#07 妄りに不善も貫きつづければ正義、とか
永禄十二年(1569)二月二十五日
『今度和睦之儀、以御馳走勝頼申談、本望候殊天下被属御勝利段、尤珍重候、彼是以都、鄙之大慶此節候、仍太刀一腰、銀子百枚令進之候、寔補御祝儀計候弥、目出度長久可得貴意候、猶任樋口与六気掛、恐々謹言
二月朔日 政虎 花押
今出川蔵人天彦殿 進之候――』
意訳)
この度の和睦の件、駆けずり回ってくれたそうでおおきに。勝頼とは上手いことやっていけそうや。それにしても本圀寺の件訊いたで。諸葛亮かくやのオニ働き見せたらしいやん。あんさん子龍とちごたんかいな。でもめっちゃ活躍したらしいね、おめでとうさん。お礼とお祝いを兼ねて太刀一振り、銀百枚贈っとくさかい今後もあんじょう頼んます。あそや、今後のやり取りに後学も兼ねてわっしのお気にそっちに置いとくさかい、好きに使うたってんか。2月1日政虎より。花押。天彦君へ。かしこ。
「ふぁあぁぁぁ。ひょえぇぇぇぇ、わっ――」
天彦は旅籠の一室で金と銀から手渡された手紙に何度も目線を往復させた。時折り奇声を交えながら。
そしてようやく納得いったのかまるで蒐集家が最も貴重なコレクションを扱う手つきで手紙を愛おしそうに懐にそっと仕舞いこんだ。
えっぐ。政虎おじちゃまからお手紙もらったったん。すっご。身共すっご。
天彦のテンション駄々上がりも尤もで、政虎おじこと上杉謙信からお手紙を頂戴して喜ばない戦国人はいなかった。あの龍でありあの軍神でありあの毘沙門天の化身である。あの魔王信長でさえその武威の凄まじさにビビりまくって盆暮れごとに付け届けを切らせたことはない御方なのである。
そんな戦国を代表する大名からの最啓礼と読み解ける感状である。テンション上がらない方がどうかしている。
しかしこれは単純な喜びだけ。ここからがメンタル絶好調一歩手前の理由その一。
四郎勝頼は裏切ってはいなかった。しかもちゃんと約束を果たし天彦の助言の通りに実行していた。天彦の地味働きに一定以上の高評価を与えた上で。
グッドボタンの連打である。思いもよらぬご褒美である。生活圏の拡充はそのまま生存権の向上につながる世界線である。嬉しくないはずがなかった。
越後の軍神さん、甲斐さんとの血縁外交探ったはりますよ。菊姫様と言わはるらしいですね。妹姫様。
なにぶん明け方の夜中テンションだったので天彦も細部までは厳密に覚えていない。だが薄ぼんやり言った記憶はなくもない。そのレベル。
しかし四郎勝頼は鮮明に記憶していたのだろう。妹の菊を上杉家に嫁がせて天彦の期待に応えた。天彦の進言通り謙信公の甥御、長尾喜平次の許へ。“甲斐・越後・菊亭”の二国+一公家同盟を実現化させたのだ。天彦の構想に乗って。お馬鹿さんは甲斐と越後の同盟だと!?と本域で驚嘆していたというのに。
そこからはとんとん拍子に進み、今では北条、蘆名、織田もびっくり大迷惑な強固軍事同盟に繋がっている。弾正允さん、犯人はこいつです。
そしてメンタル絶好調一歩手前の理由その二。
軍神のお気に。愛の人が上洛してくる。しかも常駐。むっちゃくそ上がる。知識が確かなら同級生のはず。愛の人。樋口家の与六くんです。
あの太閤まで上り詰めた兄御サルにお前が欲しいとオフィシャルで告られ、オフィシャルで“あ、むりっす。まじキモいから”堂々と真正面からぶっちぎった男の中の男前さんなので、天彦とは絶対に気が合うはず。実際テンションは上がりに上がる。
だがさすがだ。三好との例の一戦。醍醐の荘の戦い。戦果を含めて細部までたとえば天彦の助言などももう手元に掴んでいる。
この連絡手段の極めて限定される情弱時代にあってそれは素直に途轍もない。
もはや情報戦では他に一歩以上先んじているといっても過言ではないだろうか。
むろん四郎勝頼率いる甲斐の情報網さんが。歩き巫女とは断定せずその情報収集に携わるすべての関係者がすごいということ。
越後にこれらの情報を齎しているのはすべて甲斐であろう。天彦はそう確信している。謙信公はどちらかというと情弱の部類にカテゴライズされる人物。延いては越後全体もおそらく。
結論、やはり油断ならないのは四郎勝頼。そして頼もしいのも同じく彼。天彦はその思いを改めて強くした。
すでに出逢った頃から強すぎる大将の風格の片鱗は覗かせていた。この後世に言い伝えられる悪癖さえ控えれば相当かなりいい線まで行くのではと天彦は踏んでいる。
四郎さぁ、自尊心が強すぎて家臣の意見を一ミリも訊かない……ところ。で視線を眼前にそっと移す。強請り土下座はするものであってされるものではけしてない。一句。詠み人……、あ、はい。
「何卒」
「なにとぞ」
押しかけ女房ならぬ押しかけ従業員。金と銀は家人として雇えと直訴していた。
むろん天彦は拒否している。約束は守った。甲斐から解放してやった。お互いの間にはこの契約関係しか存在しなかったはずである。なのに……。
ずっと帰らへんのずるない。この現状みたら無理ってわかれへんのちょっと正常性疑わしいねんけど。
天彦は生家さえ追い出されてしまった我が身を呪いつつ、けれどこんな仮住まいの窮状にもかかわらず住み込みで働かせろと半ば強要してくる二人の妙齢女性の感情がいまひとつ理解できずに結果放置していた。
「京の土地は高い。洛中ともなれば猶更や。そやからお貴族さんに仮宿住まいはようさんいたはる。でも公卿にはいてへん。そのイレギュラーが身共や。やめとき、うちに来たってええこと一個もあらへんよ」
「いれぐれ……?」
「うそつき」
聞き捨てならない強いめの言葉が金から漏れ聞こえた。かっちーん。
天彦はおいコラなんやの熱量で金を厳しく睨みつけた。
「煽りには載ってやらん。だが効いたぞ」
「やった」
「この子が阿呆なだけで私は――」
「もうええ、然様か。ならば好きに居ればええ。但し何があっても恨みっこなしや。それだけは含みおけ」
「はい。よろしくお願い申しあげます」
「はい。およろしゅうさんです」
いやぁ要らんねんけど諜報部。ラウラのとこでも手に余ってるのに。
というのも天彦、先々の見通しがあまりに目途が立たなくなった。追放されるにしてももっと先の予定だった。まだ何もできないお子ちゃまなのに。せめて中坊くらいにはなっておきたい。
天彦の泣きも尤もで、堺張り付き組みを除いても射干党、百は下らない人数がダブついていた。香油座は中座したまま暗礁に乗り上げている。あまりにも寺社を警戒させすぎてしまった末路である。引き取り先がどこも躊躇して手を上げてくれなくなった。
売れば必ず売れるが売り場と共に引き受け手がないという最悪のスパイラルに陥っていた。勝手には売れない。それをすると大義を得た将軍義昭が愛刀を振り上げ喜々として菊亭成敗に乗り込んできてしまうから。
残すは佐吉次第だがあくまで佐吉はつなぎ役。普請の差配は兄弟子に任せた方が正しく事は進んでいく。よって吉田屋側で要らぬとなれば無理は頼めず、そうなってしまうとそうとう困る。それが現状。
家人用人の全員で宿の箒を取り合うとかまじで寒い光景、いつまでも見ていられない。
「で、愛の人はいつ合流できるんや」
「愛のお人さんですか、はて」
あ、間違うた。どうでもええわ。
天彦が表面上は涼しい顔でダブつく家人の用法に弱り果てているそこに、
「失礼します。イルダにござる」
「イルダ? ござる? うん、お入り」
「はっ、申し上げます」
「待った。申し上げる前に是知はどないした。用向き取次は是知の任のはず」
「あいつじゃんけん弱いんです」
「じゃ、っておい。……まあええわ。それで」
「はっ、後宮からお使者が参られます」
「先触れか。しかし後宮からとは……」
「はい然様にて。日昳の刻、当陣屋旅籠にてお越しあそばせ菊亭ご当主との面会を望むとの由にございます」
「どなたさん」
「後宮としか仰せにはございませんでした」
「さよか。おおきにさん」
「はっ」
イルダ久しぶり。相変わらずの変装名人やが、なんかちょっとふっくらさんやったな。ええ兆候か。しかし後宮から。
この触れ込みにはどうにも厭なイメージしか描けない天彦は、けれど拒否権などあるはずもなく粛々と待ち惚けるのみ。
ある程度の想定を脳裏に思い描きながら、さて客がくるまでの二時間余り。何をして遊、時間を潰すか意識を他へと切り替えるのだった。
◇
「まあ菊亭さんともあろうお方が、斯様なとこにご逗留あらしますなんて、ほんに世も末におじゃりますなぁ、おほほほほ」
あ、はい。愛想笑いしとこ。おほほほほ。
お越しになられたのは武家伝奏飛鳥井雅綱の娘、目々典侍であった。
言わずと知れた帝の激推し。目下御寵愛著しい押しも押されもせぬ後宮のお顔様にあらせらる。開口一番の嫌味ぶっこみも愛敬と受け取らなければならないお相手。知らんけど。きっとこれは素、もしくは地だと天彦は直観的にそう感じた。なぜなら不思議と厭な感じがひとつもしない。
いずれにせよ帝の御内意である以上勅使。もしくはそれ相応。丁重に扱う以外術は絶対にない相手であることは紛れもない。そんなお相手。
「あらええお茶。ずずず」
「お口に合うて何よりさんです」
「お茶請けはおませんのんか」
「是知」
「はっ、ここに」
「なんぞ茶請けをお出しして。そやな上から二番目のやつでええわ、と調理場に伝え」
「は、はぁ」
隠さず申し付けたので筒抜けである。むろん目々典侍のこめかみはピクリと小さく痙攣していた。
「さて蔵人はん。主上は甚く御心を御痛めさんにあらしゃいます。臣として思うところはあらしゃりませぬか」
「臣、たいへん心苦しく、あの件以降食事も喉を通らんほど。けほけほ。この通り、日に日に体調も芳しくなく、心身ともに衰弱してゆく毎日さんにおじゃります」
「……それは大変なことにあらしますなぁ。けれどその割に。ええ匂いをさせてあらしゃるようにおじゃるが。以前より幾分ふくよかになったようにもお見受けさんやが」
「たこ焼きです。職人に作らせていたんがようやく完成したんです。神業の絶品です。ソウルフードです。後でお一つ如何ですか……あ」
気まずい空気ですんでいるのは勅使が頼む側だからか。目々典侍は苦い表情を隠さずけれど“では後でお一つさん”と、お愛敬も忘れず付け加えた。ほお、お茶目なお人や。それが擬態でないのなら。
そこに菓子が運ばれた。ぱっと見羊羹にも見えるが、昨日の延長戦なら外郎餅だろう。天彦が時を100年ほど進めてまさしく一昨日世に広めたレシピの一つでもあった。どや。
「あら、二番目でこれ。……美味しいさんやわぁ」
「お口に合うて何よりさんです」
「うふふ、ほんに大きいおなりにならはって。知ってますか。私、蔵人さんの初節句に殿へ参らせてもろたことあらしゃりますんやで」
「え、そうなんですか。そうとは知らずえらいご無礼さんにあらしゃりました」
「はい。それはもう玉のようなやや子さんであらせられ、きゃっきゃうふふと私のお指さんを掴んで離さず、仕舞いには目目と仰せにならしゃりましたんやで。あれが御初さんらしいですわぁ。これも何かの御縁さんやと思わっしゃりますぅ」
「あ、はい」
あれ……、ゆうたもん勝ち合戦やってたっけ。あれ。
捏造か記憶の刷り込みでなければそれはおそらく撫子だろう。そのやや子は。だがおそらくは撫子ですらないはず。
いずれにせよ天彦は一歳ですでに長期記憶を保持していた。少なくともどこの記憶の片隅にも目々典侍との馴れ初めは一秒もない。そういうこと。このおばちゃま、かなりやりおる。気ぃつけよ。
だが天彦がほっこりしていられるのもここまでだった。
目々典侍は気配ごとひっくるめて表情を律し、これまでのおっとりなどどこへやら。如才ない外交官の顔をかなぐり捨て、実利に忠実な大蔵省の貌に変え天彦に臨んだ。
「蔵人はん」
「はい」
「一つ、泰山府君祭を執り行うよう一切合切の差配をこちらに預け、その上で差配致せ。一つ、傷みに傷んだ内裏の修繕を蔵人が思う正しさで修繕致せ。朕はただその結果で判断致す。――蔵人さん。これは御内意でも勅命でもあらしゃいません。あくまで御愚痴。何の気なしにお零しあそばせた主上さんの御愚痴におじゃります」
「あの、それはお幾らになるので……」
「三万貫におじゃります」
「おうふ」
目ヂカラえぐっ。背中のどるるるる吹き出しつよっ。
こうは仰せだが天彦は察している。きっと(意訳、詫びの印や金出さんかい。反省文三万枚と銭三万貫どっちがええのんや)に、ちゃんと変換されて聞き届けられている。まだ脳内翻訳機は機能を正常に果たしていた。
つまり帝あるいは朝廷もしくは側近の誰かさんは、天彦(菊亭)の懐事情を正確に把握しているとの暗示と受け取れる。それほどに絶妙の生かさず殺さずラインなのだ。通常公家にこの莫大な制裁金は課さない。課せないのだ。反乱するか逃亡するかの二択に追いこんでしまうだけだから。万分の一には自死もあるかもしれないが公家にはないと断定してもよいだろう。
すると果たしてどこで嗅ぎ付けたのか。あるいは内からリークされたのかはわからないが確実に情報は漏れている。……お雪ちゃん。勘が当たってたらほんまにほんまに、ほんまやからね。ほんまのほんまに、ほんまやで。
「さて蔵人はん。ご返答はお如何さんにあらしゃいます」
「目々典侍さん。たこ焼きでもどないです」
「蔵人はん。公式やのうてもお遊びではあらしゃいませんのやで」
「存じ上げております。精がつくらしいですよ。この新しい料理のレシピでまた会話も弾んで、きっとええことあるんと違いますやろか」
「まあ。おませさんなこと。……ほんま?」
「はい。でも当家菊亭では丸のまま熱々を一口に頬張るのがハウスルールにおじゃります」
「はうするーる、におじゃります、と。そや、それも預かっておじゃります。伴天連の件――」
「まあまあ、ややこしい話はお食べさんにならはった後で。はいこっちですよ」
「もう。後で必ず詰めますよって」
はーい。
奥義、子供らしく振舞うと敵性存在も手厳しく責められないの巻。
但しこの奥義、かなり相手を選ぶので選別には留意されたい。
天彦はアイデンティティに刻み込まれたこの時代にとっては新レシピを披露するべく、腕まくりをして表に向かうのであった。しんどいことは明日、明日。ってね。
だが目々典侍の意図には正確に沿っていた。この会談は非公式。つまり使者ではなくただの隣人さんのご挨拶。あるいはただの四方山話である。近しく親しく接してこそむしろ本懐に適っていた。暗に目々典侍の側から申し付けていたのであった。
「アツっ――! はふはふはふ……、ひゃあぁ! 天彦、恨みますから」
「はい、これにて全員のお口さんがお亡くなりにあそばせました。目々典侍さんに盛大なお拍手を」
わあああああああ――!
手を叩き火を起こしていた焼き石を叩いて大盛り上がりする家人と旅籠の看板娘と息子たち。
天彦の言葉通り、これで全員の口が逝った。当面何も入れられない。
勝ったったん。こうでもせんとこのお人からは一本取れそうにもないし。出端挫くにはええハンデやと思うんやがどない。
「さてこうしてきっちり虐められたことにあらしゃいますし、母屋にお戻りさんにおじゃりまするか」
「あ、はい」
第二ラウンド開始かな。あーしんど。
【文中補足・人物】
1、樋口与六
天彦・実益たちとおないの永禄三年(1560)生まれ組み、米沢藩家老、十五位下左近衛権少将。
愛でお馴染み直江兼続の中の人、かなりの有名人なのに人物考証があやふやな稀有な人、天婦羅おタヌキさんを激怒させた書状が存在するのは事実の模様。
2、目々典侍(年齢不詳。きっと美魔女)
権大納言飛鳥井雅綱の娘、羽林家、典侍序列では最も低く勾当内侍よりかは格上。外交官として各地を外遊した。
不義密通により勅勘を被り久我通堅を追放させてしまうイケジョ。猶正親町天皇のお赦しは生涯下されなかった模様。ちーん。
3、たこ焼き
大阪人のソウルフード。一家言多い人が多くて家パするとうざい代名詞。うまうまの評判を訊いては食べ歩くが、実際に評判通りだった試しが少ない代名詞でもある粉もんのクラシカルにして王道の逸品。一周回ってソースより出汁に落ち着く(当家比)。




