分ほど。大学の最寄りの駅は、自分の家の最寄り駅から2つ先だ。もう少し大学の近くに部屋を借りたかったが、なかなか良い物件が見つからずに結構離れてしまった。
今では、なかなか運動しない俺にとって通学がいい運動となっている。午前中だから、そこまで暑くなく心地よい風を感じる。夏や冬は辛いものの、高校も自転車通学だった俺にとって、通学の時間は嫌いではなかった。
見慣れた通学の風景も、季節によって趣が違う。初夏である今は、活発になってきた虫の声と新緑に圧倒される。
大学に着いた俺は、講義室へと向かう。そのまま授業を受け、お昼を迎えた。お腹も空いたので、何か食べようと食堂の方へ足を向けると。
「おーい、洋樹」
離れたところから俺を呼ぶ声がした。振り向くと、そいつは駆け足で向かってくる。
「薫」
「なんか、久しぶりだな。ちゃんと大学来てたかー?」
俺の高校からの友人である薫は近づきながら手を挙げて爽やかに笑った。体躯はすらっとしており、身長も俺より少し高い。俺が着れば間違いなく似合わないと言われる少し派手な服装も、彼の端正な顔立ちにはちょうど良かった。
「来ていないのはお前の方だろ」
「おー、そうか。寂しかったのか?」
薫がにへらとした様子で聞いてきた。こいつの態度は軽い感じだが、なぜだか軽薄な感じはしなかった。一種の矛盾とも言えるが、付き合いの長さから来るものなのかもしれない。
「ちょっとな」
俺が薫のノリに乗ってやると、薫はニヤリと笑った。
「おうおう、悪かったな。まあ、飯でも奢ってやるからチャラってことで」
「それはありがたいな」
俺たちは2人並んで食堂へ向かった。