#04 査問会、灼熱の鼓動
永禄十二年(1569)二月十四日
晡時、夕七つの鐘が鳴る前。
どんだけ多忙な一日やねん14日。14日、ブラッディバレンタインやな。
天彦は内心でどうでもいいことを愚痴りながらもけれど動きは止めない。何しろ帝からの参内命令が下ったのだから。急がねば。
「んぎぎぎぃ」
「引っ張りますよ」
「それは引っ張る前の言葉やっ。くるじぃ」
「ファイト」
着付けはラウラに任せている。
衣冠束帯。たしかに身は引き締まる思いだが、控えめに言って伝統と格式以外に与えられる評価点はないだろう。とにかく肩が凝ってしまう。
小袖の上に単を重ね、衵を羽織り表袴をはく。次に衵の上に長い裾のある下襲を更に重ね着る。
この下襲の上に最後の袍を着る。この袍の上から石帯を締め、太刀を吊り平緒を下げ、畳紙を懐に入れて笏を持ち、浅履をはいてようやく完成出来上がり。あーしんど。これ毎日なんか厭やろ、絶対。
けっして謹慎処分を喜んでいるわけではないのだがつい軽口を叩いてしまう。
それほど天彦の感情は緊張感に苛まれていた。何しろ向かう朝廷は完全無欠の敵地である。関白二条率いる西園寺(天彦)やっつけ隊が手ぐすねを引いて待ち構えている。
「はい出来上がりました。イケメンさんになりましたよ」
「もっと頂戴」
「あらお珍しい。いつもは心底お厭そうなお顔でスルーされますのに」
「メンタルの構築をしていかんと、今夜はそうとう食らいそうやから」
「厳しいとお見立てなのですね」
「うん。生きては帰れんかも知らん」
「むろん社会的に、ですよね」
「どやろな」
「そんな覇気のないことでどうするのです。射干党並びに家来一同、ご当主天彦様の御武運をお祈り申し上げております」
天彦は一瞬減らず口を叩こうとしてやめた。そして、
「頼んだ。ラウラ」
「はい。どうしたのですかそんなコワいお顔なさって。いつも変ですけど、今日はひときわ可怪しいですよ」
「植田、石田。どこにある」
天彦はラウラのサービストークには乗らず近習に呼びかけた。
天彦の問いに襖がすっと開けられる。
「はっ、ここに居ります」
「こちらにござる」
天彦の常にない口調の呼びかけに二人はやや緊張の面持ちで姿を見せた。
対面し実際に天彦の顔を見て更に慄然としてしまう。まるで別人のような険しさだった。
だが“どないしはったん若とのさん”、“殿如何なさいましたか”とも訊けない雰囲気。雪之丞も佐吉も共にもはや神妙に応じるしか手立てはなかった。ラウラも同じく居住まいを正し背中に緊張の板を敷いた。
「三人。よう訊け、一度しか申さん」
「はい」
「はい」
「はっ確と」
天彦は険しい表情のままけれどいつも通り鷹揚に頷いて、
「身共に万一のときあらば各々、家来引き連れ東へ落ち延びよ。四郎勝頼ならけっして粗末にはせんはずや。仲介は金と銀にさせればええ。申し訳ないが仕込んだ次善の策はない。強いて挙げるなら京から離れて隠棲するが次善やな。織田に付いたら地獄を見るぞ。これだけは誓ってもええ。あの魔王さん、外と内からでは見える景色をガラッと違えさせるお人さんやから。惟任には付くな。藤吉郎には付いて欲しない。いざどうしてもの場面なら藤吉郎に付くがいい。命くらいはとどめ置けるやろ。
いずれにしてもあんたさんらがご自分らで決めはったらええ。とにかく生き延びよとも言わん。生きるも死ぬるも好きにしぃ。但しその決断の先に少しの笑顔があれば重畳。厚かましくもそれが身共のお宝さんやったから。なんや陰気臭なってしもたけど、以上にてこれが身共の願いである。――如何に」
「はっ。確かに聞き届けました」
「はい。ちゃんとこのお耳が聞きました」
「確と。聞き届けましてござる」
天彦は頷いた。そして、
「最後に一つ。万一身共帰らん場合の弔いは無用。敵討ちは更に無用と心得よ。……行って参る。供は要らん。お雪ちゃん、ラウラ、佐吉。不甲斐ない主人でごめんやで。これにて失礼さんにおじゃります」
「あ」
「え」
「う゛」
言うだけ言うと家来の反応を確認することもせず、決然とした表情を残して自室を後にするのだった。
◇
公家町大手前通り。天彦は同じく供を連れていない実益と二人きり、肩を並べて武徳門を目指す。この門から参内することに意味はない。だがどちらが言い出すでもなく自然と足が向かっていた。
「麿はどこに下向したらええんや。甲斐は厭やぞ。むろん織田などもっと願い下げや。あの禿ネズミの下なんぞ反吐が出る。どこや」
「盗み聞きとか酷ないですか。そんな悪いお人さんはお好きにどうぞ、してください」
「なんや、怒ったんか」
「別に怒ってませんけど。実益さんやったらいくらでも参れる家領がようさんあるでしょ。四国なんか打ってつけ違いますのん」
「阿保抜かせ。何を一人で温く逝けると思うとる。子龍が死んだら麿もお仕舞いや。その場で一太刀浴びせて見事と言わせて果てたるわ」
「う」
「何がうや。今更気付いた風なツラすんな。それが演技でないのなら相変わらずの抜け作や子龍は」
相変わらずの熱血さんはそっちやろ。人生エンジョイ勢にシリアス求める方がどうかしていると思うんやけど。どない。
「子龍、ひとつええか」
「はい。なんですやろか」
「なんで当家を頼れと言わんかった」
「……」
「西園寺は大事な家来を預けるには値せんのか。それとも共に滅びるんか」
「あ、えと……」
滅びるんやな。
実益は言葉の語気とは裏腹に凄まじく獰猛な顔つきでつぶやいた。自分の掌を見つめながら。これからぐんぐん育つだろう逞しい掌を見つめながら。
「実益、なんで泣いてますのん」
「泣いてるか」
「おもくそ泣いてはりますやん実益」
「知るか。仮にそう見えるんやったら、何でかは己が考え」
「実益キレてますやん」
「当り前じゃボケ。次に息吐いたらシバく」
「横暴やぞ、ぼけ益」
「さっきから、お、の、れぇ――」
痛っ――! いたいいたいあかんあかん、それ以上は、氏ぬ、ほんまに氏ぬからぁ、ふぁっ!?
「あ、取れた。絶対取れた。実益さん、身共の首どこにありますやろ」
「ふんっ。見つけたかて拾たるかい」
「ええ」
「……くく、ちょっとだけおもろかった」
ややウケ。
辛口実益のややウケならば上出来か。
でもこうして結局シバかれるんやけど。知ってたん。そう仕向けたんやし。
でもフラストレーションめちゃくちゃ溜まる。このままではストレスで逝ってまいそう。
天彦は陰り始めた薄日に向かって謎のムーブをぶちかました。
すーはー。
「上に政策あれば下に対策ありやー。お前ら金持ちが高級車乗って成城石井で買い物してても身共はチャリこいでスーパー玉出の特売日巡りやったるわぁー。舐めるなっ、舐めたるっ。最後の最後まで大真面目にふざけ切って、この戦国を生き足掻いたるからなぁー」
うるさいぞ――!
「あ、はい」
「何を貴様。誰に向かって」
「実益さん、ここは」
「む」
実益を秒で説得。天彦は勧修寺の傭兵だか用心棒だかの厳つい侍ルックの家人に大声で怒鳴られてすごすごと先を急ぐのだった。
◇
異様な雰囲気の清涼殿諸太夫の間。実益・天彦主従が通されたのは諸太夫の間であった。
謹慎中の天彦がいるので公卿の間はさすがにだったとしても、せめて殿上人の間は確信していた。実益も天彦も。だが実際は最も格の低い諸太夫の間。
実益は敵意を剥き出しに掛かって来んかいのメンタルだが、天彦は完全に食らっていた。先の苦しい展開が実益以上に読めてしまう分、MPの消耗は激しかった。
もちろんこの程度では絶望なんてしてやらない。だが、すんすん。この処遇は天彦だけではなく主従揃っての解官を暗に仄めかしてはいないだろうか。している。80の確率できっとそう。なにせ近衛中将実益の処遇は帝御扱案件なのである。
この想像力を一瞬でも働かせて何とも思わない公家は公家ではないだろう。事実、天彦はおもくそテンションを駄々下げている。
天彦は隣に視線を向ける。実に頼もしく猛々しい横顔だった。
ふと思う。ほなら自分の顔は今どんなんやろ。
こういうとき意図してかせずとも結果的に一秒先の未来しか見ない考えない実益ムーブが悶え死ぬほど羨ましかった。きっとそんな顔だろう。
案内人である蔵人所の雑職が呼び出しの声を張った。
「近衛中将さん、六位蔵人さん、お参りさんにあらしゃいます」
招き入れられ中に入る。
室内諸太夫の間には摂関家・清華家(一部大臣家も)の名門貴家が一堂に会する。
関白二条晴良を始めとして派閥の領袖九条植通、一条内基と九条派摂関家大集合。しかも清華家サイドキッカーズもここぞとばかり大集結。花山院からは家輔が、大炊御門からは経頼が臨席していた。
因みにこの清華家大炊御門十七代当主経頼(15)は西園寺実益の宿敵である。宿敵と書いてトモとは読まないタイプのガチの敵。きっと好敵手でもないのだろう。
出世レースでは実益が常に一歩先んじているが、派閥形成では大いに後塵を拝していた。むろん九条派閥。九条派閥の若き期待の星である。
そして清華家久我通堅。この精悍な顔つきの青年は源氏長者である久我家の当主。しかし九条派閥とは共闘しない。だが常に別ベクトルで西園寺・菊亭ラインを敵視する。要するに久我家の場合、藤原氏であればすべて敵性存在なので志向性としてはわかりやすい。延々ずっと敵だから。一生相容れる可能性がない敵はほとんど味方と同義である。この政争渦巻く宮廷では。
二条と一条は九条の分家。花山院家輔は九条の実子だし大炊御門経頼は花山院から室を迎え入れている。何より西園寺とは灼熱の間柄。天と地が入れ替わっても実益に与することはないだろう。つまり天彦にも。
久我は……、まあ安定の久我なので放置でいい。何か追及してきたら切り札で脅せば100%黙る。天彦にはその確証があった。
この朝廷で生き残っていくつもりなら派閥形成は絶対のマスト。そして九条が敵なら消去法的に抵抗勢力と組むしかなくなる。第三勢力でもないかぎりは。
だが現状は存在しない幻の第三勢力。正確には趨勢に影響する第三勢力は存在しない。すると必然、近衛・鷹司チームしかなくなるが……。
なんだかなぁ。と天彦ではなくともテンションは上がらない。なにせ目下領袖たる近衛おじちゃまは追放され中。あの適当ムーブでふらふらと放蕩しているのだろう、きっと。それが許される愛されキャラだからいいとしても、その下にはつきたくない。しかもまんまと復権したあかつきには魔王とむちゃくちゃ距離が近くなって帰ってくる。
あれはあれで朝廷には欠かせない存在となるのだが、タンデムで鷹狩りに行っちゃうほど近いと天彦にとってはかなり微妙。どないやろ。そっちはそっちで破滅ルート違うんかな。
いずれにせよこの通り西園寺一門包囲網は完璧だった。自分たち二人以外周りはすべて敵状態。男子ならお金を払ってでも巡り合いたい場面ではなかろうか。絶対違う。絶対ない。
やり直そう。つまり周り全員すべて敵。最奥の簾奥にこれから鎮座なされるお方がどうなのかは存じないが、実にわかりやすい構図ではある。あっはっは。おもろくはけっしてない。口が渇いて声もかすれる。
閑話休題、
ややって一同の視線が一所に集まる。天彦も右に倣った。
「詮議を始める前に罪状を詳らかに致す」
まず帝の御内意もないままに、関白二条晴良が座を代表し平朝臣信長がどれだけ無礼で不遜で不忠者であるかを並べ立てた。
武家伝奏として懸け橋となった女官の書簡まで持ち出す執拗さを見せてまで恨み辛みを並べ立てた。
平朝臣……?
天彦の疑問を置き去りに三郎信長糾弾スピーチは進んでいく。
すると関白はおもむろに一通の書簡を持ち出すと、怒りに震えながら音読を始めた。
意訳)
女官(誠仁親王の実質的妃である勧修寺晴子)は勅使として三郎信長居城安土城へと赴いた。後見人に武家伝奏である勧修寺晴豊を同行して。
勅使なのに下座でした。ぴえん。でも気丈に頑張りました。藤原朝臣信長、官位を授ける。有難く受け取りなさい。
要らん。
え。
えやない。官位って美味いんか。美味いなら貰ったるけど、どない。
山猿はやはり阿呆でした。仕方がないので説明しました。誠心誠意、真心を込めて。
あのね、官位とは源平藤橘の四姓に生まれた人物は正六位上として生まれるので偉いも偉くないもありませんのよ。ましてや味はありません。いいですか初めて位を給わるときは従五位下となります。一律です。これを叙爵といって、最高位の正一位は神の位です。そう。すぐにはなれません。ダメです。あげられないのよ。ゆうこと訊いて。
だが三郎信長はただでは首を縦にはふらず、公卿、昇殿、殿上人、地下とは、また自分が叙される予定の従五位下とは何か等々を納得いくまで根掘り葉掘り次々と問い質した。
女官も前提から懇切丁寧に説明していた。誠意である。なのに三郎信長は易々と拒絶した。バカみたいな理由で拒否した。要らんわ。しょーもないから。名前も藤原も厭やし平にする。と。
このように好き勝手放題に振舞って帝の代理人である宮廷女官を追い返したのであった。
――というようなことがありましたと時折り怒りに震えたのだろう。乱れた文字で書き連ねてあった。と、関白がこれまた震える声で口伝した。
この時代の武家が朝廷制度や作法及び故実に精通していないことはわかる。許せる。だがこの答弁はそんなこととはまったく異質の内容であった。
ある程度織り込み済みだった天彦でさえ眩暈を覚えるのだ。前知識のない者ならいったいどんな感情を抱くのかは容易に想像できてしまう。
「子龍、さすがに呆れて口が塞がらんのやが」
「はい身共も同感におじゃります。笑えん。この身共が笑えん。まさかそんなことがあろうとは。阿保やろ信長。……ゲロ吐きそうや」
「お前、あれとほんまに共闘する気ぃか。流れからはそう読み解いたが、あれは無茶苦茶やぞ。秩序やなんやを無茶苦茶に壊しよるぞ」
「あー……、ちょっと考え直させてください。ちょっと思てたんとだいぶ違いましたんで」
「それがええ。じっくり考え。査問会の後も命があるのならな」
「あ、はい」
織田三郎信長。マジもんのDQNやった。
ほな賜った官職弾正忠も返納せえや。なんやねん、官位とかしょーもないから要らんって。藤原辞めて平にするって、はぁ? あり得んの。あり得てるけど。……嘘やろ。はぁ? ま?
そら将軍さんなんか鼻くそぴんって捻り潰すわ。帝にこれやもん。無敵なん。ほんまもんの魔王なん。現代感覚を持つ身共ですら震えてるんやけど。ま?
さすがの天彦も度肝を抜かれた。驚嘆80怒り20といった心地で。辛うじてイカレているだけまだ理性は逆に働いている証拠であろう。
いずれにしてもその平朝臣信長と同じ穴のムジナだと思われてのこの招聘、召喚。さすがにね。さすがにないよね、いくらなんでも。あったら泣く。
謝ろうかな。この場で今すぐ額を床に擦り付けて泣いて鼻水垂らして命乞いしよかな。できへんけど。実益居るし。
天彦は顔に100の絶望を張り付けて成り行きに身を任せた。任せるしか手立てがなかったのだ。あまりに頭が真っ白になりすぎて。いわゆるホワイトアウト状態に陥っていた。
「――という次第におじゃります。さてでは近衛中将さん。御家来の不始末、弁解きかせてもらいしょかぁ」
平朝臣信長ぶっコロスピーチが終り、変わっていよいよ本日のメインイベント。天彦糾弾会が開幕する。
依然として帝の御内意もないままに摂関家二条晴良が関白として質問者になって査問詰問会は始められた。
「子龍いよいよやぞ。気ぃ引き締めや」
「はい。お遊びはここまでです」
ここで帝の御成りが厳かに告げられた。やや遅れて衣擦れの音が小さく聞こえる。
ややあって簾パーテーション越しにお座りになられる。直言はいい。いくらでも関白さんをお通しになられれば。だが直接の目通りも叶わないのか。
目を見て叱って欲しかった天彦のメンタルゲージはゴリゴリと音を立てて削られていく。厭な方向にベクトルが向く。
それでも天彦はまだいい。大原則開き直ってしまえばエンジョイ勢に過ぎないから。究極的にはしゃーないそんな日もある、そんなこともまああるやろで済ませられる。だが実益は……。
じっと奥歯を噛みしめ震えていた。その灼熱の鼓動が伝わるほど、激情の脈動が伝わってくるほど震えていた。
「実益さん」
「黙っとれ。主上の御前や」
あぅ。
天彦には自分事より胸に迫った。自分が巻き込んでしまったばかりに。
弱音を吐きたい。ふざけて逃げたい。見苦しいので。息苦しいので。
あかんもたへん癒されよ。天彦は気を紛らわせるため妹(この時代概念的には姉)の撫子の顔を思い浮かべた。撫子の奏でる琵琶の音色を思い浮かべた。
あはは、おおきに撫子。
我慢するほどではないもののちょっとだけ可笑しかった。
思い浮かべたその相貌は、ほんの少し髪が長いか短いかだけでほとんどまったく天彦自身と同じだった。なーん。
【文中補足】
1、査問会主要出席者名簿(摂関家・九条派閥)
>九条植通(くじょう・たねみち数え62)派閥領袖 従一位・前関白
>二条晴良(にじょう・はれよし数え43)従一位・関白
>一条内基(いちじょう・うちもと数え21)正三位・権大納言
2、九条派閥・清華家サイドキッカーズ
>花山院家輔(かさんのいん・いえすけ数え49)正二位・右大臣
>大炊御門経頼(おおいのみかど・つねより数え15)十七代当主、正四位上・参議 実益の宿敵。または好敵手。但しトモとはルビをふらないタイプの。
3、清華家抵抗勢力
>久我通堅(こが・みちかた数え28)従二位・右近衛大将 村上源氏嫡流・源氏長者 堂上源氏の代表格




