2. ねぇスチュワート、もしかしてこいつ死んだ?
フクロウのくぐもった声がこだまする月夜の森。しかしそのさえずりも気まぐれに止み、あたりはふたたび静かになった。獣さえ眠った夜更け、そこを進むひとりの人影がある。
人影は森を抜けると、広がる荒れ地の夜空をやおら見上げた。冷えた空気のなか澄んだ満月の光が、前髪に若白髪が混じった栗毛色の髪と、ナツメのように丸い目をした男の顔を浮かび上がらせていた。
男は視線をもどし、歩みを進める。
ひたすらに、しかし力なく。腰に携えた剣を、ゆらゆらと揺らしながら。
荒れ地を歩くうちに、男は建物を見つけた。建物といってもそれは廃墟だ。もとは城だったのだろう。高くそびえ立つ、白い城郭の残骸。枯れた草が所々に生える地面には、城壁が崩れ落ちた破片やら、倒れた柱やらが散らばっていた。どれも角はきれいに取れ、相当昔に打ち捨てられたようだった。
男は、そばに転がる石柱に腰を下ろし、ため息をついた。
「はぁ……」
これからさきのことを考えた。『あの出来事』から数日、築いた地位を失うのは早かった。
たった一日で事実は植民地の城内に広がり、
ものの二日で城内の住居から追い出され、
ついに三日目、城下の民にさえ『面白おかしい騎士の話』として広がった。
これほどの勢いを考えると、暴露したあいつは周到に準備してきたのだろう。
こんな有様で、騎士なんかできるわけがない。帝国の植民地にされたこの国はもちろん、遠く離れた故郷も同じで、いまは……。
「俺は、どうすればいいんだよ」
剣の技術を必死に磨いてきた。場数を重ねて、高みを目指した。だけれど、
「……無駄、だな。もう遅い」
男は剣の柄をさすった。
培った技術はある。一番近いところにある首を落とすことなど造作はない。
あるいは、プライドをかなぐり捨てるか。いっそこの技術を使って――いや、でも……。
そのときだ。廃墟に風が吹いたのは。
「……え、」
――背後に、気配を感じる。人や獣とはどうも違う、寒気を覚えるような冷える気配が。
男は、振り向けなかった。
眼前の仄暗い廃城の景色や、不規則にうごめく枯れ草に身を固まらせるだけ。
首は、こわばって動かない、動けない――
いや……、いやいや。こんな状況で、首なんか動かせるわけないだろうがぁっ!
なんで俺はこんなところで休んだの!? 自分の欠点な部分にいやほど懲りごりしたでしょうここ数日。ついうっかりで、首どころか足の筋肉も動かないぞ! えっ!?
いる……! うしろに絶対なにかいる! いや何かじゃなくて、これは絶対にぜったいに、ぜった……。
気配は、すぅーっと背中へ迫ってくる。急にその気配は、消えた。
と、
頭上から現れる、逆さになった子供の顔――
「こんばんはぁ……」
全身の筋肉が、動いた。
「いっぎゃぁぁぁぁああああああっ――!!」
「……んん? ねぇスチュワート、もしかしてこいつ死んだ?」
「いいえまだ存命のようですよメルさま。あと三秒で目を覚まします、……ほら」
聞こえた声に、男は半開き状態だったまぶたを上げる。ふたりの人物が彼を見下ろしていた。服も肌も髪も、どれも色味がうすく、全身は若干透けてさえいて、背後に月が見えている。顔が近めにもかかわらず、人肌特有の温もりは感じない。逆に冷気のほうが……。
「あはっ、おきたおきた。ほんとビックリしすぎ」
男はすぐさま身体を起こす。見つめてくるふたりに、震える口で尋ねた。
「……あ、あんたたち。お、お」
透けた子供――長髪の小柄な女の子は笑顔で答えた。
「そうだよー。わたしたち、お化け。幽霊」
「ゆ、……ゆうれい。ひぃあぁ……ぁ!」
起き上がり、走ろうとする男はしかし二歩目で失神した。ちなみに一回目の気絶を含めた合計歩数は、四歩である。
倒れかける男に女の子は迫った。
「むぅ、こら寝るなっ!!」
女の子の手が、男の背中へと入り込み、『バシッ!』という衝撃音が荒城に響く。途端に男は起きた。
そして、その場で縮こまった。
「……うぅ。もうやめてください。幽霊こないでください……お願いします」
「なにこいつ。わたしこんな騎士初めて見た。はいはいわたし食べりしなーい、しないからこっち向け」
男はこわばる首をギギギと動かして振り向く。淡い金髪を腰まで伸ばした、緑色の目をした女の子の幽霊が、華奢な腕を組んで仁王立ちしていた。リング状になった青い宝石のペンダントをつけ、薄手の白ワンピースがふわふわと揺れている。
彼女のそば数歩後ろには、長身で紺色気味の髪色をした初老男性の幽霊が立っていた。どこか紳士的な雰囲気を漂わせていた。
「俺が騎士って、どうして?」
「あたり前。格好もそうだし剣もぶら下げてる」
女の子は革で軽量化を図った板金鎧と剣を指さした。
「あと、さっき胸に紋章みたいなものも見えた。あなた、名は。どこに仕えているの」
「……セオドア。だが紋章は、その!」
立ち上がった男、セオドアは幽霊のふたりに後ずさる。が、
「あれ? あなたの紋章、真っ黒。なんで?」
彼が左胸につける盾形の紋章はよく見ると、黒いインクのような塗料で塗りつぶされていた。
「おやおや。あなたさまは黒騎士であられましたか」
「黒騎士って?」
「はいメルさま。黒騎士とは、たとえば『自らの紋章を黒く塗りつぶした、素性を明かせない騎士』のこと。ほかにもバリエーションがありますが、どちらにせよ主君と正式な主従関係は結べません。いわゆるワケアリな騎士ですな」
「へぇー。あなたワケアリなの」
紳士風の幽霊と会話する女の子の幽霊は、セオドアを眺め口角を上げた。
「……俺だって! ついこのあいだまでマトモな騎士だったんだ。故郷では一流の騎士で通っていた。それが帝国から命ぜられてこの地に赴任したら、」
「ワケアリ、になったのですか。おそらくは追放……権力闘争の類ですな? もしや、――わっ!!」
「ひぃ!」
紳士風の幽霊が脅かすとセオドアはすっとんきょうな声を出して、身体を震わせた。
「……帝国? まぁいいや。あなた騎士なのに尋常じゃないくらいヘタレね」そう言ったあと女の子の幽霊は、上品に膝を曲げてお辞儀をした。
「わたしはメル。いまは無きリメイア王国の王女。こっちは、」
「メルさまのお世話役。家令のスチュワートと申します」
「セオドア、……なんか言いづらいから『セオ』でいいや。あなた暇なんでしょ。だったら、わたしの家臣になりなさい。これは王女としての命令よ」
セオドア――セオは怖がりつつも女の子の幽霊――王女メルを見つめた。
荒城で起こった、気まぐれな、偶然のめぐりあわせ。これが、いまの世を巻き込んだ大きなうねりのきっかけであったことを、彼らはまだ知る由もない。