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雅楽伝奏、の家の人  作者: 喜楽もこ
五章 万里一空の章
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#15 信濃の端っこで愛を叫ぶ、のん

 



 永禄十二年(1569)五月二十四日






 基本原則、信濃は今後十郡一国として行動せよ。自給で不足する食糧は買って補え。耕作地を増やそうなどと無駄な考えは一切捨てろ。その上で有事に備え最低でも六十万人が食べられる一年分の主食は備蓄せよ。諸問題のすべてを共有しそれらすべてを国単位で把握し補足し管理し実行せよ。つまり貴様ら国人は役人となれ。と天彦は要求した。


 言外にではなく誰の耳にもハッキリと。領民も満足に食わせてやれない貴様ら国人が領主面するなど千年早いと言い捨てたのである。

 言葉は確かに厳しいが一方では真理もある。即ち何を置いてもまず食糧政策を優先させよ。というメッセージに他ならない。

 国と言っても僅か六十万前後の集まり。京なら洛外の一区画程度の規模。そう無茶な要求でもない。彼らの訴えが本気でありかつその気にさえなればだが。


 だから天彦はその本気度を試した。まず自らの立場を明かすことによって彼らの本気度合いを計ったのである。銭どぶ上等の覚悟を以って。

 何の縁も所縁もない菊亭が公卿家として信濃国の統治政策が安定するまでは甲斐との交渉役を請け負ってやるからと申し伝えてまで、決意の程を示したのである。加えて経済政策指南である。つまり言い換えるなら信濃国の安定に継続的に寄与することを宣言したのも同然であった。


 子供にしか見えないそれも公卿にここまでの漢気を示され感化されない武士もののふがあろうか。ない。彼ら信濃武士は一々善良で暑苦鬱陶しいほど真っすぐだった。

 天彦の心意気に触れ揃いも揃って感動に打ち震えてしまいもうダメ。すっかり天彦に心酔している風である。おそらくその確度は100以上。

 天彦はほんとうにまったく意図せず確率論的有意の可能性すら残さず、残らずすべての国人衆の心をがっちり掴んでみせたのだった。見つめてくる目の奥の光がウザ眩い。


 そのウザ眩い目をした代表格左近大輔重信がすっかり直臣顔で問いかける。


「しかし殿様――」

「待て」

「はっ。待ちまする」

「……身共はお前さんの殿さまではあらしゃりませんが」

「殿さまであらしゃって頂けませぬとこの感情に収まりが付き申さん」

「おいコラ知らんし」

「存じてくだされ何卒」


 すったもんだの末、いずれ時期が来れば前向きに検討すると言質だけは与えず避けられた。これはセーフなのか。知らん知らん。

 天彦は大きく頭を振って一瞬脳裏に浮かんでしまった残念なお知らせを振り払って先を促す。


「はっ。菊亭様はなぜそこまでして我ら信濃衆に肩入れなさって下さるのか。我らにはその点だけがどうしても得心いかぬのでござりまする」

「お前さんらに合点が必要とは思わんけど」

「何卒」

「ふーん。ほな身共が神仏の生まれ変わりやからや。そない思うとき」

「はは、まさか。いくら御冗談でも笑えませぬぞ」

「あ、うん」


 左近大輔重信の目が冷たい。見てはいないが周囲の国人連中も似たような眼をしているのだろう。顔面に感じる圧もそうとう冷たい。

 これを世に言う滑ったということか。ぐぬぬぬぬ。遠慮したったのに。そっちがその気なら本気だそ。天彦は面倒くささに匙を投げた。


「身共が今現在、願をかけた善い人キャンペーン中やからや。お前さんらはラッキーやった。ただそれだけのことにおじゃる」


 結果、左近大輔重信には“はあ”としか返せない彼らにとっての不明瞭な答えが返ってくるばかりで、天彦の真意など誰にも理解されずに終わる。


 キャンペーンとラッキーはさすがに無理があるのだがラウラ不在の今の菊亭にその当り前を指摘する者はいない。その余裕もないのが実情であろうか。

 彼ら菊亭家来衆もあるいは信濃国人衆より更について行くので必死だから。天彦曰くのお遊戯会パーティーはそんじょそこらの武門の御家より遥かに厳しい環境下で日々を必死に過ごしていた。


 天彦は何もかも一切合切ひっくるめて他人に決断を強要しない。つまり裏を返せばすべての決断延いては行動に自己責任が付きまとうということである。

 これは相当の難題で当たり前のようでいて中々ない。それは未来の現代でもきっとそう。規則も縛りもない中で己を律することの難しさは普通の感覚の人ならわかるはず。

 天彦は意図的にかどうかはいざ知らず、それを結果的に家中に強いていることは紛れもない。そんな家来の心境たるや。個人差は大なり小なりあるとして控えめに言って悲惨である。

 いずれにせよ天彦について行くということは、規則に縛られるより何倍もきつい試練が課されていて従う者の確固たる意志と決意が何に置いても必要だった。



 閑話休題、


「信濃十郡のお沙汰、万事太政官菊亭様にそっくりお預け申す所存」


 信濃十郡の盟主である左近大輔重信が宣言して天彦の前に首を垂れた。国人領主たちも後につづいて服従の意を表明するのであった。

 天彦とてここまでの服従は望んでいなかった。だがこれにて一旦の掌握作業は終了した。お次は第2フェーズに移行とプログラムを脳内で整理していると、


「若とのさん。なんや得意がってるとこあれですけど、今けったいなお言葉使てはりましたよ」

「得意がってはないで。でもそない見えるんやったら気ぃつけよ」

「はいむちゃんこ得意がってます。ラウラいてませんし気ぃつけてください」

「え」

「なんやけったいな若とのさん言葉使てましたよ。お二つほど」

「ああ、しくった。おおきにお雪ちゃん。気を付けよ。でも得意がってへんで」

「はいはい」

「あ。二回ゆうた」

「はい二遍ゆうたら嘘のやつです。それが何か」

「あ、うん」


 案外強い口調で返ってきたのであっさり引いておく。雪之丞、鉄砲隊を指揮してちょっと気が立っているようである。


「そやけどほんまに家来にしますのんか」

「なにが」

「このお人さんらです」

「家来にはせんやろ。誰がゆうたん」

「ゆうたのも同じですやん。この調子やと」

「ちゃうよやめてや。一寸の間面倒見るだけさんや」

「もう何を申されても無理っぽいですけど。このお顔では」

「いや、まぢで知らんから」

「はいはい」

「あ」


 しかし一方で左近大輔重信の問いも尤もであり、普通に考えて信濃案件関与は菊亭には何の利益もないことである。あるいは大損さえしている見方だってできるのだ。一つに今後確実に油座とは大揉めするだろうから。なにしろ菜種油への付け替えなどただの詭弁、座認可ハックに過ぎないのだから。

 これは権威側、特に朝廷側の勢力が絶対に行ってはいけない掟破りの最大事例である。座に専売的な建付け特権を与えているのは朝廷だからだ。

 そして菊亭はその権威の代表格。否応なく参議とはそういう格式である。即ち菊亭家は少々ではない問題を抱え込むことになってしまう。


 二つに延いては座の存続を願う二枚舌の観点から生命線である織田ともギクシャクしてしまうという危険をはらんでいる。しかもまったく逆の意味で将軍家とも更に揉める引き金となり得た。多くの座に将軍家は深く綿密に入り込んでいるからで権威を虚仮にされたと思って至極当然の予測が立った。

 そしてさらには信濃路中山道から近江を経由して京に持ち込まれる信州特産品の数々が菊亭印と知られればどうなることか。

 魔王はああ見えて猜疑心が強いのだ。そしてこうと決めたときの沙汰も苛烈極まりないものとなる。それでなくとも甲越同盟の裏に菊亭の存在を認識している状況化、果たして揉めるだけで済むのだろうか。それどころか未来に禍根を残すいらぬ疑念も植え付けることにはならないのか。家来皆の関心はその辺りに集約されるだろう。


 結論、なる。総合的に何一つ善いこと無し。お仕舞いです。言ってしまえば菊亭にとって即ち天彦にとって悪いこと尽くめである。それがこの信濃国救済策の全貌であった。

 だからこそ左近大輔重信は意気には意気で。そんな思いを押し出し信濃国人衆を代表して天彦に問うたのだ。それは破滅と何が違うのかと暗に仄めかして。

 なのに天彦はそうと知りながら独断と偏見でこの策を断行することを決意したのだ。あっさりすっぱり表立って堂々と。


 だからこそ皆が痺れているのだが、その結論に至った理由はただ一つ。

 この理由からだけ。樋口与六にお前というお人さんを身共は愛しているんやでと行動で伝えるためだけに銭どぶ上等、破滅上等で死地に飛びこむ決意をした。

 与六にはいつでも帰ってくる場があると知らせるためだけに、たったそれだけのためにこの無謀な行動に踏み切る決意をしたのである。

 まあ要するに信濃の端っこで愛を叫んだわけなのだが、控えめに言って狂っていた。どれだけ低く見積もってもどうかしていた。つまり天彦の正常性は健在だった。今日も今日とてぶっ壊れて。


「名付けて、後へは引けぬと決めたからには己を貫き戦うまでの巻、さんや」


 天彦は与六の名言をそのまま引用して得意がった。そして嬉し味にあふれたアホ丸出しの感情で雪之丞にどないかっちょええかと目で問うた。

 しかし雪之丞は至って正常。目で答えが返ってくるより早く言葉が届く。


「若とのさんのこと久々本気でアホやと思った」

「おおそっちも久々強いさんやな。でも一応人前や、敬語使うとこか」

「こんなどアホに尊敬要りますやろか」

「あ。そんな感じな。でもいるんちゃう。知らんけど」

「やっぱし阿保なお人はひと味違いますね」

「ほう、お雪ちゃんも今日は舌鋒の切れ味が一味違うね」

「そら一の家来ですよって」

「ええことでもあったん。なんか知らんずっと楽しそうやけど」

「はい。それはもうむちゃんこ」

「へー、おおきにさん」

「どういたしまして。うふふ」


 あはは。


 愛想笑いにも苦味が混じる。まさかの展開、雪之丞に弄られるとは。もう一度言う、あの雪之丞に弄られるなんて。

 だが天彦としても自分自身で阿保の自覚があるので異論はない。だからといって雪之丞に正当性があるのかと言えばそれはそれで怪しいけれど。

 なにせ彼ら菊亭ご家来衆だって、その天彦に負けず劣らず正しくどうかしている者の集まりだから。


 天彦は自分の異常性を差し置いて確信している。こいつらまぢもんのアタオカであると。

 その裏付けとして、菊亭家中も九分九厘主君の意向を尊重して最悪は共倒れしてもよい覚悟で全面的に賛同してここにいる。あるいは天彦への信頼感だけでこの場にとどまっている者もいるかもしれないがそれも結果的には同じである。ギルティ。

 そして残り一厘の不賛同者にしても態度を正式に表明しているわけではなく、ただ単に顔に不承知と張り付けて拗ねているだけなのでこれまた賛同したのも同然である。やはりギルティ。

 その不服ながら確実に同罪である菊亭のホワイトデビルこと長野是知君、その彼は今や中心的役割を担うべく天彦の至近におっちん。雪之丞を追い払わんばかりの勢いでちゃっかり祐筆ポジを確保している。


 ほらね、真っ黒黒やん。漆黒やん。


 天彦の理論方程式の正誤はさて措き、そんな推定有罪確定メンツの集合体。普通に考えてむちゃんこヤバくて痛いヤツらの集まりに決まっている。

 ともするとそれが菊亭家の本質ということになるのだろうけれど、周囲からすればこの上ないほどいい迷惑。何しろ人の行動学上どんな世界線にあろうとも損得を度外視して銭どぶ上等理念で行動する者ほど厄介なものはいないから。故にこの扱いづらさには善悪表裏一体の含意がある。

 そしてしかもその上に、その行動理念の中身が皆目見当もつかないとなれば猶のこと人様の目には恐ろしく映ってしまう。としたものである。

 疫学的にだとか統計上だとかいう数学的ロジックではなく、ただ単純な印象的に。あるいは漠然と抽象的に。人々は天彦を見る目にバイアスをかけてしまうのである。


 これは感情を含めて神仏への信心に通じる人類普遍の真理である。つまり天彦には信濃国人衆の恐怖心を取り除く義務があった。出来るかどうかはこの際さて措いて。


「これより質疑応答を始めます。質問者は挙手をし当てられたらその場で立ち上がらずに所属と名を名乗ってからご発言ください。ではどうぞ」


 祐筆ポジ是知の仕切りで説明会が始まった。いや待て要らんやろ。


「殿、なにか文句でもございますか」

「文句」

「はい文句です」

「あ、うん。無いかな。ほな是知にお任せさんしよ」

「はっ。この長野に万事お任せあれ」


 お、おう













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