#13 家族という名の最小限社会単位め
永禄十二年(1569)四月二十四日
元服の儀を終えるや否や朝廷から勅使が参った。天彦参内の日取りが決まる。およそ二週間後の五月三日(大安)と決まった。
それとは別件で勅使である新内待基子の言では直接言及されなかったが匂わせがあった。これぞ気安い間柄ならではの利点だ。天彦は人付き合いの重要性を改めて実感する。
曰く、その日に合わせて朝議が執り行われるとのこと。天彦以外は旧来メンツなのでおそらくこの日に太政官メンバーへの紹介と新たな陣容への施政方針(帝の御内意)が発表されるのではないだろうか。
あるいは更に踏み込んだ実務への言及もなされるのかもしれない。長く停滞していたこともあって急ぐはずだから。
天彦はそんなことを脳裏の片隅で思いながら展開を予測しつつ、一方では日々届けられる書簡に目を通して処理するという離れ業をやってのけていた。だがどうだろう。マルチタスクはかなり怪しい。おそらくしている風だけではなかろうか。何しろ視覚情報に意識の99を持っていかれていて、尚且つその書簡の内容に感情が攪拌されて大変なことになっていそうだから。ぬぐぐぐゲロ吐きそう。
「御本家からのお手紙、よくないことが書かれていますんやろか」
「顔に出てた?」
「はい。それはもう克明に」
「読んでみ」
「え。よろしいのですか」
「ええよ。お雪ちゃんやし」
「そ、そうですね! 某ですもんね。ほな、失礼します」
「ほい」
「どれどれ……」
雪之丞が目を通している書簡にはぱっぱ晴季からの報告ならびに要求が述べられてあった。立場上要求だが実情は嘆願であろう内容である。
こう。撫子の婚姻を許可せよ。お相手は京極氏嫡子小法師である、と。
初めて明かされた嫁ぎ先に天彦の思考は熱を帯びるほど高稼働していて、先ほど冷却装置的冷たいおしぼりを頼んだところ。
小法師、小法師と何度も脳内で反復しけれど一向に記憶領域の情報にヒットしない小癪な名前にいら立ちを覚える。
ほとんど判明しない個人情報だが背景だけは推測できた。いやもはや確定事実か。生物学術的種雄ぱっぱ晴季はいよいよ将軍家にべったりすり寄ったのだと判明した。
京極家とはそういうお家柄だから。そういうとは三管(斯波・細川・畠山)に次ぐ家格である四職(侍所所司)になれる家格である。即ち幕府の要人家。
天彦は何となく薄々だが直感した。将軍義昭がなぜ自分を疎むのか。この書簡がすべての解答なのではないのかと薄々と予防線を張りながらも半ば以上確信を予感していた。
いずれにしても名門だ。しかも将軍絡みとなれば如何に魔王の御認状を頂いている身とはいえ扱いには慎重にならざるを得ない。
むろん本人意思が最優先だが、この時代女子の意思などほとんど無関係に事がすすめられるので訊くとまた愛妹のへそが曲がってしまう可能性が高い。やっと出禁が解除されたばかりなのに。元服のご褒美さんやって。控えめに言ってまあ最高な祝いの品なわけだが(棒)。
「おおきにお返しします」
「うん。……お雪ちゃんはどない思う」
「撫子姫のお相手にしてはなんやぱっとしませんね」
「やっぱし?」
「それにお武家ですやん。武門は安定せんと父御前も常々仰せです。昨今の興亡を見るに某もそう思います」
「おお賢いさんや」
「茶化さんといて」
「ははは、堪忍さん。それはええんやけどな。そうか、やっぱしアカンか」
「なんや珍しい覇気ありませんね。ひょっとしてまだ痛みますんやろか」
二人してお腹を見てさする。天彦は傷のことなど忘れているほどだった。
「いやそっちはもうどうもないさんや。悩ましいなぁと。仮に嫁ぐにしてもかなり先やろ。お相手さんまだ七つやし。どないしたもんかと思てな」
「日々のことだけやのうて先々のことまで親身にお考えなさって熱出るほど悩まれて、そんな弟御前おりませんよ。撫子姫ももうちょっと感謝してほしいですわ」
「兄やけどな。でもほら撫子は愚痴零すんがお務めみたいなとこあるから」
「どんな解釈なんですか。それただの我がままですやん。ずっと言えませんでしたけど撫子姫様、ちょっと我がままの度が過ぎるんと違いますやろか」
「そうかな。妹なんか甘えるのが半分仕事みたいなもんやと思うてたけど。そんなことよりお雪ちゃん、聞こえたら怖いで」
「ひっ、某なんもゆーてません」
あはははは。
雪之丞が大げさに怖がり二人して笑う。この二人はこんなことばっかりやって惨めで淋しい幼少期を凌いできたのだ。ルーティン的に。だからご愛敬。
で、改めて。
「本心はここに書かれてある以外ですやろ」
「勘のええことで。でも言わんのんがお約束やで」
「なんですか。言えば楽になりますよ」
「誘惑えぐ! ほんま?」
「それはもう」
「……伝奏」
「え」
「勅でな。技前披露しなさいと主上さんがな。仰せなんやと」
「御家業の?」
「それ以外に何があるん」
「えぇ琵琶奏ではるんですか!」
「声が大きい。恥ずかしいやろ」
「でも危ないですやん」
「危なくはないやろ」
「何でですのん。御家存亡の危機ですのに」
「おいコラ」
「こうはしてられへん。すぐにでも大殿様にお知らせします」
「せめて“しないと”にして」
「します」
「あ、はい。ほなそうして」
新内待女房奉書には、主上さんえらい楽しみにしたはりますよって参議藤原朝臣天彦さんにおかれましては家業伝奏、お気張りさんにあらしゃりますよう。参人々御中と認められてあったのだ。お仕舞いです。
天彦が二重・三重の意味で世界の終わりを実感しているところに、すると本日の護衛青侍ではないはずの片桐改め片岡助佐且元がすっと身体を寄せてきた。
「どないした助佐」
「はっ御暇のご挨拶とご報告を致したく参上仕りましてござる」
「そんな時期か。うんご苦労さん。ほんで報告とは」
「はっ枚方城、殿曰く害虫駆除、恙なく片付いてござる。先ずはご報告をと存じまして」
「おおそれは重畳さんや。なんぞご祝儀せなあかんな。あ、今うちさんお銭ないわ。残念さんやったなぁ」
「あははは。殿の袖は筒抜け、お倉も底抜けにござりますので。ですがいえ御心遣いで有り余る十分にござる」
「冗談や。まあ後日な。妻野蘭はお元気さんにしたはるか」
「はっ、元気有り余ってござる。改めまして奥共々参上仕りまする」
「はて奥? 表と違て」
「あいやこれは手厳しい。ですが然り。では表と共に参上仕る」
「あははは。ええノリや。それは嬉しい。身共、野蘭の気風のいい話し方や口調が大好きさんなん。そないしてくれはると嬉しいさんやわぁ。且元いっつもおおきにさん。彼方さんでも気張りや」
「はっご厚情に報いるべく粉骨砕身、務めまする」
「骨は折っても砕いてもアカンよ。繋がっていて初めてお仕事しはるんやから」
「くふっ、殿は変わらずのご様子。安心致した。ではこれにて御前失礼仕りまする」
「待ち」
「はっ」
天彦は助佐を呼び止め手招きしそしてそっと耳打ちする。二言三言何事かを得意の悪巧みの顔でぼそぼそと。するとすぐさま助佐の表情に緊張が走った。
「どないさんや」
「これ以上ないほどのご厚情に、臣助佐且元、伏して御礼申し上げ仕りまする」
「うん。ほなまた来週、はよ参り。可愛い表さんが待ったはる」
「何から何まで忝く。それでは御免っ」
果たして何を耳打ちしたのか。助佐の身体は興奮で小さく震えていた。
そしてこの律義者は週の三日を菊亭で務め週の四日を婿入り先で過ごした。始めは逆を申し出たほどなので菊亭への恩義は本物なのだろうと判断されている。それ故の天彦流のなんらかの褒美だったのだろう。おそらくきっと。
と、
「また家来誑かしてはる」
「人聞き! ……ん。ひょっとして、お雪ちゃんもなんか要る?」
「要りませんよ。そんなことより体動かしませんか。先生も仰せやったし気分転換も兼ねてお花見なんてどうですか」
「ええねえ。お外もええ天気やし」
「はい! 声掛けます」
「大勢はアカンよ、人様の目ぇに迷惑やから」
「目に?」
「そう目に」
「ああ、射干党ですか。そら無理でしょ」
「あかんて」
おーい。若とのさんと散歩に参るもん集合やぁー!
まあ無理やろ。という数が瞬くうちに集まってしまい、そのほとんどが目にもあざやかな陣容であった。やむを得ない。この日急遽菊亭ピクニックツアーが開催される運びとなった。平和か。平和やな。
◇
天彦はイツメン(雪之丞・佐吉・是知・与六・氏郷・高虎)+完璧な扮装のイルダ・コンスエラ率いる射干党有志を引き連れ家内慰労の花見に向かった。
但しお遊びだと風聞が悪いので名目は少し早い快気を氏神さまのご加護に御礼申し上げるのと、少し早い快気をご報告差し上げる報賽のお礼参りである。
やはり物は言いよう琵琶はひき手。謎に初参内では罰ゲーム的に伝奏をしなければならなくなった天彦は、よってご先祖への恨み節を言うために氏神の一つである加茂御祖神社(下加茂神社)へと足を運んでいた。
と、皆がわいわいと古参外様の垣根なく親し気に会話を交えて歩いていると一台の牛車が目の前を通りかかった。
「止まれ」
天彦の所作動作だけを注視していた氏郷が具に反応、号令をかける。
するとコンスエラも呼応して、射干党、止まれの号令をかけて全体が停止。
「若とのさん、あれ」
「うん」
「待ちますのん」
「うん」
なんだかわからないがほとんどの菊亭家人はどこぞの公家さんがお通りかとぼんやり牛車が通り過ぎるのを見届けていた。
鶴丸。その牛車に描かれている家紋から菊亭の家人でも関係性を知る者はどうしたって天彦の反応を覗ってしまう。だが何の異変もない。案外そんなものなのかと特に気に留めることもなくやりすごしてやはり牛車の通過を待つ。
天彦は足を止めたのだ。自らの自由意思で。むろん牛車側からも望んでいないし望まれてもいない。天彦は太政官参議。よほどの事でもないかぎり足を止めさせられる道理はない。
だからこそ家人の大半が、妙な感覚に捕らわれたのだ。だが次の瞬間には払拭されてしまっていた。そんな面子に拘る主君でもないと承知しているので、何の疑問も覚えられずに天彦の行動はごく自然に受け止められ、家人たちも天彦に倣い足を止めて牛車ののろのろ通過を待ち惚けるに至ったのだ。
けれど……、もしもこの場にラウラでも居れば、いやラウラがいれば事情は変わらずとも天彦の心はどれだけ救われたことだろう。目の前を通過しようとする牛車の箱の小窓がさっと簾を降ろした瞬間、天彦の表情から一切の感情が抜け去ってしまったことを彼女ならきっと見逃さなかったはずだから。
雪之丞では一生ムリ。あるは雪之丞なので奇跡の一度はあるかもしれないがそんな偶然には頼っていられないからやはりムリ。そしていくら目聡い是知であっても適わない。佐吉でどうにか今後の成長に期待といったところだろうか。青侍など武辺者では論外だろう。転生してでも不可能である。
天彦のほんの一瞬垣間見せた仄暗い感情の虚は、やはりラウラでなければ気付けなかった。鶴丸紋が前を通過した次の瞬間にはもう天彦の表情は通常運転だったから。
「ほな参ろかぁ」
「はっ、蒲生党進め!」
「射干党も進め」
この頃光宣の烏丸家は父光康の方針によって将軍御伽衆として足利家に臣従していた。当主の決定なのだ。それは一門の総意と同義。つくづく厭になるほど合理的な家制度である。
だからといって何か確定的な答えを示されたわけではない。すべては推測とエビデンスだけ。だが日々積みあがっていく状況証拠がすべて将軍義昭の反菊亭要素一色となっていく。
その足利将軍家に臣従したのだ。烏丸家は。もはやそうであることは紛れもなく、目を伏せていては可怪しな話になってしまう。天彦率いる菊亭も歴とした家であり、戦国室町を生き延びなければならない郎党抱える家門なのだから。
「光宣。バチクソ塩対応してくるやん」
社会の最小限は3であり家族が社会の最小限単位だとか。天彦の心中には深い納得感と絶望感がない交ぜとなって押し寄せてくる。
納得感は理性的に片や絶望感は感情的に処理すればいい。うんずっとそうしてやってきたから。やってきた。やれてきた。う。お腹が、いたいのん。
「殿っ!」
「若とのさんっ」
「おい誰か担ぎ物を」
「こちらです」
「頭を揺するなよ」
「どうもない。大丈夫や」
「どうもありますやろっ! おい誰ぞ若とのさんの口を塞げ」
「こらお雪ちゃん」
「黙って」
「あ、うん」
すると雪之丞は次々と指示を飛ばす。
「是知、ぼさっとしてんとおしぼり濡らせ」
「あ、はい! ただちに」
「佐吉、陣屋に急ぎ舞い戻り薬師の手配や」
「承知」
天彦は雪之丞に怒鳴られてはじめて自分の異常に気付く。お雪ちゃんがかっちょよく見えることも含めて自分が正常ではないことを確信した。
空が黒い。夜……、なんか。そんなはずはないと知りながらも意識がどうにも定まらない。
天彦は阿保みたいに強がって嘯いて気付いたときにはパンクしていた。完全な心の過負荷状態である。
光宣、なんで。
もはや理性などすべて彼方。どこか遠くへ消え失せていた。あるのは絶望感というにはあまりにも生温い切実な哀しみだけ。
だが天彦は知っている。光宣もこの戦国を本気で生きている一人であることを。
「光宣も本気なんやね。お腹以上にお胸がいたいん。身共とおんなじだけ光宣もつらたんなん知ってるから。はぁもうしんど」
病は気から。その気を保つのもすべては身体が資本なんやでの巻。
これやから仲間作るん厭やねん。厭やろこんなん厭すぎる。厭や厭や……、うわ言が虚空に放たれ霧散する。はは、ぜんぜん余裕やし。
そんなまったく無意味な強がりと共に天彦の覚束ない脳裏には撫子にデレる光宣の、だらしなくもいい顔が浮かんでは消えていくのだった。
【文中補足】
1、京極小法師(後の高次)
京極高吉と京極マリアの長子、元亀元年(1570)織田家に人質として入る。
秀吉の側室となった妹竜子の嘆願により秀吉に仕える。
近江大津城六万石の大名、従三位参議、羽柴大津宰相、京極宰相と呼ばれた。
秀吉の出世と共に栄達し豊臣姓を下賜される、出世は妹のおかげだと揶揄され蛍大名と誹られた、関ヶ原合戦では三成を裏切り家康につく。
2、足利将軍家御伽衆(御伽衆とは公家の相談役的近習をさす)
主に、畠山昭高、畠山高政、山科言継、久我通堅、飛鳥井中納言、飛鳥井中将、広橋国光親子、三条少将、姉小路侍従、藤侍従、烏丸准大臣光康、烏丸左大弁光宣(従四位相当官・太政官左弁官局の長官)※光宣の現在官位はこれに固定します。




