#10 愛は哀より出でて哀より愛し
永禄十二年(1569)二月二十五日
「無茶ゆうたらアカンわ、いくら信長さんでも」
「なにを」
「何度でも申します。道理を捻じ曲げる無茶はあかん。いくら天下人さんにあらしゃっても」
ひりつく気配。凍てつく室内。
それなりの暖は取られているはずなのに、これならいっそ表に吹き荒ぶ寒風のほうがよほど心地いいだろう。そんな天守の一角で魔王とお狐は見つめ合う。その様子はまるでお互いがお互いの存在を認め合う確認作業かのように映った。
短くもあり長くも感じる。果たしてどのくらいだったのか。ややあってふっと空気が揺らめいた。
すると大方の予想を裏切り三郎信長は、――で。あるか。特に何でもない風に天彦に対し折れてみせた。
この応接には誰もが驚いた。むろん天彦自身も驚いたが当事者である天彦より周囲の反応の方がよほど驚愕の色が濃い。つまりこの応接がそれほどの特例であり過去に例がないほどの譲歩であったと見受けられる。
しかし一方では、但し絶対に成果を上げるという厳密な許容条件設定があるのはお察しなので天彦とてこれ以上には踏み込まない。絶対に。
天彦には視えるのだ。これ以上は近づいてはいけませんのデンジャーストライプ柄が。
三郎信長は珍しく人前で茶を飲んだ。まるで乾いた口内をたっぷりと湿らせるかのようにぐびぐびと。そして、
「余に無茶を強請っているのは貴様であろう。人にはせよと申し付けておきながら自らは高みの見物か。それで道理が通ると思うてか。道理を説くなら道理に准ぜよ」
「なんと申されようとも無理におじゃります。これは身共の領域にてお武家さんには立ち入れぬ議論の及ばぬ仕儀におじゃる」
「議論の及ばぬ仕儀とな。つまり強いられておるわけだな」
「……そのようなことは」
「どこぞの何者であろうか。このような天の配剤に愛された偏りを、かくも窮屈な場に閉じ込めようとする慮外者は。即刻この場に引っ立ていっ! 余が道理を説き、いや面倒な。ただちに成敗してくれよう」
「ふぁっ」
やーめーてー。預かり知らんとこでじっじ殺そうとするんだけは。
ああ見えてもう心臓弱いんやから。
逃げたろという天彦の意図は完全に透けていた。当たり前だが天彦はとことん足掻く。何しろ天彦だから。当然三郎信長もお見通し。だから三郎信長のあれも半分演技。残りの半分はどうだろう。誰にもわからないのでは。少なくとも天彦には察することはできないだろう。
いずれにしても流れ的に逃げることはできそうもない。然りとて主軸で関わることは自分理由でできっこない。何かの因果で、ある日突然に世界が破滅に向かわないとも限らないので。キリッ。
天彦は冴えた頭と冴えない顔で折衷案を必死に探る。まあ地の果て天の彼方まで探ろうとオブザーバー参加しかないのだが。
「しゃーない。ほんまにほんまにしゃーなしですよ。信長さんの御頼みさんやから特別対応さんなん。相談役としてならどうにかしましょ」
「よしっ。直ちにかかれ」
「訊いて」
「聞いたではないか」
「アホやん」
「なに」
「あ、嘘です。違ごた嘘でもありません。身共はたった今、相談役ならと申しましたよね。訊いて?」
「余の許におれば行動に枷はない。望む人材、必要な物資、すべて貴様の思いのまま。何を不服があろうものか。これほどの御旗を振れるのだ。男子冥利に尽きようものを」
「あ、はい」
ちゃうちゃうちゃう。いや男子やけどちゃうよ。
「無理におじゃります」
「市若」
「はっこちらに」
「祐筆どもを連れて参れ」
「はっ直ちに」
あかん。一ミリも訊いてへん。わざとかな。わざとやろなぁ。はぁまんじ。
いいストーリー書いてそこらかしこに迷彩仕込んでも余裕っすか。やっぱし役者が違うんやろなぁ。負けてはないけど勝てる気はしーひん。ちな小姓さん蘭丸君ちごたんやね。あれきっと蘭丸君キリッのハズさはナイショにしとこ。
「狐、如何」
「如何ってそれもう脅しですやん。相談役は譲れません」
「貴様もつくづく強情よな」
「あれ、それって鏡見てゆうたはりますやろか」
「ふふ、で、あるか。ならばそれでよい。配下に友閑と夕庵を付けてやる」
「配下って、もうそれ……、ほんで織田弾正忠家、政の重鎮をお二人さんも貸し与えるのですか。こんな何の実績もない小僧に。本気ですか、いや正気ですか」
「ふん。我が腹心たる祐筆である。文句は無かろう。そのような生意気、口が裂けても言わさぬが」
あっぶ、言いかけちゃってた、あっぶ。
それにしてもこの人、全っっっ然、訊かへん。こうなったら病気やな。
「端から文句なんかありません。はぁ……ほな貸し借りなしですよ」
「ほう。貴様の命は存外安いのだな。いくらだ余が家ごと纏めて買うてやろう」
「熨斗を付けてお返しします。ですけどあれ、そんな拙かったですか」
「九条はあの場で弾劾、即刻貴様の首を取る気満々のようであったが、どうだかな。それが貴様にとってどのくらいの窮地だったのか、余は預かり知らぬ」
ひっ。
ずいぶんと恨み節であったぞって。二条さんさぁ。それだから……。
だがこれで命が危ういことは確定した。これまで水面下に潜んでいた敵意が見える化してきたではないか。
天彦は何かに挑みかかるような鋭い目性で小考すると不意にニヤリ。薄く笑って呟いた。九条には退場してもらおか。
半ば無意識の発露だったのだろう。当人にはまるで自覚がないようだった。しかしあの魔王でさえその不意に表面化された天彦の持つ内なる害意に思わず目を眇めて息を飲んだ。
いずれにしても今ではない。天彦は作業的だが答え合わせを収穫とした。しばらくは傘の下に入れてもらお。この結論とともに落ち着かせると、
「では半分返したということで。信長さん、このとおりです。おおきにさんにおじゃりました」
「うむ。この事業は余の宿願。織田家の命運がかかっておる。延いては日の本の明日へとつながる国策事業である。狐、気張れよ。大儀であった」
一応故実で返礼はするが、嗚呼、無理やり押し付けて。これだからお偉いお人は。ってなるんやで。
気付けば松井友閑、武井夕庵の両祐筆巨頭が配下に預けられていた。アホやん。ちゃんと人の話きこ。
だがここは一旦引くが最善。交渉相手方も言外にそう仰せなので。その後にこっそりしれっとお茶を濁せばいいだろう。天彦は一時撤退を選択した。――が、ひとつ喫緊に差し迫ったお願い事を思い出した。というのはあくまでテイ。ずっと脳裏に潜ませていた寧ろ主題であったのだ。
「待った。お待ちください信長さん」
「ん、如何した」
「信長さんに。信長さんでしか叶えられない身共からの切実なお願いあるん」
「本性を出しおって。どうせここに導くための布石であったのだろう。それも断れぬよう策を巡らせての。ほとほと呆れる」
「あきません……?」
「ふん、なんじゃ申してみよ」
「やった、はい。黄熟香のお強請りさん、遠慮してほしいんです」
「……そこか」
「はい。そこなんです」
目下三郎信長は黄熟香の恩賜を朝廷に強請っていた。
これには帝がほとほと弱っており、昵懇の九条植通、関白二条晴良と密接に対抗策を練っている真っ最中。そのことが天彦には不都合だった。
とにかく自分の失脚と命を狙う九条家と二条家の権勢を少しでも削ぎたいのだ。何が何でも。先ほどの件を加味すれば猶更に。
故に天彦はなりふり構わず知識を生かし、三郎信長にお強請りした。
黄熟香とは別名“蘭奢待”(らんじゃたい)と呼ばれる香木であり、天下一の名香として名高く正倉院宝物目録に記載されている。この蘭奢待の文字には“東大寺”の名が隠されている通り雅名である。雅名とはつまり雅称である。
貴人や権力者は挙ってこれら香木を蒐集した。特に僧侶に好まれたが雅への憧れからか武家も大そう好んでいた。蘭奢待は紅塵香と並ぶ宝物であったのだ。
その蘭奢待を三郎信長は帝に強請っていた。ガチ強請りである。オニ強請りと言い換えてもよいだろう。絶対に恩賜したくない朝廷と何が何でもゲットしたい三郎信長との間で高レベルな綱引きが展開されているとかいないとか。だがその綱引きも早晩織田優勢から勝勢へと推移していくことは確実視されていた。
将軍家の陪臣がつまり朝廷の家来の家来の家来が、帝に物を強請るなど僭越極まりない無礼である。過去を遡れば平将門、北条政子以来の暴挙である。
一言でいうなら下品、無茶苦茶、恥知らず。だがその無茶苦茶を罷り通してしまうのが天下第一の軍事力を誇る織田家であり、織田家を率いる当主弾正忠三郎信長であったのだ。
織田は権威をとことんまで虚仮にしていた。藤原姓がダサいので厭やからかっちょええ平姓を名乗るくらいなので相当である。
位階返して官職だけそのままってなんでやねん。通常は相応ってことになってんねんけど。通常なんて通じへんか。この絶対革新マンさんなこのお人には。
天彦はそんな感情でやや遠い目をしながら、半ばどころか九割諦めの気持ちで三郎信長のお返事を待つ。
かなり熟考を重ねたのだろう。三郎信長は重い口をようやく開く。
「――で、あるか」
「へ」
三郎信長は一言そういうだけで了承した。きっと了承。如何にも一本取りましたと言わんばかりのいい(悪い)顔で微笑んでおられるから。
「えと、おおきにさんにあらしゃり、ます?」
この何の面白味も無い返礼が精一杯。天彦は面食らいしばらくその場で固まってしまっていた。
きっと行間には余の願いも当然引き受けるであろうな、とか。貴様の願いと余の願いがよもや等価ではあるまいな、とか。色々な含みが含まれているのだろう。知らんけど間違いなく。
高度な会話にはこの絶妙な両者の合意もしくは大前提が語られずに含まれているとしたもの。なので機微や表情はけっして見逃してはならないのだが。そんなんできっこないよね、身共に。
天彦は何かを問われたわけでもないのに小さく顎を引き寄せた。
「で、あるか」
今度の言葉には温もりが感じられた。たとえば親兄弟からかけられる素っ気ない温もりのような。天彦の場合はじっじを彷彿とさせる。
むろん天彦は絶対に何が何でもこの配役を回避する。制度を変えるとはつまり既得権との戦争を意味するからだ。
大げさではなく戦争となろう。ぱっと思いつくだけでも座、寺社、商人と。あるいは地域の豪族や国人領主の反乱もあるのかもしれない。ある。あらゆる抵抗勢力が旗振り役である天彦に有りっ丈の怨嗟と呪詛をぶつけてくる。
呪いなどは気にもしないがその感情には物理的な攻撃力が往々にして付与される。それだけは何が何でも勘弁だった。
銭の制度変更とはそういう性質の話である。争いには流血が付き物。そんな血生臭い話題、いくら積んで頼まれても御免被る以外にない天彦なのである。いや天彦思想なのである。要するに怖いのイヤや。痛いのもっと厭やねん。
「食っていけ狐。美味いぞ。はは、あはははは――」
そんなこととは露知らず三郎信長は数分前の不機嫌などどこへやら。最上級だろう上機嫌を振りまいて巡察詰舎を後にした。反動こわ。……ん?
天彦は感じた。厭になるほど絡みつく、あるいは怖気のするほど粘りつく悪意性の極めて高そうな粘着視線に。
仕方がない。目線を合わせた。すると、
「えらいようさん稼いでくれて。菊亭の、おみゃあさんは油断ならんお利巧さんだぎゃあ」
こ、怖っ。
最も知られたくない人物に知られてしまった若干の後悔。だがこの場を逃すと機会はなかった。よもや雪之丞の突貫に倣うわけにもいくまいし。
「と、藤吉郎さん。仲良うしてぇ」
「異なことを。某と菊亭とは円満にござるが」
あ、はい。
敵対関係が鮮明になったところで、天彦はこの恐怖を引き金にしてつくづく実感する。己が異邦人であることを。
どの陣営に混じっても結局悪意を向けられる。何の意図もしていないのに。
藤吉郎が熱を一ミリも感じさせない極めて空々しい言葉を放ったのもきっとそう。自分が異邦人だから向けたのだ。天彦の感情は捻じれて尖る。
別に欲しくはないが愛に満ちた目を向けてくれるのは家人だけ。こうやって人は閉鎖的に押し込まれ排他的思考に毒されていくのか。
「アルティメットどうでもええけど」
なんだかなぁ。
◇
強欲で邪悪な御サルさんのむっちゃコワ警告をどうにかすり抜け、天彦が巡察詰舎を出るとそこでは何やら複数が揉めていた。
アクシデントは勘弁だが少々のトラブル(他人限定)なら好物な天彦はまんま野次馬根性で騒動の渦中に近づいていった。
「ええい離せ。離せおろう! ここに今出川の御曹司が囚われていると聞き及んでおる」
「阿保抜かせそんな恐ろしいことがあるか。人聞き悪すぎるやろ」
「暴れるな小僧。即刻その恐ろしくも畏れ多い言いがかりを取り下げよ」
「益々怪しい。ええい通せっ!」
「痛っ、なにをする」
「押さえろ。奥には殿が御座す、通してしまうと大変なことになるぞ」
必死に押しとどめようとする衛兵。それを掻い潜り侵入を試みる若侍の図。
天彦の脳裏には一つの絵が浮かんでいた。その絵とまったく合致する人物が声を荒げているのだ。それはもう無関係ではいられない。たとえどれだけ秒で踵を返したくとも。
「ええい我を愚弄するかっ。我こそは関東管領越後上杉弾正少弼政虎が家臣、坂戸城城代樋口兼豊が嫡子、樋口与六にあるぞ!」
おおぉ。かっちょええ。ゆーてる場合か。でもやっぱしむっちゃ武家!
樋口与六は思いの外利かん気の強そうな武士だった。
天彦とてある程度の想定と覚悟はしていたが、武士ってなんでこうもDQNなんやろ。うんざりとほほで辟易とする。
だが足は向ける。それが御役目だから。
「はい、ちょっと失礼さんにあらしゃります。はい御前堪忍さんね。はいはいどうも。そちらのお武家さん、身共の知り合いさんにおじゃります」
「「「「……!」」」」
天彦が仲裁に乗り出すとなぜだか衛兵が固まった。衛兵どころか周囲の部外者(主に関係者の野次馬)たちも固まった。なんで!?
一応身バレするように家紋入りの扇子はパタパタ煽いでいるけれども。解せん。この反応。
天彦が人知れず訝しんでいると、するといち早くフリーズから復旧した一人の足軽組頭らしき兵士が進み出て、慇懃に輪をかけたような慇懃さで天彦にすべてを阿る口上を発した。
「菊亭様の御関係者とは露知らずこの通り伏してお詫びいたします。すべてお預けいたしますので、何卒お命ばかりはお許しくだされ」
「あ、はい」
むろんめちゃくちゃ突っ込みたかった。突っ込み代しかない口上だったので。だが天彦は我慢した。これ以上この場を複雑化させたくない一心で。
一々リアクションを取るのも億劫なので言われるがまま預かった。但しそんな感じね、とは思ってしまった。今更ながら。
「樋口さんやな」
「はっ、畏れ多くも畏くも恐悦至極にござりまする。貴方様はもしや今出川蔵人天彦様にござろうか」
「ちゃう」
「へ」
この場での擦り合わせはかなり怠い。しかもむっちゃハズいし。
我がごとの恥を公衆の面前ではまだ語りたくない羞恥心くらい持っている天彦は、与六をちょいちょいと手招きで呼び込むとそのまま騒動の家中からまんまと連れ出すことに成功した。
無言で歩くことしばらく。喧騒からようやく外れられたそんな場所で天彦は歩みを止め振り返った。背、大き。ちょっとジェラシー。
といった感情が紛れていたのかすると与六が一歩引いた。そしてすかさず貴人に対する礼を取る。遅ればせながらと口上を添えて。むろん故実ではないが武士としては上出来だった。律儀なお人さんや。嬉し味からか天彦の目は益々細まった。すると不思議、与六は益々恐縮した。なんで。
気分を入れ替え与六と向き合う。やっぱ背ぇ高いなぁ、違う。
このままではきっとずっと遠慮の塊腹の探り合い状態が続いてしまう。与六からはそんな並々ならぬ気迫を感じてしまう天彦はそんな必要はまったくないのだが、直言を許すと言質を与えた。もう今や天彦、殿上人ではないのである。はっず。
「ご尊顔を拝し祝着至極に存じ奉りまする。某、関東管領越後上杉弾正少弼政虎が家臣、坂戸城城代樋口兼豊が嫡子、樋口与六に御座候。主君の下知ありこうして上洛し栄えある清華家今出川内菊亭家御曹司の傍に仕え一所懸命勉学せよとの任、こうして罷り越しました次第にござる。何卒」
「遠いとこからようお越しにならしゃいました。ご丁寧におおきにさん。こっちこそよろしゅうお頼みさんです。菊亭天彦におじゃります。わけあって今出川とは袂を分かつ間柄にてご理解のほどを。でも大仰なんはこれで仕舞にしよ。ほらお裾さんがこない汚れて」
「……! しら、知らず存ぜぬとは申せ、ご、ご無礼仕った。あいや、待たれよ。そこまでは、――あ」
天彦は型破りな返礼をして、そして手を取り立ち上がらせ裾の土ぼこりを掃ってやり、ほな参ろうか。
唖然、茫然とする与六にニヤリ。まあなんと人の悪い笑顔を送り、然も一本先取に得意がって一人ほくそ笑むのだった。
そこに一部始終を観察していた忠三郎氏郷が歩み寄ってきた。
「御免。植田殿既に陣屋に運び込んでござる」
「おおきにさよか。それで容態は」
「御無事だとは聞き及んでござる。あとは診ている薬師の技前次第かと存じまする」
「腕前頼りではお困りさんなんやけど。はて、どこの薬師先生やろか」
「射干家令殿が見つけて参った御仁とか」
「ああ、なら心配はないな。おおきにさん」
「はっ」
「お駄賃要る」
「……後ほど頂戴いたしまする。恐悦至極」
恐悦でも至極でもない表情で忠三郎氏郷は前を辞して持ち場に付く。天彦の視界がぎりぎり及ばない後ろ斜め45度の位置に。
ウケたかどうかはさて措いて冗談が言えたのだ。どうにか心に余裕は持てている。天彦はほっと胸を撫でおろし安堵の表情を浮かべた。
無事やったら怪我の一つや二つどうってことない。腕の一本くらい。でも本心では後遺症の残らない五体無事でいてほしかった。
与六に視線を戻す。しかし与六、お雪ちゃんのええ先生になってくれはったらええなぁ。天彦からそんな感情が漏れ出ていたのか。
「お身内の負傷にござるか」
「そうや。お兄ちゃん弟がやんちゃさんで往生してます」
「その口ぶりの割にはお嬉しそうにござるな」
「そう見える?」
「はい」
「そっかぁ。身共もまだまだやなぁ」
「お節介やもしれませぬが某、傷薬と湿布薬を用立てましょう。国の名産にてよく効き申す」
「それは嬉しいさんや。お言葉に甘えましょ。ほんにおおきに」
「何のこれしき。本日より御頼み申し上げまする」
「こっちこそあんじょうお頼みさんにあらしゃいます」
やはり雪之丞育成には最適材。最高の生きた教材だ。
そんな主たる狙いを胸に秘め、天彦は少し(かなり)背の高い与六を連れ逗留先の三つ紅葉棚引く五条烏丸陣屋に向うのだった。
ああ、お家ないとかめっちゃハズなん……。
【文中補足・人物】
1、松井友閑
信長の祐筆、茶器回収ユニット、主に財務を担当し、京や堺の豪商らの窓口となった、特に津田宗久とは交友が深くその流れか天正三年堺の代官に任命される。
烏丸家とも親交が深く無準の墨蹟を所持していた。
2、武井夕庵
美濃の祐筆だったが道三と方向性の違いにより織田へと下る。京の行政官として実務を担当した。後に中国地方方面の外交も受け持ち小早川や吉川との交渉の場に名を連ねる。信長の信頼が厚く安土城内におかれた武井邸は身内に次ぐ近い場所に建設されている。
京都馬揃えでは謡曲山姥の扮装で参加した粋な文官系武人。




