#18 三面等価の原則と負荷がもたらす友との和解と
どうぞ
永禄十二年(1569)六月四日
惣村の端から端っこ。菜種油煎り場と惣村乙名屋敷を結ぶ距離はざっと徒歩で三十分ばかし。その移動中天彦は一連の出来事を整理しながらぼちぼち歩く。
「若とのさん、もうすっかり夏ですね」
「そやなぁ。今年はお祭り見に行きたいなぁ」
「どこのですか」
「それは言いっこなしちゃうか」
祭りは大抵寺社が主催という揶揄。やりおる。
「ほなやめときます。ほんまですね。皆が揃って笑えるええ夏になればよろしいですね」
「うん。お雪ちゃんは今世界で一番ええことゆうた」
「大袈裟ですよ。……ほんまですか?」
「うん、ほんまやで。気分ええからご褒美あげよ」
「ほんまですか! 某、個室が頂きたいです」
「それはアカン」
「ええ」
平和かな。……ぜんぜん平和ちゃうけどな。
だが雪之丞の周りだけは時空が歪んでいるのか常に牧歌的だった。
さて本題。天彦は表情を険しく自らに問い質す。
大前提、選択には必ずトレードオフが伴うとして。
社会は選択の連続と積み重ねによって有限である資源を消費するチキンレースの上に成り立っている。それが経済。人の営み。つまり得ながら失い膨張または縮小しつづけているわけだ。高度な均衡を保ちつつ。
そう考えると何もミクロだマクロだ行動学だなどと小難しく考える必要はないように思えてくる。
それでなくとも経済などどうせ放っておいてもあらゆる心理・行動とは不可分なのだ。どうせいずれは有限性にたどり着きいずれ絡め捕られる。
素人は所詮素人。下手に考えず好きに捉えればいいのである。人類史上経済学にこれといった鉄板の結論を導き出した科学者はいないのだから。
結論。経済は思想である。知らんけど。
「はっはっは、どやぁ捻り出したったん、結論さん」
これなら強い。鉄強やろ。
天彦は是非ともそうであって下さい社長お願いしますよぉの感情で結論付ける。
なぜならそうでもしないと一時的とはいえ菊亭家財政の巨額赤字に、発狂寸前の感情とどう向き合えばいいのかわからないから。
根っからの吝嗇んぼには出入りの均衡が崩れているキャッシュフローが耐えられないのだ。
吉田屋から貸し付けられている融資額はすでに天彦にどうこうできる範囲に収まる額ではなくなっていた。たぶん誰にもどうにもできない。そんな額に達している。
それもこれもジョン・メイナード氏の提唱する完全雇用政策に基づく経済不況の救済策を実践したからに他ならない。あるいは茶々丸の顔を立てた他力本願。
いずれにせよ間違いが証明されていない以上そこにアプローチしていくしかなく、けれど頭痛が痛いフェーズなどとっくに卒業してしまっている。
生産・分配・支出の三側面でみた額が事後的には等しくなるマクロ経済学上の原則が正しく作用すれば大丈夫と自分を言い聞かせるフェーズもとっくに過ぎ去っている。
つまりどの経済学理論も天彦の疲弊した精神を慰撫するには至らない。今は自室にこもって一生いじいじと数理物理学の愛読書を読んでいたいだけマンであった。
「なにその目」
「しゃんとしてくださいの目ですけど。ここが勝負どこやと仰せなんはご自分ですよ」
「もっと甘えさせてくれてもええと思う」
「某は育て方を間違えましたね」
「なあお雪ちゃん。ちょっと前にその台詞、卵産まへん鶏にもゆうてへんかったか」
「あれ雄鶏でしてん。卵産まん上に一個も言うこと訊かへんから天彦ゆうて叱ってます」
「おいコラ」
「あ。それでゆうたら若とのさんかて。竈に出入りしてるネズミにお雪と名付けてますやろ。某知ってますんやで」
「さては幸か」
「いいえ香です」
なるほど。やはり敵は内にありか。
だが一方ではたしかに雪之丞の言う通りしゃんとしなければ。このままでは死んでしまう。精神的にも社会的にも。この時代なら物理的にも死ぬかもしれない。きっと死ぬ。氏ぬ方の氏ぬではなく正しく死ぬ方の死ぬで死ぬ。
だからどうにか乱高下して落ち着かない感情を慰撫できないかと考え抜いた挙句、このように結論付けて自分を慰めただけ。
思想ならどうにか戦える気がしたから。気の迷いではけっしてなく。気休めではあるけれど一応本気で考えた。
では誰と戦うのか。むろん越後のドラゴンと。この世で一番戦上手と戦国大名の間では専ら評判の軍神様と戦うと決めたから。
現時点での段階で天彦の計画はかなり狂っている。当初とは大きく路線の変更を余儀なくされた今回の遠征。だが回収できれば成果はでかい。物資はもちろん人材も文句なく。
越後とは叶うなら事を荒立てたくはなかった。だがそれを相手が望みいずれは通らなければならない道なら押し通るまで。むろん天彦らしく公家らしく。雅に小狡く。たっぷりの悪巧みを散りばめて。
よって今回の駿河侵攻の調停策。延いては甲越同盟(主に越後)の打倒に軍事力を持ち込む心算はさらさらない。相手の土俵で戦わないというセオリーも踏んでいるが一番の理由は単純にムカつくから。虚仮にしまくってやるつもり。お前のような小物と真面に向き合ってやるかの巻。これは100の感情論で。
与六を物のように粗末に扱った謙信公に一番食らう敗北をくれてやることで正義の何たるかを、辻褄の何たるかを教えてやる腹心算なのである。
結局のところ意地。どうせ正しい勝ち方などありはしないのだ。謙信公の言葉を借りるなら、我公と争うところは米塩にあらず。なのである。
ならばどう打倒するのか。策が固まっていたわけではなかった。信濃にたどり着き与六を失い、その失意の流れの中で閃いただけ。捻り出しただけ。それも確信に裏付けされた発想ではなく極めて感覚頼りな大博打。銭どぶ覚悟の銭じゃぶ戦法。
この馬鹿げた大博打を打ってみて思う。これは打つものではないと。二度と打たないと。ドキドキ感とハラハラ成分がエグいから。あまりにもエグすぎる。あと何も知らされていない家来たちの死にた味もえげつないし。まあこれに懲りたらちょっとはお強請りも収まることだろう。授業料である。
天彦とて辛みは一生分と二生分は優にあった。もう要らない。こんな毎分毎秒胃液が競り上がってくるような日々は御免だ。
それでも覚悟と決意を以ってその最もリスキーで最も成果のえげつない策を採用して臨んでいるのは天彦である。やるしかない。
経済政策で有効とされる処方箋はいくつかあるが、天彦の場合はインセンティブに反応する個人消費の拡大に主眼を置いた王道の経済政策で越後を打倒してやろうと考えている。要するに受給曲線バランスを無理やり捻じ曲げて経済を意図的に操ろうとしているのだ。
その仕込みはすでに済んだ。あとは行動経済学の論理が正しいことを信じて待つだけ。
激しい消費は確実なインフレを呼び起こす。それでも消費は止まらない。銭が有り余っているから当然である。しかも新たな産業もあるので期待感含みの消費行動に移行していく。そして更に好景気に沸く理由が布告される。菊亭から吉田屋を通じて二度目三度目の交付金給付が告知されるのだ。60万すべての民を対象としたあぶく銭がじゃぶじゃぶと空から降って地から湧く。
それでも投資の手は緩まない。手段はインフラ整備だって箱物建築だって何だっていい。銭さえふんだんに投入できれば。継続的な雇用が生み出され消費は更にアクティブになることだろう。しかも五年先まで税を免除されるらしい。信濃国の領民だけ。
周囲の商人は挙って信濃に品を卸すだろう。あるいは店を構えるだろう。土地は値上がり更なる高値を呼び込むだろう。すると周辺国には物資が乏しくなりやはりインフレの連鎖を起こす。だが周辺国のインフレは悪いインフレである。収入も資産価値も上がらず物の価格だけが高騰していくのだから。お仕舞いです。
領民だって相当数村を捨てて信濃を目指すはず。物は上がるし税は上がるしでとてもではないがやっていけないこと請け負いだから。
だがこの時代、領民の横移動はかなり制限されていて普通は弾かれる。人材イコール銭だから。仮に移動が叶ったとしてあるいは徹底的に搾取されてやはりお仕舞いなのである。
だがそうはならないならどうなるだろう。そこで手厚く受け入れてやればどうなるのか。甲斐に越後に優良な領民はいなくなるはず。少なくとも戦で浪費される人的戦力は大きく削れる。人口がそのまま国力に比例する仕様である以上は絶対に。
「ふっ勝ったったん」
「若とのさん。さいぜんからずっと独り言つぶやいたはりますけど大丈夫ですか。お疲れなら会談を明日に控えさせてもよろしいのでは」
「おおきにお雪ちゃん。でも余裕やで」
「はあ。ぜんぜんそうは見えませんけど」
「心配無用、余裕やし」
「なにをゆうても訊かへんときのお顔ですね。ほなそういうことで」
「うん。そうしたって」
と、雪之丞が怪訝な顔で佐吉に問う。
「なんや佐吉、そのお顔は」
「主従揃って同じ顔をなさると感心しておる顔にござる」
「某はあんな不細工やない。言い直せ」
「某は表情を指しただけであって作りを申したわけにはござらぬ」
「おいって!」
「あ」
「あ」
あ、やあるかシバくぞボケ。
なぜか被害を食らう天彦であった。余裕かな。
いやまったく余裕ではない。一ミリだって余裕はない。だが勝てばいい。勝ってこそだ。
その観点では天彦はすでに勝利を確信している。理論上は100%だから。フリではなく。まぢの実践理論で。今から四百年後の未来ではすでに実証されている理論を採用投入したのだから。お願いします、正しくあって。
そして天彦、その理論と同じくらいの確信を持って言える。何も火中の栗を拾わずともこのまま安穏と生きていても限りなく幸福感は得られたであろうと仮定すると。
「なあ佐吉、なんで若とのさんはアホなことばっかししはるんやろな。こんなど田舎のことなんか放っておいたらええだけやのに」
「殿のなさること。某は断言して何一つとして阿保なことなどござらぬと請け負うでござる」
「あぁ、お前もアホやったわ。訊いた某が間違うてた」
「む。家中一の阿保なお方に言われる筋合いはないでござる」
「おい待て。某がいつ家中一のアホになった」
「ずっとですが。出会った頃から延々と今日に至るまで植田殿はずっと阿保にござる」
「そうまでゆうなら決着つけるか」
「望むところ」
「表でえ!」
「すでにずっと表にござる」
「う。ほな、ほな部屋にもどれっ」
「お望みなら致しますが。何で決着を付け申すのか」
「う」
はい。阿保です。それが何か。主従ずっと阿保でやらせてもろてます。
最終的に天彦がアホ。雪之丞がそれといい勝負のアホ。室町の定理が証明されたところで会談先の指定場所、乙名屋敷にたどり着いた。
◇
乙名屋敷、平民の住居にしては中々の広さと整った屋敷だった。さぞや副業で儲けたことだろう。三年を思っていたがまぢに一生懲罰の門衛縛りもあるさんやな。
天彦はやや表情を険しくさせて護衛が開ける襖戸をくぐりぬける。
やはり広い。元々は惣村の会合用に作られた部屋なのだろう。草履を脱ぎ一段高くなった広間に上がると目当ての人物はすでに待ち受けていた。上座で。
はは、おもろ。
しかし侍という人種。なぜ一度は挑戦しなければ気が済まないのか。やはりどう考えても人種が違うとしか思えない。
故に天彦は己の流儀で応接する。すぐにはリアクションしてやらない。左右前とイツメン青侍衆から圧だけで圧死させられそうなほどの凄まじい剣気が発散されるが気にしない。それを受けるのは上座のお馬鹿さんだから。
天彦は上座のお馬鹿さんを放置して周囲を見渡す。
室内には四郎勝頼を始めとしてその護衛らしき二本差しの侍を含めて六名が着座していた。護衛同士のばちばちは菊亭圧倒的優位で推移している。やはりうちの侍無敵やん。の嬉し味は一旦仕舞う。
六名の内の二名は平民だろう。天彦の登場に咄嗟的に腰を上げ改めて居住まいを正し深々と首を垂れて慇懃に出迎えたから。しかも天彦はその片一方をよく知っていた。隣村で交渉した例の商人、信濃屋甚五郎であったのだ。
いずれ呼びつけるつもりだったのでそれはいいとして。なぜ勝頼と繋がっているのかは少し気がかり。……っておい。ずっと待ったってんねんけど。
の顔で天彦は太々しい態度の勝頼を睨みつけてじっと見る。
だが当の本人は何食わぬ顔で自分流を貫いた。これまたどこかで見たような片膝を立てた乱暴な座り方に、今回は手酌酒まで付いているもっと乱暴なスタイルだった。
天彦としても勝頼が自棄酒したくなる気持ちもわかる。同盟国であるはずの越後にはいいように操られ、年端もゆかぬ公家からはボコボコにどつかれているのだ。自棄たい気持ちも推し量れた。なので敢えて黙って待ってやった。
ややあって徳利の酒が尽きたのか、それともまた別の理由か。勝頼がすっと立ち上がり上座を開けて左に寄った。そして、
「おい小僧、なぜ黙っている」
どこかで聞いたような言い回しで会話を求めて来たではないか。
天彦は譲られた上座に何食わぬ顔でおっちん。そしてこれやから侍は。顔で四郎勝頼を見つめる。目を合わせることしばらく。互いに収穫があったのか。それぞれに納得の表情を浮かべて視線を外す。
ややあって天彦は表面上だけうんざりしながらも、けれど心のどこかではちょっと嬉しくなったのか、やはり少し嬉しそうに声を弾ませ言い返した。
「身共を呼び出されたのは其方でおじゃろう。ならば持て成すは其方が筋」
「ほう、一丁前の言葉は操れるか」
「さて、どうでおじゃるか」
「まあそうでなくては困るのだがな。……いやもう勘弁してくれ。この通りだ」
最後までやり切って欲しかったが十分か。締まらない会話はけれど為人を表すには十分な結末を用意してくれていた。武田の頭領が衆人環視の下、自由意思で首を垂れて膝を屈するという結末を。
天彦は勝頼が好きだった。武田という家自体はむろん唾棄するほど毛嫌いしている。のっぴきならない一身上の都合によって。
だがその上で勝頼という人物の為人に好感を覚えていたのである。つまりそうとうかなり好きということ。敵対せずに済みそうなこの流れ。それだけで喜ぶに足る理由は十分だった。
「お久しゅう甲斐源氏の長者さん。武家は違ごたか。ほな頭領」
「うむ。久方ぶりだな。だがこの場には諏訪神氏として参っている。武田嫌いの貴卿に最大限の敬意を払って。その意を汲んでくれるとありがたい」
「おおきにさん。ほなそのお礼に一つ占って進ぜよか」
「占いは要らぬ。懲り懲りだ。某に扱いきれぬと思い知った」
「くふ、はは、甲斐源氏の頭領さんがそんな意気地のないことで」
「ちっ、いいことなど無いに決まっておろうが。癪に障る公家キツネめ。精々笑いたいだけ笑うがよかろう」
「くはは、あははは」
「くっ、本気で笑うやつがあるか。くふ、あは、がはははは」
二人して笑い合った。やっぱ好きやわ、コイツのこと。
「四郎殿はどうやらお変わりなきようにお思いさんや」
「勝頼と呼んではくれぬのか」
「ええさんなん?」
「むろんあの時以来その心は変わっておらぬ」
「ほな勝頼さん」
「そういう貴卿も変わらぬようで。いやあくどさには磨きがかかっているのか。以前はもっと可愛らしかったぞ」
「男子なれば尤もでは」
「ふん、背は達者な口ほどに伸びていないようだがな」
「ひどっ」
勝頼は留飲を下げて徳利を掲げた。一献。天彦は目の前の御猪口を見て一瞬だけ厭そうな顔をする。他人が口を付けた器が生理的に厳しかった。
「断るつもりか」
「まさか」
「ではなぜ杯を取らぬ」
「あ、うん」
目をつむって御猪口を掴む。とくとくと注がれる酒を片手で鼻を抓んで一息に注ぎ込んだ。
「苦手か。美味いのに勿体ないことだ」
「味はどうやろ。あんましやな。実際に酒精も大したことないし」
「文句をほざくな味もわからぬクソガキが」
「もっと美味いの造れるけど」
「ならば造れ。酒は命だ」
「酒好きってほんまアホさんやわぁ。何とでも言葉を操って飲むという行為を肯定したがるところなんか特に。けれどそれやと味気がないさんやな」
「ふん。何とでもほざけ」
「あ。バカにした。気が乗らんかっただけでその気になればこんなもんナンボだって改良できるんや。教えたるわ、そっちで造り」
「……え。本気か。いいのか」
「要らんのんか」
「要る。忝い。担当者を向かわせる」
「そないし」
勝頼は少し驚きながらも天彦の言葉自体の放つ信憑性には少しも疑義を覚えていない風で。改めて頼むと付け加えて一呼吸置くと、またぞろ杯を傾け真顔で言う。
「儂は何を間違えた。いやどこで間違えた」
「越後と組んだんは上策やったで。あれは魂消たさんやった」
「なるほど。では……」
「そのままおとなしく北上してたら褒美をやったのに」
「読み、いや……力量か。辛い事実を突き付ける」
「織田との力量。上杉との力量。当主としての経験と知恵。つまり力量。どれも僅かに足らんかったようやな勝頼さんは。耳が痛うてお厭ならお黙りさんやが」
「いや。有難く頂戴いたす。だがもう既に十分なほど自覚しておるのでそこまでにしてくれ」
「さよか」
「さて参議。いや天彦、当家は立て直せるか」
なぜ言い直したのか。理由を問うほど野暮ではない。それはきっと武田と名乗らずこの場にいることと心持ちは同じなのだろう。友として乞うているのだ。教えてくれと。飛躍すれば救ってくれと。
天彦は会話しながら結論を思案する。生かすも殺すも天彦の胸先三寸。生かす場合、殺す場合。双方の展開を考えながら会話を進める。
「甲斐武田の立て直しか。傾いていると自覚できるだけ器ではある。誇ってええよ。そやけど酒だけでは厳しいやろな。甲斐は色々詰んでいて魔王信長、そんな甘いお人やない」
「むろん承知。ではどうすれば立て直せる。いやどうすれば天彦、魔王の懐刀である貴卿との関係を修復できる」
「思い違いさんやが、絶対に信濃は返さんで」
「……だめか」
「ダメダメや。ここを手放すと身共が詰む」
「相分かった。甲斐をどうにか立て直してくれ。この通りだ」
勝頼は忌憚なく衒いなく率直に自身の想いをぶつけたのだろう。言って清々しい顔をして何なら感情を隠さずにこにこ微笑んでさえいる。
天彦は呆れつつも織り込み済み。この晴天の空のような気性こそが気に入っている一番の理由でもあったから。
「条件は一つ。身共の許可なく勝手なことすんな。実益もお怒りさんや」
「亜将か。然もありなん。だが此度の侵攻、儂の意図せぬことであったのだ。気付けば越後に嵌められておった。信じて貰えるなどとは思っておらぬ。だがどうすれば信じてもらえるかを道中ずっと考えておった」
「答えは出たんか」
「出ん。教えてくれ。教われば儂は従う。そして二度と間違わぬ。我が家宝、御旗盾無に誓いを立てて」
「うん。ではまず話はそれからか」
「忝い」
天彦は当然、どうやら勝頼も互いの立ち位置を確認できたようで露骨に安堵の表情を浮かべた。天彦の出方によっては戻り戦支度という未来も十分にあり得ただろうから。
これにて甲斐武田が西園寺を主君と仰ぐことが認識できた。ならば……、
「その前に。勝頼さんところで其方さんは」
「ああこれらは某が呼びつけた商人どもだ。何やら経済戦を仕掛けられていると家来どもが騒ぎ立てよるから呼び寄せたのだ。おい名乗れ。おっと、よいな菊亭卿」
「ええさんやで」
天彦の肯定を受けて、
「お初にお目にかかりまする――」
すると信濃屋が初めましての挨拶をした。天彦も調子を合わせる。かつての件が漏れれば信濃屋の命はどれだけ甘く見積もってもお仕舞いである。確実に。
そして二人目。それは意外な人物だった。
「熱田商人、加藤又八郎にございまする。参議菊亭卿に御目もじ叶いまして恐悦至極にございまする」
「参議菊亭や。よろしゅうに」
「はっ。よろしくお願い申し上げ奉りまする」
おお。天彦は率直に喜んだ。
又八郎こと加藤順政は、“熱田に図書助あり津島に右馬太夫あり”でお馴染みの熱田商頭取・加藤順盛を父に持つ、これまたじゃない方の息子だった。
父は相当やり手であり武ではなく銭が天下を支配する世の到来を願って魔王信長に臣従したとかしないとかの偉人列伝に名を連ねる側のビッグネーム。
そして対する彼は偉大な父に隠れてまったく名を訊かない歴史にありがちな二代目しょぼいの代表格なお人さん。天彦がシンパシーを感じて尤もなこちらの又八郎こと順政であった。はは、嬉しっ。
「又八郎。もっと近うに」
「はっ。はは」
天彦は護衛が渋い顔をするのを承知で又八郎を呼び寄せて言葉をかけた。
「信長さんはお元気なん」
「はい。我が主は日々忙しくあちこちを飛び回りご健勝にあらせられまする」
「それは重畳さん。で又八郎はどない言われて参ったん」
「なにも。某、何も下知されてはおりませぬ」
「なにも……?」
「はい。然様にございまする」
それは可怪しい。それは胡乱だ。
史実が確かならこの時期の又八郎は魔王の母衣衆を務めていたはず。つまりそういうことなのか。だとするとその嗅覚、いくらなんでも恐ろしすぎるのだが。はぁまんじ。
天彦は答えも決まっていないのにそうだと確信してしまって肝が冷えたのか、ぷるぷると小さく震えてしまう。
「お前さん。身共の作り上げようとしている甲信越地方の流れを読んだな」
「はい然様にございます」
「どこで気付いた。たしかに派手に銭は撒いたが京にまでは届いておらんはずやで」
「はい。京にまでは届いておりません。某、こちらの信濃屋さんとは昵懇の仲でございまする」
ああ、なるほど。
ネタが明かされると案外しょーもなかった。だが世に蔓延る奇術などたいていがそんなものとしたものなのか。天彦は信濃屋を少し睨んで催促した。
「わたくし共すべてを菊亭様に御賭け致しておりますれば。成功を疑るような真似はしておりません。天地神明に御誓い申し上げまして。ですがわたくし共は卑しい商人。期日にはどうあっても注文をつけたくなるのが職業病みたいなものなのでございます。勝つと決まった大戦。ならば以降御味方は一人でも多い方が決着は早いに決まっております。こちらの加藤屋さんも賭けに乗ってくださる由、すると以降続々と大店さんが追随することは必定。誠に勝手な真似をいたしましてお詫び申し上げます。誠に申し訳ございません」
「さよか。次はないぞ」
「ははっ。肝に銘じまする」
勝ったな。この策はなった。天彦は確信した。
一方信濃屋が暗に何を言いたいのかは察している。兄弟子吉田屋の顔の手前、信濃屋に信濃市場を捌かせることはできない。だが信濃屋は譲らないと銭も人材も噂事ひっくるめて引き上げるぞと暗に脅しているのである。
商人として至極正しい立ち回りであろう。むろんこの後の事情聴取は徹底するがあいつもあいつで破滅を賭けた大勝負の真っ最中だ。同じ境遇にある類トモの好で天彦はワンペナだけで許してやることに決めたのだった。
余談だが菊亭ペナルティの累積システムはサッカーと同じ。但し二試合目でイエローは消化されない仕様だが。その代わりレッドの一発退場はない。
さて、
するとこの件の教訓は人の和か。つまり人脈の妙を説いているわけやな。
天彦は誰に問うでもなく一人勝手に納得すると、
「甚五郎」
「はい」
「お互いにしんどいさんやな」
「心地の良いしんどさにございますが、はい。たしかに相違ございません」
「余裕かましよる。身共などいっぱいいっぱいやゆうてるのに」
「ははは、御冗談を」
「まあその反応が妥当か。そや甚五郎」
「はい。なんでございましょう」
「身共を脅して無事でいた者は摂関家九条さん含めて誰ひとりとしておらんのやが、お前さんの長生きを願うとくで」
「っ……」
このくらいで。
「佐吉、温い茶を淹れてくれるか。美味しいのんで」
「はっ。……ですが殿、こちらでは美味しいのは無理にござる」
「佐吉が淹れてくれたら何でも美味しいさんやで」
「はっ。では直ちにお持ちいたしまする」
佐吉の苦笑いで癒されつつ。
六月のじめじめ蒸し暑い気候にもかかわらず敢えて温い茶を所望するほど天彦の心胆は芯から冷えているようだった。




