#15 ペテルギウスの煌めき
永禄十二年(1569)二月四日
西園寺家への報告を済ませた二日後。日出刻明六つの鐘が鳴るより早く。
まだ日の出前の傷んだ中庭で、菊亭家家人は一堂に会していた。
余談だが実益は感冒で寝込んでいた。軽く見舞ったら手を掴まれ涙されたのでそうとうに傷んでいると思われる。心身ともに。このことは記憶から消し去ろう。でないとシバキ回されるから。
当り前だが心配した。実益が逝くと菊亭家も飛ぶ。非情のように聞こえるが天彦にとって人の生死に意味があるだけかなり上等の部類である。非情だった。
室内の乾燥、水分補給、まめな着替え、指定した栄養摂取を指示して一応の主治医役を果たして帰った。むろんライセンスは心のやつ。
そして余談の追加だが天彦の謹慎は未だ解けない。なんでやろか。
閑話休題、
随分とご立派さんになったもんや。
天彦は中庭に居並ぶ家人たちをざっと見渡して感傷に耽る。
始まりは雪之丞と還暦を越えたおばあちゃん用人さん五名だった。覇気は今の億分の一にも満たないだろう。それほどに寂れていた。廃れていた。
その無気力用人でさえそのうち一人、また一人と欠けていき、遂には雪之丞ただ一人となっていた。
それでも思う。それなのに想う。実はあの頃が一番楽しかったのかも。と。
そんな天彦の現実逃避的独白は無視が最善。なにしろ露悪的で偽悪的。そして決定的に自分語りにかんしては信頼度ゼロな語り手なので。無視が一番。さておいて少なくともお家は確実に繁栄している。御給金どないしょ。
ラウラ率いる射干党のビジュアル含めた数の存在感が圧倒的に大きいが、それを除いても雪之丞を筆頭とした直臣五名。お預かり侍三名。用人に至っては既に十名を超えている。うん、これもう立派なお公家さん家やん。
橘長者の光宣(烏丸邸)ん家でさえ用人は十名を超えていないはずである。総勢でも三十名は超えていない。裏を返せば最近の朝廷の不景気が以下につづく公家たちにかなりの困窮を強いていることになるのだが。
「何の義理もない。何の義務もない。それは身共もあんたさんらもや。それだけは前置いておく」
菊亭の義理が及ぶ範囲はこの家人たちと系譜に連なるお家だけ。天彦個人にしてもご公務の及ぶ範囲だけ。暗にそう宣言した。伝わっているかはどうでもいい。
天彦は家来衆にそう前置きした上で襲撃された本圀寺周辺界隈の人道的支援活動を宣言した。
昨日帰途敢えて寄った。酷かった。想像は超えなかったもののやはり見るに堪えない惨憺たる有り様だった。それを踏まえた復興支援。現代日本人なら当たり前に持つ互助精神。だがこの時代には皆無であろう。
けっして感度が低いわけではない。他人事など所詮は他人事にすぎないだけで。何しろ支配者が違うだけで他国になってしまう世界観。目と鼻の先にあろうと、あるいは目と鼻の先であればこそ。同族意識、仲間意識はそうとう持てないのではないだろうか。欲しいのは銭ではありません民度です。
よってむろん家中の反応は極めて鈍い。家人はまだしも用人はご命令ならどこなりとお参りさんやろ何で今更。と疑問符を張り付けているし、中でもとくに新参の侍三人に至ってはそもそも人道支援の意味さえ理解していない風。尤もらしく神妙な顔つきで頻りにうんうんと首肯しているがかなり怪しい。だから天彦は敢えて名指しで訊ねてみた。
「与吉高虎」
「はっ、ここに居ります」
「身共はなんとゆうた。説明したって」
「はっ。どこぞの戦に合力に参られると仰せでございました」
「あ。うん」
特効薬ありますやろか。
共に居並ぶ左右の侍二人もほとんど同時に頷いている。あれば三錠ください。ラウラは頬を引きつらせ雪之丞は仰け反った。そしてこれ家来とか絶対御免やで若殿さんと視線で熱く語ってくる。さすがお雪ちゃん同感です。佐吉にいたっては親の仇でも見る目で蔑み、冷淡な侮蔑の表情を隠そうともせず凛々しい相貌に浮かべている。よくない兆候だ。ほんとうによくない。
家中漫然とよくないが特に佐吉。極めて悪しき兆候を見せている。
佐吉は元来から絶大な盟友を得る反面、命さえ狙われてしまう仇敵を生み出す難物気質である。
善悪はこの際脇に置き、史実では一度結んだ契りは違えず、ひとたび誓えば終生守り抜く。とされていて実際にその片鱗を覗かせる為人を発揮している。事実なのだろう。そう思う。
天彦は佐吉のそんな理想を追求しようとする究極の武人(または哲学人)気質を、このまだ柔軟な時期にどうにか方向修正できないものかと苦心している。してよいものかとも思いながら。
だが思うだけで何ができるわけでもない。ただ心を砕き常に見ていてやることくらいしかできないのだ。たまに尤もらしい口も挟むけれど。
冷静な時はどうしてもつい自分ごときが何様なん思考が邪魔をして思うとおりに振舞えない。それが目下抱える天彦の決定的な弱みとしてよい明確な弱点だった。
「参るで」
「はっ」
ははっ――!
ラウラが応じ、家人一同が復唱して菊亭家御一行は本圀寺周辺の人道支援活動に繰り出した。それぞれの手に持ち切れんばかりの食材・着物・ズタ袋を抱えて。一輪車(猫車)はよ。
安全マージンをとって三日置いた。もしまだ三好の残党が潜伏していてもふらふらだろうし、将軍義昭はすでに別所に移っているはず。
将軍義昭が襲撃された本圀寺は現代の山科とは違いこの頃は下京(京都駅から東福寺の間周辺)に在所しており当たり前だが洛外である。故にその実質距離とは違って距離感的にはかなりの隔たりを感じるのが一般的だ。大塀に囲まれた洛中にあると洛外は全般的にかなり遠いという印象を持つ。
要するに洛中は洛中以外をほとんど絶遠世界(異世界)として扱っているので下京だけが特別絶遠なわけではないということを意味している。
一行は洛中洛外境界線である二条通りを越えて七条堀川を目指す。待ち人があるからだ。
敢えて外に設定したのも偏に公家町で大々的に集合すると宮廷雀どもが、菊亭はやれ何派だどこ党だと俄然賑やかしくなること請け負いなので、そこ堀川関前で落ち合う手筈としたのである。
かなりの数の集団と落ち合う。双方合わせれば百ではたりない大所帯だ。
そこの代表者が一人。天彦に極めて親しみを込めた笑顔を向けた。
「別当代さん、お待たせしましたやろか」
「拙僧らもたった今参ったところです。非参議さんのお気遣いおおきにさんにあらしゃいます」
僧侶は故実の礼で天彦を迎え入れる。天彦は相手の厚みに合わせた礼を返した。
だがかつてはもっと砕けた感じで接していた。そうなるように苦心したのだから当然だ。なのに振り出し。けっして他人行儀が淋しいわけではないのだろうが、妙に居心地がよくない。
「あ、そんな感じで」
「何事も最初がお肝心さんですやろ」
「急に悟り開いてどないしはりましたんや。正直キモいんやが」
「おい。……誰やあれ。他のお客さんあるなんて訊いてへんで」
なるほど。見慣れない侍がいたから体裁を整えていただけか。納得。
たしかに且元、高虎、氏郷の三人の侍は見る者に警戒心を抱かせる威圧的な存在である。しかも地位あるものからすれば相応以上の威風も兼ね備えていると伝わるので身構えて尤もであった。
天彦は内心の安堵を隠さず僧侶と向き合う。
「ほなよろしゅうおおきにさんであらしゃいます」
「おおきにさん。で、誰やねん」
「参ろか」
「おいって」
天彦の意地悪さん炸裂の巻。紹介してやらない攻撃をされた僧侶は涙目で天彦の低い位にある肩先を見下ろす。但しこの扱いである。他所様の客人とは思えない。あり得ない対応だから。天彦のそんなちょっとした示唆に僧侶はそっと胸を撫でおろす。
この僧侶。堀川関前で落ち合ったのは祇園社別当代・神位都維那を仰せつかっている二寧坂尊意であった。
すっかり気心はしれている。ハンドクリーム(保湿油)が確実に儲けを出す銀主だと気づいたから。というのもあるかもしれないが、尊意は天彦とそして香油座マターである佐吉共々この主従のことがお気にだった。
一方天彦は特別感など持っていない。一ミリだって。但しお友達が少ないもしくは少なそうな人物のことはみーんな好きなのでウェルカム姿勢に変化はない。
さて、
寺社界との繋がりはとみに敏感。普段からやかましいノイジーマイノリティだけにとどまらず、真面寄りのマジョリティの警戒心をも煽ってしまう。
しかも動向に敏感なのは公家界隈だけにあらず。寺社の行動は常に武家の監視の目の下にあった。それほどに寺社の総合力(動員力・経済力・格式・武力)は絶大で、武家の最大武威を以ってしても侮れないと危惧されていたのである。
「いよいよ本格的にお武家さんを従えたんか。しかしごっつい武張ったお侍さんやな。拙僧おっとろしいてよう目ぇ見られへん」
「うん。レンタル移籍やけど。武威は達者やろな。なにせ日の本一級の戦国武将さんやから」
「日の本一。それはええけどれんたる。なにれんたる」
「350年後に知れ渡るわ」
「へー、……は!?」
この頃は何を言っても天彦だからで通用するようになった気安さに甘え、本当に何でもあり化している痛い状態の天彦だが、その点ラウラの存在は途轍もなく大きい。
ラウラがいる限り天彦発信の言語だとは思われない。このメリットは途轍もない。何しろ勘のいい一割を除き興味のない一割を加えれば九割方の者が不信にさえ思わない仕組みだから。
そして射干ラウラ。ポンコツ家令のベールをいつ脱ぐのか。はたまた脱がないのか。それとも端から被っていないのか。あるいはそのベールがオートクチュールなのかプレタポルテなのかによって天彦の扱いは大きく変動するだろう。
「天彦は言動と違うてお心根さん清らかなんやね。拙僧、感心したわ」
「キモいからやめなさい。根性悪に真面な言葉は似合いません」
「きもい、なにきもい」
「そこは根性悪という雑言に注目しよか」
「些事や些事。拙僧は天彦本人さんに関心があらしゃいますんやで」
「関心持つのも堪忍さんや。お互い付かず離れずの絶好の距離感保っていこう」
「え。……まあええ。天彦はそんなん違うし、拙僧知ってるし」
「ほえ、キモさ倍増なんやけど」
「知らんでええ。参ろうか」
「うそーん」
冒頭から露骨な拒絶をされびっくりする尊意だが彼の復旧は早かった。逆にし返すくらいの余裕を見せる。むろん天彦の口の悪さと傲岸不遜さには常々業腹である。だがこんな程度の欠点で天彦の築いた好感度は下がらない。
むろん天彦が築き上げたものではなく勝手な解釈が生み出した魔物なのだが、いずれにせよ尊意は余程のことでもないかぎり天彦に対し覚えた信頼は揺らがない。それほど全幅の信頼を置いている。
なぜなら天彦は座の生み出す利益、およそ半分もの比率を祇園社に寄進すると担当佐吉を介して申し出ているのである。何を隠そうこのツンデレ露悪師はとても友人思いなのであった。(尊意解釈調べ)
なぜかというと担当佐吉を通してお願いしたから。拙僧のお顔を立ててくださいませと。理由は四百字詰めのざら半紙十枚に書き綴って送り付けた。
担当佐吉曰く、殿は苦笑なされながらも二つ返事で御了承なさいましてございます。とのこと。これにより尊意の天彦に対する信頼度は確実以上の絶大なものとなって固定化された。ちょろ。
いずれにしても尊意には得しかない。天彦がそれにより何を得ようとまたは失おうと関係はない。何しろ自社内での尊意の評価はかなり高まったのだから。
それはそうだろう。今現在下火も下火、大下火の祇園社で新たな座を組みしかも利益折半を申し出る有為の御信徒さんなどどこを探しても皆無に等しいのである。
しかも相手は皇弟座主すら一目置いて警戒すると噂の五山のお狐さん。それを成し遂げた尊意の祇園社での発言権は大いに飛躍して然るべきであった。
「そや尊意」
「なんやどないした改まって」
「佐吉の下にあれら付けるんで、あんじょうよろしく御頼みさんであらしゃいます。というお改まりさんや」
「……どれ」
「あれ」
「どれ」
「あれ」
「だから、どれ」
「だから、あれ」
見つめ合うことしばらく。天彦から譲る気配は微塵も覗えない。
いろんなことを察したのだろう。尊意は満身を胴震いに震えさせ震えた。
「おまっ、あれは、あれだけはアカンやろ」
「何が」
「な、な、何がって。どいつもこいつも伴天連のキリシタンやないかっ!」
「ん? そうなん。気のせいやろ。もっと心の目を開きなさい。ただのお人さんや」
「阿保抜かせっ!」
「あれ、阿保はどっちやろ。佐吉、おいで」
佐吉はどこにいても天彦の挙動を注視している。秒で即応。マッハで駆けつけ膝を落とした。
「佐吉、ここにござる」
「まず確認したい。お互いの立場を述べよ」
「某は菊亭家の担当代理人。尊意殿は祇園社の代表にござる」
「よろしい。そして利益の半分渡すと決まったとき、何でも一つ頼みを訊いてこの恩を返すと言わはったん、どこのどなたさんやったっけ」
「はっ、こちらに御座す都維那別当代二寧坂尊意殿に相違ござらぬ」
「確かやな」
「はっ氏神様に御誓い申し上げまして、確とこの耳が聞き届けてござる」
「証文は」
「お互いの為にならじと証は残しておりませぬ。殿の御配慮にて候」
「善意やなぁ。優しい世界やなぁ」
「は、然様と心得ます。某、殿の寛容さに感服致し候」
「そやろそやろ。こんな生き馬の目ぇを射抜くような狂った室町になーんにもしはらへん寺社さん大事にして、それも利益の半分寄越したるお公家さんがいたはらっしゃるんやろか。なぁ」
「はっ。おりませぬ。少なくとも某は終ぞ存じ上げませぬ」
佐吉の芝居味ゼロ。あまりにガチ勢すぎるきらいが強いが、だが今だけはこの方が効き目はあるのか。天彦は三文芝居をつづける。
「うんうん、そんな善意は裏切ったらアカンなぁ」
「はっ。そのような不届き者、腹を召されるが相当かと。否、打ち首が妥当やもしれませぬ。最も無様な死で裁かれるが実情かと存じ上げまする」
「おおきにさん。でも佐吉、殺すんはどやろか。行きすぎと違うやろか」
「ですが……、いえ。はっ、しかと心得ましてござる」
「なんでやろ」
「なぜ。……常に復讐できるように、でござろうか」
「猟奇的! ちゃうちゃ違う。違うよ佐吉、ぜんぜん違う。びっくりするわ」
「はぁ。では某にはわかりませぬ」
「答えなんか要らんのや。考えることが大事なんやで。寧ろ世に蔓延る正着こそに疑いを持って考えられれば双六のお上がりさんやな。ほんま最後の一出えへんわ」
「はっ。常々仰せの通り某考えまする。一は出まする」
「ほんま出すよね、あれってズルしてるん」
「まさか。滅相もござらぬ。石田佐吉、一層の精進を致しまする」
「うんうん、そうしい。――らしいけど別当代さん」
「ぐはっ――」
尊意は比喩ではなく血を吐いてその場に崩れるように膝を屈した。
そしてラウラはこのやり取りを何でもない風にじっと黙って見つめていた。だが手は固く結ばれともすると赤い雫が滴り落ちているのであった。
「どないしたん。口から紅吐いて」
「紅やあるかい。血じゃ。血ってこんな哀しみの色をしてるんやな」
「詩人さん絶交する?」
「……七割寄越せ」
「六割」
「六割五分」
「六割一分」
「六割六分」
「増えとるやないか。ええわ六割五分で。ほら起き」
資本主義のおブタさんお手をどうぞ。
今度こそ天彦の右手は空を切らなかった。差し出した右手はしっかりと握り返され、握り返され、握り返され、握り返され……。
「ええい離せっ、痛いやろ!」
「それが拙僧の憎しみの痛みや。一生忘れるな」
あ、ハイ。
尊意には生贄となってもらって心苦しいが、しかしこのタイミングしかなかったのだ。何しろ帝は大のキリシタン侵害派、または排除派である。
その御心は計り知れないが少なくとも朝廷の御意志ではそうなっている。すると天彦から打診などできようもなく、たとえ万金を積んだとて叶うはずもない。
それを覆すには銭では足りない。どうしても荒れ狂う武威が必要。誰しもがたとえ屈したとて虚仮にしない圧倒的な武威が必要だった。
だからこその今。三郎信長に貸しを押し付けた今こそが唯一絶対の機会であった。なにせ彼の御仁、公言するほど権威が嫌い。公家が嫌い。延いては朝廷にもいい感情は持っていない。事実正史にもそう記載された記録が残っているほどである。故に憎悪していると言っても過言ではないだろう。
逆張り必至。公家や朝廷がダメと言えば確実にOKええで。というに決まっていた。知らんけど。あの天邪鬼な感じではきっとそう。
いずれにしても今日明日にも二条城普請を偵察しそこでルイス・フロイスに出逢い関心を持つのだから流れ的には大差ない。だから絶対にここ。逃してはならない。ここしか射干郎党を世に送り出す機会は他にない。大手を振って。
こそこそしたのでは意味がない。こそこそせこせこ卑屈に生きるのは天彦だけで十分なのである。――ん?
気張ってたのに泣き虫さんやなラウラ、みっともない。男やったら歯ぁ食いしばれ。あ、女さんやった。




