#10 雲隠れしに夜半の月かな
永禄十二年(1569)一月二十九日(旧暦)洛中公家町
烏丸邸出て五秒で実益に捕まる。なんでわかったん。野生の何某やな。すごっ。
「おいこら子龍。麿を舐めるのも大概にせえよ」
「え。急いでいるんでまたにしてください」
「百も承知や。けどな物事には筋があるはずや。筋を外して正道なしやと麿は思うんやが、どない」
「物事は時に礼よりTPOに対応せんとアカンときもあります。今は速度重視です。では失礼さんです」
「待たんかいっ!」
待つ。首根っこを引っ掴まれたらそりゃね。天彦は心底うざったそうに歩みを止め、離してほしさに脱力した。
「てぃなんや。どうでもええ。今日ばかりはわけのわからん言葉で煙には巻かせん。一歩譲って急ぎはええ。ほならなんでそこの盆暗連れとるんや。ゆうてることと真逆やろ」
「盆暗さん。なんで」
「え、えぇ」
天彦に振られた盆暗さんこと烏丸光宣は訳もわからずあたふたするばかり。
むろんこうなることは天彦も実益も織り込み済み。のはず。実際に実益は光宣の反応など見てもいないから。
一方の天彦は何も考えずただ面白がって振っただけだろう。だが確かな理由があるので強気の態度は崩さない。実益は理不尽の権化だが筋道を重んじる。故に理由に筋が通っていれば厭でも納得してくれるのだ。そういう意味での信頼度は抜群だった。
「ほんまに急ぎなんですけど」
「それを説明せよと麿は申した。そもそもどこに向こうてるんや」
「九条さんとこ」
「なに」
「えぇ」
実益は更に険しさを増した目で睨み、光宣は更に驚愕を上乗せして驚いた。というより嫌がった。
「一大事出来なんです」
「わかってるわっ! そやからそれを説明せいとゆうてるんやろがっ。吾が本気で怒る前にちゃんとせいよ子龍」
「あ、します。ちゃんと」
「教えたらなアカン、なっ」
ぐはっ――。暴力反対。み、みぞおち、とか。死ぬやろ。
「ごほっ、ごほっ。穴、穴開いてますやろ。見たって、ほらここ」
「ぽっこりした締まりのないぽんぽん出してどないした」
「ぽんぽん痛い」
「顔色の割に余裕やないか。もう一発食らわせたろ」
「待った。ギブ、マジで無理。それ以上は出るとこ出るでっ。身共こう見えてもヲタクに理解の深い腕利き弁護士知り合いなんやで」
「なんやけったいな。どこに出るんや。腕利き? まあええ、ほな吐け」
「……足利さんと昵懇ですやろ。そやからです」
「ん?」
実益は疑問符を浮かべて小考に入った。すぐに答えを急がないのも幼少期から根気よく繰り返してきた教育の賜物である。と自画自賛している間にも実益の表情が激おこから怪訝へ、怪訝から納得に推移していった。
「一つ訊こ」
「はい」
「どこに向こうてるんや」
「内裏です」
「相手は」
「お一つでは……、そやから言いましたやろ、関白九条さんですやん」
「やっぱし九条さんやな。わかった。九条さんは昵懇衆や。そしてそこの盆暗の烏丸家も。他には日野、広橋、正親町三条、飛鳥井、高倉が足利さんとご昵懇さんやな。どや」
「御慧眼にあらしゃいます」
「そやろ。子龍、ほならこれは貸しや」
「へ」
「そこの和歌ぼけ連れていってもいっこも役にたたへんぞ」
「ん……?」
「お前、そいつ連れて九条さんとこ向かってたら、そいつ共々今頃始末されとったで」
「えぇ……! なんで、なんでなん。身共なんもやってへんのに」
麻呂の方がなんもやってへんわっ――!
さすがに聞き捨てならなかったのか光宣が吼えた。
だが秒で撃沈。
うるさい黙っとき、邪魔すんなしばくぞぼけ。ええぇ……。
会話はつづく。
「何でですのん実益さん。身共本気で思い当たる節がないんやけど。ひょっとしてこの和歌ガチ勢の光宣とか」
「ちゃう。そんな毒にも薬にもならんやつが人様の不興を買えるかい」
「ほなら、なんやろ。はて」
「そら通らんわ。一番恨み買う筋を上から順に思い出してみぃ」
「茶々丸」
「そや。すぐやないか。ええか茶々丸のぱっぱは主上さんよりも更に九条さんとの方が昵懇なんやで。黄門さんを介して麿にも何度か打診があったわ。家来始末してもええか、ゆうてな」
「おおぉ、まい、がっ」
「またけったいな。ええか子龍。お前はたしかに大局には明るい。そやけど手元になるとてんで暗いんと違うやろか。ちょっとは我が身を顧みぃや」
「あ、ハイ」
ぐうの音もでないとはまさにこのこと。大きな、途轍もなく大きな借りがまた一つ積み上げられてしまった。
それはそれとして、ならば誰を介して上奏すれば。以々が一番手っ取り早いが絶賛絶交中ほやほや過ぎてさすがに今日の今日では気が引けた。それに付随して義理ぱっぱ持明院基孝も頼りにくかった。お手上げです。
ぱっぱ晴季は無理。政争の種にされるだけやから。じっじも厳しい。天彦に近すぎて最近避けられているらしいので。やはり行き着く先は実益に集約されていた。
天彦は現実を直視して、己の交友関係の儚さに完全に打ちのめされてしまう。
「上奏に困ってるんやろ」
「はい」
「なんや子龍。お前どこに配属されとんねん。なんのための蔵人やねん」
「え……、あ! うそーん。でも、今日めちゃくちゃ怒らせたばっかしやし」
「竜胆中将がそないなことで大局見失うお人さんやとは思われへんな」
「うん、たしかに。……亜将さん、ついてきてください」
「亜将では参れんな」
「実益さん!」
「一瞬や。子龍の言葉を使こうたら一秒や。麿を頼っていれば一瞬で済んでた。なんかゆうことあるやろ」
「ごめんなさい。こんな頼りになるなんて夢にも思うていませんでした」
「おいコラ」
「ほんでおおきにさんです。さすがは我らが一門の大頭領、頼りにしてます。これからはいの一番に相談します」
「お、おう。急ぎやろ、参ろうか」
「はい」
土井、急ぎ先触れや。はっ直ちに。
実益意気揚々。天彦ちょろ。光宣なにこれ、なんで、なんでぇぇぇ。
三人三様の心地で庭田家に向かうのだった。
◇
庭田亭客間。
天彦たちは竜胆中将と対面していた。本来なら実益が圧倒的に上座である。だが実益は空気を読める子。実益さんここは譲ったって――、厭じゃなんで麿が風下に――。ひと、いやふた悶着はあったが上座を譲っておっちんしている。
斯々云々、三好勢が将軍を襲撃したこと。将軍が本圀寺にて籠城を決断したこと。三好勢が洛中に火責めをすること。織田軍が大津城に展開、翌朝にも進軍をはじめること。などを事実と予想を交えて明かした。
当り前だがソースは明かせない。だいいち記憶と謎の諜報員調べなどと言ったところでその怪しげなエビデンスを果たしていったい誰が信用するというのか。したらアホやん。壺売るわ。
ということを踏まえて天彦は尤もらしく事情を伝える。対する竜胆中将こと蔵人頭・右近衛中将庭田重通は神妙な面持ちで話を訊いた。
聞き終えるとまず客人に茶を勧め、自身もごくごくと一息に飲み干した。茶はすっかり冷めていた。なのに誰もそのことを指摘どころか気に留める素振りさえ見せずに飲み干した。
他方、庭田重道と同じタイミングで話の中身を知った実益と光宣はもうたいへんである。それは驚天動地の表情で、あるいは訊き始めより座布団一枚分前のめりの近さになっていて、まるで食い入るように天彦の言葉を傾聴した。
「子龍。どこまでが事実でどこからが推論や」
「すべて事実です。信長公は大津城に一万五千の兵を展開。明日の朝にも洛中に向けて軍勢を進軍させます。三好勢は……、すいません。こっちは身共の推測です」
「ほらみい。こういうのは確実性が大事なんや。別動隊一万で将軍のおる本圀寺を急襲。将軍はどうにか逃げおおせてそのまま籠城。三好勢は本隊二万五千を堺国に展開中、それで確かか」
「はい。間違いなく」
「もう一度訊く。たしかやな」
「はい。たしかです」
「蔵人頭、こういうわけや。ようよう考えたって。もし帝にご披露した後、虚偽が発覚したあかつきには麿の首で詫びると御誓い申し上げよ」
「うむ。確と承っておじゃる。しばし待たらっしゃい」
実益は今日も今日とて息を吸うように簡単に天彦を信じてしまう。しかも今回は首まで懸けて請け負ってしまっていた。アカンやろ、それは。
一方の庭田重道は渋面を浮かべてもイケメンだった。どうでもいい。
じっと思い悩むように長考すると、ややあって天彦を直視する。
「新蔵人。確かめておきたい。まさかとは思うが、昼間の意趣返しでは――」
「堪忍や! さすがにその侮辱は看過できません」
「そ、そうやな。すまん。堪忍さんや」
「はい。もうお一つ。醍醐が主戦場になると思てます。如何やろか」
「うむ。……三好の軍勢にもよるが地形的にも妥当やな。織田は進めんやろ。将軍の身の安全が確認できん内はな」
「はい。ですのでそこら辺りかと」
「読みは確かか。……ふむ。これは一大事であらしゃいますな」
庭田重道の概ねの同意に小さな悲鳴と唸り声が上がった。
「アカンって。そんなんご近所やん」
「おまっ、うちの荘園あるやんけっ!」
光宣と実益。ベクトルは違えど絶望の色合いは似たり寄ったり。
「どないします」
「新蔵人。土産にしては重たすぎるのと違うか」
「はい。ですがこれを成功裏に納めれば帝の覚えは鰻登り違いますやろか」
「小賢しい。……だが悪うない。任されよう。麻呂が上奏いたす。ええな」
「はい。いや実益さんどない」
「うむ。善きに計らっしゃい。そやけど武家伝奏は大徳寺や。これだけは譲られへん」
「飛鳥井のはずでおじゃるが」
「大徳寺。麿はそうゆうた」
最後の最後で意見の食い違いを見せたが大人の器量で庭田重通が折れた。
適当に上手く捌くのだろう。
ではこれにて一旦。各々方御無事で。
合意がなりこれにて会談は無事に終えた。
想定より数倍スムーズに事が運んだ。あとは自分事に頭を悩ませればいい。
天彦は避難先を脳裏に浮かべながら次なる行動を順序だてていくのだった。
◇
公家町。三人はそれぞれのお供を引き連れぞろぞろと公家町を練り歩く。
むろん足取りは重い。気が重くなると口数も減るとしたもの。それぞれがそれぞれの大事な何かを思っているのだろう。ばらばらだが漏れなく全員、唸り声を上げたり足を止めたり、一貫性の無い集団の移動となっていた。
「子龍」
「はい」
「どうなると見立ててるんや」
「外れの話と大外れの話。どっちがええですか」
「……アタリの話や。決まってるやろ。なかったら捻り出さんかい。お前は誰の家来や思てる。麿は清華家筆頭西園寺嫡子、従三位近衛中将実益なるぞ」
武威、いや威儀が足りない。今夜の実益は声に力がこもっていない。
「実益さん。なんぞ心配事でもありますやろ」
「なんでや。あらへんそんなしょーもないもん」
「光宣」
「え、麻呂がなに」
「可怪しいやろ。実益さん」
「……あ、うん。知ってる実益さんとはなんか違うね。まず表情が暗い。知ってる実益さんはもっと阿保明るい」
「おいこらっ光宣」
「ひっ、ま、麻呂は訊かれたから。……ごめんなさい」
「ちっ」
天彦は光宣を味方に引き入れ白状させようと執拗に粘った。
吐いて、ほざけ。
吐け、誰にゆうとねん。
お前や、お前ってしばくぞ。
ほなゆうてシバいてええから、ぐっ――。
もはや天彦が別の何かを強請っている気配だが、こんな程度このやり取り二人には無礼でもなんでもない。おろおろしているのは光宣の御付きだけ。
きっと新顔なのだろう。主人の光宣すら慣れっこだ。なにせこの二人の会話は小さな頃から延々ずっとこの調子だったのだから。
「父御前が下向してる」
「あちゃぁ」と天彦。
「は、大変や」と光宣。
実益は言って夜空を見上げた。星がない。月も朧。まるで何かを暗示しているようで急激に不安に駆られる。だから、なのか。
常に半歩控えている体面だけは一丁前に殊勝な、一の家来につい視線を向けてしまう。
哀しいとき、痛いとき、悔やまれるとき、しんどいとき。気付けばいつも傍にいた。この間抜け面のお調子者が。やる気出せ。ほならいつでも直臣にしたるのに。なんやったら義弟にだって。
「実益さん、なにしてるん」
「何とはなんや」
「ぼさっとしてんと指示出してや」
「は!?」
「は、やない。いつもは賢いのに、今日はびっくりするほど阿保やな」
「なんやと」
「命令くれな身共ら動けへんやん。一刻も早く左相国の御老公助けんと、どないするん実のぱっぱやろ」
「おまっ」
「ね、土井修理亮さん」
天彦は実益の家来に視線を向ける。
「はっ! 土井修理亮、この御恩一生忘れませぬ」
「同じく戸田民部少輔。この御恩、生涯忘れませぬ」
「根岸主計大允、忝く存ずる」
イツメンの三人が片膝を屈して天彦に最敬礼の意を示した。
誰も言葉にはしない。だが確定している事実にたいして膝を屈したのである。
「行ってきます。無事に連れ帰ってこれたら、そのときはようさん褒めてください」
「お前、何をゆうてん――は!? 土井、戸田、根岸まで。なんや」
「ご無礼仕る」
「御免」
「御免」
土井修理亮を始めとしてご家来衆の面々は、主君を羽交い絞めにして動きを完全に拘束してしまう。実益は怒りより驚愕が勝ってしまったのか。思いの外抵抗は緩い。
「領袖は本拠ででんと構えとくもんやで。行ってきます。参るでラウラ」
「はっ」
天彦ぉ――っ!
最後のここに来て、初めて実益の声が本来の張りを取り戻していた。




