#01 あ、負けでいいです
永禄十二年(1569)三月十七日
茶筅丸と茶をシバキつついちゃいちゃしたのも早四日前。相変わらず暇だがけっして退屈ではないといった雑務に追われるそんな日々。
天彦は自身が泣きながら確保した西院在地が形になり、ようやく郎党の入植が完了したひとまずの安心感にだらけきる。
明日あたりお天気さん良かったら一門で花見と洒落込もかなぁ。とか。
だが春の麗らかな早朝。天彦に怠惰を指摘する者はない。ここ数日特に待遇がよろしかった。状況も好転している。特に雪之丞が謎にやる気を見せてまさかの佐吉に師事を請うて普請監督作業に自ら志願するという、スーパーミラクルをさく裂させたのも天彦の上機嫌によりいっそうの拍車を掛けさせていることは紛れもなく。
気をよくしたのか天彦も雪之丞に倣って非常に珍しく本日午後からは家職である琵琶の修練に予定を割くほど。菊亭の家内は好気配に満ちていた。
見た目は大事。見た目の美しさや整然感は100の正義と言い換えてもよい。
天彦の口癖が見える化したような視界の変化。定宿陣屋周りの最近になかったスッキリ感が天彦に満更でもない達成感を与えていた。
卯刻平旦、明け六つの鐘が鳴ってからちょっと。朝陽さんおはようございますの頃、
「メジロがちゅんちゅん、ええお朝や」
「雀では」
「メジロや」
「もう。気分屋さんなんですから。今朝からいったい何度目ですか朝をお褒めになられるのは」
「六度目さん」
「まあ。うふふ」
静寂はいい。風雅でなくともいいのだ。可聴域に飛び込んでくるノイズだけでなく視覚的にも静寂は必要。朝に静寂があるだけで一日が穏やかに過ごせる気がする。だから必要。静寂大事。
「天彦さん、よろしかったのでしょうか」
「なにが」
「例の職権乱用の件です。魔王様のお耳にでも入ったら」
「ラウラ。ええ加減使う言葉を学ばなあかん。文化の継承や。身共ら公家は伝奏が領分。何を差し置いても伝奏が優先されるんが日ノ本の筋や。そういうこと」
「……その詭弁、いろいろな矛盾が生じておりますけど」
「矛盾なんかお可愛いさんやで。この腹立つ世にはもっと無数の理不尽さんに塗れていらしゃるんやで。阿保やろアホやん」
「もう。知りませんから」
「知ってるやろ。知っとけよ。ここでしらばっくれられたら今こうして話していることは何についてやねんとなる」
「もうばか。うふふふ」
さすがに素人だけで家の設営など無理がある。兄弟子与七に無理を頼みこんで大工の手を横流ししてもらった。
役得ないとかどこのコンプラ企業やねん! 尾張本社のブラック企業がほざくなっ、とばかり心労の報酬を自らの手で分捕った。天彦お得意の悪ノリでほんのちょっとの意趣返しも込みで横領した。天彦の言葉を借りるなら伝奏の下調べとなるのだろうか。ならない。
だがそれは一歩間違えると命を張った悪ノリとなる愚行だった。
目下織田家の統制は激烈にとれていた。ともすると秩序さんが裸足で逃げ出すほど過激に綿密に。
横領を告発された下級武士などは魔王自らが首を撥ねて回るほど、厳命徹底されていた。二条城二の丸前には百を超える生首が並んだとか並ばなかったとか。
いずれにせよ如何な犯罪も見せしめとされ極刑に処されるほど徹底して規律規範は厳守された。
このように織田の軍規は徹底され綿密な注意を払われている。あるいは総指揮官信長の性格なのかもしれないが、想像を絶する徹底ぶりであることは紛れもない事実である。
なのに馬鹿(天彦)はその序にとばかり現在の京ではほとんど手に入らない建築資材までをもちょろまかしてもらうといった悪ノリをやり遂げた。
その行為に意味を求めるなら説の立証となるのだろうか。この普請を捌いているのは藤吉郎。すると押領は当然藤吉郎の耳に入る。入らないと嘘である。人の口に戸が立てられない以上は必ず入るはずである。ましてやあの藤吉郎のこと。用意は周到でなければならない。
天彦は“藤吉郎は絶対にちくらない説”を提唱した。敢えて意味を付けるならその説立証のためとなるのだろうが、あまりにリスクが高すぎた。あるいはあまりに藤吉郎を信頼しすぎた。
だが天彦にとっては欠かせない重要な試金石だったのだ。今後の展開を占う上で絶対に必要な行為だった。もしここで潰しにくるようなら……。
だがここでも説は立証された。
依然としてまだ何の音沙汰もない。そういうこと。あるいは天彦の策意が見抜かれているのかもしれないが、それならそれで逆説的に立証された。
いずれにしても魔王にばれたらブッコロされ確定案件の些細なお茶目さんを重ねつつ、なんやかんや暇なようで暇でないといった日々にあった。
「菊亭青侍衆、集合!」
そろそろ青侍衆の日課、修練の声が聞こえ始める頃合いに差し掛かる。
天彦が湯呑に手をかけようとしたそのとき五条御影堂(新善光寺)から食事刻朝五つの鐘が鳴った。
と、同時かやや遅れて、厳かで心引き締まる一日の始まりをぶち壊しにする如何にもな軍馬の蹄音が陣屋中に鳴り響いた。
「なんや!?」
「お外に」
「ラウラ、身共は厭な予感がしよる。それも途轍もなくさんや」
「同感です。私も途轍もなくいたします」
天彦が二階から階下を覗くと表で用事をしていた用人らや、訓練をしていたのだろう青侍たちがその場に蹲り蓑虫のように包まっていた。
圧倒的なビジュアル情報。そう、貴人さんのお越しである。しかも半家菊亭よりもかなり高位の。でなければ家人の態度に間尺が合わない。
すると鞍上の貴人と目が合う。確かに貴人さんだった。鬼人の誤植も気にならないしかも相当高位の御仁でもあった。死ぬのかな。
何よりそのお方の目が常にも増して血走っていた。あの状態のお人に言葉を当てはめるならきっと憤怒。そんな感じの形相だった。なんで。
天彦の知る人物の為人なら筆まめさんではあるものの格下の者を参るなど、かつてはどうかは知らないが今ではけっしてあり得ない。そんな地位ある人物である。故に恐縮もあったのだろう。旅籠じゅうが緊迫を超えた向こう側にある緊迫感で覆われてしまう。
天彦は渋々支度をして階下に向かった。が、それよりも貴人さんの行動の方が断然早く、階段で鉢合わせしてしまった。護衛の意味。菊亭家の護衛たちは乱入者の背中をただ見つめることしかできていなかった。
身共もお前さんらもまだまだやな。そんな心境で天彦は最近自ら身辺警護を買って出ている自称親衛隊長氏郷をジト目で見やる。が、酷であろう。これは無理だ。魔王が第三形態でやってきたんだもの。200万かな。
「お早うさんにおじゃります」
「なにが早いものか。しかし面白いところに住んでおるな。今度はどんな悪巧みだ。混ぜい」
「ははは、ただの旅籠さんにおじゃりますがその時が参りませば是非。お茶でもどないです」
「馳走せい」
「是知、二番目にいいやつを」
「え、あ、と……」
是知人生最大級の狼狽をみせる。どんな当然よりも当然だった。
「ほう。それは如何なる仕掛けであるか。狐が仕掛けたその挑戦、受けて立って進ぜよう。二番目の茶葉とやらを出せ」
「あ、嘘です。是知、女将さんに大至急超特級茶葉をお出しするよう申し伝えてくれるか」
「は、はひっ」
「ふん、つまらぬ」
怒ってはいるがそこまでのレベルにはないのか。目の血走りは乾燥のせいか。それほどの危うさは感じない。
だがそれは天彦だけの感性だろう。周囲の家人は皆一様に縮み上がっていた。
◇
魔王信長を私室兼応接間に迎え入れる。当然のように上座に鎮座する信長は、天彦のお気に入り脇息(肘掛け)を座るなり肘打ちでふんっと粉砕してしまう。え、はァ?
「脆い。もっと真面な物を置かんか。なんじゃその目は」
「べつに」
「ほう、謝罪が欲しいのか。ならば何を差し出す。首か、腹を召すか。いずれか一つを差し出すというなら詫びてやることも吝かではないぞ」
「あ、はい」
ゆーてへんし。知ってたから。だいたいこんな感じのお人さんやと。
だが収穫もある。魔王信長は怒っているというより不機嫌だった。そういう感じね。
天彦はならば調子を合わせるだけ。と、不意に黙りこくった。すると信長も歩調を合わせるように黙り込んだ。
二人は何の意味もなく無言になった。そして会話もせずにガラスのない木枠窓からただぼーっと外を眺めていた。メジロがちゅんちゅん。
五分、十分、十五分と。どちらかが仕掛けたわけではない。だが確実に何かの勝負事は行われているそんな張り詰めてはいないのにアンバランスなひりつく空気感が応接間に広がっていく中。
周囲は堪ったものではない。イツメンたちを筆頭にこの場に居合わせた家人すべてが気が気でない。気が気でない上に展開が読めない恐怖に苛まれ今にも嘔吐しそうなほど顔色を悪くしている者もいた。主人はいったい何をやっているのか。阿保なのか、アホやん。
だが天彦はそれを承知で素知らぬ顔を貫いた。ここで折れたら負けるから。反面勝ってはいけないとも感じていて激むづなぞなぞの様相を呈している。
落としどころを探りながらも口惜しいので何が何でも絶対に自分から口火を切りたくない天彦だったが、遅ればせながら追いついたのだろう。殿、殿! いずこにござるか。家臣の感情など気にも留めない横暴主君を探す、外から威勢のいい親衛隊諸兄の声が聞こえてきた。
これを以って勝負あり。持ち越しドローと相成った。
「読め」
「へ」
潮時だったのだろう。三郎信長は懐から一通の文と一枚の何かを取り出し天彦に放った。ナイスキャッチ。受け取る。
天彦が書状を広げ目を落とそうとすると、まるで遮るようにややかん高いがどこか親しみの持てる声が耳朶を叩く。
「偽るな。ただあるがままの事実を申せ」
……あ、嗚呼。
勝負でも何でもなかった。ただ言い逃れをする時間をくれていたのである。
天彦は心底から猛省して震えながら文を読んだ。添えられている写し書面も食い入るように読みふけった。
「先般は茶筅に教授してやったそうだな。礼を申す」
「あ、いえ、はい」
「経済構想評定を放棄して、茶をしばきに参ったそうな」
「むほっ!」
違いますん、言い訳させてとあたふたすると、
「よい、当家の叡智どもを以ってしても貴様の叡智には理解が及ばぬようである。あの鼻高どもが揃いも揃って白旗を上げておる。焦らずとも構わぬいずれ及ばずが埋まるよう伝授してやってくれ。やつらとてこのままではおわらぬはずじゃ」
「はぁ。ほなもっと早うにはければよかった」
「なに」
「う、嘘です。ちびっこ冗句ですやん」
「なにがちびっこか。さて“性質を理解せよ。それだけで五年は寿命が延びる。また内向きには己を過大評価せず、外向きには己を実際の己以上に見せねば更に十年延びるであろう”そう申したそうであるな。茶筅に問われた、その意味をな。策意はどこにある」
「う。他意はおじゃりません。言葉通り捉えていただければ」
茶筅? 次会ったらしばくから。
「人とは小さき物に心惹かれぬ生き物である。ましてや貴様のことじゃ。必ず意図する含意があろう。しかし茶筅にはまだ早い。道を説くは当面控えよ」
「はい。僭越さんにおじゃりました」
「だが貴様の考え方はよくわかった。それは武家の生き様にあらず。そして公家の生き様でもない。狐流か。五山ではたいそう慎重な隠遁術を伝授しておるのだな」
「三史五経にて」
「大陸の教えか。……その文献、後で持って参れ。存在するのであれば」
おお、ばれてーら。ゆーてる場合か。
心の国会図書館さーん。地獄への道のりは善意で舗装されていましたよぉ。とか。
そのタイミングで丁度預かった文と添付資料に目を通し終えた。
ま、んじ……?
天彦は二重の意味で面食らった。内心の動揺を覚られないよう視線でラウラを探す。おいで。厭やないねん、来なさい、来い。
なぜか100の不満を浮かべる家令を傍に招き、文を回し読みさせる。その間信長の会話の続きを待った。妙に喋りたそうな雰囲気だった。
「狐、あれをどのように見た」
「天彦におじゃります」
「天彦狐、答えい」
「あれとは」
「茶筅に決まっておろう」
人をあれとゆうて問いかけるな。公(国)・共(共同体)・私(私人)の区別がつかへんのは悪い為政者の代表例やぞ。とか。
天彦は悪態をつきながら人物評を脳内で纏める。後世に伝わる人物評が妙にバイアスを利かせて邪魔をしてくるが可能な限りフラットな目線で。
けれど実際の評価より8点アップして伝えよう73点。プラス採点者持ち点5を加算して78点。一人買収して5点プラス83点。それが処世術だから。
「茶筅丸さんは器さんやと思わっしゃります。いずれ大輪の花を咲かせる大器晩成の器さんとお見受けさんです」
「真実か」
「はい」
「器か。永瑞も同じことを申して負ったな。だが二子じゃ」
「身共も二子におじゃります」
「一子であろう。但し甲斐に気圧され廃嫡されておるが。ふふ」
「女子を数えないのは田舎もんさんにおじゃります。京の雅さんにはあらしゃりません」
「抜かせ。じゃがふむ、別家を立てよの暗示であるか。……なるほど確かに。貴様相変わらずの不遜よな」
「無論承知。お望みとあらば遠慮いたしますけれど」
「たわけが」
「はい。どこぞのお国にでも配置なさればええお大名さんにならはるんと違いますやろか。あの心清らかなお方さんなら御家騒動もご心配あらしゃりませんやろし」
「くく、で、あるか。あれは実に余に似ておる」
「うつけさんにあらしゃりますか」
「大うつけじゃ。それを儂に面と向かった者は貴様が初めてだが」
「はい。お話訊いてくれはらへんとこなんかそっくりさんです」
「ほう。言葉通りに受け取るか。貴様ら、さては気が合うたか」
「よう笑いよう考えはる気持ちのええ御方さんにあらしゃいました。身共は好きです、ああいうお方が」
「なるほど、ないもの強請りであるな」
「ひどっ」
「ここへ参らせる。よいな」
「強請られましたか。父御前もたいへんにおじゃりますなぁ」
「ふん」
天彦は会話をしながらも気が気でなかった。冷静は装えていたのだろうか。鼓動が暴れ手が震える。酸素ってこんな薄かったっけ。
ラウラが手紙を読み終え返却してきたのでこれにて雑談終了。さて本番か。ラウラと視線で最後の確認。間違いない。ならばと二人示し合わせ天彦は気分を律した。
するとそれに呼応するように信長の表情にこれまでになかった険が差し込まれる。と、纏う気配にも威圧感が急増した。魔王の降臨である。
「申し訳あらしゃりません」
「すべては私の落ち度、申し訳ございません。この通りにございます」
天彦はラウラと暗黙の呼吸を整え全力マンキンの土下座をした。言葉がかかるまでずっと。
もはや伝統芸の領域に達しているので馴れたもの。だがこの小馴れた感は絶対に出せない。あくまで様式美として追及していかなければならない菊亭奥義なのである。セコすぎて厭すぎる。
魔王様、伏線はくれていた。こうして明日の予定を話したのだ。身内のディープな話題にも触れたのだ。敢えて立ち入らせもした。よもや命までは取られないはず。そんな淡い期待にすがりながら天彦は延々と土下座をし続ける。
「痛っ――」
果たしてどのくらいの時がたったのか。ややあってパシンっ、後頭部に激烈な痛みが走った。痛みにたまらず面を上げる。ええ。
すると至近にうんこ座りの柄の悪いヤンキーがいた。西日本くらいは軽く牛耳っていそうなDQNのアングラ系帝王がいた。違う。違わないが扇をぱちぱち、うさぎ座りの信長がおもくそガンを飛ばして至近にいた。あ、はい。死ぬのかな。
「おいコラ、申し開きをせえ」
「したくともありませんのん。相違おじゃりませんのやから」
「おみゃあこの儂を謀るんきゃあ、儂の目が節穴だとでも思っとるんか」
「ま、まさかさんなん」
「まさかなんみゃあ」
「みゃあ」
ごつん――!
ほ、ほ、星がとんだ。首とれた。あった。こっわ。まじでこっわ。
言葉が紡げない。まるでまったく。何か意味のない単語なら発せる。だが文脈ある文法は無理。天彦はそんな状況に陥ってしまう。
ややあって目を逸らし、徐々にすーはー呼吸を整えてどうにかこうにか態勢を持ち直して、気合一閃。
「菊亭には使用者責任という式目がおじゃります」
目ぢからにすべてを賭ける。すべての想いと神経を集中させ、すべての気負いを総動員させて魔王を睨んだ。
思いが通じたのか。ややあって、
「ふん、続けよ」
の声がかかる。……ほっ。いやいや全然いっこも安心なんかでけへんし。
だがかすり傷で済んだ。まだひとつも安心感はないけれど。それがすべて。お命大事。なにせお一つしかないので。
さてどうやってかわしたろ。天彦は何食わぬ顔で脳内思考をフル回転させるのだった。
【文中補足・人物】
1、永瑞えいずい
織田家菩提寺、亀獄林万松寺の住職。信長の叔父にあたる人物の大雲永瑞和尚のこと。




