#03 金銀恋歌、愛が何かを知らないけれど
永禄十二年(1569)五月二日
やはり登朝を避けていると見られているのだろう。参内を明後日に控えた昨日から明日に控えた本日にかけて、僅か中一日で都合三度の勅使来臨という周囲も驚嘆する珍・怪現象が天彦の定宿とする陣屋界隈で起こっていた。
こうなるともはや勅使という名の参内催促念押し便であろう。だが朝廷の危惧は正しかった。天彦はあろうことか昨日の負傷を理由に参内ご辞退の申し出を行っているからだ。
だが朝廷サイドもはいそうですかと笑って辞退を承服できない。最低でも期日を限った延期の言質を取らなければ面目が立たない。やはり二度お顔を潰されるとさすがに黙っていられないということなのだろう。四度目の勅使に帝の寵姫である目々典侍を御寄越しになられたのである。
優秀な外交官であらせられる宮廷女房の御来臨にさすがの天彦も平身低頭、丁重にお迎えした。むろんだからといって折れることとは無関係に。
朝廷の利益代弁者とはいえ心を尽くして話せばわかるのだ。特に目々典侍は。
雨期のサバンナほど草を生やしつつ、けれどもちろん儀礼に則り何かをお土産に与え登朝延期の言質を勝ち取った目々典侍はほくほく顔で去っていった。他にも個人的利益多数強請ったったという満足げなお顔で。
他方勝ったはずなのに精気を吸い取られたような目でお見送りした天彦はそれはそれ。夜更けまで何かを熱心に打ち合わせしていたとかいないとか。
そして暇や、暇さんや。ああなんて実りある高等遊民人生なんや(棒)。自分にしか刺さらない雑味いっぱいの皮肉を内心に、翌朝陽が昇るよりも早く陣屋を出立していた。
余談だが勅使御来臨のほぼほとんどに天彦は不在であった。必然留守を預かる家人が承っているのだが、イツメンは常に天彦の傍に侍っており居残り組など何なら天彦は存在を認知していても顔と名前が一致しないレベルである。
するとこちら居残り組諸太夫文官たちに勅使をお迎えするそんな格式が足りるはずもなく。応接は勅使が終始怪訝な顔をして最終的には“お前ん家ほんま大丈夫なん”をやんわり京風ではなく直截的に言って投げかけて帰るほど惨憺たるものであった。
たしかに勅使の言も一理ある。でもみーんなむちゃんこ若い、いや幼いんやからしゃーないんやで。天彦的にはきっとこう。だってそれは無礼ではなく単なる無知なのだから。経験不足による。
それでもそれは自分都合。対外的には通用しない詭弁である。客観的にやはり菊亭は幼すぎた。陣容、経験、経歴、あるいは格式も含めて諸々のすべてが若く幼く、あるのは貴種たる血筋と家格だけ。何をする、何をされるにも格式張る雅な作法にはとても及ばず。よって早急にその弱みの溝を埋める必要性をその若かりし家人一同が痛切に思っての数日間であった。
皆ほんとうに懸命なのだ。それは真面目さとは違う切実な感情に起因する必至さであった。というのも家人用人に至るまですべて居心地のいい菊亭家に何としても栄達してもらわなければならないから。でなければ自動的に暇を出されかつての、あるいは今も猶引き摺られる奉公先や実家に帰らなければならなくなるから。
天彦率いる菊亭家は知らず意図せず多くの家人の熱い思いを受け止める希望の受け皿となっていた。幼き大黒柱当主曰く、これで十分オニブラックやのに。阿保ちゃうアホやん。どいつもこいつも属性メンヘラなん。ヤンデレやろ。という虚飾ない訴えも“はいはいあんよがお上手”風に一瞬で掻き消されるほどの熱量で。
◇
ところ変わって洛外某所。地政学的に本願寺の息が掛かっていないと可怪しい立地にひっそりと佇む寺院の墓所。そこには墓標さえあればええんやろ的な雑然と墓標が並ぶ墓所だった。つまり無縁仏が無数に弔われてあった。
そんな名もなき無縁仏に向かうのは、これまたまったく神仏に無縁そうな集団が大勢。中には仏の御座す場にはどう考えてもそぐわんやろ。という時代背景的に目に刺激的すぎなメンツもいて明らかに胡乱である。
だがその胡乱集団は年若き主を先頭に家人一同一意専心の意気込みで無縁仏を前に手を合わせ何事かを熱心に祈願している。
状況的にご冥福をお祈りしていると考えるのが自然であろう。特に集団の中心に収まるひと際チビこい人物は神仏に何かを祈願するという行為をほとんどまったくしない人物なので。
おちびさんは長い瞑目から目覚めるように目を開いた。そして茶味が強い綺麗な虹彩を一秒で台無しにする暗黒感情を滲ませ言う。
「コンスエラ」
「コンちゃんってかわいく呼んでくれなきゃヤ」
「いつから」
「ん、さっき?」
「知るはずないっ!」
「声を張って誤魔化してもダメだよ。はいどうぞ」
「おいコラ」
「はーい」
「これで違たらさすがにシバくよ。ぐーで」
「もう天ちゃんは心配性なんだから。お姉さんに任せていれば大丈夫。でもグーはダメよ。大事なことだから二度言うわ。グーはダメ」
大事なことを二遍ゆう文化の浸透は歓迎できる。けれど、ほんならなんでぐーの狂暴性にビビってるんや。ほんまやろな。この軽さ、いっつも不安になってしまう。
天彦はゆっくりと立ち上がり見事な銀髪ともっと見事なアンバーの瞳から視線を切り、もう一度無縁仏の墓標に手を合わせて粗末な墓所に背を向けた。
天彦の不安も尤もで、ここは言わば敵地である。何しろ天台のお膝元も大お膝元なのだから。そしてこの名もなき寺院は未来の現代なら三千院と呼ばれる寺院の管轄する隠れ墓所。そんな寺院に天彦は参っていた。
よくぞ通されたものだがそこは気合。目下参議菊亭がごり押しして突っぱねられる寺社は少ない。畿内にはほとんどないと言ってもいい。それは寺社奉行の管轄権の有る無しにかかわらず。菊亭の意向は絶大だった。
しかしその突っぱねられる数少ない寺社勢力がこの比叡山系列の寺社なのである。よって不必要な接触は互いの不幸の元。警戒もやむを得ず必要となる。
しかし今回ばかりは天彦の想いの丈の方が強かった。きっとそういうことなのだろう。
さすがに傷が開いてしまっては安静(棒)ということで参内が次の大安5月9日まで延長された麗らかな午後。それでさえ暫定であることは双方の合意。こうやって人(公家)は目々典侍への借りを堆く積もらせていくのだろう。
天彦は“主上さんも一の家来の身を案じお待ちあそばせますやろ”とウインクを残し去っていった色っぽお姉さんの顔を思い起こしながら、これが海千山千の後宮で実質一位の寵愛を恣にする三位女房の凄味かと感心させられる一方で。
けれど菊亭が公家としての格を認められたと解釈し搦手に絡められた自分をむしろ誇りに思いつつも、長かった惜別の念を振り払いゆっくりと墓所から遠ざかる。
「ほな参ろうか」
はっ――。
天彦の行動に家来たちも歩調をあわせる。ぞろぞろと境内を歩いていると剃髪した頭をくるりと覆う正絹頭巾を目深にかぶった一人の尼僧とすれ違う。むろん尼僧は首を垂れ貴種貴人に対する厳粛な応接態度で脇に控え道を譲る。
天彦は一瞥さえせずにその尼僧の前を通過した。かに思われたが不意に歩みを止めてしまう。天彦の視線の先には美しいアンバーの瞳があった。アイコンタクトは僅か一秒。だが主従にはそれで十分だったのだろう。
すると天彦は立ち止ったこととは別に何かを躊躇うように逡巡すると小さな拳をきつく結んだ。
「尼僧さん。お一つええさんやろか」
「はいお公家様。拙僧でよろしければ何なりとお申し付けくださいませ」
「うん。身共は長いこと人の悪意に曝され生きてまいったん。故にそちらの感情にはかなり敏感なん。そやけど逆に愛という感情にはそうとう疎い。それはきっと言葉でしか理解できん感情やとお思いさんなんやが、そんな身共が申すのも可笑しいが……」
銀はお前のことを紛れもなく愛しとったで。それはこのどてっ腹に空いた二つの傷跡がよう知っとる。なあ金、違うか。
天彦はまるで内なる憎悪を自らの声で浄化するかのようにやんわり優しい声音で言う。だが知る者が訊けばどうだろう。あるいは悲痛に聞こえたのかも。
だが尼僧は何も言わない。天彦はレスが必ずあるはずと固く信じ、あるまでずっと沈黙を守った。
するとややあって、
「私が八つ。あれは四つのチビでした。牛蒡のようにひょろこい目ばかりぱちくりぎょろっと剥いた可愛げの欠片もない。そんなどこにでもいる戦災孤児の奴隷でございました」
「隔岸観火の計。またの名を疑心暗鬼の計ともいう。これは兵法第九戦術でな。交響曲第九番と同じ番号。意味は特にないけれど身共にはとても馴染み深い番手なんや。年の瀬が迫ると特にな。そやから学ぶ前から知ってたんやで」
天彦は脈略のないことを文脈の可怪しい言葉で綴った。訊くものが訊けばぞっとするような内容の事を淡々と。
だが尼僧には少なからず刺さっていたようで初めて表情を変えた。頬をやや引きつらせけれど懸命に平常心を保とうする様はむしろ滑稽に映ってしまう。
天彦は尼僧の言葉を待たず言う。
「是知に巫女鈴を持たせたのはお前やな。正しくはそうなるよう長野家に仕向けたんか。ああ、そっちさんか」
「なにも……、申しておりません」
「餌はなんやろ。そやなぁおおかた分不相応な位階と官途状でもぶら下げたんと違うか。前の関白さん名義で。直臣で迎えるとかなんとか耳に心地よい言葉を添えられ」
「さあ何のことやら皆目。何やら九条様に一方ならぬ思い入れのご様子なれど、殿上のことなど下人の預かり知ることもなく。どうぞ御心穏やかにあらせませ」
なるほど。言うと天彦は扇子を取り出す。態度を決めた証として。
何の事前打ち合わせも無かった急な事態。けれど青侍衆はにわかに色めきだって臨戦で構える。
「心さん。はて乱れてはないはずやが、そやな。おおきにさん。忠告はありがたく頂戴しとこ」
「畏れ多くも御殊勝さまなことで」
「ほな最後にお一つ、忠告のお返しさんや」
「……後学のため承りましょ」
「何君に仕えようと何処の何方さんを謀ろうとも一向に構わん。お好きにどうぞ、なさって下さい。しかし菊亭は、いやこの天彦は人さんを物のように扱うことだけは我慢ならん。ましてや身共を頼った我が家人をとなれば猶の事。ぜったいに何があろうと地の果てまで追い込みその罪を問うて見せる。そういうこっちゃ覚えとき」
信念とか信条なんてご大層な話ではなくもっと単純な、自分自身のブランディングとして。と、誰に弄られたわけでもないのに天彦は相変わらずのうざガキムーブで嘯いて言い切った。もし天の銀に訊かれてたらハズいから。
「……呑気なお人。この期に及んでまだそんな綺麗ごとをほざく。つるんとしたお顔がそのままの青味を表しているといい加減お知りなさい」
「そや忘れとった。綺麗ごとさんも菊亭の十八番やったわ。綺麗ごとをほざいたままこの修羅の道を渡ったろ。それも九条に伝えておけ。序にお前の雇用主の惟任にもや」
「化物め」
「図星か、さよか。そやけど身共の目には金、お前の方がよほど物の怪に映ってるで」
人ならばこんな残酷なことができるものか。それを世間ではヒトデナシと言うんやで。天彦は消え入るような声でつぶやく。
「抜かせ物の怪。甲斐がいずれ敵を取ってくれる。さあ殺せ!」
「あはははは! 甲斐が、甲斐とな。ふふ、あはははは――」
「な、なにが可笑しい」
「くく、これは堪忍。なに、捨て身の術がその程度とは。武田の謀略巫女も高が知れてるさんやなぁ思てな」
「くっ」
「金、お人には必ず出る癖がある。お前は図星を突かれたら……、これはさすがにやりすぎやな」
「なっ……!」
高虎ら青侍衆が激怒の顔で今にも成敗せんと身構える。だが天彦は首を左右にそれをとどめる。むろん心情はいっしょ。八つ裂きにしてやりたい。だが言葉を届ける者がいる。それは内からの声でないと意味がなく、憎き敵さんへと確と届いてもらわなければ何もかもが不都合だった。
「誰が裏で糸を引いたのか、お知りになられたいのでは」
「いいやまったく」
「……嘘です。そんなはずがない。お命に障るほどの傷を負って」
「ほんまや。それこそ金。お前の方こそ銀の最後を知りとうないんか」
「はん、道具の最後など誰が」
「お前の言うその道具さんな。……笑って自裁して逝った、らしい。身共は最後を見届けてやられへんかってん。金(お姉ちゃん)の仇は討った。そう言って誇らしそうに逝ったらしいで」
それが真実かどうかなど天彦には証明できない。だが証憑など無用であろう。そこに思いさえあれば。
尼僧はほんの一瞬だけ表情を歪ませた。だがそれも束の間、張り付けたような無表情に戻し、
「それはようございました。あの道具も務めを果たせて本望でしょうから。それでこちらの問いは如何なさいます」
「ようございました、か。銀はある意味ええ死に方ができたんかもしれへんな。身共やったら壊れてもうてるわ。実益がこんなやったらと思うと絶対にあり得へんと知っていながらもほら、もうお胸がちくちく痛んでくる」
天彦は一瞬ふらついて雪之丞に支えられ、おおきにお水頂戴。差し出された水筒を受け取り口に白湯を小さく含んだ。
「……相変わらず青い御方。それでどうなさいますのか」
「要らん。もう知ってるし」
「そんなはずない!」
「ほな答え合わせしよ。第一に九条は確定してる。そしてさっきの問いで惟任も確定した。そしてこの墓所。たった今比叡山も確定したんか。極めつけは将軍義昭。さあ、どないさんや」
「っ……」
「目は口ほどに物を申すがそうやってイヤイヤと首を振るのもおんなじことや。わらわらと湧いてきはってご苦労さん。そんなこの御首さんに価値があるとは思えんけど。まあ人ぞれぞれか。そやから金、お前を生かしたる。雇い主全部にきっちりと菊亭の言葉を伝えよ。それが命を見逃す対価や絶対払え。よう訊いておけ――」
我、如何なる理不尽にも屈することなし。すべて万事が些末にて森羅万象我が叡智の領域を出ず。故に此度の一件ほとほと児戯にて一笑に伏す間もなく片手間で片付け致した次第哉。
神経戦、情報戦、小細工、撹乱術数謀略いずれも望むところ上等。本来ならばいざ尋常にと礼を以って遇するところなれど菊亭思うところありけり。貴殿らとはいずれ酒でも酌み交わしたく存ずるもの哉。恐々謹言。
天彦はというようなことを威勢よく読み上げ、予め認めてあった漢文書簡を四通、名もなき尼僧に預け伝えた。
但し懐には一通余りが。果たして誰に届けられる予定だったのか。それは天彦のみぞ知るところ。
「二度とその面を見せるな。次はないと心得よ」
「それはこちらこそにございます。御前それではごめん下さい」
名もなき尼僧は苦し紛れの捨て台詞を土産に置いて天彦の前をそっと辞した。
書簡を意訳すればこれにて一旦の手打ちを提案したのである。おそらくこの提案は飲まれるだろう。九条も惟任も叡山もあるいは将軍だけはわからないが、いずれも滅亡を賭けてまで天彦とやりあうほど天彦の存在を重視していないから。
つまり天彦などは常にごまめ。どこまで行っても付け合わせにすぎない。背後にそびえる途轍もなく巨大な魔王城があるかぎりは延々と、歴史の表舞台には躍り出られない仕様だった。
多くの人は地を這いずりまわる地味な謀略戦より、派手で血生臭い大戦をお望みだから。
「佐吉」
「はっ、ここに」
「銀を菊亭の菩提寺に弔ってやって欲しいん」
「御意志確と承ってござる。僭越なれどお扱いは如何なさいますのか」
「我が一門として共に」
「はっ!」
佐吉の嬉しそうな声が響く。うん御頼みさん。天彦も嬉し味にあふれた笑顔を返す。そして内心でもう一度お別れを述べて名もなき寺院を後にした。
境内を出たほど近い場所に池があった。ひっそりと蓮の敷き詰まったけれど風雅を佇ませる見事な池だった。そこにふとめをやると、
「金銀蓮花がなんで……」
その蓮池には季節外れの金銀蓮花が白い五弁の花を咲かせていた。
特に目を惹く花ではない。地味でひっそり咲く花だ。故にそんなことはあくまで事象。だが敢えてそこに象徴的な意味を持たせるなら“かくあれかし”なのだろう。天彦は決めつける。
即ち菊亭に裏切り者などいない。だから詮索はしない。それは、それだけはそうであって欲しいと切実に願っていた。だからこそのかくあれかし。
今では確信している。むろんなんのエビデンスもない半ば妄執。だが100希望的観測であろうと100思い込みであろうと、そうと信じたかぎりそれでいい。実益なら問答無用でぐーぱんが飛んでくる甘さだがそれでいい。家族とはそうしたものだから。この結末を迎えた事実がすべて。真実などどうでもいい。
けれど天彦はその通りだったことに何よりの安堵と安心を覚えて人心地。金銀蓮花に足を止めた。
ちょっと考えてみれば解ける問題。本心から事実などどうでもよい人間などいないのだ。だから強がる。だから意地を張るのだ。男の子だから。真実が己の心の内にさえあればよいのであると震えながら豪語して。
よって一件落着とは言い難い味の悪いお仕舞いとなってしまったが、天彦としては納得づくである。
けれど取り敢えずの結末を迎えたこの一件、天彦を除くと多くの家来が釈然としない。特に青侍衆はなぜ攻めないのかといきりたった。九条の居場所は掴んでいる。将軍など巻いてやればいいではないか。我が殿さまのあろうことかお命を狙ったのだから。その感情も尤もである。
だが天彦は報復の一切を禁じた。厳にと明言して。必ずやこの借りは返すからといい置いて。
天彦が必ず借りを返すと言ったのだ。九条を始めとした敵性勢力の破滅を疑う家人はこの菊亭には誰ひとりとしていないだろう。事実異論は消え去った。血の気の多い青侍衆もこれにてどうにか留飲を下げるのだった。
そんなくさくさした苛高感冷めやらぬ家中にあって、誰よりも釈然とせず同時に顔色までまったく失くしていた人物が一人。
ややあって辛うじて気を奮い立たせ正気に戻ると顔面は蒼白のまま、まるでこの世のお仕舞いのような表情と雰囲気を満身に纏い、ふらふらと幽鬼のように天彦の前に飛び出すとたまらずといった風に跪いた。
「殿」
「なんや是知、そないな真似して」
「我が実家が、長野家がよもやっ」
「ああそのことか。古い御家はなんやかんやあるんやろ。うち見てみ。あろうことか帝まで謀って今や将軍さんにすり寄っとるで」
「ですが、それでも!」
「お前さんとは無関係。そやろ。それでええさん。今の身共には十分さんや」
「む、無論。天地神明に御誓い申し上げ、某是知は我が主君に生涯のご忠誠を御誓い申し上げております。たった今この場で家名は捨て申した」
「おお思い切りの良さは天下一品さんやな。やることが一々唐突で一々おもろい。ちょっとスタンドプレイが目立つけどそれも味か。後は風雅で粋であれば身共のええお家来さんになれるんやけどな。でも縁切り先は生家やぞ、ええんか」
「はっ。一寸の迷いもなく存じまする」
「そうか。うん知ってるよ。それでこそ是知や。そやからそんな真似はよせゆうてるんや。ほら」
「あ」
天彦は是知の脇に手を差し込み立ち上がるよう促した。
目線が並ぶとこいつはこいつで少し高い。解せんなんでや。そんな天彦の内心が透けて見えてしまったのか。完璧に誤解して受け取った是知はするとまたしても跪いてしまうのだった。だが、
「是知。頭上げ。若とのさんはお前の成長が憎たらしいだけや」
「へ」
「さすがに風評被害や。菊亭の大金看板を穢すような言葉、やめてもろてええやろか」
「へー風評ですか。ほー今更の。ふーん大金看板。はーんそれはそれは御見それいたしました」
「あ、はい」
雪之丞に見透かされコテンパンに伸されるのだった。
楽しいばかりで中締めをしたい。だがそれはそれ。直視しなければならない現実もある。
「是知。辛いとは思うけど」
「いえ滅相もございませぬ。関知せぬこととは申せ誠に申し訳なく存じまする。金輪際生家とは絶縁いたす所存にて、お沙汰下るまで蟄居いたしお下知をお待ちいたします」
「蟄居はさすがに大袈裟やけどうん、そないして。堪忍な。調べはすぐに済むと思うから。そやろイルダ」
「にんにんにござる!」
イルダさあ。
案外どうしてこの底抜けの阿保さ加減に心底救われる気分の天彦は、これだけやっていれば家中の是知を見る目も多少和らぐだろうと希望的に思いつつ、はたと真顔になり北東鬼門にそびえるお山を仰ぎ見た。
「銀……。まあそっちで待っとき。身共もじきに参るやろ。そのときはきっとお酒も飲めてるはずや」
ははっ、余裕やし。
乾いた笑いが五月の風に乗って叡山へと吹き上がる。天彦はその叡山をきつく睨んで銀の冥福を祈るのだった。




