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雅楽伝奏、の家の人  作者: 喜楽もこ
五章 万里一空の章
95/314

#19 分析者視点と勝負師の勘

 



 永禄十二年(1569)六月九日






 高遠城二の丸、菊亭仮執務室。


 巳刻隅中、朝四つの鐘は鳴らない。京とは作法が違うようだ。鐘はそう頻繁には鳴らない。

 そんな御前と午後の境目の時刻、気温はすでに蒸し暑く涼をとらなければちょっと厳しいそんな中、勝頼の会談から早五日の時が経っていた。


 時折り吹き抜ける心地よい風に癒されながら、天彦は祐筆を介さず自らの手で手紙を認めている。宛先は兄弟子・吉田屋店主吉田与七殿へ。大金主へ報告と今後の展開を自分なりの予測を交えて認めているのである。つまり後どのくらい銭を都合して欲しいかのお強請りメールと言い換えてもいい。


 すでに貸付金は100万貫(1,080億円)を突破している。この先さらに増える予定。最低でも三倍の事業規模を見積もっているが、果たしてそれで収まるのかは天彦にもよくわかっていなかった。

 因みに現在のGDPはおよそ100億ドル(USD)。1兆5,000億円(JPY)と推定される。即ち江戸中期レベルなのだがそれと比較しても天彦の融資金額の桁違いさがよくわかるのではないだろうか。

 当人はすでに、ははは、知るかっちゅうねん。煮るなり焼くなりお好きにどうぞ、なさってください。の心境で居直っていてこつこつと目の前の事務処理に腐心している。


 その兄弟子に書き連ねることを整理する。


 この世界の人口は総体的に増加傾向にある。強くある。何しろ京だけで800万を優に超え五畿内を併せると推定1,600万人規模だから確実に強い。

 これは明らかな異常値である。少なくとも史実にはない。だが天彦はそのことと自身の存在に直接的な因果関係を認めていない。証明するエビデンスがないからである。仮にあってもそれこそ知るかの世界なので問題とはしないだろう。

 問題なのは史実との比較であって、全体的な人口増加傾向が総体的に比例して推移していれば何の問題もないのである。


 要因は複数考えられる。やはり一番の要因は戦争の少なさか。特に甲信越地方では甲斐と越後が手を握るだけで人口の消費行動が激減している。大小にかかわらず戦がないということはそれだけで多角的な利益と富を生み出していた。戦争がクソの最たる証明である。

 そして次点で天候の良さが挙げられる。天彦はこの時期の天候デフォ基準を知らないが小氷河期という認識だった。

 しかし天彦はまだ生まれてこの方命を脅かされるほどの自然の猛威を感じたことがなかった。言い換えるなら天候不順シーズンがなく作物が順当にとれていることを意味しているのだがさすがに近視眼的だろうか。何しろ生活拠点が日ノ本の生活スケールの縮尺には最も遠い位置にある京なので。

 だから結論は焦らないとしても、生活範囲の精々京都近郊に限ってだが少なくとも都で地方の凶作を耳にしたことがなかった。すると未来の現在で語られているような小氷河期は盛っているのか。現状の六月はちゃんと暑いし。そんなことを思ったり思わなかったり。


 話が逸れたが人口である。これは今後打ち立てるつもりの経済政策に連動するので欠かせない論点である。現状の甲信越地方勢力図と比較しながら練っていく。


 まず最大勢力である上杉家から現状の版図と併せて分析していく。

 越後国(現新潟県)推定180万人。言わずと知れた基幹国である。米の収穫高がえげつなく京を除けばおそらく全国一の人口を誇るだろう。

 次に下野国(現栃木県)推定60万人。そして上野国(現群馬県)推定50万人。東半分を支配する。

 よって260万~270万人規模が上杉領の総人口となる。


 対する武田家であるが、基幹国甲斐は推定十万。これでもかなり見込んでいる方で実数はもっと減ると思われる。この世界線でも甲斐国の窮状はかわらない。

 そして信濃(現長野県)60万人。だがこちらは菊亭の版図であるため完全に差っ引く。上野国(現群馬県)推定50万人の西半分。そしてぶん盗った駿河推定20万人の三分の一で6万人。

 よって30万~せいぜい35万人前後が武田領の総人口となる。合計するのも忍びなく数値化してみると越後上杉の圧倒的な国力が浮き彫りとなっただけ。甲斐武田は越後上杉の1/8しかなかったのだ。信濃を足しても1/3程度。とてもではないが太刀打ちできるデータではない。

 むろんすべてがマンパワーに依存している時代だからこその単純比較なのだが、反面あるいは単純比較できるからこそ寧ろ逆に正確性が担保されているとも受け取れる。武田っちお仕舞いです。


 すると即ちそもそも論、越後には経済戦争を仕掛けるしか勝ち目はなかった訳であり。やはりこうしてデータを基に分析すると納得感が違ってくる。すると筆圧にも自ずと力が……。

 というような言い訳をせっせとカキカキお手紙に認めて、さて。


 甲斐源氏武田家。明るい材料が何一つもなかった。第二経済圏に組み込むことは確定しているが、それだけ。それだけなら埋没して相伴存在価値を失い消滅するだろう。だがそれは避けたい。悲しむから。ツレが。

 ならば何から手を付ければよいのか。一つでも取っ掛かりがあれば迷わずそこから着手するのだが、天彦はほんとうに困っていた。


「見捨てた方が早いんちゃうん。いやまんじで」


 天彦は家臣たちの説得に向かいすでにここにはいない友の顔を思い浮かべ思わず独り言を零してしまう。むろん苦い顔をしながら。

 四郎勝頼、位置づけはあくまで友人でいい。天彦的にむしろ友でなければ不都合だった。家名と血筋が過去には滅ぼすことを誓った武田だから。

 だが今ではそうでもない。自身の足で立っていることと、こうして命も繋げられている。だから少し年上のやんちゃな友。実際にそんな感覚でもあるし天彦に特別な違和感はない。問題は信長である。


 おそらく信長は勝頼に切腹を命じて御家存続を許すだろう。それが侵略された徳川に対しての妥当な落としどころであることは多くに異論がないと思われ。実際戦国乱世の不文律にも適っている。むろん一番いいのは謙信公の切腹だが叶うはずがないので問題とはしない。

 勝頼の首一つだけでも織田方からすれば十分な成果、ああ見えても勝頼は大物である。信長は喜んで手を打つだろう。更に天彦の価値を高めて。

 だが天彦にとってはまったく宜しくない。勝頼問題はまだ先の話だが念頭には置かなければならない最重要課題の一つであった。よって先送りの意味で帰国は伸びるだろう。この問題に白黒決着がつくまでの当面は。


 因みに参議が公務を放ったらかして何しとんねん問題は大丈夫。大丈夫はさすがに盛ったがクビにはならない。何しろ朝廷は天彦を最重要人物として位置づけ必要としていることを公然と明かしてきたから。そうその通り。

 朝廷はあれほど渋っていた朝廷勅使のお役目を参議天彦に委任したのだ。やはり持つべきものは色っぽ艶々御姉さまか。違う。いや違わない。実際に目々典侍がオニ働きかけてくれたことはこの厭々渋々書かれた追伸からも読み解けたから。

 そしてそれに加え過去には関白の地位にありながら長らく政務を放棄して越後に下向し大戦をやっていた茶々丸の義理ぱっぱの例もあるくらいなので問題はない。先例に倣うことこそが朝廷の第一義の仕来りなのだから(棒)。


「茶を」

「はい。お待ちください」

「ん、新顔やな。いつものはどないした」

「私にはわかりません。初めまして。本日より御傍係を務めさせていただきます椛兵衛と申します。以後お見知り措きください」

「さよか」


 とはならんやろ! ちょっとおもろいからええけど。


「おい椛。なにしてんの」

「てへ。もうお気づきですか。言われた通りほんとうに勘の鋭い御方ですこと」

「さてはあいつら、もう参ったんか」

「はい然様におじゃります。イルダと申す側近にこの扮装を仕込ませましておじゃります。お如何さん」


 誰とは指定していないが天彦は射干党を呼び寄せていた。手が足らないのだ。それも圧倒的に。


「ゆうとくけどイルダは側近やない。あれは陪臣や」

「え。射干党は菊亭様の第一内々やと……」

「イルダがゆうたんか」

「はい」

「もう自分でも気ぃ付いていると思うけど、椛、気ぃつけや。家は怪しいのんや胡乱なんがようさん出入りしてるからな」

「あ、……はい。重々気を付けまする。ご忠告誠にありがたく頂戴さんにあらしゃりますぅ」

「うん、そないしとき。ほな茶をくれるか」

「急ぎお持ちいたしますぅ」


 男装の麗人コスの椛姫が肩をしょんぼり立ち去った。それと入れ替わるようにして銀髪緑眼の美丈夫が音もなく姿を現した。


「おいここ三階天守やぞ」

「お呼びかと思ったのに」

「インパクトのデカさで誤魔化そうとすな」

「あ、バレてーら、てへぺろ」


 天彦は舌打ち一つ入れてから、懐から五通の手紙を取り出し預ける。


「宛先はわかるな」

「……うちらに。いっぱい死にそ」

「それも仕事やなかったんか」

「言うじゃん。……そんだけヤバいんだね」

「望みは行って帰っての一往復。それが叶えば予てより打診のあった三名を直臣に取り立てる」

「もう一声」

「ゆうてみい」

「官位も付けて」

「相分かった」

「あら、えらく調子がいいのね。言っとくけどコンよりうちの方が格上だし。念のためね」

「ふっええで。運も実力の内やし。その分しっかりお仕事してやお姉ちゃん」

「あは、死ぬ価値はありそ」

「気ぃつけてな」

「うん。天ちゃんも、あまり無理しないで。うちのボスが帰ってきたらおっかないから」

「さよか」

「んじゃ、バイ」


 だから三階やねんけど。手摺から階下へと飛んで消えたイルダに呆れ顔で見送って。

 天彦は一旦この勝頼問題を脇に置き、目下菊亭が直面している問題に取り掛かった。すると程なくして今度は五月蠅いのがやってきた。


「今よろしいですかよろしいですね、これは絶対に承知できません」


 なんやゆうとるな。むちゃんこ早口で。放っとこ。


「若とのさん! 某、これは絶対に承知できません」


 声でかっ。でも放っとこ。……は、さすがに無理か。うわ顔ちかっ。


「顔が近い。どないしたんお雪ちゃん。声を荒げて。皆びっくりするやろ」

「若とのさん! 某、これは絶対に承知できません」

「訊いたからっ!」

「訊いてください」


 雪之丞は一枚の書付を手にやや以上かなり未満のテンションで食い下がった。

 その書付には覚えがあった。当然である今朝方天彦自ら発布した免罪符だから。

 反乱した三十有余名の青侍や諸太夫を放免する免罪符である。

 どうやら雪之丞は御不満なよう。おそらくは沙汰の中身が気に入らないのだろう。


「なに」

「なにやて、しらこい」

「むっちゃ当たり強いやん。どないしたん」

「某、進言しましたよね。この十家だけはただで許したらアカンと」

「まあ訊いたな。それがどないさん」

「どないって。訊くとは訊くと書いて聞き入れると読むんですよっ! ええ加減なことせんといてください」

「出たっ! いやちょい待ち。いくら何でも出しゃばりすぎやろ。いくら何でも」

「なんでですのん。なんで二遍も言いますのん」

「なんでてお雪ちゃん。本気なんか。本気そうやね。考えたらわかるやろ。大事さんやからやで」


 雪之丞の言う十家とは、山口、湯口、高江、中村、堀、長谷川、上原、波多野、三輪、中川といった旧本家今出川の近習家の子息や連枝たちを指す。即ち雪之丞の延いては天彦にとって様々な思いが含められた人材と家門であったのだ。


 ここでは語らないが相当かなり食らわされてきた家である。完全に独立するまではそれは相当食らわされた。これらの今出川重鎮家の連枝たちには特に。

 雪之丞はそのことを暗に申しているのだろう。厳しく処罰せよと。先の村では許せと言ったくせに。面の皮の厚いこと。違う。

 当時とは事情が180度違っていることは承知している。雪之丞はこれでもかなり譲歩していた。なのに反乱。絶対に許せなかった。雪之丞は自身が二度死にかけているがそのことはただの一度も口にしたことはない。これまでずっと。ただひたすら天彦が心配なだけ。その一心でこの沙汰の不承知を標榜していた。

 天彦は甘彦なのでわかっていない。条件が違っていたとしてもちょっと変質しすぎではないだろうか。もっと寛容にですね……。


「絶対に看過できませんよって。あいつらのせいで某、一生消えん傷負ってますよって」

「あ、うん。その際はおおきにな。ほんでごめんな。痛かったな」

「そんなことゆうてません!」

「ほな何」

「一個もわかってもらわれへんし、某、食断ちで抗議します!」

「食、絶つん。ま?」

「あ。また人を小馬鹿にして。やるゆうたらやり遂げますから」

「三食の内、一遍だけ減らすんはアカンのん。食べへんてものっそい体に悪いさんなんやで。身共哀しいさんやわぁ」

「……ほな、二遍減らします。これ以上は譲れませんから!」


 あ、うん。ガンバ。それやったらまぁ。


 韓詩外伝には、諤々たる争臣あればその国昌え、黙々たる諛臣ゆしんあればその国滅ぶ。とある。

 つまり事あるごとに直言する家来がいれば家は栄え、肝心なときに媚び諂い沈黙を決め込む家来ばかりだと家は滅ぶという教えに他ならないが。……さすがに行き過ぎはちょっとしんどい。ええねんけど。何でも口を挟みたいお年頃やろうし。一食の量倍に増やすようにこっそり申し付けとこ。


 信濃の仕置きと甲斐の方針、ある程度の道筋は立った。なので天彦は保留としてきた造反組の処罰を思案していたのだが。そこにたまたま雪之丞がやってきて意見した。しかも天彦の処断に納得がいかないご様子風である。


「で、ハンストに入るお雪ちゃんは何が気に入らんのや」

「あ。バカにしはった」

「馬鹿にはしてない。説明と理解を求めただけや」

「してますやん。もう何年のお付き合いや思うてますのん」

「生まれてからずっとやで」

「そうです。わけのわからん造語使うて煙に巻こうとしてますやん。ラウラ居らんのにいったい誰が通訳しますん」

「お雪ちゃんはずっと身共の傍に居ってくれた身共にとってのスペシャル特別ナンバーワンさんなんやで」

「また誤魔化す。ラウラ早う戻してください。なんやわかりませんけど、はい一の家来です。そやから某の目は誤魔化せませんよ」

「でもその目が曇ってるやん」

「あ。それいっちゃんゆうたらアカンやつ」


 そっちこそ“あ”や。まだ拗ねるてゆう。気持ちがわからんでもないけど。

 天彦は怒り半分呆れ半分の雪之丞を宥めつつ、けれどその感情にも一定以上の理解を示す。

 山口、湯口、高江、中村、堀、長谷川、上原、波多野、三輪、中川といった旧本家今出川の近習家の子息や連枝たちは確かに態度が悪かった。しかも屈服しているはずの現状でさえ実家の家格に笠を着て偉そうに振舞っていると耳に入ってくる始末。

 天彦は告げ口先が是知だったので評価保留としていたが、どうやら放置していると不味そうな雲行きであると判断した。是知は実家と相当折り合いが悪かったのだ。


 人事考課はハッキリ言って最も苦手分野である。誰がどの口でという感情が勝って中々評価を下すまでに踏み切れない。なのでそっと遠ざけていた問題が燻ってしまってかなりブルー。いやすでに炎上しているのか。

 なぜならしかも訴えは雪之丞だけではないようで。何やら背後に物言わぬ佐吉がじっと待機していて、そして常に護衛役についている三人のイツメン青侍たちも援護に回っているではないか。


「直臣の総意か」


 なので問う。これを放置できるほど天彦の神経は図太くなかった。


「はっ、お家の御為を思えば何卒」と氏郷が。

「然り。これを許しては面目が立ち申さん」と高虎が賛同し。

「然様にて。やつら殿の優しさに付け込んでござる」且元も同意。

「はい。某も同感にござる。僭越ながら植田殿の誘いに乗った次第にて」佐吉が俯き加減で発言して。


「ほら、ね。若とのさん。某が言いましたやろ」


 雪之丞がなぜか勝ち誇った。腹立つわぁ、あの勝ち誇った顔。全身から字幕の“どやぁ”が出まくっている。


 ええいこうしてやれ。むにゅ、びよーん。ははおもしろ。


「いふぁい、いふぁいてふやん。もう! なにしますのん」

「頬っぺた抓って伸ばしただけや」

「なにしますのんの意味違いますやろ」

「知ってるけど。もう一遍したろか。やさせてくれ」

「ほなどうぞ。思い切り仕返しますけど」


 あ、うん。天彦は伸ばした手を引っ込めた。


 雪之丞はあまりにも腹立たしいから無視して、そして放置で上等。残る四人に順番に視線を送る。

 ここに与六がいれば何と助言をくれただろうか。天彦はしばし考えこみ、うん。状況代わってへんやろな。結論付けて同意の了承をくれてやる。但し切腹だけは勘弁してやれと念を押して沙汰を預けることに決めた。

 メンツ的に一番苛烈なのはああ見えて佐吉。次いで同列に氏郷。高虎は一見残酷に思えるが実は一番人情のお人。且元は良識があるので死罪は申し付けないだろうが嫌われ役を担わせてしまうので却下。


「高虎。その方に判断を委ねる」

「はっ。確とその任、承ってござる」

「あんじょうな」

「お任せあれ。しごきまくって根性を入れ替えさせてみせまする。がははは」


 高虎の豪快な笑い声が響き渡る中、且元にはそっと苦笑いされてしまう。

 わかりやす過ぎたかと天彦も苦笑で返して座がお開きになろうとしたそのとき、


「殿、急使がまいりましてございます」

「どこさんや」

「申すには越後からと」


 皆が息を飲んだ。天彦も思わず回答を躊躇ってしまっていた。


「通せ」

「はい」


 急使が通され且元の手を通して書簡を預け渡された。天彦は急使に気遣いの言葉を送り少しの褒美を取らせることを告げて下がらせて、いよいよ書簡の封を切る。

 五度ほどメールのやり取りを交わしている間柄。筆跡と花押は何となく把握している。

 まず花押に目をやり間違いない自筆を確認して本分冒頭に目をやる。色々書いてあったが簡潔に要約すると春日山城で待つ。手紙はその一点に尽きる内容であった。氏ぬのかな。


 敵地または死地に自ら赴く理由はほとんどない。あるいはまったく。

 ところが天彦、言っているし尻から闘志に火を付けている。なんやかや男の子であったとかそんな話では一つもない。ただ与六を奪い返すその一心ですべての行動は帰結している。

 だがそれはそれ。この場で明かすと確実に止められるので今は伏せる。ここに来て家来たちはかなりナーバスになっていた。


 だが当の天彦はやる気満々マン。むろん天彦なので決死とか悲壮などという感情は抱いていないが、それでも決意は揺らぎもしない。いざ決戦、一択である。


 勝ち負けだけを競い合う世界でひたすら勝利を目指すべく執念を燃やせる人が勝負師の定義なら、天彦は該当しない。一ミリも。むしろ勝負は避ける傾向にあるくらいだし。

 だが多くが判断を間違えてしまう複雑極まりない局面の中で、あるいはそれが競争状態にあろうとなかろうと誰よりも優れた判断能力を持ち、かつそれを迷わず選択できる人を勝負師と定義するなら、天彦は紛れもなく勝負師であろう。

 その選択肢と引き出しの多さにかけては天下一を自負しているのだから。事実として天下一だろうし。

 即ち、策はまだなっていない。急かしすぎ。せっかちは嫌われるよ。いくら軍神さんでも。


「なんもないさんや」

「そんなわけないでござろう。戦にござるか」


 さすがに無理があったか。且元は頼りになるがこういうときは厄介でもある。

 天彦は渋々しゃーなしで実情を伏せて外枠だけを明かす。


「ある意味では間違いなく大戦やな」

大戦おおいくさ。ならばお相手はやはり」

「うん。むろん越後の軍神さんや。規模はざっと数百万かな。相手にとって不足はないさん」

「越後の龍……、たしかに不足はござらぬが」


 お、おお――!


 氏郷、高虎が腹の底から気炎を上げた。だが天彦から発言を引き出した且元は感情を抑えた。そしてどこか心配げに天彦を見守っていた。

 少なくとも負けた方は様々な観点から確実に死亡するという意味では紛れもなく大戦である。戦場こそ武士の花道。なのに浮かない顔をする。いったい何が不満なのだろう。


「どないした且元」

「殿はご無理なさっておりませんか。どうも某、違和感を覚えるでござる」

「そんなんずっとしてるやん。なにを今更」

「あ、いや。……ご無礼仕りました」

「ええよ」


 且元は天彦から意外なほど率直な答えが返ってきて魂消る。だがそれも束の間ああ、そういうことかと得心いって不安をすべて解消した。

 主君の表情が完璧に臨戦常態に入っていたのだ。近しい者しか気付けないけれど近しい者には見せるようになった本当の素の素顔。その何とも形容しがたい顔で一心不乱にお得意の悪巧みを練っているその顔を見てすべての違和感が消え去っていく。


「いふぁい。なにすんのお雪ちゃん」

「仕返しですやん、さいぜんの」

「あ、うん。でもやめてな。ほらまふぁいふぁいふぁん」

「ほらな。ええかお前さんら、この状態になった若とのさんは無防備なんや。より一層注意して御守りせなアカンで。某はもう一遍仕返しとこ。えい、びろーん」

「いふぁい」


 雪之丞が飛び切り寒い目で見られている最中も天彦の心はすでにここにあらず。

 得意の舌鋒を駆使して架空の戦場で大立ち回り。謙信公と喧々諤々の舌戦でも繰り広げているのだろう。知らんけど。


 天彦はぽつり、

 黒ヤギさん、お手紙食べんとちゃんと読んでお返事かいて頂戴さんやで。










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― 新着の感想 ―
[一言] 越後国の石高は太閤検地で39万石少々、治水もしてない氾濫地や沼ばかりで米なんてあんまり取れなかったそうですね。越後から加賀まで含めれば130万石くらい行くそうです。
[気になる点] > 越後国(現新潟県)推定180万人 この勘定だとすでに新田開発は飽和して収奪戦争でもしないと領民食わせていけなくなるレベルで、軍神が荒ぶるのもしかたなさげ 史実よりのっぴきならない…
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