#01 萌黄晴れ、舞う黒鳳蝶と躍る雪兎と
永禄十二年(1569)五月一日
参内を明後日に控えた早朝卯の刻、明六つの鐘がなってしばらく。
植田家令代理どの、こと雪之丞のお許しも出たことなので天彦率いる菊亭一門はイツメンを筆頭にそこそこの陣容で洛外に出向いていた。
家人にとってはピクニック気分のちょっとしたハウスイベントであろう。本来なら皆の表情はいつになく明るくて然るべき。だがどうしたことか。妙に重苦しく思えるのは。
一方言い出しっぺの天彦にとっては自分のせいで中止となったピクニックのやり直しも兼ねての臨行であった。だがこちらはこちらで妙に浮かない。今朝方からずっと難しい顔で終始何か物憂げである。
つまりこのやり直しもの“も”に曲者が潜んでるからなのだが今は後。目的の場所は山城国と丹波国の国境にある愛宕山山頂。大宝三年(703年)に建立された神仏習合寺社・白雲寺である。未来の現代なら愛宕神社として広く知られている寺社である。
またこの時代の白雲寺は愛宕権現の総本山として君臨し、火伏せの神を祭っていることから転じて勝利をもたらす寺社として武家に多くの氏子を抱えていた。
ではなぜ天彦はこの白雲寺に出向いているのか。五山のお狐などと散々っぱらに揶揄されているお礼参りを兼ねているのか。あるいは愛の兜で超お馴染みな直江兼続の中の人(与六)を焚きつけ、愛兜を深層心理に着想させる強制イベ発生させ目的なのだろうか。違う。いずれも違う。結果的にそうなったとしても目的はまるで違う。
「若とのさん。それにしても何で白雲寺さんなんです」
雪之丞でかした!
家人の声がまるで聞こえてくるような雪之丞のファインプレーだった。さすがは家中一の型破り。これぞまさに誰もが知りたくとも訊きだせなかったことだった。
「ん? そんなことよりお雪ちゃんえらい嬉しそうやな」
「そら念願かなって嬉しいですから。ここさんに参って戦勝祈念するんは侍の念願ですよってむっちゃ……違た。そんなこと違いますねん。なんでですのん」
「理由なぁ」
そんな雪之丞の問いかけにけれど天彦は特にぐずるでもなく普通に応接する。即答は避けているもののそれはそうだ。当人にまったく不機嫌を撒き散らしているというその自覚がないのだから。
ここ数日の変化として、天彦の感情に家中の反応が機敏であった。言葉を飾らず言うのなら過敏である。
むろんここ数日で天彦に突如として風格がでてきたとかいうミラクルは起こっていない。感情面も今日ほど張り詰めてはいなかった。ならば何が。
家人の対応の変化を紐解く。即ち昏倒前後で違いがあるとすれば単に覚悟を決めただけ。たったそれだけの内面の変化がこうも大きな反応になるとは思いもせずに、そっと覚悟を決めただけ。あるとすればその違いだけ。
「言葉にするなら借りパクは気が引ける、となるんかな。ましてや借りた心算もなかったん。熨斗付けて返したらな菊亭の名が廃るしな。そやろ」
「なるほど。でも“はいそうですね”とはなりませんわ。だってひっとつもわかりませんもん」
「わからんかったらしゃーないな」
天彦は明言を避けた。普段ならこれでお仕舞い。ところが今日はどういうわけか勝手が違った。雪之丞が珍しく食い下がったのだ。しかも言葉ではなく目だけで。おお……!
天彦にとってどんな罵詈雑言より効き目があった。いっそ革命的でさえあっただろう。そんな衝撃を超えた衝撃的な行動に興味をそそられない彼ではない。
「どないしたん」
「それはこっちの台詞ですけど」
「うん。それで」
「若とのさん。この際やからはっきりと申します。うちのもんはみーんな言葉一つでお命を放るアホばっかしですわ。異論ありますか」
「……まあ、ないな」
「はい。ですけど知って死ぬのと知らんまま逝くのとでは天と地ほどの差があると思いますねん」
「ふーん。どっち転んでも愚かという意味では結論は同じやと思うけど。それがどないした」
「どないしたもこないしたも。それだけ思い詰めたはってその言い逃れは通じませんわ」
「あ、うん。そんな?」
「はい。そんなです」
「そっかぁ。そらえらい気ぃ遣わせたな堪忍さんやで」
「ふふ、はい。ええですよ」
天彦は指摘されてはじめて気づく。だが本当にその心算はなかったのだ。驚きの方が強かった。
雪之丞はすると笑った。どうやら承知していたのだろう。雪之丞は天彦と違って心優しいのですぐに許す。だいたい許す。いやあるいはすべて許してきた。なんやかんや天彦には甘いのだ。兄が弟に寛容なように。但しそれと仕返さないこととは無関係に。
だから雪之丞は踏み込んだ。やめておけばいいものを。深くえぐるように言葉をぶつける。ちょっとの悪意と残り全部の心配を混ぜて。
「わかっていることはお二つ。菊亭の汚名を返上しにいくこと。ただの物見遊山とは違うということ。どないです」
「うん。そういうこっちゃ」
「説明する気ありますか。家中の、若とのさんのためにならいつでも命を差し出す阿呆さんらに」
それを世間ではゴミを見る目というのだろう。そんな目をして雪之丞は天彦を少しだけ高い目線から蔑むように見下ろした。仕返し完了。二人の中でなら成立する応酬である。
更に追及の手を緩めず、雪之丞はそれでもまだ逡巡する天彦に対し“舐めてますやろ。こっちが真剣に身を案じているのにご自分の身体のこと、某らの気持ちのことも全部”――と、かなり踏み込んだボヤキをぶつけてしまったのだった。
「ゆうやん。お雪ちゃんにしては中々さんに」
「はい。いいますよ。ナンボでも」
「効いたで」
「それはよかったですね」
「ええことあらへん。お胸がちくちく痛いんさんや」
「医療班呼びましょか」
「お雪ちゃんが謝ってくれたら治るからええ」
「厭ですけど」
「おいコラ」
「なんですのん」
やーめーてー……!
こうなると家人は誰もが退散したい心境である。ここまで踏み込んでくれとは誰も願っていないのである。
これこそが雪之丞が隠れた最残念ポンコツ家来(WPS・ワーストポンコツサーバント)と陰で呼ばれる所以だった。意味としては、出だしまでは良好だが〆がとっ散らかって結局のところまるでむちゃくちゃ。くらいだろうか。
しかもそんな陰口を叩かれていることにまったく気付けない感性が残念すぎて人望はまるでない。
だがそれがどうした。そんな評判などなんのその。すっかり二本差しも板についてきた、は完全に盛った。辛うじて冷笑が起こらなくなった侍姿の雪之丞は今日も今日とてずっとルンルン。ずっと快調。何なら鼻歌さえ漏れ出ている。
一本気の王道を地で行く直情気質高虎をして猶真っすぐ行ったきりと言わしめる雪之丞だが、相変わらず実に惜しい逸材止まりと揶揄される印象的な笑みを振りまき天彦の傍に侍った。
このままでは売り言葉に買い言葉。流れが非常に不味いことになってしまう。
そんな窮地を救うのはいつだって正義の人。真面目マンでお馴染み石田佐吉三成くんなのであった。
佐吉は皆の想いを乗せた熱い視線を知ってか知らずか、常の飄々とした表情で申し上げます! 声変わり寸前の声を張って申し出た。
「なんや佐吉、出しゃばって。これからお雪ちゃんを成敗しようというときに」
「はっ。ご無礼承知で御免仕ります」
「まあええわ。うんどない」
「はっ、殿の漆黒の闇より深い深謀とあのお天道様より遥か頂きにござる叡智など某どもには到底考えも及びませぬ。ですが上辺だけでも知ると知らずでは今からの展開に大いに変化が生じるものと思われます。如何でありましょうや」
パチパチパチパチ、ぱちぱちぱちぱち――!
え……!?
すると万雷の拍手が巻き起こった。きっと思わず出た衝動の結果なのだろう。天彦もハッとしてビックリしてしまう。だが同感だ。指摘されて思い直すこともある。
いい家来たちのお手柄なのかその空気を醸造した佐吉の手柄なのかはわからない。だが天彦はぺこりとお辞儀だけして謝意を伝えた。
「それもそうか。佐吉、評定衆を招集さんや」
「はい!」
イツメン集合。プチブリーフィングが始まった。
◇
さて会話の示唆にもあったとおりこの白雲寺は天彦の目当ての人物の氏神であった。では誰か。そう、惟任日向守十兵衛光秀の氏神である。天彦がああまで感情露わに皮肉をこめる相手は少なく、借りっぱなしの相手ともなると更に数は限られる。惟任はその内の一人だった。
その惟任日向守は白雲寺の氏子総代。そしてその白雲寺は目下年一の氏神降臨祭を催している。氏神は火消し及び戦勝神の化身である。腹に一物抱える惟任が祈願しないはずがない。そう読んだ天彦は本日、白雲時に臨山することに決めたのだ。
むろんきっちり裏も取ってある。僅かな袖の下で舌が滑らかになる自称忠臣から、僅か五人ばかりの供を連れ、権現祭に詣でているとの情報を掴んでいた。
そういうこと。天彦はここと決めたのだ。惟任日向守に借りた特大の借りを返すのは。つまり白黒決着を付けに来たのである。信長を生かすと大見得を切った手前も少しあって惟任を成敗しに向かっているのである。
むろん大義はある。惟任日向守は帝を謀ったのだ。庇いだてすれば白雲寺であっても同罪である。よってむしろ大義しかないと天彦は言い切った。帝を謀りまくっているその邪悪なおちょぼ口で。
またそれと同じくらいむろん菊亭なので悪巧み込みである。格調が高いかどうかはどうだろう。後世の史実のみぞ知るといったところか。
何も伏せたのではなく天彦にもわからないのだ。確信が持てないと言った方が正しいのか。家人に要らぬ気を使わせないようにした不器用な天彦なりの配慮であった。
果たしてやろうとしている結果がどうなり、またその結果が何を招くのか。興味より不安が勝っていた。
いずれにせよ天彦は例の寺領押領の件のとびきり食らわされた一杯と、親友を預けるに値すると信じさせられてしまって食わされた一杯、都合二杯の借りを返すためわざわざ自ら出向いているのであった。
「――と言うことや。なんかあるか」
イツメンは全員が首を左右に振り納得を示した。
佐吉を始めとした文官諸太夫は淡々と事実を受け止め、青侍衆は血気盛んに血潮を滾らせ盛んに声を張り上げた。そしてイルダ率いる射干党は各々に策謀を張り巡らせてその時に身構えた。
但しお一人。異次元の住民さんだけは事情があまり飲み込めていないようで、
「要するに若とのさんは惟任さんにされたことずっと根に持ったはって、惟任さんに仕返ししはるんですね」
空気が凍った。冷ややかな視線が四方八方から浴びせられる。だが当人は涼しい顔で受け流すもなにもまったくぜんぜんお構いなしだ。
天彦ははぁとこの世のうんざりを集めたような深く重いため息を吐いてから、
「なあお雪ちゃんなんでなん。空気くらい読めるやん。要したらアカンの。その言い方やったら趣旨が違て聞こえてるやろ」
「どないに変わりますの」
「なんかこうしみったれた小物臭がぷんぷんするやん」
「そのまんま若とのさんですやん」
「おい。さすがにさすがやぞ」
けれどもう空気は重くならなかった。二人は目の前をひらひらと舞う鳳蝶に見蕩れてしまっているから。
なんと黒くて大きい翅なのか。いっそ神々しいまである見事なまでの黒鳳蝶に二人の意識は丸っと全部持っていかれた。
「わあごっつい黒鳳蝶や。あんなん見たことないわ」
「で、でかっ! おおかっちょええさんや。お雪ちゃん捕まえられるか」
「任してください。よし捕まえたろ。是知、参るで」
「はぁ」
「任したでぇ是知ぉ」
「はっ!」
「おいお前、某の命令と反応違うな」
「当然では」
どっちもどっち。主従そろって問題なく通常ダイヤで運行中。もはや鉄壁で鉄強を誇ってもいいだろうレベルで○○である。
敢えて伏字にしてもいいほどのガキ痛い主従が、そうこう個性的な通常ダイヤで進行している内に菊亭一行は白雲寺に到着した。
◇
総勢五十有余名の菊亭一行は白雲寺につくなり本堂に招かれた。それはもう丁重に。用件はすでに伝えてあるのに。
天彦の用件は二点。その一点目、惟任日向守の引き渡しは確と伝えてある。
つまり白雲寺は中立を表明したと受け取れるが、果たしてそうかな。氏子総代を売るなど以っての外。普通なら考えにくい応接である。だがそれほどに菊亭の評判、主に悪い方の評判は寺社界で轟いていた。故になくもない。家中の意見も二分する。
それはそうだ。どちらの可能性も見込めた。天彦は意見の相違から多少ぶつかり合った相手を容赦なくコテンパンに叩きのめしたのだ。本人を追放、所属寺社は石材や木材の供出という尤もらしい名目で破却というウルトラCで仕返された。逆鱗はそれにとどまらず近隣寺社すべてに被害を拡散させた。
こうなるともう神仏への不信心は明らかで、何をされるかわかったものではない寺社からすれば触らぬ菊亭に祟りなしと考えるのが自然であろう。
「よ、ようこそ、お越しくだしゃい、ました」
「あ噛んだ」
「何を申されます。か、噛んでなどおりましぇん」
「あ、ではそれで。おおきにさん。――がおぉぉぉ」
「ひっ」
「あんまし怖がると頭からかぷりと齧りますよってお気を付けさん」
「ひぃ……っ!」
それを証拠に接客を受け持った宮司手前の壮年の神主はともすると天彦を実在する権現と接するように遇し応接した。
天彦のお道化ながらも淡々と告げる言葉に対してというよりも耳に聞こえる風聞が恐ろしすぎてただひたすらに恐れ戦慄いているといった風であったから、どうやらおそらくきっと本心からお人さんとは思っていないのだろう。
天彦としてはまんじあり得ない感覚だが、どう解釈してもそんな節しか覗えなかった。神仏怨霊物の怪のあるなし信心は時代がなせる業であろう。
この時代、神をも恐れぬ所業への反応には大きく振り分けて二種類あって、ひとつはこの通りの恐怖的反応でありもう一方は忌避や嫌悪反応である。つまり平伏するか敵対するかの真逆の反応二択に二分していた。割合でいうと5:5くらいだろうか。やや屈服側の多い感じの。
正確に統計を取ったわけではないが中でも延暦寺系は強硬だった。体感的に当たらずとも遠からずのはずである。
よって常なら緩慢な所作がむしろ売りみたいなところのある神職連中が漏れなく動きが機敏で大助かり。この反応にはそのくらいしか救いはない。
他方、天彦の悪風の浸透具合が見て取れる超過敏な反応に対しては100天彦シンパであるはずの家中でもかなり微妙な反応だった。二分とまではいわないがやはり神仏への信心は侮れないと改めて実感する次第である。……うん、まあね。
そうこうしていると、この時代なら脂の乗ったと言われる世代の壮年宮司がそっとやってきて格調高い所作でさっと一礼、天彦の前に着座する。おそらく貴種の類縁なのだろう風格を貴種特有の目性に漂わせて御来臨あそばせた。
天彦もすかさず故実で応じて儀礼を交わす。天彦の目性はどうだろうか。デフォで世を儚んでいるので少なくとも貴種の連枝にありがちな鼻もちならなさは控えめではないだろうか。
そんな二人が邂逅しお互いは数舜瞳で語らい合うのだった。ややあって招き入れた側が嘲笑的な微笑を浮かべて嘲笑的な言葉を発した。
「護符の効き目が切れたかな」
菊亭の家来衆に緊張が走る。特に外に控えている青侍衆は青筋を立てて満身から武張った。
だが天彦は涼しい顔で受け流す。さも織り込み済みであるといわんばかりに。
「そら帰郷ですもん。護符の効き目などあるはずもなし」
五山の狐と揶揄されたことを逆手に取った皮肉返し。我ながら会心の出来栄えに天彦はにんまりを隠さず顔に出して嗤った。信長をして無意識に刀を掴ませる気配を知らず纏い。
すると宮司はやや震えながら改めて居住まいを正してお辞儀をした。訳もわからず天彦も倣い合わせる。
薄々なんとなくだがなかったことになったよう。あくまで目線だけでの会話だが、やり直しの要求に天彦は素直に応じる。はぁめんど。
「菊亭卿、斯様な辺鄙な末寺へ遥々ようこそお越しくださいました。一堂を代表し厚く御礼申し上げます」
「突然の礼賛にもかかわらずえらい手厚いお招き、参議菊亭、このとおりおおきにさんにあらしゃります」
「あいやそこまで。何のおもてなしもできず心苦しいところ。そう丁重に仰せとあらば恐縮しきりにございます」
「滅相もおじゃりませぬ。権現さんに失礼さんあってはおちおち眠れもしませんのんで」
「その権現様が心配なのです。何卒どうかそこまでに」
「そうまで仰せなら」
「ありがたき幸せ」
そこらへんで。そこらへんで。宮司からは悪くない感触を得る。
初手はガキと侮られ食らわされたが、やり直して以降はやはり年の功か。中々どうして巧みであった。天彦はまだ何かを判断するには早いが少なくとも聞こえるものだけがすべてといった狭量な判断はしないと感じた。
だが反面、どこまで話せるかはまた別の話である。あながち惟任タヌキとグルとも限らないのが策謀渦巻くど汚い戦国仕様なので。
「さて菊亭卿。本日の御用向きはなんですやろ。生憎と弊寺社、権現降臨祭で人手がなく大したお構いも――」
云々かんぬん。やはり宮司、やんわりソフトにお帰りあそばせトークを展開し始める。
だが天彦とて生半可な覚悟で臨んだ臨山ではない。譲れない一線があった。それは要求をのませることである。第二案。白雲寺が預かっているだろう茶々丸を引き渡せ。その要求を飲ませるために足を運んだのである。むしろ主題か。
これが家人にも伏せた第二案である。今日まで天彦は茶々丸の居場所をずっと探し求めていた。惟任のガードが固くて一向に所在が掴めなかったのだ。だから茶々丸捜索はあくまで腹案止まりだった。
今では主題に格上げされている。確度50以下で参ったがビンゴ。白雲寺に預けられていると確信したのはここに着いてから。だが確実に今は確信している。宮司の警戒する態度、表情、体温。神主連中の冴えない顔や冴えない応接一つとってみてもすべてがその解に導いてくれる。さほど難しくない式だった。
ここに至るまで様々な葛藤があった。だがそれらを払拭し天彦はここ数日で覚悟を決めていた。あれやこれやと理由付けして逃げ回ってきたこれまでとはまったく違う。もう二度と友を失わないという確固たる覚悟を決めたのだ。
それでもし歴史が揺り戻し仮に何十万、何百万の民が虐殺されようとも構わない。むろん天彦のことなので猛烈に気に病むだろう。だがこの空しい辛みに比べればなんてこと……。それほどに光宣の件は食らっていた。
青いままでは行けないことを知った。だが何より青いままでは逝ってはいけないとも痛感した。悔いがあまりに残るから。
セッションで感情の澱を払拭した後、考えに考え抜いた末の結論である。きっと今までで一番マシな答えだと信じている。そうあって欲しいと願いながら。
自分のままでこの修羅の世界を生きていくなど所詮は傲慢、愚かだった。甘すぎた。呑気すぎた。はっきりと舐めていた。何よりも無知で青いまま枯れていくには天彦はあまりにも正常すぎたのだ。
そのことを親友であり詩の師でもある烏丸光宣から教わった。
愚痴も泣き言も弱音も吐かず、まして言い訳などけっしてせず。心では号泣しているくせに、粛々と己の立つべき場所に立ち視線を真っすぐに淡々と進むべき道に進んでいくあの毅然とした姿に心打たれた。光宣の瞳を見て痛感したのだ。自分はなんと甘かったのかと。
思い至った切っ掛けはむろんラウラ。後悔は人を何一つとして押し上げない。ただ後ろ髪を引っ張りアゲインストの風を吹かせるだけ。
人だから当然生き方は人の数だけあるのだろう。あるべきだし。けれど憧れ惹かれた生き様に学ばないなら生きている意味は果たしてあるのか。それもどれも真理であるはず。あっていいはず。
光宣からは公家の覚悟を。ラウラからは人の潔い決断の何たるかを教わった。
気が付けば天彦の心中深くにあった思い(甘えや緩み)はきつく握りつぶされ木っ端みじんにされていた。あの弱虫光宣の生き様の前に。あの$マークに染まっていた緑がかった碧眼の奥に潜んでいた高潔さに。
はは、何が弱虫や。弱虫は誰や。……身共や。
だから流儀をほんの少しだけ世界に寄せた。癪だがしゃーない。もはや趨勢は決し優劣は確定したのだ。ここから先は足掻くだけ無様で惨めだ。
というような経緯で天彦は実益の悪口を言っているときの顔で損切りを決めたのである。つまり猛烈な自己嫌悪の表情で傷跡の二連星を撫でながら決心した。死はどうしようもなく不可分で天彦が思うよりずっと近くにあった。
いずれにせよ少しだけ外連味を剥がした天彦は、対話叶わずば力づくでも奪い返す。親友茶々丸を。その意気込みで今回の白雲寺遠征に臨んでいた。
天彦は扇子を大きく広げゆっくりと閉じるを数度繰り返し、ややあってカツン床を強かに打ち叩いた。そして双眸険しく有りっ丈の覇気を放つ。
「引き渡していただこう」
「はて、何のこと――っ、なんたる仕儀。菊亭は愛宕権現総本山を敵に回す御積りか」
「敵、とな。ならばこうお答えさんや。時と場合によっては神さんなどいつでも敵にまわるが上等さんにあらしゃります、と」
「くっ」
天彦の扇子が虚空を舞う。すると高虎隊が一瞬で詰め掛け、続いて氏郷隊もかけ寄った。
総勢四十有余名の精鋭青侍はむろん天彦の信念に従い誰ひとりとして抜刀などという無粋な真似などせずに整然と集う。そしてここに菊亭の武威が整うのであった。




