#14 後へは引けぬと決めたからには己を貫き戦うまで、ていう
永禄十二年(1569)五月二十四日
ええい是非もなし。者ども出合え、出合えおろう!に代表される悪役居直りムーブが炸裂するとハッキリ言って詰んでいた。そうはならなかったことに一旦の安堵を預けつつ、けれどその危険はずっと潜在化していて会談は常に波乱をはらんでいた。
特に人質引き渡しの場面などはハラハラ物で、あろうことか救われたはずの葉室尚書は散々に痛めつけられた敵側ではなくまさかの救出側であるはずの天彦を江戸の仇とばかり散々っぱら罵った挙句、顔に目掛けて唾を吐きかけたのである。
その場面が会談最大の見物であったとかなかったとか。まだ双方共に本題さえ切り出していないというのに。
「ンぐ、ンががが、んごんごっ!」
その葉室尚書定藤は猿轡に手足の自由を奪われた簀巻きの芋虫君状態で邪魔にならない隅っこの床上に転がされているわけだが、あるいは本人にとってあの場でお望み通りにナレ死させてやった方が情けだったかもしれない。
以降ときにさめざめとけれどずっと延々と蟲毒を内にため込んだようなハイライトの消えた双眸で呪怨を送り、それでも物足りないとばかり吐き続けられている妹御前のおどろおどろしい呪詛の言葉を耳にすれば。誰だってそう思う。否が応にも明日以降に繰り広げられる地獄でも生温いだろう惨苦の日々が容易に想像できてしまうから。
葉室尚書、ある意味いいキャラをしていたがいずれにせよ葉室家と共に終わった。西園寺閥入りを確と請け負い念書まで交わしてしまっては。新当主の椛姫の手によって直々に。
椛は名家葉室家の当主となった。椛が婿を取るまでの暫定措置だが筋は通る。帝もお認めになられるだろう。何しろ後ろ盾が参議菊亭なのだから。
では朝廷における参議とはそれほどに絶大な権威を有しているのか。否である。参議はそれほどの要職ではない。たしかに偉いが流儀やしきたりを捻じ曲げて通せるほどの最重要なポストではない。ならばなぜ。天彦だから。その一言に尽きるだろう。
誰がなんと言おうと天下は魔王信長の手中にあり、将軍義昭などお飾りにすぎない。それが大方の認識である。そして今現在の京で天下さんたる魔王様と丁々発止五分の交渉ができる人物は天彦を置いて他にない。即ち裏を返せば天彦の意向を無視できる存在もそう多くはないという図式に繋がる。
むろん絶対敵対勢力を除いてという前提条件は必要だが、少なくとも政に携わる人々にとってその図式はより鮮明なものとして各々の脳裏に描き出されていることだろう。故に通る。絶対に。
何より天彦は確信しているからこそこの策を用いたのだ。しかもそれほど罪悪感は覚えていない。女性の当主襲名が実は自然な概念であることを心中のどこかにけれど確と根差しているから。
しかし一方で、女性が当主になることを善しとせず、または何らかの危惧を覚えるのも間違いとも言い切れない現実は無視できない。女性は単にフィジカル的に弱いからだ。それは幼い子供にも通じることで、弱いとはそれだけで悪とされる理由である。簒奪が容易になってしまうからだ。力ずくの。
故にその点さえカバーもしくはフォローできてさえいれば女性当主は成立すると知っていた。
それを伝えたのがついさっきのこと椛姫は深刻な表情で考え込みけれど殊勝に承服した。
「誠に申し訳なく面目次第もおじゃりません」
「もうええ。こうなることは予め打ち合わせてあったはずや」
「ですが……、兄がまさか。いまだに信じられぬ思いに胸が張り裂けそうにおじゃります」
「ふっ、張り裂けそうなお人さんはもっと青いか白いお顔をしたはるもんやろ」
「そんなはずは……ですか。以降は気を付けます」
「そうしい。でも驚きは本心か。兄を侮っていたんやな。あれは案外やりおるんや。もっちぃなんかは地獄を見せられとったんやで」
「二度とこのようなことを起こさぬよう厳に言い聞かせておきますので何卒ご寛恕くださいませ」
もっちぃが勾当内侍の生家であり前の参議現中納言薄以緒の嫡男だと知ったらきっと卒倒するだろう。だが椛姫は余裕ぶってみせても内心ではいっぱいいっぱいなのだろう。それと気づく余裕さえないほどあっぷあっぷ状態で目を回していた。
「まあ底まで落ちたら上がるだけや。お気張りさん」
「はい。そのお言葉を胸に刻み込み菊亭派閥の末席として精進して参ります」
「ちゃうで。西園寺さんや」
「同じでは」
「間違えたらあかん。菊亭派閥などどこにもあらへん」
「なぜでしょう。我が葉室は菊亭を君と仰ぐ家門であって西園寺に忠誠は御誓い申し上げておりません。その思いは菊亭様のご家中皆さまも妾と思いを一になさっておいでと存じますが」
「本音と建前、公家の連枝ならいっちゃん大事なん知ってるやろ」
「むろん承知いたしております。ですが今は天彦さまと二人きり」
「……ようけおるけど、まあええわ。たとえ素振りでも今ゆうたようなことを訊かれたら実益、オニ拗ねるやん。拗れたらめんどいねん、あれ」
「拗ねるだけで御済になるので」
「済むやろ。なんでや」
「まあ。うふふ仲のお宜しいことで。ではそのように」
「うん、そうしたって」
少しだけ声に張りが戻ってきたところで天彦は椛姫とは一旦お仕舞い。会話を仕舞う。
さてこれにて副題は片付けた。これからがいざ本題である。
これからの交渉、天彦の見立てでは五分五分。下手をすると血を見ることになるだろう。それほどの要求をする腹心算であった。
なので天彦は会談の場を移す申し入れをした。むろんそうとは知らない高遠には素直に受け入れられた。
その移動の最中、天彦は雪之丞にそっと耳打ちごにょごにょごにょ。すると雪之丞は暇を持て余していた退屈顔から一転、一気にぱっと頬に朱味を差し冴えた表情に移し替えると目を爛々と輝かせて力強く「はい!」何事か請け負い移動の列から消えていくのであった。
常なら佐吉と特に是知が詮索の目線と小馬鹿にしたような顔を向けるはずだがそれもない。彼らは彼らで天彦より授けられた策のことで頭がいっぱいなのだろう。
今も脳裏に浮かべているだろう作業手順を懸命に反復させているようで気もそぞろ。まるでうわの空であった。
◇
一同は座を一階客殿大広間へと移し会談は再開された。
大前提、反乱同盟のお味方になる。何なら条件次第では後ろ盾になってやってもよい。この菊亭大方針を明かすと想像以上のどよめきと感嘆の声が沸き起こった。国人たちは口々にとんでもないほどの感激の言葉を送り付け、天彦が持て余すほどの賞賛の言葉も送るのだった。
手応えは悪くない。以降はスムーズに進行した。天彦からは二三要望を申し入れただけですべて条件提示なく受け入れられた。今や信濃国人衆、もうすでに勝った気分なほど浮きに浮かれている。
菊亭家中の危惧はどうやら杞憂に終わりそうな気配の中、会談は終始天彦優位に進んでいきこのまま穏便に終えるものと天彦を除く菊亭の誰もが思ったそのとき、とんでもない爆弾発言が投下されてしまうのだった。
ほら、みろ。
且元、氏郷、高虎の口がものの見事に揃っていた。
今となっては彼らに限らず菊亭家中、動揺らしい動揺を見せる者はほとんどない。この主君に着いて行くとはこういうことなのだとおよそ理解と承知をしている風に。
けれど事前には聞かせて欲しくはあるようで、何も聞かされていない菊亭家来衆の実に印象的なおっぱじまったやれやれ顔が広間に浮かぶ。
そんな中、この城の城主であり信濃血盟連合の盟主でもある高遠諏訪左近大輔重信は、冷静ながらも迫真の気迫を込めて天彦に迫った。
「――なんと仰せか。もう一度、仰っていただきたい」
「何度でも申したろ。兵を引上げ信濃血判同盟は即刻解散、元鞘に収まるんや」
「元鞘とは」
「むろん甲斐の麾下に収まることや」
「何故」
「菊亭の利益の御為。延いては天下安寧の御為。大義に不足はないとお思いさんやがどないさん」
「本意なりや」
「あたぼうさん」
「ふざっ、けるな小僧っ!」
壁板が震えるほどの激情が乗った大喝が轟く。その感情に呼応して信濃国人衆が息巻いた。するとたちまち終始穏やかだった本丸一階客殿会談の座に緊迫で生温い感情が渦巻いた。
「事と次第によっては如何な参議とて御無事には帰しませぬぞ」
「ははは、おもろい。その喧嘩高値で買うたろ」
「喧嘩。やはりお子様。話になり申さん」
「家と家。子供とか大人とかこの際あまり関係ないようにお思いさんやが、するんか。喧嘩。それともしっぽ巻いて逃げるんか」
「なにをっ、ならば喧嘩上等! 我ら鎌倉幕府創設に大いに寄与した源氏信濃武士の末裔哉、弓馬で挑まれ怯む道理などどこにもござらぬ」
美しい態度表明に天彦は思わず目を細めて感じ入った。だがそれはそれ。
天彦は表情から色味を失くし実に作業的に扇子広げひらひらと仰ぐ。すると途端に耳をつんざく発砲音が轟いた。
「うおっ!? いったい何が」
「な、何事かっ」
「なんだこの轟音は……、うお、またかっ」
「も、もしやこれは」
「た、種子島か!」
しかも一度ではない。二段構えの六十連発である。その迫力たるや弓馬に長けた信濃武士とやらの戦意を削ぐには十分だった。ともすると表に駈け出そうとしていた侍たちが思わずその場に尻込みしてしまうほどの猛威だった。
余談だが策を用意した本人があるいは一番早く「えっぐ、まぢえっぐ」と声を出して一番びびっていたので余程の想定外の威力であったことは紛れもない。
おまけに破壊力も天彦の想定を超えて凄まじかった。ある意味世に送り出してはいけないやつレベルの出力だった。だがそれもそう。
射干党の持ち込んだ技術力は世界の最先端を行っているのだから。手回しの連続発射銃。一般的にはガトリング砲と呼ばれるだろう機関銃。ガトリンさんが生まれる二百年も早く射干党はこの世に顕現させてしまっていた。つまり……。
天彦は未だ人物紹介されていないがどうやら技術ヲタ(ギーク)がいることは間違いなさそう。それも一人や二人ではなく。故に天彦の知識チートなど出る幕はないのである。あるいはひょっとすると天彦の何の気なしのつぶやきを、まんまと拾われてしまった結果の産物かもしれないけれど。
閑話休題、
この時代の最先端チート武器が火を噴き炸裂した。被害は二の丸虎口搦手門。いや被害などという生易しい結果ではない。跡形もなく消し飛ばされこの世からその形跡を失ってしまっていた。
菊亭ガトリング砲はその威力の途轍もなさをまざまざと視認させてこれでもかと猛アピールして存在感を誇示してみせた。数名の誇らしそうな砲手を除くとほとんどすべてが引いていた。果てしなくどこまでも。普通は引く。誰も彼もがドン引きして尤もであった。
それを証拠に、もはや爆裂魔法と言われた方がいくらか得心いってしまうそんな凄まじい結果を前にそれは敵味方関係なく。あるいは発砲した当の本人らも例外ではなく唖然愕然とその効果の程から目を張り付けたまま完全に言葉を失ってしまっていた。
「あ。……えと、まだやるさんか。身共としては白旗がおすすめやが」
「あ。お、お見事にござった。この通り参り……、申した」
「うん。それでええ。そないしよ」
「はあ」
それがいいというよりもそれしかないという空気が蔓延していた。この空気感を文字に起こせば戦意喪失となるのだろうが、あるいはそれの上位互換っぽい空気感が広がっていた。
そんな敗北ムード一色の中、左近大輔重信は誰よりも早く我に返ると「ぐぬぬぬぬ。一生の不覚にござった」さすがの武人たる矜持を示した。だが、
そうでもないよ。
天彦は独白を言葉にはせず、けれど最大限の敬意を双眸に乗せて暗に健闘を称えた視線を送った。花丸さんやろ。あれに挫けへんのはほんまもんやわ。
返ってきた受領書を確認してさて視線を表に。そこには完全に固まってしまっている青侍の誰かさんに、身振り手振りで自身の感動を必死に伝えようとしている指揮官の姿が。
天彦の目が思わず優しくなってしまう。少し目頭が熱くなっているかも。
その感情のまま人物に優しい目を向ける。見事鉄砲隊を指揮してみせた自称菊亭一の御家来さんに“おおきにさん”の合図を扇子越しに送って労をねぎらうのだった。
さて、
「左近大輔」
「はっ」
「お話し合いしよか」
「……完敗した上にお情けなど。それこそ信濃武士の名折れにござる」
「それは違うよ。ほな訊くけど、なんで決起しようとしたん」
「恥ずかしながら信濃は苦渋に喘いでござる。民百姓は女子供を質に預けて糊口を凌ぐ始末。日々の圧政に堪えられず反乱は絶え間なく尽きず、こうしている今もどこかで領民が飢えてござる。この左近大輔重信、天地神明に御誓い申し上げ私心はござらぬ」
「知ってるで。そやから蜂起せんでもええ策を授けようとゆうてるんやで」
「へ」
天彦はフリーズしてしまった左近大輔重信を放置し、イツメンたちに目配せする。そして予め策を授けてあった二人に向かって、
「佐吉、是知。さあ出番や。菊亭の諸太夫さんがどれほどのもんか、授けた策と三徹の成果を存分に信濃衆さんらに見せつけたってや」
「はっ! 一所懸命に気張りまする」
「はい、お任せあれ。某が必ずや成功裏に納めてみせまする」
天彦はうんうん。さて仕切り直し。依然として座は落ち着きを取り戻さないまま、けれど天彦はお構いなしに改めて会談の場を設けるように指示を出すのだった。
◇
一刻ほどの間を置くといい加減座も落ち着きを取り戻しつつあった。それでも完全には程遠いのだがそれもやむを得ないだろう。1挺の菊亭ガトリング砲と60挺の鉄砲が火を噴くというあれほどの衝撃をその身に覚えてしまっては。
ほんとうにギリギリの賭けだった。反骨精神を剥き出し反発されたら殲滅しなければならなかった。すると味方にも少なくない被害が出ただろう。
信濃連合の盟主である左近大輔重信はなるほどやはり武人であった。思考が直線的とでもいうのか自己完結的に潔すぎた。
あるいは最悪の場合流血も辞さない覚悟だった天彦の覚悟勝ちだったのかもしれないが、一滴の血も流さず菊亭の軍門に下ったのはさすがに驚く。
なのでこうして潔く負けを認めておとなしく従ってくれる物わかりのいい大人は大好き。
物事は是々非々対応。それが菊亭の家風である。しかも天彦は格上。格下の頑張りに“いいね”をするのだ。書面にせよ物品にせよいずれにしても目に見える形で褒美を取らせなければならないだろう。それが室町のしきたりだから。
「そこにはそれを。あそこにはこちらを置いてくれ。順序は正しく」
「はっ」
「違う。それはそちらだ」
「は、はい」
佐吉の実に活き活きと活気あるいい声が場に飛び交う。
天彦は命を救われたにもかかわらず腰・膝どころか首の一つも折れて曲げない元上司を視界の端に捉えながらも存在を完璧に黙殺して、まぢ助かるぅの顔でニコニコと笑顔を振り撒いて手際よく指示を飛ばす佐吉を眺める。ご褒美かな。
広間には次々に図面や計画書が運び込まれていく。つまりそうと決まれば実務交渉。予てから打ち合わせてあった通りに佐吉と是知を主体としたプレゼン兼実務者レベルの政策協議の支度に入らせている。むろんプレゼンが全面的に採用されると確信した上で。
むろん信濃国人衆は終始ぽかんだ。未だ天彦の要求が何であるのかさえ理解できていない風に、ただ求められるがままに祐筆や政策通の文官武官をこの場に呼び寄越して成り行きを見守る。
「ぬぐぅ、されど荏胡麻は離宮八幡のご禁制品。大山崎油座の認可状なくば販売どころか搾ることも適わぬと存ずるが如何」
「むろん承知。ですから我々は油座の縛りにかからぬよう水油の種類を変えるのでござる」
「種類を変える、とな」
「然様。荏胡麻油は文字通り荏胡麻を原料としてござる。ですからこの原料を変えてやればよいのでござる」
「理屈では可能。ですが――」
「御聞き召され。これぞ我が殿の神髄を」
まあ普通に菜種油なわけだが。
それでも時間を早めたのだ。売れてくれなくては困ってしまう。売れろ。
当面は食用というより行灯を始めとした照明用燃料として拡散していくことだろう。少なくとも京では爆裂的に売れるはず。だが食用として広まるのはタヌキなお人の登場待ちか。知らんけど。
お、あの確度はええ顔さんやわぁ。
天彦は佐吉が実にいい顔でプレゼンを行っているのを、更に輪をかけたいい顔で眺めている。普通に嬉しい。佐吉が尊敬の眼差しで皆から見られていると。あるいは自分のことよりもずっと。是知は……、ちょっと出しゃばりすぎかな。
隙あらば出し抜いてやろうの姿勢で虎視眈々な是知と、そんなことは承知していながら一切お構いなしに我がすべきことに腐心する佐吉との、そんな二人のお仕事姿を見ながらずずず。飲む茶のなんと……、大して旨くはない茶を啜る。味に吝嗇は付けられない。何せ持ち込み品だから。
あの困窮ぶりを耳にして超高級品の代表格であるほうじ茶を馳走せよとはさすがに口にできない。天彦の弱弱メンタルでは。
現下信州の総人口は推測ベースで十郡合わせてもおよそ60万人。これでは甲斐や越後を入れたところで当初検討していた地方経済圏の確立にはそうとう厳しい。やはり総体数は必要である。
だからといって織田経済圏に組み込むのもかなり無理があった。というのも信濃国にはこれといった工業特産品がなく、あるのは食品系特産品ばかりだから。
輸送に時間がかかりすぎては一大消費国の京都に届くまでに腐ってしまって商いにならない。また腐らない保存食は何も信州で作られなくともよいという理由で押しが弱い。オヤキは確かに美味しいが爆発的な産業になるほどではない。
だから苦肉の策の油であった。ガラス工芸品も検討したが五百年早いと断念している。リンゴも候補に挙がったが即効性と特質性の観点から却下した。すべては追々。この時代の果実はしかもあまり美味くない。品種改良さまのお早いご登場待ちである。
故の油。だが本来なら天彦は座との衝突は避けたかった。ただでさえ寺社とは揉めている上に、この手法は奇策だが詭弁でしかないからだ。必ず摩擦を起こすに決まっていた。
なぜ揉めたくないのか。簡単である。座を死守したいからに決まっている。今や香油座の特許益は菊亭運営に欠かせない収入源となっていた。
座が生み出す利益はそれほどにえげつないのだ。菊亭はその恩恵に預かりまくっていたのである。
だがご存じのとおり魔王信長は座を廃止したい勢の最大級勢力。楽市楽座は信長の代名詞でもあり織田軍の編成上欠かせない制度でもある。経済基盤こそが織田軍の生命線だから。
故に関を廃止し座を廃する。ありとあらゆる既得権益からすべての職種を開放するのだ。そして市場経済の場に委ね自由競争させた上で織田が勝つ。それが織田軍に与えられた至上命題であり魔王信長の歴史的存在意義だから。
だがその制度促進を停滞または頓挫させようとしている者こそが菊亭天彦であったのだ。目下織田家の押し進めようとしている自由経済政策の抵抗勢力筆頭でもある。その点だけでは寺社との共闘も十分あり得たほど頑なになって抵抗している。
そして天彦の意を酌んでかどうかはわからないが事実として楽市楽座制度は未だ依然として尾張・岐阜で停滞しているのである。数年後には織田本拠が建つはずの安土城建設予定地先の近江桃山にさえ来ていない。この事実ひとつとってみても天彦の特別優遇っぷりが覗えるが。
このように織田経済圏の楽市楽座制発布延期は天彦がむしろ抑え込んでいる側であったので、その座とは揉めたくないのである。織田軍に飛び火する僅かないらぬ火種も落としたくないから。
閑話休題、
佐吉の数字に基づく提案は思いの外反響を呼んで多くの国人衆に受け入れられたようである。やはり数字は偉大である。笑いの次くらいには偉大である。むろんその数と同等数の未だ釈然とはしていない国人衆も置き去りにしているが。
「……何たる奇策。しかしこれが通らば我ら信濃衆は莫大な財源を手に入れまするな」
「然様」
「しかし凄まじいな。現に恐ろしきは菊亭様のこの書式か……」
「然にあらず。現に恐ろしきは無知にござる」
「何たる精緻な書式であることか」
「菊亭えくしると申す」
「だが食えぬ餅なら意味は無かろう」
「菊亭ならば絵に描いた餅も食え申す」
佐吉の懇切丁寧な応対もやはり徒労に終わるのか。誰かが猛然と立ち上がると異論の言葉を声高に叫んだ。
「あり得ぬ!」
「そうだあり得ぬ!」
「そうやって言葉巧みに籠絡しようとするのが公家の技前よ」
「そうだ。各々方お気をつけ召され」
「通るのですか! 参議家ならば」
如何、如何、如何。
すべての視線が佐吉に刺さる。だが佐吉は慌てず騒がずむしろたっぷりと間を取り大仰に振舞ってみせた。敬愛する主君のやり口の完コピである。
「然様。誰もが不思議に抓まれまする。ですが終わってしまえば万事術中。よろしいか各々方、これは菊亭に従うのか否かの議論に非ず。信濃国を、いや信濃の民を窮状からお救いするかどうかの議論なりけれり。応と申さば挙党一致して事にあたっていただきたい。某からはそれだけにござる如何なるや」
応、応、応――。
ほぼ無限の応が返ってくる。佐吉だんまりでコクリ。それを見た天彦はにんまり。そのどちらも見た是知はなのに憮然ブスっとした。如何にも不愉快ですと言わんばかりに。おまっ。だが今は後。天彦は佐吉から託されたバトンを受け取る。
「殿。お膳立て済んでござる」
「ん。ようやった。後は仕上げを見せたろか」
「はっ。確とこの目でお見届けいたしまする」
「うん」
満を持して立ち上がると愛用の使い込まれた扇子をぱちり。座の意識を自らに向けた。
「さあどないさんやろ。信濃衆のご面々さん。一の矢に続く二の矢三の矢を繰り出すこの菊亭の次なる策に乗るや否やお如何さん」
だが反応が薄い。薄いどころかまるでない。む。アカンのんか。なんやこの無反応は……。え、従わせるだけではなくお土産もちゃんと持たせるの巻やのになんで。
天彦は大いに焦った。佐吉にええとこ見せなあかんのに。その一心で焦りまくった。
だが延々とレスはなかった。愕然とする天彦だが、横に目を向ければ更に愕然とする佐吉の顔が。そういうこと。
天彦は是非とも“いいね”をくださいねの感情で慣れない上に、しかもど下手な愛敬を振り撒いているのである。それが逆に信濃衆を萎縮の極致に落とし込んでいるなどとは露とも知らずに。思わずに。
それは厳しい。それでは無理。あの藤吉郎をしてトラウマにさせるほどの技なのだから。天彦の中に越後ドラゴン待っとれ絶対しばくの感情が僅かにでも芽生えているかぎり、天彦の振り撒く愛敬や笑顔が人々の心を解すことはけっしてない。
菊亭恐怖の象徴こそが天彦の顔に張り付く渾身の笑顔であったから。ふざけろ泣くぞ




