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雅楽伝奏、の家の人  作者: 喜楽もこ
壱章 百折不撓の章
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#06 叡智の臥龍、それちゃうねん

 



 永禄十一年(1568)十月七日(旧暦)






 昨日はかなり欲張った。冷静になってみると惟任日向守、目下最も天下人に近しい人物に重用されている。おいそれと会える人物でもない。

 清華家の長子であり半家菊亭家の嫡男天彦が会えないのだ。一商人などもっと会えるお相手ではない。


 そう考えるとやはり取り乱してテンパっていたのだろう。


 借金取りに追われ生活困窮、家人は敵性勢力の支配下にあり、そして頼れる両親も傍にはいないのでつい忘れがちだが、天彦は身分階級高い側にいた。戦国室町階級社会構造にあってまあまあ高い位置にいる。


 余程のことでもないかぎり捏造した作文が露見することはないと信じ込み、惟任日向守にお会いするのは謁見までのお楽しみに取って置く。


「痛っ、つつ……」


 体中が痛む理由はただ一つ。ずっと勝手をしていた清水谷が姿を見せるなり天彦に勝手をしたとブチ切れたから。相談せよと激怒した。

 それは凄まじい折檻だった。ただの暴力を教育的指導と言い換える前時代的な教育者と同じ目をしていた。


 だが天彦もよくなかった。相談するのは身共ではない。お前だ。元気いっぱいに反論してしまった。

 殺すネタを探している相手に材料を与えてどうする。命の危機を感じて初めて己が非力な少年であることに気づく体たらくであった。

 果たして飼い主の指示もあったのだろう。常にも増して念入りだった。

 しかし一方、謁見が近いことも承知しているのだろう。常にも増して慎重に顔へのダメージを避けていた。即ち外面にはかなり気を使っていることが見て取れた。天彦にとってこれは大きな収穫だった。


 意識を現実に切り替える。寝室にぽつんと独り。襖に朝焼けの薄日が差し込み中庭から雀の鳴き声が聞こえる。

 つまり静寂。はてさてまったく人の気配がしない朝を迎えるのは何日目か。まったりはできるが素直には喜べない。あまりにも不用心にすぎるのだ。


「お雪ちゃん」


 雪之丞が出仕するのはまだかなり早い。応答があるはずもなく。代わって誰かの応答もなし。

 ついに住み込みの用人がすっかり姿を消してしまった。これも清水谷の指示なのだろう。菊御料人も中々に執拗だ。あるいは用心深いのか。ひょっとすると懐妊したのか。よくない兆候だ。


 勝者総取り。ウィナーテイクスオール。

 戦国時代特有の、あるいは特有ではなかったとしても顕著な権力一極集中制度である。天彦の心の耳には厭な予感では済まない危機感さんが、ひたひたと歩み寄ってくる足音の幻聴が聞こえた。

 菊御料人が男児を出産すれば確実に殺しにかかってくる。この時代、家督はほぼ男子にしか継承権がなかった。


 いずれにせよ本気の対応を迫られていることだけは確か。まず解決すべき事案の一つ目として、本日いよいよ用人がゼロとなってしまった。これでは家が維持できない。それでなくとも老朽化している。

 この時代の生活何かにつけ一々原始的で、子供一人でできることはかなり限られている。借金もえぐいのだ。どうにか改善しなければ。


 ならば計画を前倒しにして、と上手く切り替えられるほど事は単純ではない。

 転生チートを生かした狙いはいくつかあるが何一つとして再現性に乏しく実現性に遠かった。つまり無策。

 おまけに転生チートは人目を引く。力(武力)のない悪目立ちは無能に劣るのだ。何しろただでさえ存在自体を疎まれている。

 この危険な状態で目立ってしまうなど愚の骨頂。絶対に狙われ確実に始末される。デッドエンドは意味がわからん。つまり無策。詰んではいない。


 閑話休題、


「おぉさぶい。これって懐具合が寒いからか」


 そうでなくとも十月に入ったばかりなのに京の朝はかなり冷えた。外出着(狩衣)に一枚羽織って廊下に出る。

 喉が渇いた。小腹も空いた。全身がひどく痛む。カルピス飲みたい。

 本家とは少し距離を置いた方がよいのかも。命あっての物種だ。

 一向に悩みが尽きない。何事も楽しいばかりの年頃のはずなのに。


 喫緊に差し迫った借金問題は回避できた。だがあくまで急場を凌いだだけにすぎない。抜本的な改善をするためには、やはり元凶の元から絶たなければ。

 直截的な知識チートは使えない。だが遠隔地なら悪目立ちはしないかも。情報伝達速度は距離とイコールだから。しかしこの理論は通用するのか。

 敵は歩き巫女を擁している武田だ。信玄のリアル妹である菊御料人が実家の諜報部隊を使えないとは思えない。

 こう考えると天彦が思っていたよりずっと、公家と大名家とは密接だった。


「おのれ甲斐め」


 天彦が完全無欠に武田家を敵認定した瞬間だった。


 目覚めて何度目かの意識を切り替え、収入源の荘園に向かうか。何ができる、できないかの判断はやはり現地を知らなければどうにもならない。

 脳内で荘園までの順路をマッピングする。案外いけそうだ。多少違っていても180度までは変わらないはず。それが古都の魅力でもあった。


「よし。決めた」


 道中町に寄っていこう。繰り出す前にまずこの飢餓感を満たしておこうと竈のある土間へと向かった。




 ◇




「で、どこに向かうつもりや」

「うわっ!」


 念のためにと用人を探しながら土間に向かうと、勝手知ったる我が家のように振舞い自前の家人に茶を強請る実益と鉢合わせた。

 最近特に頻繁だった。偉い人(主筋)だからアポなし訪問も行為自体に問題はない。だが予定をすべてご破算にされるのは困りものだった。


「なんや尤もらしゅう驚いてからに」

「いやいや、そりゃ驚きもしますよ。てかむっちゃ来ますやん」

「迷惑なんか」

「はいとても」

「なんやと」


 天彦は睨まれても動じない。先に痺れを切らしたのは実益だった。


「即刻考えを改めや。麿はお前さんのなんや」

「いやです、改めません。もちろん主筋の御嫡男さんであり、そこそこ信頼できる主君であると同時に唯一無二の後援者であり、永観堂学舎の級友であり竹馬の友であり、戦場で背中を預けられる、かもしれない盟友ですけど、いやです」


「ちょっと待て。いろいろと整理したい」


 いよいよ面倒なので実益を放置。そして視線を性懲りもなく駆り出された三人の見知ったお供に向ける。苦い笑みを送られてしまう。

 このお三人さん。揃いも揃ってかなり武張っている。一人は文官だと聞くが、それでも相当の使い手だろう。纏う気配が尋常ではない。


 これが将来を嘱望される清華家筆頭御曹司と、じゃない方との格差である。

 天彦はしかとその差を受け止めて、改めて三人の供と正対し憐憫の情と共に慇懃に挨拶を送り返した。


「お早うございます」


「おはようござる。本日もよろしくお願いいたす」

「おはようござる。連日申し訳ござらぬ」

「若とのさん、おはようござりまする」


 と、


「おい吾にはないんか。さすがに拗ねるで」

「お早うございます、実益さん」

「うむ、お早うさん」


 まずい、天彦は慌てて実益に向き直った。感情が昂ると知らず一人称がブレるのだ。麿から吾に。


「で、こんな早うにどこに向かうんや」

「ちょっとそこらに」

「いつもの市井調査か」

「それもあります」

「なんや含みがある言い回しやな、洗い浚い吐くんや」

「荘園に行こうかと」

「なんやおもしろそうやな」


 まずい。関心を持たれてしまった。

 話題を探す。


「昨日は無理を訊いてもろてすいません」

「そや、昨日のあれはなんや。あの原木は切り札と違ごたんか」

「どうしても急な入用で」

「それにしては大金や。どこぞの大名でも暗殺するんか」


 ノーコメントで。天彦は口を固く結んだ。

 いくら竹馬の友であろうと身内の恥は曝せない。しかも自分の恥となれば猶更のこと。


「わかった、まぁええわ。麿も同行して進ぜたろ。おい、その顔はなんぞ」

「ただの感情を表す符丁的な変顔ですやん」

「どういう感情や。どういう感情やったらそのへんてこな顔になるんや」

「嬉しいに決まってます」

「さよか。荘園はどこや」


 かわせていない。厭な予感が沸々と。


「洛外からうんと離れた僻地です」

「どこや」

「はて、どこやろか」

「原木燃やすぞ」

「久御山荘です」

「久御山、知らん。どこや」

「巨椋池をご存じですか。醍醐の向こう先っちょの」

「蓮池やな、宇治か。平等院さんのご近所やな。ほんなら土地勘あるな。どないや土井」


 実益が従者に何事かを確認する。すると従者同士で作戦会議が始まった。

 何やら主従で血生臭い相談事をしているが天彦は無関係を装い聞き流す。そうでなくとも西園寺家は血の気が多い。これで公卿なのかと思わなくもないが、後に戦国大名化すると知れば諸々納得の精神性であった。


「小田原は使うな。子龍がいてる」

「若とのさんを小田原に知られたくないと」

「まだあかん。あそこは駿河とつうつうや」

「駿河は甲斐と」

「そや、あんじょうしたって」

「ではそのように」

「頼んだで」

「はっ」


 主従の打ち合わせが終わる。

 天彦は知らなかったが、西園寺が北条家と通じていることがこれで確定した。隠すつもりもなさそうなので公然の秘密なのだろう。

 取り立てて警戒することもない。公家など必ずどこかの大名と綿密だ。そうでなければ滅んでいる。


 天彦はそんなどうでもいいことより目の前の大事に意識を向け、無駄な努力と知りながら必死の抵抗を試みた。


「近くはないですけど」

「なんや、近いやないか。醍醐と聞いて酪食べたなったな」

「近くはないと言いましたよね」

「近い近い、ぴゅーっと行ける」


 これで一日延長確定。


「五里もありますけど」

「牛車だしたろ」

「あほやろ」

「あほとはなんや」

「どないすんの。整備されてない道、五里進むのに一年かかるわ」

「さよか。ほなどうするんや、籠か」

「馬の方が早いです」

「子龍、乗れんやろ。麿も乗れん」

「乗れますけど、普通に」

「なんでや、いつの間にや、そんなん可怪しいやろ」


 たしかに可怪しい。これで二日延びた。


「見栄はりました。そもそも泊まりです。実益さん、お役目が」

「当面参内の予定はないな」

「予定はなくても呼び出しが」

「ない。今内裏は京都奉行案件に掛かりきりや」

「ちっ」

「お」

「恐悦至極に存じ奉りまする」

「さよか」


 天彦の望まぬ方向に一件落着した。

 だが安全度は当初と比較にならないほど上がった。正直にいうと雪之丞一人ではかなり不安があったのだ。洛外は野盗の温床だからして。子守りが増えたが差し引きプラスだ。――本当か。


「菊亭の若殿さん、今淹れますよって」

「ご丁寧に、どうも」


 天彦は実益の供が淹れてくれた茶の入った湯飲みを受け取った。けっこう丁寧なお辞儀を添えて。


「子龍、冷める前に飲みや。悪うないわ」

「御相伴に、……って、身共の家の取って置きの茶葉ですやん」


 これ客用の高いやつやのに。天彦は本気で愚痴った。

 最近専ら渋いのだ。主にぱっぱ筋の経理担当、勘定吟味奉行山本が。むろん別家のため対外的なお財布は別とされている。だが実情は一緒である。駿河凋落が無関係とは思えない。


「まったく吝嗇くさい。……ん? 待て」


 馴れ合いの儀式は済んだ。さて向かうか。

 天彦が外出を促そうとしたそのとき、実益が雰囲気を一変させた。すると供が呼応する。瞬く間に土間に緊迫の帳が降りたった。


 まずった。


 天彦の予感は的中した。迂闊だった。完全に油断していた。


「おい子龍、それはなんや」

「それとはなんでしょう」


 実益の雰囲気が変わった。こうなってはお仕舞いである。

 天彦ごときでは何がどうあっても、逃れることはできないのである。



















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