11. ……くんくん、くん。いいね美味しい。くんくん
「お帰りなさいませ、メルさまセオさま」
お辞儀をするスチュワートが、ふたりを出迎えた。リメイア城にセオとメルが着いたころには、空は赤みを帯びて黄昏れに入ろうとしていた。吹く風も若干だが冷たかった。
「ただいまー」
メルは背伸びし、ふぅと吐息をつく。
……ひさしぶりの外出で疲れたのだろうか。しかも思い出の街が大きく変わっていたわけだから、落胆や気疲れが余計にくるのも仕方ないはず。それでも彼女の声からは、遠出をしたという高揚がいまだ冷めきっていないようにセオには思えた。
「んん? お出かけになったころよりもさらにバッグが膨れているような気が」
「あたりまえでしょ、スチュワート! すごいんだよあの宝物とっても高く売れたんだから。よく見なさい。もうひとつバッグがある」
メルが顎でセオのほうを指す。セオはバッグを二重に肩掛けしていた。出発時になかったもうひとつのほうは、クワルツヴィルで買い足したもの。購入した品が入りきらなくなったためだ。こちらのバッグにも物がみっちり詰まっている。
「よかったですね。私、メルさまが心配でありまして。……万々が一に宝物が売れなかったら大層お嘆きになるのではないかと」
「……ぐっ! う、うるっさいわ! まさか未来を覗き見したのか、あぁ!?」
威勢よく文句をぶちまけるメル。その様子にセオはより安心した。メルをなだめ、ふたりに言った。
「そろそろ夕食にしようと思う。リメイアの宝物のおかげで満腹になれそうだ、感謝するよ」
セオはメルに微笑んでテントへ向かう。しかし当の本人であるメルは、彼の背中を不安そうに眺めていた。
炎の勢いが弱り始めたためセオは薪をくべる。串刺しの鶏肉が焚き火にあぶられ、肉汁が静かに滴り落ちていく。見上げれば空はすでに夜の帳を下ろし、月のない天球はまたたく星々に地平線まで覆われていた。
今晩の夕食は鶏肉とライ麦のパン、そして焚き火の灰に埋めて蒸し焼きにするビーツ(赤カブ)だ。野営の生活にしては豪勢な部類に入るだろう。薄っぺらい干し肉が無くなる前に買えてよかったと、セオは心のなかで、あらためてメルの提案に感謝した。メルとスチュワートはいままでどおりそばにいて、火を眺めたり、話しかけてきたり、思いおもいに過ごしていた。
「……できたか」
セオは焼いていた鶏肉の棒を引き抜く。じゅうじゅうと音をたてて香ばしい匂いを発する焼き鶏肉はところどころに煤がついていて、湯気を漂わせている。
と、気づけば横にメルが密着していた。半透明の姿に、やっぱりビックリしてしまう。
「な、なんだなんだ!?」
「……くんくん、くん。いいね美味しい。くんくん」
つつましい、小さな鼻の穴を広げてメルは鶏肉の匂いを嗅ぎ始めた。くんくん、音が鳴るたびに湯気が勢いよく彼女の鼻へ吸われていく。セオが声を上げてもお構いなし。後ずさるセオに押してくるメルに、最後はテント前の倒れた柱に腰掛ける格好になった。
「……まだ嗅いでいる」
「セオさま、我われは『香り』で食事をするのです」スチュワートが教えてくれた。
「実体のない幽霊は生者のような食事行為はできません。しかし『香り』を感覚として得ることは可能なのですよ。絶対に必要ではないですしセオさまが想像する『食事』といえるかはわかりませんが、幽霊にとっては十分に楽しめますよ」
……嗜好品のようなものだろうか。焼きたてほかほかの鶏肉だ、幽霊には格別に美味しい香りであるに違いない。
「未来――先の世の東洋では『幽霊は香りを食す』と言い伝えられているそうで。的を射ている彼らに感心しました。また東洋の幽霊のあいだでは、どうやら足を隠すファッションが流行っていてですね、……おおっと!? 話すと長くなりそうな予感が。冷める前に私もその香りをいただいても……」
スチュワートはメルとおなじように焼き鶏肉の匂いを嗅ぎ始めた。鶏肉を持ったまま座る生者の男と、鶏肉の匂いを一心不乱に吸い込む幽霊ふたり……。
セオは、なんとも表しがたい複雑な気分のまま、固まるしかなかった。
「あのさ……」
倒柱に腰をかけるメルがセオに話しかけた。おたがい、『食事』はとうに済ませ、満腹感に浸っているときだった。
「クワルツヴィルにいたときにさ……。ありがとう、守ってくれて」
セオは、間をおいて答えた。
「だが、俺は守れていたか。お前は実体がないのに」
「あたりまえだよっ! 行動で示してくれたことがもう……」
「やめろ」続けようとするメルを遮る。セオの口調はとげとげしかった。
「なあメル。これからは、無茶なことはしないでくれ」
「……ちがう。わたしが本当に言いたかったことは、それじゃない」メルは、息をついた。
「セオは、わたしを助けようとした。でもあのときの素早さは尋常じゃなかった。距離があるのに、バッグを道に捨てて、剣を抜いて、迫る――その動作をあなたは恐ろしい早さでこなした。一瞬で……まさにあれは、風だった」
焚き火に目を落としたままセオは、微動だにしない。
「教えて、あなた何者なの。並の騎士ではないことはわかる。けどわたしたちは、『お化け嫌い』で総督府を追い出された最近の経緯しか知らない。『剣術は一流だった』とか簡単に言われてもわからないよ。……どうしてわたしたちに話してくれないの」
メルは「おねがい」と最後に付け加えた。
焚き火の炎が風に晒され、火の粉がはじけて流れていく。
「……俺は、わからなくなったんだ。必死に目指してきた、騎士の道というものが」
ときおり口ごもりながらも、セオは訥々と語りだした。自らの半生を。
セオは故郷ユークの、騎士を代々世襲する下級貴族ベルナルド家に生まれた。――主君への忠誠と武勇、揺るぎない信念と、高潔さを忘れない――これらの騎士の道を心に刻みながら、ユークを治める城と王を守護し、国を支える。やがてそれは民の安寧につながる。幼きセオは家長である父からそう教わり、彼自身もその、大義ある言葉を疑うことはなかった。
「俺は、剣術や礼儀、そして戦術を叩き込まれた。子供のころは剣術の覚えがとくに悪くてな、何度も木剣で叩かれて、泣いて、だが投げ出すことは絶対にしなかった。ベルナルド家の宿命だが、それ以上に憧れだったんだ。『騎士』という存在が」
身も心も強い、契った義を全うする気高き存在――セオ少年の目には騎士という役職がそのように映った。絶対になりたかった。幽霊に対するひどいトラウマを抱えても思いは揺るがず、逆に歳を重ねるなかで、憧れは向上心へと昇華した。血のにじむ努力は裏切らず、自身の俊敏さも武器として加え、一〇代の始めには剣術の才が花ひらく。
主君であるユークの王に直接仕えるころには、一族で、いやユークという国のなかで、騎士たる存在の象徴になっていた。
「正直あのころは自分が誇らしかったよ。努力が実を結んだことと、自分はここまで来たんだという達成感もあった……。だがそんなもの、結局は長く続かなかった」
ユークの王に仕えてから六年後。平穏は終わりを告げた。
「シュトルグが、攻めてきたんだ。ユークから距離があった帝国が急襲してきたことにも驚いたが、奴らの、兵全体の戦況を共有する速度はまさに驚異的だった。……反撃もかなわず、ユーク兵は侵攻された二日目に壊滅状態になり、城は帝国の手に落ちた」
帝国に立ち向かった代償は、あまりに大きかった。占領下、ユークの主権は剥奪され、国名も消された。少しでも反抗の兆しがあれば、帝国は慈悲なく粛清に取りかかった。名すら『第二九植民地』に上書きされた旧ユークは、最終的に帝国の操り人形になるしかなく、さらに、『尖兵』の役目を命ぜられた。
「攻め入るさきは古くからの友好国トルキスだった。……だが俺たちは、侵攻したんだ。……戦場で、以前に共闘したトルキスの騎士を俺は遠くに見つけ、彼も俺に気づいた。あのときの、戦友だった彼の恨みがこもった表情を、俺はずっと忘れられない」
隣国はシュトルグの新たな植民地となった。セオたちによって。
セオは手元の、焼き鳥肉だったものに目を落とす。食べ終えていた焼き肉の棒は肉汁もとうに乾き、いまでは冷めきってしまった。彼の口からは静かに、ため息がひとつ漏れた。
「王は心労で息を引き取った。その後、民が起こした反乱を帝国の意向に沿い鎮圧した。いまのクワルツヴィルを想像してくれたらわかりやすいと思う。そうして民は俺たちのような騎士を、嫌うようになった。……俺はそれでもユークで騎士を続けた。だが振り返って思えば、あれは志など消えた、単なる惰性だったんだろう。まぁ此処にきて、それすらも絶たれたが」
幼いころからの憧れをつかみ、騎士として、がむしゃらに強さを求めたさき……。うつむいたセオは弱く微笑む。メルはただ、焚き火の光に揺らぐ彼の横顔を見つめていた。セオはメルに聞いた。
「どうだメル。俺はこんな人間だ。いまさら大それた目的も、義も、誇りすらもない。だから齢二九の、こんな抜け殻みたいなやつに、お礼とか気にしなくていいぞ」
夜の外堀跡はしんと静まった。まるで音が失われたように。だがそれは、メルの反論によって霧散した。
「わたしは思わないよ、セオ」
セオは驚いて顔を上げた。メルは続けた。
「ねぇ、幽霊になったわたしが六〇〇年のあいだ、何していたかわかる?」
そう言ったメルは空を見上げた。満天の星たちが、静寂の空にまたたいていた。
「ぼーっとしていたんだ。ふふっ、なーんにもすることがないから、この石柱に座ってね。お空のお日さまが地面に落ちて、夜になって、たくさんのお星さまも流れて、つぎにきた朝焼けもてっぺんのお日さまになって……。そんなお空とか、景色とかをずっと眺めていたの。……楽しいけど、でも、やっぱり飽きちゃうんだよね。うん、飽きちゃう。そんなときに、セオは来てくれた」
メルは腰掛けていた石柱からひょいと飛び降りた。セオに近寄って、彼女はにししと笑った。
「わたしはねセオ、あなたが居てくれるだけで嬉しい。話し相手になってくれるし、外の世界の案内も。それだけであなたはわたしの、……ううん、わたしは充分なんだよ。だからお礼も言いたいし、あなたを悪く思わない」
セオは、メルに黙った。
けれど彼女のほうに、視線をちらつかせて、
「……わ、わかった。わかったから」
「ふふっ」
メルは、にっこりと笑っていた。
と、
「メル、さま……あんまりではないですかぁ」
突如、スチュワートが割り込んできた。どういうわけか泣き顔だ。
「私、スチュワートをお忘れですか。生きているときを含めて六〇〇年以上、あなたさまのおそばに居たではないですか! おはなしの相手だって」
「……えっとそれは。いや、そうだったけど。スチュワートは方向性が違うというかさ。お世話役のあんたじゃなくて、ね」
スチュワートは放心の表情を浮かべる。そして、半透明な顔を、おなじく半透明な両手で隠した。
「あぁぁ、あんまりでございますメルさま! 私、悲しいです。虚しいです。うぅ。……いいえ! このままではお世話役として失格です。もっと親密にならねば……! さぁメルさまそう怖がらず私めのおそばに。いまから肩もみをして差し上げましょうぞ」
「うわぁ。セオ、こいつなんかアブナイ」
「スチュワート落ち着けよ。逆効果だって」
セオがメルたちをなだめたり、言い合いになったり。星空の下で、焚き火のまわりはにぎやかさを取り戻した。セオはあることを思い出す。クワルツヴィルでメルに約束したことを。
「そうだった。例の絵本を読もう。ふたりとも、俺が朗読するからそこの石柱に座ってくれ」
絵本を読んでほしいというメルの望みも叶うし、スチュワートも彼女の近くにいられる。……よい考えを思いついたとセオは内心喜んだ。図らずも自らが抱える苦悩を、いっときは忘れて。
セオが絵本を朗読するなか、荒城の夜は穏やかに更けていった。