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雅楽伝奏、の家の人  作者: 喜楽もこ
参章 雲外蒼天の章
55/314

#08 懊悩

 



 永禄十二年(1569)二月二十五日






 なぜか目目おばちゃまはお帰りになられた。背中に哀愁を漂わせて。

 要求の七割五分はお土産を持たせているので叱られることはないだろう。おそらくきっと。

 会見の場に居合わせた家人たちは口をあんぐり愕然と見送る。むろん天彦は涼しい顔で見送った。あるいは涼しいよりもっと冷ややかな双眸で、まだ目々典侍の余韻が濃い対面上座をそっと見つめて。


「お腹が痛ならはったんやろかぁ。心配さんやなぁ。はてはて」


 天彦の誰に向けたのか判然としない空々しい言葉が虚空に放たれとどめとなった。

 だがそんな程度の言い逃れで見過ごしてやる甘い家人たちではない。彼女、彼ら、この期に及んでは天彦のやり口など熟知している。

 この場合、自身では一流と思い込んでいる三文芝居で冷え切った気まずい空気を強引に温め直そうと躍起なのはお見通しだった。


 天彦もそれは承知。視線を窓ガラスのついていない木枠窓の外に逸らし、吹けない口笛で更なる空々しさを上乗せした。失言は認めるけどそんなかな。でもお姉さん方ガチギレしたはりますやん。


「……酷すぎます。天彦さん、いくらなんでもあれは酷い。同じ女として同情を禁じ得ません」

「当主、呪われますぞ。そんな暴力性をあからさまにすると」

「天ちゃん、ちょっと見ない間に随分とまあ性悪になっちゃって」


 ラウラはまだ許せるとして。謎の(ご近所のガキの頃から知ってるおばさん)ムーブをぶちかましてくるイルダとコンスエラの発言はさすがに看過できない。天彦はスルーするのだが憮然とはする。


「控えめに言ってカスよね」

「ごみ屑」

「ちっちゃい男だわ」

「あんなのガキ」

「拗らせキモガキかぁ、なんか納得ね」

「そう。ただのママ恋しい憐れなクソガキ」


 イルダとコンスエラの無限コンボが突き刺さる。

 だが知っていた。悪いのは全部暇なせい。人は暇だと碌なことにならないとしたもの。天彦とて重々承知。

 よって好き放題に荒れさせているが、自由人に与えてはいけないものが自由だと、このとき初めて知ることになった。こいつらマジで限度知らんのかいっ。


「貴様ら……」


 天彦がちょっと感情を言葉に乗せるとたちまち、


「ラウラ、用事に出てくるでござる」

「あ、そうだった。ラウラ、あの件処理してきます」


 取って付けたように天彦の前から去っていった。

 だが天彦としては最もいなくなって欲しい人が居座っているので意味はなかった。なんならお茶濁し要員として居て欲しかったまである。


「さて天彦さん」

「あ、うん」

「それで、どうやって仕入れたのですかそのトップシークレットを」


 目々典侍が不義密通をしているという確証、その具体的なお相手情報含めいったいどこでお知りになられましたのですか。ラウラは常にない厳しい口調と態度で天彦に迫った。


「それこそトップシークレットやのに明かせるわけないやろ」

「つまり射干党以外にも子飼いの諜報部員がいるのですね。それは明確な裏切り行為に該当しますよ。事と次第によっては――」

「やめとけ! なんやその浮気を追及する妻みたいな口調は」

「気付かれましたか。ちょっと雰囲気を出してみようかと。ですが疑問は本心ですよ。猜疑心も嘘ではございせん。けっして仰られないことも承知はしておりますが」

「そうやって感情を言葉にしてくれているなら安心や。ラウラ、射干党の影働きには感謝してる。今後もかわらずよろしくお頼みさんにあらしゃいます」


 ラウラは無言で謝意を受け取る。天彦も小さく頷きこの話はこれまで。

 天彦としてもこれ以上突っ込まれても何も出ない。出せない。無駄な時は要らなかった。


 天彦は気分を切り替えるべく居住まいを正した。

 今からの発言が打診ではなくはっきり下知であることが伝わるよう扇子を添えて言葉を発する。扇子は公家の太刀である。


「お雪ちゃんの謹慎を解く」

「あら、お願いベースではありませんのね」

「うん」

「ではご随意に」

「え、ええの。やた、どこや」

「旧斯波氏武衞屋敷跡です」

「ちょ、おまっ……!」


 それはエグいて。お雪ちゃんを佐吉の下につけるなんて。いくら罰が必要でもやってええ罰とあかん罰が……。

 雪之丞の人格変わってしまったら如何なラウラでも絶対に許さんから。の猛烈な感情で天彦はラウラを激烈に睨みつけた。


「な、なんですか。一番効く罰を与えただけです」

「あかん」

「家内ごとは私の領分です。譲れません」

「家族ごっこも大概にせえ」

「ごっこ……。如何な主君でも聞き捨てなりません。撤回して謝罪してください」

「せん。謝罪するのはラウラ、お前や。お雪ちゃんに謝るんや」

「……舐めるなよ、ガキが。――っと、失礼いたしました。言葉が乱れてしまいましたことここに陳謝いたします」

「ええで。その方がお前さんらしいし。それに身共はガキやからな。けど舐めたのはお前やラウラ。男の面目を舐めすぎや。ボタン一つ掛け違うだけで一気に殺し合いにまで発展するぞ。それが男の面目や」

「はは、まさか。まだ子供なのに」

「だから舐めすぎや。男に子供も大人もあらへんのや。感情が動物的なぶん、なんやったら余計にガキの方が救いようがないかもしれんぞ。参ってくる。助佐すけざ、いずこや」


 天彦は助佐且元すけざかつもとの応答があるなしにかかわらず、言うや否や自室を飛び出し駆けだしていた。


 雪之丞と佐吉。

 天彦の印象では激毒性の化学反応が発生する未来しか思い描けない。心配しすぎだろうか。いや足らんくらいや。

 混ぜるな危険。もし無事なら今後は家内に伝達しておこうと固く誓う天彦であった。



 ◇




 天彦は二条城普請現場に向かう。助佐且元と忠三郎氏郷を供に従え。与吉は前後不覚なほど酔い潰れていたので置いてきた。悪いのは全部暇のせいや。後で絶対にしばいたる。


「殿、ひとつ宜しいか」

「ええよ。珍しいな忠三郎」

「はっ、いえ。ですがお家ごとなので居ても立ってもおられず、つい」

「ええって。なんや」

「はっ、某思いまするに御本家乗っ取り、赤子の手を捻るより簡単に思えますが、なぜなされないのかと。こうして甘んじて窮状を受け入れておられる事態が、某には理解が及ばず」


 忠三郎氏郷は言外に根底では朝廷すら屁とも思っていないくせに、なぜ実家ごときにこうまで気を回すのかと訴えていた。そしてそれをやったところで誰からも非難されないだろうことも含まれている。

 天彦の艱難辛苦は伝え訊く範囲でさえ相当で、事実を知っている者なら誰もが同情を寄せるだろう悲惨さであったから。


 だが天彦の返答は簡潔だった。


「生まれた弟が可哀そうやろ。あんなかわいい子になんで哀しい思いをさせたらなあかん。あんたさんら狐では飽き足らず遂に身共を鬼に仕立て上げたいんかいな」

「いえけっして。……ですがご自身はこうも地獄を見ておられると言うに。わからぬ」

「わからんでええ、阿呆や思とけ。厭なら去れ。簡単な公式やろ」

「ふっ、勝手御免の免状はとうに給わってござる」

「あ、そうやったわ。ほなら好きにしたらええやん」

「菊亭家の家訓にござったな。自らの正義に忠実であれ――が」

「知らん知らん。……帝の御前で御誓い申し上げたんやからしゃーないやろ。それも思い付きの言葉や。意味なんかないのに。そやから付き合わんでええで」


 素っ気なく呆気なく話を切られた。だが問いかけた忠三郎氏郷も、聞き耳を立てていた助佐且元も共に、満更でもない風に頷くとお互いに目線で何事かを示し合わせた。

 まだまだ会話したりないのだろう。実は主従、こういう機会は意外とない。とくに与吉高虎が混じるともっとなくなる。小難しい話題になると抜き差しならないレベルで不機嫌を撒き散らし始めるから。


 他方天彦は下剋上を事もなく当然の権利のようにとらえている忠三郎氏郷の志向性、延いては武士という人種の考え方に思いを馳せる。

 彼らにとって主家の打倒など容易いのかそうでないのか。この二択の問いは非常にシンプルだが、シンプルだからこそシンプルに回答を寄越されると恐ろしいという側面があった。


 数舜考え込むがそれは方程式を解くときの思考深度ではない。天彦の中では実質答えは出てしまっていた。わかりきった設問に時間を割く天彦ではない。

 いろいろと思考を捏ね繰り回しても、結論、感情移入できないのだ。この熱気むんむんのお家対抗大椅子取り争奪ゲームの渦中にあって、何ひとつとして共感できずに苦しんでいる。それが目下、天彦を悩ませる最大事由の一つであった。


 なのにその天彦を以ってして、雪之丞のことだけは我が事のように感情が揺さぶられ感情的になってしまう。なれてしまう。問題はもっと身近にあるのやもしれないが、それは後。

 きっと天彦にはそこに言語化できる原体験があるのだろう。あのただ辛くて淋しいだけのクソ幼少期を、口汚くも温かく常に離れず支えてくれた一つ上のお兄ちゃん弟が、何より誰より大切と感じているのだから。切実に。感情的に。



 閑話休題、


 天彦の神妙な顔つきに業を煮やしたのか、忠三郎氏郷はたまらずといった風に思わず主君の思考の邪魔をした。それは居ても立ってもいられないといった感情の爆発のようにも覗えた。


「つまり御主君は!」

「え!? びっくりするねんけど急に大きい声張られたら。あ、ちびったかも」

「失敬。ですが御主君はつまりこう仰せであろう。本家清華家今出川など易々と超えてみせると。此度の隠棲はその下拵え期間にござるな」

「相違ない。拙者の見立てではそう遠くない内に御決起なされるはず。如何」


 それまで黙して様子を覗っていた助佐且元のカットイン。

 天彦は改めて痛感して痛恨する。

 やはり公家と武家。もっというなら僧侶と庶民も同じく同様に。同じ顔をしているだけできっと別の人種である。天彦は痛感して痛恨した。


 ならばなぜこうも共存の意識が芽生えるのかは今後の課題として、


「……そういうこっちゃ。急ぐで」

「やはり! 拙者の目に狂いはなかった」

「で、あろうよ。はっ、ではお体御免仕る」

「うわっ」


 おお、早い。ぶいーん飛行機や。ゆーてる場合か。優良誤認の極みやろ。

 天彦は理解も共感もしない。ただ発言を発現として受け止めるだけ。


「目線がかわると見える景色もごろっと変わるなぁ」

「見せてくだされ某に。見た事のない景色とやらを」


 しかしたまのリップサービスでこの激発。今すぐ三郎信長を討てと命じれば本当に行動に移しかねない激情を返されてしまう。やはり人種が違いすぎた。

 感情を爆発させた忠三郎氏郷にひょいっと軽々抱きかかえられ、天彦は洛中の宙を疾走した。




 ◇




 明確な判断基準を持って物事を選択している人はかなり少ないと訊く。意外なことに統計をとるとその事実が明るみになるそうだ。

 だが天彦はこの感情を体系化して分類できるし、その正しさにも自信があった。そられはすべて体感が背中を押してくれるから。人は実体験を得ると良きにつけ悪しきにつけ、その体験が思考の叩き台となるのである。


「若、とのさん……、無様なところを……」

「喋らんでええ。大丈夫か」

「はい。むちゃくちゃ痛いだけです」

「さよか。でもこの腫れ、骨はいってるやろ。……佐吉、どういうことや」


 雪之丞が血塗れで地面に打ち捨てられていた。その周囲には大工だか左官だか石工だかの職人衆が鼻息荒く取り囲んでいた。

 天彦は血気盛んな職人衆の中に割って入り、雪之丞を抱きかかえる。許さん、何がどうあろうと絶対に許さん。天彦の小さな体は無意識の内に熱を帯び発汗していた。この寒風吹きすさぶ極寒の最中に。


「某はお止め申しました」

「違う。そうやないんや佐吉」

「ですが」

「ほざくなっ。それ以上は許さん」

「くっ、畏まってござる」

「せめて一緒にやられたれよ。数少ない仲間やろが。もうええ。で、どういうこっちゃ」


 佐吉曰く職人連中が伴天連のことを悪し様に罵ったらしい。ちょうどそこに頻繁に訪れるおそらく宣教師ルイス・フロイス一団の姿でもあったのだろう。

 だが雪之丞はそれに噛みついた。人の姿をしている者は思想がどうあれそれはみーんなお人さんやと。天彦の思想をまんま受け売りでこの気性の荒いことだけがアイデンティティのすべてといっても過言ではない職人連中に真正面から噛みついたのだ。んほっ、お命知らず!


 天彦は状況説明を訊き終え、ちゃうやんお雪ちゃん。身共もお雪ちゃんもそんなんちゃうやん。真っ向勝負のキャラと違うやん。なんで頑張ったん、なんで意地見せるん。そんなん、嬉しすぎるやん。

 天彦は無意識の内に感情が制御できなくなっていた。気付けば頬を何かが濡らす。それはとても不愉快なもの。男子たるもの人前では見せてはいけない筋悪の応接、または現象であった。


 全部、身共のせいやんか……。


 天彦は萎えた。まるで長期間冷蔵庫に保管していることを忘れて芯を失くした大根のように。へにょりんふにゃんとえてしぼんだ。


「助佐」

「応、なんぞ忠三郎」

「己は五十や。あとは某が引き受けた」

「阿保を抜かせ。平安の世から手柄は早いもん勝ちと決まってる」

「ぺっ、そうかよ」

「遅れるなよ」


 するとそんなヘタレ主君を見かねたのか、あるいはまったく無関係に単に個人的感情の発露なのか。菊亭武官衆のお二人が気炎を吐いた。

 忠三郎氏郷と助佐且元は声をかけ合い一歩前に歩を進めると、共に行動をまったく同時にシンクロさせた。腰に佩いた愛刀の柄に手をかけた途端ハッとして、愛刀を鞘ごと引き抜くと足元に放ったのだ。

 つまり天彦の無駄口も決して無駄ではないと証明されたことを意味する。それを察した天彦は人知れず小さくガッツポーズを決める。なんだか笑えてしまう痛快などつきあいが予感できた。


 そして、


「拳で死んでも恨みっこなし。であろう御主君」

「むしろ死ぬほど可愛がってやろう。うんそうしよう。掛かってこい雑魚ども」


 二人は言うや否や躍りかかり、職人たちを次々と血祭りにあげていった。その圧倒的殲滅力たるや武張るなどという言葉では到底語り尽くせぬ凄まじさ。

 バイオレンス反対派の天彦でさえ二人がただ暴れるだけの痛快無比な光景に思わず笑みをこぼしてしまう。そのあまりの抜けの良さに思わず。そしてやはりなんだか笑えてしまう痛快などつきあいだった。


「やれぇ! どっちも死んでまえ」

「ええぞ、やってまえ」

「儂も加えんかいっ」

「いったるでぇ。どひゃっ、あかんわ、あれは無理や」

「お前、歯、折れとんぞ」

「うそーん」


 そして不思議と周囲の野次馬どももやんやの大歓声を上げ始める。

 視覚効果的に二人対百は優に超えるだろう大喧嘩は、それほどに多くの人の心を無性に惹きつけるのであった。――が、そこに。


「おのれらいったい何をぎゃあぎゃあと騒いどるんだぎゃあ」

「控えよ、控えおろう」


 見事な馬体の駿馬に乗った、小さな身体の見すぼらしい形をしたとてもお偉い御サルさんが登場した。

 御サルさんはえげつない眼力で周囲を見渡す。その眼光たるや見据えられただけで昇天必至。事実たったそれだけであれほどの大騒動はたちまち沈静化してしまった。

 鞍上から並々ならぬ怒気を撒き散らす御サルさんだったが、ん……?


「これはこれは。菊亭の御曹司にござらぬか」

「あ、はい」

「如何なされた」

「ちょっと小銭でも拾おうかと。お邪魔さんにあらしゃります」

「ほう。拙者が捌くこの大普請を小銭拾いと仰せか。さすがは大君、お見事な壮語なり。であろう、者ども」

「はっ」


 あははははは――!


 賛同者圧倒的多数。御サルさんの手勢、ざっと五十ほどであろうか。

 だがそのすべてが侍身分。卑しい足軽は一人もいない。つまりその同調圧力たるや途轍もなく、並大抵では跳ね返せない濁流となって天彦に襲い掛かった。


 勘のいい天彦でなくともはっきりと感じ取れる悪意。はたしてどこで恨みを買った。いずれにしてもけっして十やそこらのキッズに向けてよい感情ではないはずだが。

 だが御サルさん一門、なりふり構わず天彦に剥き出しの敵意をぶつけた。またそれらの結託する悪意は、半身を負傷退場で失った今の天彦にはかなり堪える熱量だった。


 とか。果たしてそうかな。天彦はほんの一瞬、ニヤリと小さく笑みをこぼす。

 無礼にはご無礼を。敵視には更なる熱い視線を。でお馴染みの菊亭である。一応流儀なので。これでも男としてやらせてもらっているので。


 天彦はまーるい牙をそっと剥いた。


「へえ、ふーん、ほおーん」

「ぎく」


 御サルさんはさすがの勘を働かせる。天彦が得意げに感心するというキモ得意技を披露すると警戒心をマックスボルテージにまで引き上げ、何なら額に汗し始める。厭な記憶でも髣髴とさせたのだろう。


「藤吉郎さんは僅かこの程度の普請を小銭でないと仰せに。へーほーふーん、なるほど、なーるほど。ではその御意志、熱心に天下を睨むお方に直接お伝えせねばならしゃりませんなぁ。あー反応がまるで見たかのように思い浮かばっしゃります。期待外れやとさぞお嘆きのことにあらしゃりますやろなぁ。あれ、お嘆きやったら上出来なんか。どやろ。訊いてみよ。行って参ります。では――」

「ま、待たれよ」

「待ちましょ」

「うむ。菊亭の御曹司もお人が悪い」

「はて、どういうことやろ。忙しいし後やな。ではこれにて失礼――」

「待て! 待ってくれ。負けだぎゃ。ほらこの通り藤吉郎、平身低頭詫びておるなもし。何卒お赦しのほどを。鞍上からでは足らぬ不足であると仰せなら地に這い額を擦りつけて希ってもええと存ずる、如何だぎゃ」


 この観衆の面前で。藤吉郎は言外に天彦を脅した。コワい、コワい。

 勝負はドロー。天彦は望外の落着だと胸をなでおろす。むしろ前評判不利な分だけ自分の優勢で決着か。そんな気でさえいたのだが。

 だが前評判が不利だと思っているのは当人だけ。周囲の評価は五山のお狐さまから一本せしめた藤吉郎侮り難しで当確だった。


「ぐふふ菊亭の。では参らまい」


 魔王の腹心にして懐刀、この巨大工事の最高責任者木下藤吉郎は天彦にとって厭な予感しかしない良い(激悪い)顔で嗤うと、鞍上からひょいひょいと天彦に向けて手招きする。

 予定外のお招きにけれど拒否権など持っていない天彦は、この世の渋々をすべて集めた表情で応じる。渋々と不承不承と。あの軍扇でこチョップ、めちゃくそ痛いねん。凹むわぁ。


「はぁ……、どいつさんもこいつさんもお好き勝手にほんま、佐吉」

「はっ、ここにござる」

「お雪ちゃんを治療室に」

「そんな室はござりませぬ」

「なかったら作り。必要なもんはなかったら作る。当家はずっとそうやってきたやろ。ところ変わっても作法は同じや」

「解せませぬ。殿はところ変われば作法も違うと仰せ――」

「なんやと。もういっぺんゆうてみぃ」

「う」


 ゆうたかなぁ。まあゆうてるんやろなぁ。でもそれはそれ。

 

「ええか佐吉、物事は臨機応変。屁理屈をほざくな」

「り、理屈にござる」

「ならば理屈を引っ込めえ。道理が通らん道もあるぞ。一々食ってかかるんか。お前お命さんいくつ持ってるんや。まさか一つです何ぞと無謀なことは申さんやろな。さすがに佐吉のこと疑うで」

「いえ然り。はっ畏まってござりまする」

「うん、それでええ。ほな参り。あんじょうしたってや。頭は揺すったらあかんで。助佐どっちか一人付き添ってやって欲しい」

「では某が」

「頼んだ。佐吉も、頼んだで」

「はっ。御前ご免仕りまする」


 佐吉と付き添いの助佐且元を送り出した天彦はやれやれ顔を隠さずに、大好きで已まないビッグネーム御サルさんの招きに応じる。行く先はあの人のところ一択であろう。あの軍扇でこチョップ、めちゃくそ痛いねん。凹むわぁ。















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