#14 血管二本はちぎれたぞ
永禄十二年(1569)三月十三日
歩兵など騎馬の突破力、殲滅力の前に敵ではない。鎧袖一触、怒涛の展開。瞬く間に敵勢力を平らげていく菊亭騎馬隊に改めて天彦は騎馬運用に絶対性を実感した。
むろんどこかの魔王さんが時代を大幅に進めてしまわれる前の、ほんの許される限りの僅かな間だが。つまり天彦の中での時代錯誤であったのだが実に惜しい部隊であった。
何しろカッコ美しい。見た目の美しさは100の正義に相当する。を座右の銘とする天彦にとって、美しさに取って代わる正義は今のところ見当たらない。
そんな騎馬隊が今さまに敵の首魁を成敗しようと大槍を虚空に付き上げたそのとき、
「待ったァ!」
一敗地に塗れる実愛が苦し紛れに放った最後の奥の手がさく裂した。
高虎から振り上げられた大槍の二尺にも及ぶ穂先は一閃されることなく虚空に停滞し、まるで時を止めたかのような沈黙と静寂のシンボルとなってしまう。
争いの場に歪な間ができてしまったのだ。すると不意に視線が集中。誰もが天彦を慮るようにじっと見つめた。
実愛の手には糸輪に三つ楓の紋章織物が燦然と輝いていたのである。
それは天彦の本家でありかつての主家であり命ある限り永遠の生家でもある清華家今出川の家紋と酷似していた。……無理筋やろ。さすがに認めよ?
天彦はふるふると頭を振って厭々しながら折れて曲がった。あれがぱっぱ晴季の与えた証であると。
身内(主に親)のコネを使い倒すのが縁者の務め。なるほど、なーるほど。実に理に適った応手である。コロス。
「やりおる。みんなさん、ここは一旦御下がりさんや」
天彦の決定に異を唱える愚か者はいない。戦国が如何な無法時代でも公家にとって権威とはどれだけの理不尽を前にするより従わなければならない絶対の法であった。それこそが公家が公家たる所以だから。自らの存在意義を見失う者に継承など不可能である。そういうこと。
と、同時にほとんどの御家来衆は何よりも誰よりも主君の想いを知っていた。主君に今出川憎しの感情はない。寧ろ姉御前撫子(天彦曰くの妹ゆうづつ)の立場を慮り常に一歩譲ってきた。故の即応。故の尊重。故の休戦。
「者ども、下がりおれ」
「はっ」
助佐且元が良く通る声を張った。感情論以外にもこの決定には正当性が確とあったからだ。
公家階級では大臣家以上がキャリア組。それ以下はノンキャリあるいは雑魚。というのが朝廷の共通認識であり絶対則。天彦は雑魚に該当する半家の公家である。
一方対する相手方はおそらく清華家を標榜した。まさに今ここに至上最も忌むべき理不尽が見える化したのである。控えめに言ってキレていい。
「捕らえよ」
「はっ、引っ捕らえよ」
むろんだからといって逃がすとは言っていない。
未来の現代ならこの狼藉をどう裁くのだろう。罪状はおそらく考え得る非道のかぎりすべて。火付けも傷害も殺人も強盗も強姦もありとあらゆる罪を犯しているだろう。放置すればこれからも更に余罪を積み重ねていく。そんな野盗集団だった。
だが室町の流儀なら。名のある身分・地位財産を持つ階層なら身代金をせしめて解放。その手下も親方の適法に準じる。そんなところではないだろうか。
雑魚はむろん首チョンパでお仕舞いである。何事も財力(身分)でどうとでもなる上に往々にして銭は命を守ってくれた。未来の現代にも通じている習わしなのかもしれないけれど。
「離せっ! ええい、身代金なら今出川に出させればええやないか。そういえば己の生家やったな。あははは愉快なこっちゃ。ご苦労さん」
あ、はい。そんな感じね。
なんてことはないVS野盗はインサイドゲバルトであった。
天彦のみならず菊亭勢のほとんどすべてが憤った。天彦ぱっぱ晴季は実の息子の敵勢勢力を我が身内に取り込んでいた。あれほど清水谷はあかんと言っていたにもかかわらず。
ぱっぱがいつか地獄の苦しみにのたうち回るほど痛恨痛い目をみますように。天彦は人知れずそっと星に願いを込めた。
「解放したれ」
「ですが」
「曲がりなりにもお身内さんを標榜したんや。身共にはよう裁けん。ようて当主預かり。悪くすれば実益さんに出張ってもらわなあかんようなる。こんな赤っ恥、さらせるとでもお思いさんか」
食い下がっていた且元が引き下がると意志は統一された。そういうこと。
「覚えておれよ、一門を勾引かす妖狐めっ」
やっぱナシ。極刑で。
天彦の超希望的観測は叶えられず実愛は解放され去っていった。僅かとなった手勢を引き連れ西の大路へと消え去っていく。
「あーあ」
戦闘現場に目を向ける。当たり前だが凄惨だった。つまり誓いは破られた。
さて後に残された遺骸はどうするのか。天彦のメンタルが正常なら、お前らの仲間この世界に死に恥さらしてて草。と敢えて偽悪的にふるまってでもやつらに引き取らせたことだろう。
だがどうだろう。天彦の口からそれっぽい冗句は一言も発出されてはいないようだが。
指揮権は手放していたものの己の意思で他人を殺害したことには相違なく、なんやかんや実はこれが初めてだった。ふーん。こんな感じね。あ、そう。
独白が強がりかどうかは一流の露悪家の彼のことなので真面には受け取れない。
しかし天彦はこの無情な戦国を自分マインド剥き出してやっている。死のうが生きようが救おうが殺そうが、自分勝手が大原則。
むろん大前提、殺さないという大題目は掲げつつけれど決めたとてその設定に殉じるような愚か者ではけっしてない。そんな潔さは頭の可怪しい主人公ムーブ馬鹿にやらせておけばいいのである。
すると出来ることを考える。つらつらと。無理やり理屈を付けて尤もらしく正しさを折り重ねて。
哲学者でもあるまいし自縄自縛では本末転倒、だとか。
厭な物からは目を逸らすのも立派な戦術、だとか。
正常なメンタルを維持するにはずるさも時として必要なスキルである、――とか。
「なんやかんやゆーてますけど。ぺっ――、終わってますやんこの世界」
結局のところ天彦は食らっていた。たとえば何かお願いしたその人がその人の出せる一番低いトーンで拒絶したときと同じくらいに食らっていた。あるいは様式美だからやっておかないと、と月末の給料日まで残り五日を具なしマヨあるいおはケチャパスタで糊口を凌ぐくらいに食らっていた。
天彦はたまらず言語化してしまう。吐き出さないとどうにかなって……、しまいそうだから。
「どんな様式! 要らんねん様式。なんでリアルっ、お花畑方式でこの後スタッフが美味しくいただきました構文でええやろ。衝突はあったけど誰も死んでませんよちゃんちゃんって。……はぁ、なんもない。こっち見んな」
側近たちの視線が優しくて逆にきびかった。
死は常に痛ましい。当然である。だが対話がそうとう叶わない世界線において利益が相反する場合、果たしてどのように回避するのか。解決するのか。それが最大級の課題であった。結局今日まで答えが出せずじまいできた。これがそのツケ、結末である。
常に衝突を避け、常に先を譲るのか。常に勝ちを譲るのか。常に略奪を許すのか。困窮が悪いんですよねと悪事だけを責め悪党に寄り添うのか。あり得ない。
それは人生に絶望した世捨て人の生き方と何が違う。あるいは行き切った先におられる聖人の生き様ではないか。
天彦は絶望もしていなければ聖人などではけっしてない。たとえそれが上がりだとして、いずれにせよまだ天彦には遠く及ばない境地である。
キングオブパンピーたる常人の天彦には大前提と掲げる綺麗ごとにも限度がある。今回はその限度を超えた。たったそれだけのこと、そういうこと。
「お辛そうですね。心中お察しいたします」
「べつに。何の変哲もない日常の感傷さんや」
「胸をお貸しいたしましょうか」
「いつか借りよう。でも今やない」
「ではせめてハンカチーフをお使いください」
「呼び水を差すのはやめろ」
「心の澱は吐き出されないと後々大変ことになります」
「思いたい風に仕立てるのもやめろ。身共のどこにっ、触るなっ!」
珍しく執拗に構うラウラ。珍しく剥き出しの感情を言語化する天彦の対比は本来面白いはずなのに。このときばかりは笑えなかった。
「見間違いにございました。ご無礼をお許しください」
「……下がれ」
「はい。ですがラウラは常に御傍に控えております」
「それが仕事や。わざわざ言葉にせんでええ」
「はっ、……大丈夫? 大嫌いなニンジンを前にするお雪ちゃんの顔より、十倍酷い顔をしていますけど」
「うるさいんじゃ、ぼけ」
ニンジンは大好物。煮ても焼いても生でもいける。天彦は本質を誤魔化して言い逃れた。……泣かしにきよって、復活したら絶対にしばく。
あの残された無残な遺骸は丁重に弔われる。きっと誰かに。
神が天にあり。仏が天竺に御座せば世はこともなし。きっとそういうことなのだろう。知らんけど。
天彦は震えながら元悪党浪人だった者たちから目線を切った。とってつけたようにまるで箒で追い払う門前の小僧かのような素っ気ない目性を添えて。
一門一党を率いることとはこういうこと。実益がよくいうやつ。ただそれだけのこと一件落着。
お人好しはもうやらん。絶対の絶対に二度とせん。フリやないぞ本気やから。
「…………」
天彦の熱い想いとは裏腹に座が冷めた。あるいはずっと覚めていたのかも。誰も彼もが存在さえ隠すかのように息を凝らして天彦の動向を覗っている。
聞こえるのはかあかあスカベンジャーの退け退け催促声とそれを狙うぴーひょろろ、だけである。なんで。
善きにつけ悪しきにつけ天彦あっての菊亭である。天彦の情動のコントラストはダイレクトに家中の士気に反映されるシステムとなっている。故の沈痛。
いっそ馬鹿丸出しの勝鬨など上がればどれほど救われるだろうというほど座がめっきり冷え切ってしまっていた。
するとそこに、
「勝鬨を挙げよ!」
「えいっ」
「応!」
「えいっ」
「応!」
「えいっ」
「応!」
与吉高虎の一番欲しい勝鬨が上がった。そして間髪入れず、
「者ども、縄を張れ!」
応さッ――!
悪い流れを切り替えるかのように助佐且元の威勢のいい掛け声が上がる。
するとたちまち菊亭勢の士気はぐんと上がった。やはり物事は気運であろう。頼れる者は屈強な武官であると言わんばかりにあのDQN三人衆を筆頭とした青侍衆が気炎を揚げた。
ここに空気は一変した。ありがてー。一個借りとこ。
結論、感情とはレッテルである。不要なら剥がせばいい。そこに落ち着く。
だがやはり哀しみの果てはなかった。果てには緩やかな哀しみのコントラストが存在するだけでずっと哀しい。あるいは蕩減条件くれめんす。贖罪に希ったところで蕩減条件など設定どころか匂わせすら感じさせず、あるのは辛うじてお情けで周りが優しくなるくらい。
かつて偉大なアーティストは綴った。知りたくもないと。裏を返せば知ったところで空しいだけという示唆ともとれる。天彦としてはむしろ大いに共感できる仮説であった。
やはり結論に回帰して物事など所詮はただのレッテルである。哀しみの果てに何かないかぎりにおいてこの感情さえおそらくきっと。
いずれにしても天彦は強すぎるより更に強い自負心で揺さぶられた感情を上書きするのだった。




